Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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七 生命の誕生と進化  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  生命の根源的な〈傾向性〉
 博士 地球が初めて安定した大気と地殻をもつようになったのは、約三十八億年前と考えられています。その時期は、月から得た資料によってかなり正確に推定することができます。つまり、それまでは隕石が月面に激突しつづけていたのに、それがちょうどこの時期にぴったりやんでしまったのです。
 池田 地球から月面を見ると、明るい部分と暗い部分がありますが、アポロ宇宙船による月面探査の結果によれば、明るい部分が隕石の衝突でこまかく砕かれた石の部分で、暗い部分が内部からわきだしてきた溶岩の部分といわれます。そして、明るい部分は三十八億年より古く、暗い部分は三十八億年より若いそうですが。
 博士 そのとおりです。地球と月は、隕石の動くスケールからみると、ゼロといってよいほど近距離にある天体ですから、地球も約三十八億年前まで、常にそうした激突を受けていたと思われます。したがって、隕石の激突が終わったときが、地球の歴史のうえで生命が存続できるようになった最初の時期だったのです。
 池田 グリーンランドで見つかった最古の岩石というのもこれくらいの古さですか。
 博士 そうです。これが最古の堆積岩の出現した時期なのです。堆積岩というのは、より原始的な火成岩が水に浸食されてできたものです。注目すべきことは、原始的な生命体、つまりバクテリアとか、もしかしたらイーストとさえ呼べるようなものの化石が、こうした最古の堆積物の中に発見されているということです。
 池田 南アフリカで発見された三十一億年前のフィグトリー頁岩のことですね。
 博士 その後、ゆっくりと、ほとんど気がつかないほどの速度で、いくつもの長大な地質年代にわたって地球上の生命は進化し、だんだん複雑になっていきました。そして、いくすじにも分かれた進化の枝の一つを通ってやっと人間が出現したのです。約八万年前のことです。
 池田 人間が出現した点について、フランスの分子生物学者、生化学者ジャック・モノーは、『偶然と必然』のなかで「人間はついに、宇宙の無感情な無限の広がりの中に一人いることを知った。その広がりの中から人間はただ偶然によって出現したのである」(Jacques*Monod,Chance*and*Necessity,*translated*from*the*French*by*Austryn*Wainhouse*Alfred*A.Knopf,Inc.1971)と述べています。そして「科学的方法の基本的土台は、自然は客観的であるという仮定である。言い換えると、現象を終局原因、すなわち目的によって解釈することで真の知識が得られるということを系統的に否定することである」(同前)と主張しております。
 私は、この「人間はただ偶然によって出現した」という思想は、科学の客観的な立場から人間が生きることの意味を否定する十九世紀の唯物論思想の影響を、色濃く残しているようにも思うのです。
 博士は、人間の生きる意味と客観性とを両立させるような科学は、はたして可能だと思われますか。
 博士 モノーの主張、すなわち自然についての唯一の正当な解釈は〈目的〉を否定することによって得られる、という見解には同意できません。それは知性を否定することになるからです。
 人間は明らかに知性と意識と目的観を賦与されています。したがって、これらの属性は、まさに大宇宙に本来そなわっている同様の属性に由来しているにちがいない、といえるでしょう。
 池田 近年の分子生物学などの進展によって、生命誕生の謎が解明されようとしています。初めに無機物質が存在し、そこに紫外線や放電のエネルギーが作用してアミノ酸や脂肪酸、そしてたんぱく質や核酸が合成されたとされています。しかし、簡単なたんぱく質でさえ、それを構成するアミノ酸が〈無目的〉に結合すると考えると、ほとんど合成不能であることが示唆されております。
 放送大学教授の野田春彦博士は、アミノ酸を手当たり次第使うという方法をとったのでは、「百個のアミノ酸が註文通りにつながったタンパク質分子が偶然できるまでには、宇宙の物質全体をアミノ酸にしても足りないのである」(野田春彦『生命の起源』、日本放送出版協会)と述べ、核酸の場合も、ほぼ同じような計算をしています。そして、「自然界の物質には生命を作りたがるような傾向があると考えざるを得ない」と述べています。
 私も同様に、生命の発生に関して、目的論を完全に除外することには無理を感じます。そして宇宙の中に生命を誕生させる〈傾向性〉が根源的にそなわっているのではないかと考えています。
