Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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一 新たな世界観を求めて  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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3  量子論に通ずる「縁起観」
 池田 論争の焦点は、今日、量子力学の〈コペンハーゲン解釈〉として知られているものですね。ここでは決定論が統計的な確率に置きかえられ、また観測者と観測値との不可分性が示されております。つまり、認識主体と客体との関連性という哲学的にきわめて興味深い概念を提示しています。
 博士 物質の世界は、観測できる範囲では明らかに決定論的な性質をもっています。しかし、原子や素粒子の段階では、すべての遷移が今述べられたように確定性に欠けています。
 各観測段階において不確定性を取り除くのは観測それ自体です。つまり観測者の意識が介在することです。世界はまさしく、そうした観測段階の連続とみなすことができます。
 それぞれの段階のなかでは量子力学の諸法則があてはまります。しかし、ある段階から次の段階に進むためには意識の介在が必要となります。そしてそれは、還元主義的な物理学法則の範囲を超えることになるのです。
 こうした問題のいくつかは、深い哲学的なレベルではまだ未解決だと考えられています。しかし、いうまでもありませんが、自然現象を説明する量子力学は、確固とした揺るぎない理論体系です。多分、今世紀に現れた物理学理論のなかで、最大の成果を上げているといってよいでしょう。量子論によって分子や原子や原子核の構造、素粒子の生成・消滅などが説明できるようになり、また反物質などに関する予言が可能になったのです。
 さらに間接的な成果としては、恒星内部の深層で起こる核反応の過程がわかってきたことが挙げられます。これまでの実験によって、量子力学にもとづく予言と反対の結果が出たことは、まだ一度もありません。
 池田 博士の言われるとおり、量子論のはらむ哲学的意味には仏教の視座から見てもたいへんに重要なカギが隠されていると思います。
 仏教の基本的法理の一つに「縁起観」がありますが、この法理は、あらゆる現象は〈因〉と〈縁〉が相互に関連し合って結果を生じるというものであり、〈因〉と〈縁〉との二因論とも、また多因論ともいわれております。現実世界におけるただ一つの因が一つの果を引き出すなどという機械論的決定論ではなく、因果の連鎖をも包含しながら、最後に多くの〈縁〉の関連性をとらえていくという包括的な法則といえましょう。
 多くの〈縁〉、または〈因〉〈縁〉との相互関連から結果を生じますから、この関連性の中には自由度がそなわることになります。このような意味では、ハイゼンベルクの不確定性原理とも相通ずるものがあるように思われます。
 なお、この「縁起観」を認識論的立場から展開してみますと、仏教では、人間の認識作用は次の三つの因子が相互に関連しあって生じてくると説いております。
 つまり生命主体の側からは、まず六識という意識の作用があり、ならびにその六識が顕在化する身体の場としての六根(感覚器官)があり、それに対応する形で環境の側からは、六境という対境が作用してきます。
 この六識・六根・六境の三者の働きが和合し縁起しあい、そこに認識作用が成立すると説いております。このような仏教の認識論は、還元主義的アプローチによる機械論的世界観を超えようとする哲学的意味内容をはらんでいるといえましょう。
 博士 普通の機械論的考え方からはずれる近代のもう一つの発展は、いわゆる〈人間原理〉として表れています。
 この原理にはいくつかの形態がありますが、たとえば、その一つが主張していることは、人間意識の進化は自然の法則の中に最初から書き込まれているにちがいないということ、そして、宇宙は私たちが観測できるようにとの目的をもって、実際に設計されているということです。
 私はこれらの考えには不満です。なぜなら、それは(たとえ〈人間原理〉の主唱者たちが否定したとしても)人間中心的な宇宙観に逆戻りするように思われるからです。
 池田 物理学の領域から生物学の分野に入ってくると、還元主義的アプローチの限界は一段とはっきりするようです。仏教の「縁起観」からいっても、無生物よりも生物、さらに人間の生命になるにつれて、〈自由度〉が拡大されていくと説いております。その最も自由なる存在が、高度の〈心〉〈意志〉をもった人間生命といえるでしょう。
 博士 そのとおりです。この還元主義的アプローチが十九世紀末に、人間研究を含む生物学をも包み込むにいたって、さまざまな難問が生じてきました。それらの難問はいまだに未解決のままになっています。還元主義は、生命の進化を基本的な機械的プロセスとしてとらえることに少しは成功しましたが、説明できない事柄が数多く残りました。
 人間の知性と〈心〉の発生という問題は、その顕著な例でした。自然選択による進化の偉大な主唱者であったイギリスの博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォーレスでさえ、晩年においては、還元主義的方法の妥当性に疑問をいだいていました。
 当然のことながら、ウォーレスは、科学に精神主義と形而上学をふたたび取り入れたとして同輩から厳しく批判されました。レス・コギタンスは、すでに科学の正当な領域からはずされてしまったのだから、いまさら元に戻すことなどできるわけがない、と彼らは言い張ったのです。
 また、神経細胞の物理学的・化学的研究の進歩にもかかわらず、人間の脳に関する現代の議論においても、デカルト的態度は欠点を露呈しました。科学それ自体が私たちの世界認識にもとづいているわけですが、デカルト的世界観は、私たちの主観的経験を研究する余地をまったく与えません。脳のモデルをつくろうという試みはありますが、それは単独の存在としての〈意識〉や〈心〉の存在を認めてはいません。
 このような考え方の矛盾性を正し、意識の本質を探究するためには、新しい全包括的世界観が当然必要となります。ただし、これがどうすれば達成できるかは現在のところはっきりしていません。

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