Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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八 科学と仏教の接点  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  仏教的世界観への推移
 池田 この人たちの世界観が、東洋の包括的な世界観、また仏教の世界観に類似する状況になってきているのは、きわめて興味深いことです。
 ラブロックの〈ガイア仮説〉と仏教の〈縁起観〉との相似性については述べましたが、ボームの世界観も仏教の唯識論、さらには天台哲学や日蓮大聖人の仏法で説く九識論にまで類似してきているようにも思われます。
 たとえばボームは、現象面の基底に躍動する〈分割不可能な全体性〉から、現象面へと顕在化する様相を示しております。彼は現象面から観測できる領域を「明在系」と呼び、これに対して四次元時空では観測できないが、現象面の内奥に躍動する領域を「暗在系」と呼んでおります。そして「暗在系」の中に「内包された秩序」があると言います。
 ここで気がつくことは、ボームの「明在系」に相当するのは意識や感覚器官のレベルですが、「暗在系」として指し示す領域には阿頼耶識が含まれ、さらに仏教的直観が洞察する宇宙究極の当体をも志向していると思われます。しかし、博士も言われたように、包括的な世界観への試みは、まだ一部の科学者や心理学者が試み始めたばかりのようです。
 博士 デカルト的世界観から全包括的な世界観への転換は、前者が文明世界にほぼ浸透しているために、容易なことではありません。ヨーロッパが十八、十九世紀に東洋で植民地を拡大した結果、東洋固有の全包括的世界観はうまく締め出されてしまいました。
 そして、今日になってようやく、東洋はその伝統的な全包括的世界観を再発見し、ふたたび主張し始めたのです。全包括的世界観への移行は、物理学や生物学ばかりでなく社会科学、しかも政治学においてさえ必要とされています。
 今日、私たちが住んでいる地球上では、個々の構成要素がすべて強く結合し合っています。理にかなった地球観はかならず確固とした生態学的視点を含んでいなければなりません。以上のような態度が優勢になってきているのはたしかです。このような動向は、仏教的世界観への推移と解釈することもできるでしょう。
3  仏教思想に符合する心理学
 池田 還元主義的アプローチによる機械論的世界観では、とうていその全体像をとらえきれない広大なる世界が、〈小宇宙〉ともいわれる人間生命の内奥の領域です。物理的宇宙として展開する〈大宇宙〉に相即しつつ、それをも基底から支えていく人間の〈心〉――その心の深層部へと本格的な探究が始まったのは、西洋においてはやはり、フロイトの精神分析からといってよいでしょう。
 ところが、今日のユング心理学では、瞑想や神秘的直観を媒介にして仏教に深い関心を示すに至っております。さらに、ユング心理学とも関連しながら発展しているトランスパーソナル心理学では、一段と仏教心理学との接近を強め、宇宙究極の実在を仏教の宗教的体験と共有する地平にまで進んでいるように思われます。
 そこで私は、仏教の知見と現代の深層心理学ならびにトランスパーソナル心理学との類似性を、次のような諸点に認めております。
 まず深層心理学についてですが、ユングは、フロイトとの関係性から自身の心理学を位置づけるために、次のような考え方を示しております。フロイトの発見したのは個人的無意識の領域であり、ユング自身はその根底に集合的無意識を発見したとしています。さらにL・ソンディは、両者の間に家族無意識の領域を提唱しております。
 私は、西洋の深層心理学の探究する領域は、すでに世親らが体系化した唯識論とも重なっており、フロイトの個人的無意識は末那識領域に、ソンディの家族無意識とユングの集合的無意識は阿頼耶識の領域に相当する、と考えております。
 また、トランスパーソナル心理学の論客であるケン・ウィルバーの提示する「意識のスペクトル」を見ますと、唯識論などと類似の理論を提示していることがわかります。彼もまた、デカルト的自我を超えるにあたって仏教の〈無我論〉に注目し、個人の自我を〈幻影〉(マーヤー)と位置づけ、そこから普遍的な〈真の自己〉へ入ろうとしているようです。すなわち、ウィルバーの示す〈自我〉の領域は唯識論では意識の次元に相当し、〈実存〉領域は末那識、〈超個〉の領域には阿頼耶識が相当します。さらに彼は〈心〉という言葉で、宇宙究極の実在と融合した自己すなわち〈大我〉を指し示そうとしているように思われます。
