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日蓮大聖人・池田大作

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四 仏教の宇宙論  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  科学思想とも調和
 博士 私が思いますのに、現代科学の宇宙論の方向性は、仏教の宇宙観にきわめて接近しています。私は、この接近に強くひかれます。この興味深い事実を認識することは、私たちの生きている時代を正しく理解することに通じます。現代は間違いなく、まったく新しい世界観を求めています。私が池田先生にお会いし、語っていただきたいと思う重要な理由がそこにあります。
 池田 わかりました。それでは、仏教の開示する宇宙論について、まず語り合いましょう。宇宙根源の永遠なる生命を探求し、開示しゆく仏教では、原始仏教以来、壮大なる世界観・宇宙論が説かれております。
 たとえば北伝仏教では、古代インドの宇宙観がまず部派仏教に取り入れられ、仏教の宇宙論として体系化されています。世親の『倶舎論』には、「世界の中心に須弥山があり、その周囲に九山八海が位置し、最も外側の鉄囲山が一世界を囲んでいる」と述べられています。この中に人間の住む南閻浮提があり、天空には一つの太陽、一つの月、星があるというイメージです。そうすると一世界は、いわば一つの太陽系であると考えることもできましょう。この一世界が千個集まって小千世界になります。小千とは一千のことです。したがって、太陽系のように生命をそなえた惑星をもつ世界が千個あると考えれば、小千世界とは銀河系のごときものに相当すると考えられましょう。
 さらに、これが千個集まって中千世界を構成する。中千とは二千と表現されていますが、これは千の二乗、つまり百万個の世界を意味します。さらに、その中千世界が千個集まって三千大千世界になるという考え方です。大千とは三千のことですが、これも千の三乗ですから、十億個の世界となります。この三千大千世界が、生成・消滅を繰り返しつつ流転していくというイメージです。
 大乗仏教になると、この三千大千世界を基盤としながら、さらに広大な宇宙観が描かれていきます。たとえば『梵網経』では、中央に毘盧遮那仏という仏がおり、それを取りまく千葉(=千の花びら)の蓮華の上に、千の釈迦仏がおります。その蓮華の一つ一つの花弁に百億の須弥山世界があります。そして、この一つの世界にも、それぞれ釈迦仏がいます。そうしますと、この一葉の蓮華の中だけでも三千大千世界、つまり十億個の世界の十倍になります。
 博士 仏教の宇宙観は、人類の思想史上、たいへん早い時代に現れたという意味で目を見張るものがあります。紀元前三世紀に生きたサモスのアリスタルコスは顕著な例外ですが、十六世紀に入ってもしばらくつづいていたヨーロッパの支配的な見解は、地球が物理的宇宙の中心であるということでした。
 池田 宇宙論には地動説と天動説があるわけですが、アリスタルコスは、地動説の考え方で宇宙を説明した最初の人とされています。ただ時代が早すぎたため当時の人々に受け入れられず、ストア学派から不信心の非難を浴び、彼の学説はすたれていってしまいました。
 博士 そうです。アリスタルコスは当然のことながら、偉大な天才でした。彼は、恒星がはるかかなたにあること、太陽が地球よりずっと大きいこと、そして地球が太陽のまわりを回っていることを推定していました。私たちが立っている惑星が宇宙の中心にあるにちがいないという主張は幼稚で、発想も貧弱な考え方です。
 原始時代の私たちの祖先は、恒星の間をぬって惑星が動き、四季折々に恒星が昇ったり沈んだりするさまを見て、天の光景全体が人間に合うように意図されている、と考えるのが自然に思われたことでしょう。西暦一、二世紀からヨーロッパに勢力を張ったキリスト教は、次の見方が存続することを奨励しました。
