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日蓮大聖人・池田大作

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二「賢者の論」による対話(2)  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  進歩に背く宗教を警戒
 博士 そこで、うかがいたいのですが、主な世界宗教はそれぞれ独特の文化の中で、また異なった時代に生まれました。したがって、それらの信仰教義には大きな相違があります。宗教的信条には還元主義的方法による分析を施すことはできませんので、概してそれを試験してみることは不可能です。一群の信条を客観的な面においてみると、他のものより優れているとか劣っていると考えることはできません。
 異なる宗教の信仰者は、多くの基本的問題についてしばしば相違する信念をもっています。そして、このような信念が強い熱情をもって保持され擁護されるときは、いつでも争いが必然的に起こっています。宗教的相違が歴史上、ごく近年においても多くの戦争をもたらしてきました。
 宗教の不寛容は、私たちが西暦二〇〇〇年に近づくにつれて、ふたたびその醜い頭をもたげてきており、一つの大きな問題となり始めています。人間には自由意思で宗教を選び奉じる権利がある、という考えを私たちが容認するならば、宗教的イデオロギーの衝突が残虐な戦争へと発展するのを、どのようにして私たちは防ぐことができるのか、ということです。
 池田 博士と同じ危惧を、アメリカの未来学者アルビン・トフラーもその著書『パワーシフト』(徳山二郎訳、フジテレビ出版)の中で表明しています。トフラーは、人類を「新暗黒時代」へと押し流しかねない巨大な勢力の一つとして、「聖なる狂信」を挙げています。この「聖なる狂信」とは、具体的にはイスラム教国やキリスト教国を中心に広く見られる、世俗化社会に敵意をいだくファンダメンタリズムを指しています。
 私は、世俗化して〈永遠なるもの〉を見失い、道徳性を喪失しゆく社会にあって、個人が自由意思で〈賢なるもの〉を志向して魂の渇きをいやそうとするのは、ある意味では当然のことと考えています。
 しかし、時代や社会の進歩に背を向ける宗教、あるいは背を向けようとする宗教固有の傾向性に対して、厳重な警戒を怠ってはならないと思います。
 世界の潮流はまさしく暴力から非暴力へ、不信から信頼へ、力の対立から対話の時代へと向かっています。
 このような世界の民意の流れに反する傾向性、一種のドグマに対しては、いかなる文化的土壌から生まれた宗教的信念であっても、私は、人類存続の立場から断固として反対すべきであると思います。宗教は人間のためにあるのであって、断じてその反対ではないからです。
 それゆえに私は、民衆レベルにおいても、首脳レベルにおいても、慈悲と寛容に根ざした「対話」――まさしく「賢者の論」による対話の活性化を主張したいのです。各自の思想・信念をもつ人々によって、互いに解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされる「賢者の論」による対話――それでも論者が決して怒ることのない忍耐強い対話こそ、宗教の「寛容性」を醸成していく基礎ではないでしょうか。
 私は、対話、言論、そして文化の相互尊敬にもとづく交流は、人間が人間であることの誇るべき証であると信じています。プラトンが『パイドン』(田中美知太郎編集、池田美恵訳、『世界の名著6プラトンⅠ』中央公論社に所収)の中で言っているように、「言論嫌い」は「人間嫌い」に通じ、対話や言論の放棄は人間の放棄に通じてしまいます。人間であることを放棄すれば、仏教が洞察したごとく、暴力性・獣性が噴出してきます。その獣性が、宗教的イデオロギーや大義名分のドグマの仮面をかぶって、暴力や武力で人間を抹殺してきたことは、先ほど博士が述べられたとおりです。対話、言論、交流を基軸にした人間性による獣性の克服、非暴力による暴力性の超克にこそ、人類の生存を確保する方向性がありましょう。
3  教育による英知の光源
 次に、私は長期的視野から見て、教育の役割を重視したいと思います。教育学者の米国デラウェア大学のD・L・ノートン教授、同じくインタナショナル大学のD・M・ベセル教授と懇談した(=一九九〇年八月十五日)折に意見の一致をみたのが、博士も指摘された宗教のもつ危険な傾向です。
 私はそのとき、次のような意見を述べました。「教育が開く英知の世界がなければ、宗教・信仰は盲信になっていく危険性があり、逆に教育による英知の光源をもてば、宗教による精神性はさらに光を放つでしょう」。この意見に対して、両教授とも賛意を示され、ベセル教授は、教育と宗教の両方があってこそ、人間は「永遠なるビジョンの〈目〉をもつことができる」との見解を示されていました。
 ここにいう教育とは、人間としての知的・精神的営為全般を指しています。宗教は、人間の精神的営為と相補的関係にあり、また、人類の精神的果実を育てゆく土壌でもあります。このような教育のあり方もまた、「賢者の論」の精神にもとづいていることはいうまでもありません。そうであってこそ、民衆の間に宗教の不寛容性や反人間的ドグマを批判する精神を育み、非暴力、慈悲、寛容に立脚した〈民意の時代〉の到来をもたらすであろうと確信しています。

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