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日蓮大聖人・池田大作

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三 核兵器は〈絶対悪〉  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  小国に増える〈核兵器信仰〉
 池田 ポスト冷戦をむかえて、ようやく軍縮路線が着実な軌道に乗ってきました。とくに一九九一年九月に、ブッシュ大統領の核軍縮提案、それを受けてのゴルバチョフ案が出されてから、核軍縮のペースが一段と加速されようとしております。核軍縮にとって、歴史的といってよい転換点をむかえたようにも思われます。
 しかし、アメリカと旧ソ連の核戦力がさらに縮小されるにしても、核抑止力への信頼性が放棄されたわけではありません。
 博士 私たちは今、まことに興味津々たる時代に生きています。こうして対談をつづけている間にも、世界の政治地図は絶えず塗り替えられています。さまざまな変化がものすごい速さで起こっています。
 昨年(一九九二年)、ロシアのエリツィン大統領は、核兵器保有量の大幅削減に関する提案を発表しました。さらに同大統領は、核戦争の危険から地球を守るにはロシア=西欧同盟が必要であるとさえ言っています。
 これらはいずれも希望のもてる徴候です。だが、前方にはまだ不穏な形勢が見えます。たとえば、独立国家共同体の経済はあまりにも脆弱すぎます。ですから、エリツィン大統領が良かれと思って事を行っても、軍部が即刻妨害するという危険性が実際にあります。ロシアでは軍部が依然としてきわめて強大な勢力を保持しているからです。今、新たな世界秩序ということがさかんに論議されていますが、その新秩序自体が風前のともしびといえるのではないでしょうか。
 もう一つ大きな問題があります。核兵器の製造に必要な技術と原料が今や、いわゆる第三世界諸国をも含む多くの国々にとって入手可能になったということです。こうした状況のゆえに、諸大国は核抑止論に逆戻りしたほうが賢明であると考えているのです。
 〈核兵器信仰〉を奉ずる小国が増えるにつれて、どこか世界の果てで一人の狂人が警告なしに核兵器を戦闘配備する危険性があることは、現実的であるだけに不気味です。この危険が近い将来、かつての米ソ両国の重大な対決の危険をしのぐことは十分にありえます。核兵器が偶発的に使用される危険性も時とともに増大しています。
 池田 私がかつて対談したジョン・ケネス・ガルブレイス教授は、最近の著書『実際性の時代』(岸本重陳著・訳、小学館)の中で、〈死の核兵器による内戦〉について次のように述べています。
 「今や圧倒的な危険性は、これらの武器が、無責任で野蛮な人物の手に落ちることはないかということにある。(中略)これらの核兵器は、米ソ両国の内部で非常に広範に散らばっているので、今日では重大な憂慮の種にならざるをえないことは、確かなのである。(中略)国内抗争が泥沼化して核兵器による内戦にまで悪化していくのを防止することが、非現実的なことであるわけはないではないか」と。
 そして教授は、国連の管轄のもとで「米ソ」合同の専門委員会をつくり、確固とした時間表にしたがって死の兵器を集めて処分することを提案しております。現在、旧ソ連の各共和国に散らばっている核兵器が、政治的動乱の中で一人の狂人の手にわたる危険性は、現実的にありうるのです。それだけに、ガルブレイス教授が指摘するような核管理の問題はきわめて切実です。
 博士 同感です。旧ソ連の崩壊により、この問題は一段と深刻化しています。核兵器の集中管理ができなくなるからです。
3  求められる〈魂の力〉の蘇生
 池田 核軍縮への歩みが加速されているとはいえ、領土や民族・宗教を原因とする地域紛争が頻発している現状、また核拡散の状況を考えると、核の脅威はいまだに人類のうえに重くのしかかっています。私は、このような核戦争の脅威を文明論的に位置づければ、まぎれもなく西洋科学技術文明が直面している一つの破局の姿ではないかと思うのです。
 今日の核を中軸とした兵器体系は、宇宙の研究開発の副産物でもありました。さらに化学兵器・生物兵器も、科学技術文明の所産の一つです。
 博士 そこで、核兵器の発明につながる科学技術の発達がなかったならば、世界はもっと安全な状態になっていたであろう、という意見もあるでしょう。私は、核兵器に対して嫌悪の情をもよおすものですが、だからといって、こうした考え方に同意するものではありません。人間の知識に対する探究心をおさえることはできないのです。
