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日蓮大聖人・池田大作

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二 近代科学とキリスト教  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  「神の栄光のために」働いた科学者
 池田 ところで、ヨーロッパ近代の初期に、自然科学を築き上げてきた科学者たち――たとえば、コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、ニュートン――の業績を見ると、キリスト教が深くかかわっていたことがわかります。彼らは「神の栄光のために」という明確な目的意識をもっていたようです。
 博士 おっしゃるとおり、西洋科学はキリスト教神学に呼応して発展してきました。いやそれどころか、西洋文化のあらゆる側面がキリスト教と深く結びついています。これには西欧で発達した芸術・文学・音楽・建築、さまざまな社会体制などがすべて含まれます。教会とキリストの教えがヨーロッパの運命のかじをとったのです。
 科学もごく普通の文化的営みであって、人間がその知性を運用し余暇を使いきるために始めたものであるといえましょう。
 池田 西洋近代の科学者たちの思考の中にも、キリスト教が深く浸透しています。たとえば、コペルニクスによる太陽中心説の採用には、神は複雑さではなく〈簡潔さ〉を選んだであろう、という信念があったといわれております。神は自然をまったくムダなくつくったのであるから、簡潔でなければならなかったというわけです。
 ケプラーにしても、神の摂理が幾何学的な秩序で宇宙をつくったと信じていたからこそ、天体の調和の証明のために星の運動を研究したのだといいます。
 また、ガリレイもニュートンも、宇宙は全能の神によってつくられた暗号文であると信じており、天体の運動の研究は、宇宙に描かれた文字の中に神の摂理、すなわち自然の秩序を読みとることであったと考えられます。
 博士 ヨーロッパの科学者たちの思考の中に、キリスト教が深く浸透していたとのご意見には全面的に賛成です。また、神は複雑さよりも簡潔さを選んだというコペルニクスの信念が、結局は天動説を放棄させることになったとのご意見にも同意したいと思います。ただこの場合、最初の動機が特定の宗教の考え方に彩られていたことは事実ですが、最終的に到達された見解は従来の見解と比べて絶対的真理により合致したものとなった、と考えなければならないことは明らかです。
 同様に、そのほかの純然たる事実にもとづく発見、たとえば蒸気機関の発見などの場合にも、一度その発見がなされてしまえば、宗教的ないし文化的背景はそこから切り離すことができます。
 ただし、いうまでもないことですが、現代科学の大半は経験的事実を用いて重要な理論――たとえば、生物や宇宙に関する理論から地球の環境に関する理論に至るまで――を構築することに腐心しています。こうした分野では、私たちはいまだに、特定の宗教を中心とする考え方に付随する諸悪に悩まされているのです。
 池田 そのとおりです。たとえば、キリスト教と科学の闘争の象徴として挙げられるガリレイ事件には、多くの条件や偶然が重なっていたとは思われますが、最も重要な原因は、「神の栄光のために」という目的意識によって解読した神の暗号、つまり科学的発見が、キリスト教会の主張する教義と食い違っていたところにあったのではないでしょうか。
2  ドグマが抑圧した「事実」
 博士 今になって考えてみれば、科学の進歩にとって不運だったのは、聖書で教えている天地創造の物語が入りこんできたこと、そして、それと並んで人間中心の宇宙観が侵入してきたことです。
 ローマ教会が西暦五〇〇年ごろから信奉してきたもう一つのドグマは、天空にある諸物体は不変であるということ、そして天体に何が起きようと、それが地球にほんの少しでも影響を及ぼすことなど絶対にありえないということでした。これらの見解はすべてかたくなに保持されました。
 科学が発展したのは、まずそうした概念の正しさを立証するためでした。あとになって、正当性のないことを示す証拠が見つかると、それらの概念を土台とするパラダイムを論破しようとして激しい衝突が起こりました。
 西洋科学は、そもそもその出発点から非常に不利な立場にあったと考えてよいでしょう。それは、正当性という点で先験的確率の低い世界観をもって出発したからです。この世界観には小さな矛盾点が次々に現れたはずです。そして、それは最古の昔から、自然を観察する者の眼には明らかだったにちがいありません。たとえば肉眼でも見える黒点に関して、ヨーロッパでは一切記録されていません。黒点とはときどき太陽の表面に現れる暗い斑点のことで、見落とされるはずはないのです。
 また、西暦一〇五四年に超新星が出現し、これが後に、かに星雲を形成したのですが、不思議なことに、この超新星に関する記録はヨーロッパには一片も存在しません。中国の記録によりますと、この超新星は数週間にわたって金星を上回る明るさで輝いたということですから、まさかヨーロッパで見落とされることなどあろうはずがありません。