 「神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ……」(「創世記」、『旧約聖書』。訳は日本聖書協会のものによる)
 地球と人間は、はっきりと舞台の主役になっています。この天動説の立場は、最初から天文学の進歩には障害だったのです。さまざまな事実から、地球が宇宙の中央の位置を占めていないことが明らかになったとき、この宗教的見解を放逐するために起きた社会科学的闘争は、苦痛に満ちた残酷なものでした。
 これとは対照的に、仏教の宇宙観は、最も現代的な科学思想ともみごとに調和します。
2  〈外なる宇宙〉と〈内なる宇宙〉
 池田 仏教の洞察の眼は、〈外なる宇宙〉と〈内なる宇宙〉を見つめています。生命の内面の探求において、釈尊の仏教全体を見ると、修行の基盤には禅定・瞑想がすえられています。そして、そのほかのさまざまな修行法――たとえば、種々の戒律を順守する持戒とか、他者への慈愛の行為である布施行など――を組み合わせながら、自身の、一個の人間生命の内面へと深化していく。すなわち、〈内在的〉なものへの洞察であります。
 内在するものへの探求は、個の次元を超えてトランスパーソナル(超個)な領域へと入っていきます。すなわち家族・友人等の生命と融合し、民族・国家の次元、さらには人類の次元にまで深まり拡大していきます。次いで生物と共通する次元へ、そして地球という惑星、恒星の生死流転の次元をも突破して、宇宙それ自体と一体となるところまで進んでいきます。釈尊は、宇宙それ自体を生みだしていくような〈根源の生命〉を、自身の内奥に覚知したのです。
 換言すれば、自身の生命の内側に〈内なるコスモス〉を洞察し、しかも、その源泉となる宇宙生命それ自体に到達した。ところが、その根源的なるものは、そのまま〈外なる宇宙〉と一体であった。ゆえに今度は、〈根源の生命〉の側から出発して、外界・現象界へと視野を向けると、〈外なる宇宙〉における物質進化・化学進化・生物進化から人間意識の進化へと飛翔し、個別化する現象界のすべてに及ぶことがわかったのです。
 つまり、〈内在〉の究極において即〈超越〉を意味していた。仏教においては、〈内在〉といっても、それはたんなる〈生命の中のもの〉ではなく、〈内なるコスモス〉は、そのまま現象界を形成しゆく〈外なるコスモス〉と相即の関係にあるものだという意味で、〈内在即超越〉とか〈超越即内在〉という言い方をするのです。
 博士 それは、大事な視点だと思うのです。もっと仏教の英知に目を向けるべきだと思います。
 ところで、私たちは当然のことながら、地球が太陽のまわりの軌道を回る九つの惑星の一つであることを知っています。太陽は光速で十一時間ほどの広がりをもつ太陽系の中心にあります。私たちは、太陽が十万光年の直径をもつ銀河にある数千億という恒星の中の一つのまったく普通の恒星であることを知っています。私たちは、この銀河系が広大な観測可能の宇宙に存在する数千億もの銀河の一つであることも知っています。
 これらの概念は、今話された仏教の宇宙観の基本ときわめて類似しているのです。もちろん、特定の体系の中に何千、あるいは何百万の物体があるのかという細かい数字の話になれば、現代の考えとは矛盾します。しかし私は、そのような細かいことは文句を言うほどのことではないと思います。なぜなら、古代の言語で使われる言葉は、その意味に大幅な不確実性があるかもしれないからです。
 たとえば、「劫」が意味するのは千か、百万か、十億かということは、現代においては明確に解決することはできません。
 池田 そのとおりです。単位の大きさについてはさまざまな説があり、一劫とはどれくらいの長さなのか、仏典では種々の譬喩をもって示されています。
 たとえば、『大智度論』には、長寿の人がいて、四千里四方の石山を、百年ごとに柔らかい衣でふいて、石山が磨耗しつくしても一劫はまだ終わらないとか、同じく四千里四方の大城を芥子で満たし、百年に一度、一粒をとるとして、すべての芥子をとりつくしても劫は終わらない、などと説かれています。博士がご指摘になったように、大幅な不確定性がはらまれており、それよりも基本的な考え方に注目すべきであると思います。