 博士 さらに、もし宇宙の年齢をほんの百五十億歳ないし百八十億歳に限定するとすれば、組織化された生命体の誕生には、知性をそなえた存在による意識的な介入が必要となることでしょう。つまり、生命体(たとえば酵素)にとって最も重要な分子の配列は、宇宙全体とつながっている知的存在によって「行われ」なければならなかったことになります。
 私自身としては、それはほとんど考えられないことだと思います。むしろ、宇宙の年齢は限りのないものであり、その無窮の時の流れの中で組織化された生命体が自然に発生したという可能性のほうが大きいと思います。私たちがもっと知らなければならないのは、どのようにして意識が進化し、高等生物の脳細胞という化学構造の中に刻印されるようになったのか、ということです。
3  転換点となった『種の起源』
 池田 地球上における生物の進化に関しては、十九世紀にイギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンが発表した『種の起源』が、生物学の世界だけでなく、思想・哲学を初めさまざまな分野に大きな衝撃を与えました。彼の学説の骨格は次のようなものといわれています。
 (一)生物は一般に多産であって、そのなかには変異をともなうものもある、(二)子孫の間で生存競争が起きるが、変異が有利に働く場合もある、(三)それが自然選択され、有利な変異を遂げたものが生き残ってその種の多数派となる。ここに進化のプロセスが起きる、というものです。このような「自然選択説」を骨格として、「進化論」を打ち立てました。
 これらは十九世紀の思想を基盤にしたものであり、現在の私たちの理解からはほど遠い部分もあります。しかし、その後に立場を異にする学説が提案されたとはいえ、〈ネオ・ダーウィニズム〉に代表されるように、突然変異の発見やメンデルの遺伝法則の再発見、さらには分子遺伝学による遺伝子の解析など、ダーウィン進化論を補強するような知見も多く提示されております。
 したがって、ダーウィンの業績の意義、また「進化」という問題を科学研究の対象として確立したという意義は変わらないと思います。
 博士 提起された問題点はとても興味深いものです。一八五九年にチャールズ・ダーウィンの『種の起源』が発刊されたことが、科学ばかりでなく歴史や社会学においても転換点となったということについて、私も同じ意見です。
 ダーウィン説の社会学的意味には、純粋な科学的意味と同様に深いものがあります。ダーウィンの説のもとになったデータや観察は決して新しいものではありませんでした。すでに三十年ほど前に、イギリスの博物学者エドワード・ブライスが、ほぼ同じような一組の事実を用いて、自然選択は種としての固定した形質をおおむね保持するという、現状維持的な役割を果たしているにすぎない、と主張しました。
 池田 博士の言われるとおり、『種の起源』の中にあるデータは、ビーグル号による観察データはともかくとして、一般的なものも多いようです。たとえば、生物が多産である例として魚の卵の数を挙げたり、変異の例として人が飼育しているハトが野生のハトの変異であることなど、卑近なデータが少なくありません。
 たとえ身近で雑多なものであっても、科学者の洞察眼はいかに本質を突くものであるかを物語っています。ましてや、神がすべての生命を創りだしたという考え方が圧倒的に支配していた時代ですから、なおさらその感を深くします。
 博士 いうまでもありませんが、私たちは地質学上の記録から、種が時の経過とともに多様化し進化するという漸進的傾向を示すことを知っております。最も初期の生物は比較的単純――たとえば単細胞構造――であり、最も新しい生物は複雑で高度の機能をもっています。
 ダーウィンの時代には、完全にそろった地質学上の証拠が得られていたわけではありませんが、それでも進化が起きたことだけはおぼろげながらわかりました。長い時間の単位で進化が行なわれるという事実には異議はありませんでしたが、どのような仕組みで進化が起きるのかという問題は完全には解決されていませんでした。
 ダーウィンの説明は「自然選択」――つまりどの種であれ、生まれてくる膨大な数の成員のなかで最も適したもののみが生き残る、ということでした。一つの種の多数の成員のなかに偶発的に生ずる突然変異体は、あいているニッチ(生態的地位)を競って埋めようとするが、この競争で少しでも上手に生き残ることができた突然変異体は、ますます多くの子孫を生んでいく。このようにして一つの種がほかの種とゆっくりと融合し、新しい目や綱の植物や動物がつくられるのであろう、と考えられたのです。このことに関するダーウィンの説明は次のように要約されています。