 もちろん科学者たちは、彼らの発見した成果が悪用されたことで非難されるべきではありません。科学的発見の成果を責任をもって活用していくのは、政治家と世界の指導者の責務であるからです。
 池田 ご指摘のとおり、人間の真理探究の心を抑圧すべきではありません。科学技術は、宇宙から原子にいたるまでの広大な知識の領域を開拓してくれました。ひとえに、科学者の真理探究にかける偉大な努力のたまものです。しかし、その科学的成果をどのように人類の幸福と繁栄に役立たせていくかという人類の英知が、いまこそ求められているのです。
 いうなれば、核兵器という〈絶対悪〉に集約される〈外〉なる衝撃に対して、〈内〉なる道徳的・倫理的歯止め、善なる〈魂の力〉を失ったところに、現代文明の危機があると思うのです。
 博士 人類を文字どおり核戦争の勃発寸前の状態にまで追いこんだ科学が、ほぼ全面的にその基盤としたのはデカルトの還元主義哲学であり、徹底したレス・コギタンス(思惟)の無視、宗教的・道徳的価値観の確実な排除でした。再考の結果として、道徳的・倫理的配慮が再び取り入れられることもありますが、それらはかならずといってよいほど論争の的になり、効果はあがっていません。
 キリスト教は、中世から産業革命の黎明期にいたるまで数世紀にわたって、かがり火のように輝き、ヨーロッパ諸国の運命を導きました。キリスト教は美術や音楽、文学、哲学に影響を与え、社会の目的にもかなうものでした。また、家族や社会集団を結束させました。金持ちは金銭を教会に寄付し、それはまた貧しき人々に手渡されたのです。こうして教会は、社会を平等にするという役割を果たしました。
 罪人は永劫にわたって断罪されると信じることができた人々は、罰せられることを恐れて罪を犯しませんでした。教会は社会制度として強大な権力をもつようになり、その権力は、教会の教義(ドグマ)の正当性が疑われるようになるまでつづいたのです。
 すでに話し合ったことですが、十七世紀の半ばにガリレオとコペルニクスによって、キリスト教の教義への最初の挑戦がなされました。そして十九世紀後半には、ダーウィンが教会と重大な対決をしました。
 コペルニクスからダーウィンにいたる時代に、プロテスタント主義の出現とキリスト懐疑論の台頭をみました。還元主義の科学が進歩し、キリスト教の教義の矛盾が明らかになるにつれて、宇宙および人間の本質に関するキリスト教の基本的信条は着実に侵食されていきました。
 このような矛盾が科学にとって本質的な問題となるのか、あるいは、その矛盾が還元主義的アプローチの限界に起因するのかは、疑問の余地があるでしょう。しかし、キリスト教のもつ教化と抑制の力が社会に与える影響は、ここ数十年のあいだに弱まってきたことは事実です。教会が空になりつつある状況下で、私たちに残されるのは道徳的価値を失った社会なのです。
 人間は年月の経過とともに、だんだん道徳基準を失ってきており、私はこの点にさしせまった危険を感じます。道徳的価値観がなくなった人間の行為は、素朴かつ単純な捕食者でしかなかった原始的な人間の行為に近づきます。違う点といえば、私たちは地球上の全生命を破壊させるに十分な凶器、つまり核兵器で武装した捕食者であるということです。
 デカルト的レス・コギタンスをふたたび私たちの世界観にとりこむことが、絶対に必要であると思います。このことがキリスト教的価値観への復帰を意味するのかどうかは、これから見きわめなければなりません。私の推測では、二十一世紀をむかえるにあたって必要とされる全包括的な世界観を、キリスト教に求めることはできないでしょう。
 東洋の哲学では平和と慈悲が最高の位置を占めますが、その哲学に希望を求めようとする西洋の若者のグループに、私はいつも感銘をおぼえます。仏教は東洋哲学の最高峰の一つであると確信します。仏教は〈全包括的世界観〉を含んでいますから、当然のことながら、私たちが二十一世紀を安全に生きるための指標となる宗教の候補に挙げられます。
 池田 人類が宗教性を土壌として道徳観・倫理観を回復することが、二十一世紀の世界のカギだと思います。善心という〈魂の力〉を蘇生させた地球社会を創出しゆく民衆の平和希求の運動に支えられてこそ、国連を中心とした政治・経済次元での軍縮と非核の安全保障システムの提案が、人類に実りある果実をもたらすことができるからです。

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