 『倶舎論』などでは、劫が八十集まって〈大劫〉と呼んでおります。この大劫に対して、普通の劫を〈小劫〉または〈中劫〉と呼びます。この中劫が、二十ずつ(二十中劫)で変化していきます。これが「成住壊空」の法理です。つまり、この宇宙が「成」(二十中劫)、「住」(二十中劫)、「壊」(二十中劫)、「空」(二十中劫)の四つの段階に変化し、何度も何度も生成・消滅を繰り返していくという壮大な宇宙観を説いています。なお、「成住壊空」(四劫)の一サイクルを一大劫とします。
 このように仏教では、空間・時間の両面にわたる宇宙観を構成していますが、時間論の展開も、現代天文学によって築かれた宇宙像ときわめて類似しているように思います。
3  太陽系の「成住壊空」
 博士 私は、仏教の宇宙進化論の「四劫」つまり「成住壊空」を、星のライフサイクルを表しているものと考えたいのです。
 太陽を例にとって説明しましょう。太陽のような恒星は、質量として七四パーセントの水素、二四パーセントのヘリウム、約一・五パーセントの炭素・窒素と酸素、そのほか残りの〇・五パーセントほどは、マグネシウム・シリコン・鉄のような重い元素を含む星間雲の断片として、その生涯のスタートを切ったのです。
 池田 これは、成住壊空の考え方でいえば、「空」から「成」への間にあたる時期と言ってよいでしょうか。
 博士 そう言えると思います。水素とヘリウムはガス状ですが、それ以外は大部分が固形の塵粒子――ホイル博士と私が過去十年間に展開した理論によれば、生命粒子つまりバクテリア――として存在しています。
 この星間雲の断片は重力のため収縮し、重力のエネルギーが熱のエネルギーに変わります。最初は熱エネルギーは光となって外へ出ていき、熱はたまりませんが、収縮が進むと密度が上がって不透明になり、光が逃げだせなくなり、熱くなります。収縮はつづき、中心部の温度は千万度で核反応が始まるところまで上昇します。これらの核反応は、主に水素をヘリウムに変換するので、太陽やほかの大部分の恒星は、その生涯の長きにわたって輝きつづけるのです。
 太陽の場合、ガス状の雲から生成する最初の段階は比較的短く、約二千万年ほどです。この段階で惑星や彗星が形成されますが、これらが後に生物の誕生と進化に結びついていくのです。
 池田 生成・建設期の「成」の時代を経て、次に安定期つまり「住」の時代へと移っていくのがこの段階ですね。
 博士 そうです。太陽の安定期は約百億年つづくと推定されています。現在は、この安定期のほぼ半ばです。
 池田 そうしますと、地球の寿命もあと五十億年あることになりますが。
 博士 そのとおりです。
 池田 世界中の人々が安心することでしょう。(笑い)
 博士 ところで、原始生物はほぼ四十億年、地球上に存在していますが、知的生物の誕生はごく最近のことで、百万年もたっていません。
 あと五十億年ほどたつと、太陽の歴史における安定期は終わるでしょう。そのころになると、ヘリウムのコア(核)が中心部に形成されます。すると太陽と、その外層の部分が急速に膨張し、赤色巨星になります。
 池田 これは「住」から「壊」に向かう段階ですが、太陽が赤色巨星になると、地球軌道の大きさぐらいまで大きくなるとされていますが。
 博士 このときまでには、地球上の生物は、ほぼ確実に絶滅してしまっていることでしょう。ただ外惑星の衛星では、生命がもう少し長く存続することも十分にありえます。
 赤色巨星となった太陽は核反応を連続的に起こし、炭素・窒素・酸素と、水素やヘリウムより重い元素を生みだしますが、爆発によって、各種の元素は最終的に、星間空間に放りだされることでしょう。太陽の場合、終局の状態は白色矮星ですが、それより若干大きい星の場合は、最終結果として超新星になります。
 池田 「壊」「空」という終局の状態まで話が進みましたが、知的生命の出現が考えられるのは「住」の時代ですね。