 「概していえば、どの種においてもタカや寒気などにやられて、毎年ほぼ同数の個体が死んでいくにちがいない。したがって、一つの種のタカの数が減るだけでも、ほかのあらゆる種が直ちにその影響を受けるにちがいない。かくして、さまざまな形の割り込みが行なわれるが、その究極の原因は適切な構造を選びだすことにあるにちがいない。……いうなれば、くさび十万個分の力が、環境に順応したありとあらゆる構造に作用し、それらを自然界の秩序の中の空所に押し込めようとする。いや、弱い構造を追いだして空所をつくっているのである」 C.Darwin,”Notebooks on Transmutation of Species,1837ー39”(Darwin Manuscript Library,Cambridge University)
 この文章の力あふれる修辞は一八五九年に成功を収めました。また今日においても同様です。しかし、偶然に生ずる複製の際の誤りによって、ある最初の生物――たとえばバクテリア――からありとあらゆる動植物が生まれたとする説は、世人の軽信性につけこむものであり、論理的にも無理な拡大解釈です。
 池田 真理をあいまいにすることもよくありませんが、真理を拡大解釈するのもつつしむべきですね。科学によって明らかにされた事実は、人間が知ろうとしている事実の一つの側面であり、おのずから限界をもっているものです。この限界性を忘れて、不用意に理論を飛躍させることには、きわめて慎重でなければならないでしょう。
 有名なエピソードですが、『種の起源』が発刊されて半年後に行われた公開討論会で、進化論反対論者のサミュエル・ウィルバーフォース主教が、賛成論者のトマス・ハックスリーに対して「一つだけお聞きしたい。先生はサルが自分の祖先だとおっしゃる。では、そのサルの祖先はあなたの祖父方にあたるのですか、それとも祖母方ですか」と質問しました。ハックスリーは少しも動ずることなく「私の祖父がサルだからといって、それは恥ずかしいことではありません。恥ずかしいのは、その偉大な人間の才能を使って真理をあいまいにしている男と私が、共通の祖先をもっているということです」と述べたそうです。
4  進化に必要な地球外からの情報
 博士 困難が生ずるのは、新しい情報、たとえば一個の人間をつくりあげるのに必要な情報を、バクテリアに存在する情報から生みだそうとするときです。それがバクテリアよりもっと人間に近い祖先であっても同じことです。原始バクテリアを何十億、何百億複製しても、必要な情報を得ることはまったく不可能です。
 ここで一個のバクテリアをつくりだすのに必要な情報が書物の一ページ、たとえば、シェークスピアの作品の一ページに書かれた文字に含まれている情報と同じものだと想像してみてください。そして、筆写をする人がこのページを何十億回、何百億回と書き写していることを想像してみてください。標準的なダーウィンの生物学理論は、このわずか一ページを繰り返し書写する際に生じる誤りを全部集めれば、最終的にはシェークスピアの全戯曲だけでなく、世界中の図書館にあるあらゆる本をつくることができるというのに似ております。これはたしかに論理的にも、また常識からいってもひどいこじつけです。
 新しい種をつくりだすことができるというダーウィン理論の主張は、厳密な計算によって正当化されたことはありません。また化石の記録の中で、間違いなく種と種の橋渡しとなった生物の存在を示す地質学上の証拠も現れたことはありません。
 地質学上の証拠がないという点についてのダーウィンの弁明は、彼の時代においては化石の記録は不完全であるが、ゆくゆくは彼が必要とする証拠が発掘されるであろうということでした。しかし、百三十年後の今日においても状況はなんら変わっておりません。
 池田 おっしゃるとおり、数々の論争を生んできた所以です。そこで、化石などの観察から進化の中間型や移行型が発見されていないことから、進化は短期間の急激な変化によって起きるが、その後、長期間にわたって生物には変化の起きない状態がつづくという「断続平衡説」が唱えられています。つまり、進化は必ずしも連続して生じてきたとは限らないというのです。この点についてはどうですか。
 博士 「断続(または中断)平衡説」にも大きな問題が一つあります。それは、この説が厳密な意味の学説とはいえないということです。化石の記録から得られた実際の証拠を、ただ言葉を並べて描写しているだけで、現象そのものに関する説明はまったくないからです。
 十九世紀にダーウィンの支持者たちは、生物の進化を本質的に否定する聖書の創造説に対して断固反対しました。この動きの背景にある社会学的な理由は、教会の権力と影響力の増大、そしてそれが必然的に引き起こした人々の怒りにあったと思われます。また、十九世紀中葉に勢いを増していた産業革命の影響もありました。
 人間は全能になりました。自然から力をもぎとり、蒸気機関車をつくり、世界を征服することさえできるようになりました。したがって、この機械論的・還元主義的な態度をさらに広げ、それによって生命に関するあらゆる現象の説明を求めようとすることは当然のなりゆきでした。しかし、そのような試みはまったくの失敗に終わりました。
