Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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一 新たな世界観を求めて  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  還元主義を超えて
 池田 二十一世紀に臨むにあたって、地球上のいたるところで古い価値観が崩壊し、人類は大きな転換期をむかえております。なかでも興味深い事実は、科学と宗教の関連性を考えるうえで多くの人々の心が新たな世界観の創出へと向かい始めたことです。
 今日、西洋科学文明は多くの困難な問題を抱えて、行き詰まりの様相を呈しております。これに対して、転換期をむかえて、多くの人が新しい世界観・宇宙観を求めて、行動の規範、つまり〈パラダイム(=理論的枠組)〉をつくりだそうと考えています。
 新しい動向は、機械論的世界観とその手法である要素還元主義を超えて、全包括的(ホリスティック)で生態学的なアプローチにもとづく、新しい世界観の構築を志向しているように思われます。
 博士 ガリレイ、デカルト、ニュートンらが提唱した完全に機械論的で還元主義的な世界観を超えて、全包括的で生態学的志向の世界観へと移行する傾向が現代世界において増大している、というご意見に私も同感です。
 還元主義的なものの見方が、十七世紀半ばに、物理学の誕生と時を同じくして台頭してきたことを認識することは重要だと思います。還元主義は実のところ、生物を含む宇宙全体を機械論的・物理学的諸原理によって説明する一つの試みでした。
 池田 西洋近代科学の父といえば、ガリレイが挙げられます。そして、同時代に生きた、経験科学の祖といわれるフランシス・ベーコンやデカルトを経て、ニュートン力学の完成へと引き継がれていきました。いうまでもなく、それが今日の科学時代の淵源です。
 博士 そのとおりです。還元主義的世界観の起源は、実に一六二三年にさかのぼります。その年にガリレイは『偽金鑑識官』という書物を著し、科学とは「第一」性質――有形で測定可能な外的世界の属性――にかかわるものと事実上定義したのです。愛や怒り、美などの「第二」性質は、科学の正当な領域の外にあるものと考えられていました。
 その数年後、一六三七年にデカルトは、還元主義的世界観と本質的に同じ考えを表明し、測定および分割が可能な「レス・エクステンサ」(物質的なもの)と、測定も分割も不可能な「レス・コギタンス」(考えるもの)とを区別しました(=一六三七年に『方法序説』、同四一年に『省察』、四四年に『哲学の原理』を出版するなど、いわゆる物心二元論を説いた)。
 このようにレス・エクステンサとレス・コギタンスから成る世界が仮定されたのですが、その後の還元主義的科学の発展は、いかなる形態にせよ、もっぱら物質的要素であるレス・エクステンサにのみ関係したものでした。
 彗星や惑星・恒星の運行をあざやかに説明したいわゆる古典力学を扱ううえで、この還元主義的アプローチは大成功を収めました。
 さまざまな物質的体系のモデルを、当時のデータと一致した還元主義の枠内でつくることが可能になりました。また、将来の観測によって確認できると思われるモデルを予見する者もいました。
 ニュートン力学は十九世紀の産業革命に不可欠の牽引力でした。産業革命のおかげで私たちの生活はすっかり変わりました。そのために私たちは、産業革命を可能にしたデカルト的世界観の絶対的妥当性に異議を唱えることを避けてきたのです。
2  量子力学の幕開け
 池田 十九世紀の機械論的世界観にもとづく近代科学の発達は、驚異的なものでした。ところが、ちょうど一九〇〇年にマックス・プランクが〈量子仮説〉を発表し、一九〇五年にアインシュタインが特殊相対性理論を提唱したときから、物理学はニュートン力学を古典力学としてしまうほどの転換期をむかえたように思うのです。
 〈量子〉という概念が用いられ、量子力学の世界が幕をあけると、ニュートン力学の土台を揺るがすような事実が次々と現れてきます。アインシュタインをはじめ、E・ラザフォード、ニールス・ボーア、E・シュレーディンガー、W・K・ハイゼンベルク、ポール・ディラックなどの科学者が輩出し、量子力学・素粒子論によって、微小な世界を貫く法則が明らかになってきました。これは画期的なことでした。
 博士 〈量子〉という言葉には〈離散的な量〉という意味が含まれています。物質の巨視的な特性は、特別なことがないかぎり、なめらかに連続的に変化します。ところが原子の粒子の特性は、しばしば不連続な量でしか変化を示しません。このことが発見されたのは今世紀の初めでしたが、物理学者たちに大きな衝撃を与えました。