 博士 そのとおりです。
 〈太陽系〉の進化における最も重要な発展段階は、生命の誕生と意識および知性の発達にちがいありません。ホイル博士と私は、あらゆる生命情報は太陽系の外から宇宙塵によって運ばれてきた、と主張してきました。
 この見方によれば、全生物の情報は、一つひとつの太陽系が進化するにつれてその中に導入された宇宙の属性にちがいないのです。私たちの考えでは、そうした宇宙の〈遺伝子〉から発達した私たちのような生物は、知性を得たことにより、人類の誕生と進化に関する真実を覚知する生得の能力をもっているのです。
4  生命の根源への洞察
 池田 これまで星のライフサイクルについて、「成住壊空」の法理が成り立つことを見てきました。銀河系や銀河団の次元においても、この「成住壊空」の原理はあてはまると考えられますか。
 博士 もちろん、この概念をもっと大きなスケールで応用することもできるでしょう。銀河の寿命にも「四劫」と似かよった時間的区分があると思われます。同じことが銀河団や超銀河団についても言えるでしょう。
 池田 銀河系宇宙の流転は、小千世界の成住壊空に相当し、銀河団や超銀河団の次元は、三千大千世界での「四劫」としてイメージされると思われます。ところが、先ほど述べましたように、大乗仏教になりますと、部派仏教における三千大千世界説や四劫説を取り入れながらも、さらに広大無辺な宇宙観が展開されていきます。
 とくに『法華経』の「如来寿量品」においては、〈五百塵点劫の譬〉で釈尊が〈久遠の仏〉(永遠なる仏)であることを示しておりますが、その譬喩のなかに、無始無終の宇宙観が開示されるに至るのです。
 この〈譬喩〉は、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を粉々にすりつぶして微塵とし、東方の五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて一塵を落とし、こうして同じようにすべての微塵を落とし終えたあと、今度は塵を落とした国土も、落とさなかった国土も合せて微塵として、その一塵を一劫とするというのです。ここに、五百千万億那由佗阿僧祇という数字が挙げられておりますが、その意味は、五×百×千×万×億×那由佗×阿僧祇ということです。
 ここでいう那由佗は千億を指し、阿僧祇は無数の意味ですが、これは、決して「無限の数」という意味ではありません。つまり、-10の数字をいいます。そうしますと、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界の宇宙というだけでも、現代の天文学的数字をもはるかに超える規模であるといわなければなりません。
 仏教ではなにゆえ、このような壮大なる宇宙論を展開しえたかといえば、前述のように、仏教の洞察の眼がまず生命内奥に向けられ、そこに展開される〈内なるコスモス〉(小宇宙)の解明を通じて、宇宙生命の根源にまで至りえたからだと思われます。
 この宇宙根源の大生命は、〈外なるコスモス〉として展開する現象宇宙(大宇宙)への源泉でもあり、母体ですから、それを基盤にすることによって、仏教は〈外なるコスモス〉の様相をもイメージしえたのだと思われます。
 博士 生命の〈小宇宙〉と、外的世界としての〈大宇宙〉との関係が存在するのは、前者が後者から出たこと――一方が他方を含んでいるという単純な理由によるものです。ですから、深い内省や瞑想によって、外的宇宙に関する真理が開示されることがときどきあったとしても、私は驚くべきこととは思いません。
 仏教に説かれるさまざまな宇宙論は、まさに今述べられたような経緯により発見されたにちがいありません。私たちの心には、私たちの内なる生命の〈小宇宙〉と外なる〈大宇宙〉の橋渡しをする能力があるにちがいありません。

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