 進化の事実は間違いなく正しいし否定できませんが、ダーウィンとその門下が示した進化のメカニズムは、新しい種の誕生と意識および知性の起源を説明するには不十分なものでした。私の見解では、進化に必要であったのは、この地球の外から創造にかかわる情報が入ってくることです。
 池田 ダーウィンの進化論は、西欧文化に多くの影響を与えております。たとえば、社会ダーウィニズムが「適者生存」とか「生存競争」といった概念を導入して、ハーバート・スペンサーによって提唱されております。
 博士 おっしゃるとおりです。社会ダーウィニズムは、科学ダーウィニズムのすぐ後を追って現れました。ヒトラーのドイツ民族がほかの民族より優れているとの弁明は、ある点ではダーウィン説的イデオロギーから派生したものとみることができます。同様に、強国による弱国の植民地支配は、時にはダーウィン説の思想によって弁護されました。一つの科学上の理論が想像もできない方向に拡大されたのです。
 「生物進化」の思想はさらに、最初のバクテリアが発生する前に起きた「化学進化」を示唆し、単純な化学物質から生命が発生したという説にまで発展しました。アミノ酸などの生命の構成材料はこのようにしてできるでしょうが、生命が発生することなどほとんど不可能であると私は思います。
 池田 進化論の考え方の影響は、宇宙を対象とする天文学の分野にもさまざまな形で表れています。たとえば、宇宙は進化するという思想にのっとったビッグバン説が提起されたり、今、博士が言われたように、〈物質進化〉〈化学進化〉〈生物進化〉などということばが使われていることにも表れていると思います。
 つまり、ビッグバン理論をもとに〈宇宙進化〉について考えますと、宇宙誕生後の〈物質進化〉は、第一段階には素粒子、水素・ヘリウム原子の生成から恒星内の核融合反応、超新星爆発による重元素合成に至る元素の進化が位置します。次いで、こうしてできた元素が結合して高分子化合物をつくりだす〈化学進化〉の第二段階があります。そして、この結果誕生した原始生命の発展という第三段階の〈生物進化〉が位置づけられることになります。
 博士 〈進化の思想〉が天文学や宇宙論にまで広がるとおっしゃったことは興味深いことです。生命の起源が地球上の単純な始まり、つまり一個のバクテリアにまでさかのぼれたように、全宇宙が一個の〈超原子〉に始まったとする思想もそれと同様であるように見えるかもしれません。
 〈創造〉が、生命については生物学者に否定されたとはいえ、その後まもなく宇宙論においてビッグバン宇宙創造説として復活しているのは皮肉なことです。
5  〈生命的存在〉の大宇宙
 池田 博士のように、ビッグバン宇宙進化論のシナリオを信じない立場の学者もいます。その場合、星間塵の上に乗っている〈生命の種子〉は、いつ、どこで、どのような環境のもとで形成されていったとお考えですか。
 博士 ビッグバン宇宙論では、有機的構造をもった生命が純粋に機械的なプロセスから生まれるには時間が十分でない、と私は考えます。〈生命の種子〉は炭素や窒素・酸素・燐などの元素を必要としますが、これらが生ずるのは、銀河が形成されて恒星が進化し、超新星が爆発した後です。
 生命に適した状態が現れるのは、標準的なビッグバン宇宙論では、百二十億年以前よりさらにずっと前だったということはありえません。私が賛成したい定常宇宙論では、〈生命の種子〉と諸属性は宇宙の不変の構造の一部となっています。
 池田 テキサス大学のスティーブン・ワインバーグは、『宇宙創成はじめの三分間』(小尾信彌訳、ダイヤモンド社)の中で、現在の宇宙の進化論を説得力をもって論じ、その結果として「宇宙は無意味である」と言っております。
 仏教では「宇宙即我」と説いておりますが、この法理は、人間の生命と大宇宙とは本来的に密接不可分なつながりがあることを教えています。大宇宙そのものが〈生命的存在〉であり、それゆえに、宇宙には生命へと向かう傾向性が根源的に内在していると考えます。このような視座から、大宇宙の生々流転と人間生命の存在との間に深い意味を見いだすのです。
 もとより、ワインバーグの表明は冷静な科学の眼をとおしてのものであり、哲学のそれとは異なるでしょう。しかし、現実に生きている人間生命にとって、宇宙の存在はまったくなんの意味もないものでしょうか。
 博士 先生が説明された生命的宇宙にあたるものは、定常宇宙論の観点と驚くほど合致するのです。
 生命こそ宇宙本来の目的であると考えられましょう。つまり、宇宙全体が生命と意識の維持に向けられているということです。朝永振一郎博士の業績を世界に紹介したプリンストン大学のF・ダイソン博士も、その自伝でこの点について同様の深い考察を加えていますが、いかなる世界の分析においても、もし宇宙的生命に関する考察という側面が省略されるならば、ワインバーグと同じジレンマにおちいることになるでしょう。すなわち宇宙はまったく意味がないように見えることでしょう。

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