 その結果、やがて彼らは原子や電子の示す数量の、そのような不連続な性質を考え合わせて量子論を打ち立てたのです。
 池田 古典力学と量子力学の違いをどのように見ておられますか。
 博士 量子力学とは何か。一言でいえば、素粒子の世界を〈波動〉によって表すことです。
 これらの〈波〉の性質は実験による測定の方法と関係しています。一つの量子系における個々の構成要素は、ある実験をしたときは、古典力学でいう〈粒子〉のように振る舞い、また別の実験をしたときは、〈波動〉と考えることができるのです。たとえば、電子は〈粒子〉でもあり〈波動〉でもあるかのように振る舞います。同様の二重性は、電磁放射や光においても見られます。
 池田 〈粒子〉であるというのは、一個一個が独立した個性をもち、数えられるということであり、〈波動〉というのは、一個一個が独立しているのではなく、二者が干渉し合って、たがいに強め合ったり弱め合ったりすることである、と理解しています。電子が両方の性質をもっているということは、興味深いことです。
 博士 そうです。このために古典物理学の決定論を放棄しなければなりませんでした。それにとってかわったのが確率論です。私たちが現象を解釈するとき、〈粒子〉や〈波動〉といった古典力学の用語を使用せざるをえません。しかし、それでは概念上の矛盾が生じます。そこで、用語だけは残して、その用語のよってたつ基盤である決定論を変えてしまったのです。
 池田 その結果が有名なハイゼンベルクの「不確定性原理」になったということですか。
 博士 そうです。この原理によって、素粒子の場合、位置と運動量を同時に、しかも完全に確定することはできなくなりました。一定の限度内で、位置が確定した場合には運動量が確定できないし、逆に運動量が確定した場合には位置が確定できないのです。量子論は一九二〇年代の初めころから、古典物理学を尻目に先へ先へと進展しつづけました。
 池田 〈運動量〉というのは、物体の動く速度と考えてよろしいでしょうか。
 博士 ええ、それで十分だと思います。厳密にいえば物体の質量が関係し、ふだん目にするような重い物体に対しては、不確定性が問題にならなくなるということはありますが。
 池田 量子論は、それまでの決定論的・機械論的な世界観を根底から変えてしまい、アインシュタインやプランクなど、量子論の出発点を築いた科学者たち自身が、その完成した理論を信じられなかったといいますね。
 博士 ニールス・ボーアは量子論について独自の解釈をしていますが、それによりますと、外的世界とそれに関する観察者の知覚とは密接に結びついています。つまり量子論における外的世界とは、それに関する私たちの知覚から離れて独自に存在するものではないのです。量子論の哲学的な含蓄はまことに深いものであり、そのいくつかの側面はいまでも活発に論議されています。
 たとえばアインシュタインは、亡くなるその瞬間まで「(量子論は)『外の』世界は、観測者を示し実験の仕方を明示して初めて、それらとの関連においてのみ存在し得る、と主張する。しかし、これは量子論には大事な要素が一つ欠けていることを示しているだけだ」と信じ込んでいました。
 アインシュタインとボーアが、これらの問題をめぐって論争を展開したのは有名な話です。
3  量子論に通ずる「縁起観」
 池田 論争の焦点は、今日、量子力学の〈コペンハーゲン解釈〉として知られているものですね。ここでは決定論が統計的な確率に置きかえられ、また観測者と観測値との不可分性が示されております。つまり、認識主体と客体との関連性という哲学的にきわめて興味深い概念を提示しています。
 博士 物質の世界は、観測できる範囲では明らかに決定論的な性質をもっています。しかし、原子や素粒子の段階では、すべての遷移が今述べられたように確定性に欠けています。
 各観測段階において不確定性を取り除くのは観測それ自体です。つまり観測者の意識が介在することです。世界はまさしく、そうした観測段階の連続とみなすことができます。
 それぞれの段階のなかでは量子力学の諸法則があてはまります。しかし、ある段階から次の段階に進むためには意識の介在が必要となります。そしてそれは、還元主義的な物理学法則の範囲を超えることになるのです。
 こうした問題のいくつかは、深い哲学的なレベルではまだ未解決だと考えられています。しかし、いうまでもありませんが、自然現象を説明する量子力学は、確固とした揺るぎない理論体系です。多分、今世紀に現れた物理学理論のなかで、最大の成果を上げているといってよいでしょう。量子論によって分子や原子や原子核の構造、素粒子の生成・消滅などが説明できるようになり、また反物質などに関する予言が可能になったのです。
