Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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一「賢者の論」による対話(1)  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  「王者の論」は拒否
 博士 歴史家は、きわめて広大な地域に及んだミリンダの統治の詳細について、ほとんど知識をもっていません。彼が仏教に改宗したことにより、その統治がアショーカの場合と同じように、はたして人間的で慈愛に満ちたものになったであろうか、と考えてみるのも興味深いことです。考古学的資料としてのミリンダの貨幣――ほとんどが銀貨と銅貨――の存在は、この時代が大きく繁栄し、商業が活発であったことを示していると思われます。
 池田 ここで私が注目したいのは、博士の言われる解説の技法、また文学の形式としての対話のあり方です。宇宙と人間生命の真理を洞察し、それを解説するための技法としての対話のあり方を、ナーガセーナは「賢者の論」として述べました。
 対論を始めるにあたって、彼は次のように述べたことがしるされています。「大王よ、もしもあなたが賢者の論を以って対論なさるのであるならば、わたしはあなたと対論するでしょう。しかし、〈大王よ〉、もしもあなたが王者の論を以って対論なさるのであるならば、わたしはあなたと対論しないでしょう」(『ミリンダ王の問い』1中村元、早島鏡正訳、平凡社。以下同)と。
 そこで、王は「賢者の論」と「王者の論」との違いを問います。すると、ナーガセーナは「賢者の対論においては解明がなされ、解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされ、細かな区別がなされるけれども、賢者はそれによって怒ることがありません。大王よ、賢者は実にこのように対論するのです。(中略)大王よ、しかるに、実にもろもろの王者は対論において、一つの事のみを主張する。もしその事に従わないものがあるならば、『この者に罰を加えよ』といって、その者に対する処罰を命令する。大王よ、実にもろもろの王者はこのように対論するのです」と答えています。
 ミリンダは、ナーガセーナのことばをよく理解し、「尊者よ、わたくしは賢者の論を以って対論しましょう。王者の論を以っては対論しますまい。尊者は安心し、うちとけて対論なさい」と述べております。
 こうして二人の間に、あらゆる問題についての有益な対話が始まりました。「賢者の論」という言葉に、理性的で実り多い対話を成りたたせる基本が示されています。それは、平等で自由な対話を根本としてきた、釈尊以来の仏教者の姿勢でもありました。つまり、真理の追求のために喜んで解明につとめ、批判・修正に対して公正かつ寛大であり、互いの「魂をゆだねて」対話をするのです。
 「賢者の論」による対話こそ、現代社会をおおっている種々の難問を解決するための理想的な対話のあり方を示すものではないでしょうか。

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