 池田 そう思います。この牡牛座のかに星雲の現象に関しては中国、日本の記録があります。
 斉藤国治博士の研究によると、中国の記録には「至和元年五月己 丑、客星天関の東南に出づ。数寸ばかり」(『続資治通鑑』巻五四)と記述されています。この記録では旧暦を用いていますが、正確な日付は、西暦一〇五四年七月四日にあたっています。別の資料にも「はじめ至和元年五月、晨に東方に出で天関を守る。昼もあらわれて太白(金星)の如し……凡そ二十三日見ゆ」(『宋会要輯稿』)と出ています。
 また、日本でも藤原定家の『明月記』に、この星のことが記録されています。
 さらに、北アリゾナの廃墟で発見されたアメリカ先住民の壁画に描かれているということです。弓形の三日月の下に大きい星が描かれている。廃墟の年代は特定できませんが、十一世紀から十二世紀にかけて使われていたことが知られているそうです。
 博士 この珍しい出来事が西洋で記録されなかったということは、キリスト教のドグマがいかに抑圧的な力をもっていたかを示しています。ドグマと合致しない事実はこのように頭から無視されたのです。
 最初の重要な対決となったのは、いま先生が言及されたガリレイ事件です。「宇宙は人間のためにある」という思考法が暗に意味しているのは、人間の住んでいる地球が宇宙の中心でなければならない、ということです。
 しかし十六世紀の半ばに、天空をめぐる惑星の運動が研究された結果、地球中心の思考体系を弁護することがますますむずかしくなってきました。きわめて複雑な周転円が考えだされ、それによってなんとか地球中心説を支えようとしましたが、結局その見解は放棄され、地動説つまり太陽中心説に席を譲ることになったのです。
 十七世紀、十八世紀を通じて、空から隕石が落ちてきたという数多くの報告が科学者の注意を引きました。しかし、天から岩石が降るなどという考えは、西暦五〇〇年以来の〈閉じた箱・地球〉というドグマに抵触するものでした。ですから、そうした報告は意図的に否定されたのです。事実、フランス科学アカデミーは当時の最も著名な科学者からなる委員会を任命し、それらの報告を調査させました。そしてその結果、「地球外からやって来る岩石などあろうはずがない」と断言したのです。
 ところが一八三六年に、パリの西方約六十マイルの地にあるノルマンディーのレイグル付近で二千個以上の岩石が空から落下するという出来事がありました。
 これでフランス・アカデミーもやっとその説を変えることになったのです。それも、それほど多くの目撃者がいる事件を否定することは不可能だという、ただそれだけの理由からでした。しかし、この隕石騒動にもかかわらず〈閉じた箱・地球〉というドグマは消滅しませんでした。
3  今もキリスト教的発想
 池田 キリスト教会は、この苦い経験によって神学から哲学を切り離し、また科学を分離してきたのが近代の歴史でありますが、それでもなお近代科学の創造期に重要な役割を果たしたキリスト教思想は、現代西洋科学の重要な枠組みに取り入れられているのではないでしょうか。
 博士 現代の科学においては、キリスト教から入ってきたことが明らかな要素が強調されることはありません。いや、その事実が認められることすらありません。しかし、それにもかかわらず、そうした要素は今でも存続しています。
 宇宙論者たちが執拗に固守している見解の一つに、宇宙には始まり、つまり「創造」があったというビッグバン説があります。なぜこのパラダイムがいま実際に幅を利かせているのか。私が思うに、その理由は、そうした考え方の先例がユダヤ・キリスト教にあるという事実にあります。
 同様のことが地球中心説についてもいえると思います。地球中心的な姿勢が根底にあるからこそ、現在、生命の地球外誕生説を認めることに対して抵抗があるのです。
 池田 天地創造説、人間中心の宇宙観にもとづく自然観として「自然は人間のためにある」という思考法があります。唯一絶対の創造神によって自然は人間のためにつくられたのであり、人間が支配すべきものであるとするヘブライの自然観は、今日まで西洋科学文明の基底にありつづけました。
 この人間主体とその対象(自然)を区別するという思考法は、西洋近代科学の基本構造となって科学を発展させてきましたが、一方ではそれが要素還元主義につながり、また人間性喪失や自然破壊を引き起こしてきました。
 博士 自然界は人間のために存在するとの思考法は、ユダヤ・キリスト教神学の欠くことのできない構成要素です。人間は万物の究極であり頂点である、したがって、ほかの生物の運命を、いや地球自体の運命を好き勝手に変えることを許されている、というのがその考え方です。
 現代人が環境に注意を払わない原因は、根深い人間の独断にあると言われましたが、まったくそのとおりだと思います。私たちは一目瞭然の危険に直面しています。これを回避するうえで最も必要なことは、人間中心主義を捨てて、地球的な視点から環境問題に対処することです。

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