 さらに間接的な成果としては、恒星内部の深層で起こる核反応の過程がわかってきたことが挙げられます。これまでの実験によって、量子力学にもとづく予言と反対の結果が出たことは、まだ一度もありません。
 池田 博士の言われるとおり、量子論のはらむ哲学的意味には仏教の視座から見てもたいへんに重要なカギが隠されていると思います。
 仏教の基本的法理の一つに「縁起観」がありますが、この法理は、あらゆる現象は〈因〉と〈縁〉が相互に関連し合って結果を生じるというものであり、〈因〉と〈縁〉との二因論とも、また多因論ともいわれております。現実世界におけるただ一つの因が一つの果を引き出すなどという機械論的決定論ではなく、因果の連鎖をも包含しながら、最後に多くの〈縁〉の関連性をとらえていくという包括的な法則といえましょう。
 多くの〈縁〉、または〈因〉〈縁〉との相互関連から結果を生じますから、この関連性の中には自由度がそなわることになります。このような意味では、ハイゼンベルクの不確定性原理とも相通ずるものがあるように思われます。
 なお、この「縁起観」を認識論的立場から展開してみますと、仏教では、人間の認識作用は次の三つの因子が相互に関連しあって生じてくると説いております。
 つまり生命主体の側からは、まず六識という意識の作用があり、ならびにその六識が顕在化する身体の場としての六根(感覚器官)があり、それに対応する形で環境の側からは、六境という対境が作用してきます。
 この六識・六根・六境の三者の働きが和合し縁起しあい、そこに認識作用が成立すると説いております。このような仏教の認識論は、還元主義的アプローチによる機械論的世界観を超えようとする哲学的意味内容をはらんでいるといえましょう。
 博士 普通の機械論的考え方からはずれる近代のもう一つの発展は、いわゆる〈人間原理〉として表れています。
 この原理にはいくつかの形態がありますが、たとえば、その一つが主張していることは、人間意識の進化は自然の法則の中に最初から書き込まれているにちがいないということ、そして、宇宙は私たちが観測できるようにとの目的をもって、実際に設計されているということです。
 私はこれらの考えには不満です。なぜなら、それは(たとえ〈人間原理〉の主唱者たちが否定したとしても)人間中心的な宇宙観に逆戻りするように思われるからです。
 池田 物理学の領域から生物学の分野に入ってくると、還元主義的アプローチの限界は一段とはっきりするようです。仏教の「縁起観」からいっても、無生物よりも生物、さらに人間の生命になるにつれて、〈自由度〉が拡大されていくと説いております。その最も自由なる存在が、高度の〈心〉〈意志〉をもった人間生命といえるでしょう。
 博士 そのとおりです。この還元主義的アプローチが十九世紀末に、人間研究を含む生物学をも包み込むにいたって、さまざまな難問が生じてきました。それらの難問はいまだに未解決のままになっています。還元主義は、生命の進化を基本的な機械的プロセスとしてとらえることに少しは成功しましたが、説明できない事柄が数多く残りました。
 人間の知性と〈心〉の発生という問題は、その顕著な例でした。自然選択による進化の偉大な主唱者であったイギリスの博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォーレスでさえ、晩年においては、還元主義的方法の妥当性に疑問をいだいていました。
 当然のことながら、ウォーレスは、科学に精神主義と形而上学をふたたび取り入れたとして同輩から厳しく批判されました。レス・コギタンスは、すでに科学の正当な領域からはずされてしまったのだから、いまさら元に戻すことなどできるわけがない、と彼らは言い張ったのです。
 また、神経細胞の物理学的・化学的研究の進歩にもかかわらず、人間の脳に関する現代の議論においても、デカルト的態度は欠点を露呈しました。科学それ自体が私たちの世界認識にもとづいているわけですが、デカルト的世界観は、私たちの主観的経験を研究する余地をまったく与えません。脳のモデルをつくろうという試みはありますが、それは単独の存在としての〈意識〉や〈心〉の存在を認めてはいません。
 このような考え方の矛盾性を正し、意識の本質を探究するためには、新しい全包括的世界観が当然必要となります。ただし、これがどうすれば達成できるかは現在のところはっきりしていません。

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