 博士 今、現代心理学のさまざまな趨勢が仏教思想ときわめて密接に符合していることを指摘されました。そのような符合は重大な意義をもつと私も信じております。物質の性質に関する古代インドの理論には欠陥があったとしても、人間の心理に関する理論は、現代の水準から見てもほぼ完璧に近いものでした。
 サンスクリットは、心理学的事象を論じるには理想に近い言語でした。種々の心的状態を的確に表現するために、古代インド人は何百年にもわたって語彙を増やしてきたのです。その語彙のうち、先生は末那識と阿頼耶識とに言及されましたが、もちろん、ほかにも数多くあります。
 池田 九識論では、阿頼耶識をも包括する宇宙究極の生命を〈阿摩羅識〉(根本清浄識)と呼んでおります。この究極の大生命は、これも仏教の法理の一つである十界論でいえば、仏界に相当します。十界論は、六道という凡夫の境涯を超克して、二乗・菩薩から究極の大境涯、宇宙大の境地を示す仏界への道を指し示しております。
 この十界論の視点から注目されるのが、トランスパーソナル心理学を創設したA・H・マズローでありましょう。彼は西洋の代表的な心理学の流れを分析して、第一の心理学をフロイトらの精神分析学、第二の心理学を行動主義心理学とし、ともに機械論的傾向があることに不満をもつにいたって、第三の心理学つまり人間性心理学を提唱したといわれております。
 私は、第三の心理学がめざす自己実現のプロセスならびに超越体験・至高体験の中に、仏教心理学での十界論、とくにそのなかでも四聖すなわち声聞・縁覚・菩薩・仏の境地に至ろうとする試みを見いだせると考えております。
 マズローの言う欲求の階層――生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求、知への欲求、美的欲求、成長の欲求などのヒエラルキー(階層)――は、十界論でいう三悪道・四悪趣から人界・天界を経て四聖へと上昇しゆく生命変革、人間完成へのプロセスをめざした試みであると思われます。また至高体験の内容は、菩薩や仏の境地の発動の一部に光を当てようとしたものであるとも考えております。
 しかし、マズローも晩年においては、至高体験をバネにして、個人を超えた広大無辺な意識(心)のレベルの存在を指摘し、この領域をトランスパーソナル(超個)と呼ぶことによって、第四の心理学すなわちトランスパーソナル心理学を誕生させております。
 マズローも、個的自我を超えた宇宙根源の大生命へと向かおうとしていたことが明らかです。この境地に自己実現の究極のあり方を希求していたのだと思われます。
 博士 インド宗教の伝統は、本質的に内省的な性格をもっており、実際にはなんらかの究極的な自己の発見を目的として、自分自身の内なる心を探究している瞑想を常に行ってきました。
 バラモン教の伝統の中から生まれた仏教も、この点において例外ではありません。釈尊は〈ユング以前〉に位置づけられるべき最も偉大な精神分析学者であった、と私は考えます。世界についての釈尊のすべての知恵は、ひとえに超然とした内省の過程をとおして得られたものです。
 意識の諸相についての釈尊の発見は、ユングとマズローの説になるほどよく似ています。しかし産業革命以後、二十世紀になって拾い集められたユングやマズローの思想は、本物を下手に模倣したものでしかないでしょう。ユング自身は、心理学と宗教の間に緊密な関係性があることを認めていました。
 キリスト教は意識の発達を強調するが、無意識の〈元型〉としての要素を表現するにはほかの宗教の伝統が必要である、とユングは主張しました。当然のことながら仏教は、その心理学的内容がとくに豊かであり、現代心理学の諸説が仏教思想の方向に向かっていることは、私にはなんら驚くべきことではありません。
 私たちに使えるあらゆる手段を尽くして、心について完全な理解を得るならば、その理解は、先生がみごとに述べられた仏教の教えにほぼ近いものになるといってよいでしょう。
 池田 現代の最先端をいく心理学からも仏教思想に光が当てられ、仏教の深遠な知見が人類共通のものとなることを望んでおります。
 博士 これまでの対話で、先生が科学的な事柄について深い洞察力をもっておられることが察せられます。科学とは何であるかを真に理解している人と対話しているように感じるのです。これはまことにさわやかな経験です。

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