Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

一 詩と科学と  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

前後
1  少年時代の感動
 池田 私たちの対談は、宇宙というロマンあふれる舞台がテーマです。天文学の専門家であられる博士と、こうして楽しく有意義に語り合えることをうれしく思います。
 博士 この対談は、東と西の文化・哲学・科学の対話ということで、タイムリーな意味をもつと思います。
 私は池田先生との対談を大きな名誉と思っております。
 池田 私こそ、恐縮です。
 まずはじめに、私は〈人間学〉の一専門家として、〈人間〉がいかに形成されるかに深い関心をいだいています。博士が天文学への志をもたれたのは少年時代とうかがっていますが、どのような動機からだったのでしょうか。
 博士の母国スリランカは、熱帯性で雨期・乾期がはっきりとした気候帯にあります。きっと子どものころに見上げたきらびやかな星空が、博士を天文の道へとうながしたのではないでしょうか。
 博士 私は、もの思いにふけりがちな子供でした。孤独を大いに楽しみ、友人たちとつき合うよりも自分自身の思索とつき合うのが好きでした。
 おっしゃるとおり、スリランカの自然はすばらしいものがあります。自宅付近のヤシの木の並木がつづく海岸を毎日、夕方の決まった時刻によく独りで散歩して遊びました。巨大な太陽が、黄、オレンジ、赤と変わりゆく自身の色合いに大空を染めながら、水平線のかなたに沈んでいくのを眺めたものでした。
 スリランカは赤道の近くに位置していますので、たそがれどきがほんの束の間しかつづきません。したがって日没の壮大な光景も、電灯がスイッチを切られたときのように、突然、急ぎ足で消えていくのです。
 池田 三十年ほど前(一九六一年)、初めて私は貴国スリランカを訪問しました。そのときに見た、荘厳な夕日は忘れることができません。明から暗へ大宇宙のリズムが変転する一瞬、自然の情景は神秘の音色を奏でているようでした。
 博士 美しい表現ですね。日没につづく光景は、雲一つなく、月明かりもない夜空の場合は、いっそう印象的なものです。気がつくと、堂々たる天の川が、光でできた花輪さながらに、優雅なアーチとなって天空に横たわっているのです。
 このときの体験を十四歳のころ、短い詩に書きとどめたことを今でも覚えています。
  見上げたる
  星満てる空
  今宵なる
  愛といのちの
  いかに多きや
2  池田 この短い詩の中に、今日の博士の姿がすでに映っているような気がします。美しい詩は美しい心に生まれる。豊かな自然は人の心を磨き、豊かな詩心を触発するものですね。
 十四、五歳のころといえば、最も多感な、〈人生の原形〉ができあがる時期と言えるでしょう。純粋なもの、美しいものに感動し、真実を探求し、自分自身を発見する年ごろです。
 いま東京では、〈光害〉のため明るい星さえあまりよく見えませんが、私も少年時代、夏の夜など、宝石をちりばめたような満天の星を銀漢(天の川)の帯が横切り、古の人々の願いを託した星座の物語に、深遠な宇宙へ心の翼を広げたものです。
 博士 この詩の中に、十四歳のときに感じた私の気持ちが忠実に表現されています。故郷スリランカの星をちりばめた空は、私の心の中に深くいつまでも残る印象となって刻印されたのです。当時は、スリランカもまだ、都市の照明は星空の眺めをさまたげませんでしたから。
 池田 実は私の末の息子も、中学一年のころ、天体観測に熱中していました。土星の環の美しさ、不思議さにすっかり魅せられてしまったのです。妻と相談して望遠鏡を買ってあげました。それからは、天文学関係の本を何十冊もそろえて勉強し、寒い冬の真夜中でもオリオン座の大星雲やすばるをあきずに眺めていました。広々とした宇宙の中に、夢がぐんぐんと広がっていくのだと思います。
 博士は、いつごろから詩に興味をもつようになられたのですか。
 博士 それはまだ幼かったころですが、やがて病みつきになりました。優れた詩は、ちょうど美しい日没のように、私を感動させてやむことがありません。私は数多くの英詩を読みました。そして十歳のころ、自分も詩作に筆を染めてみたい、周囲の世界に関する自分の気持ちを詩によって表現してみたい、と思い立ちました。
 池田 私も青年時代から詩が好きでした。詩とは〈人間〉と〈社会〉と〈宇宙〉を結ぶ心ではないでしょうか。
 一九八八年に開催された第十回世界詩人会議には、依頼があり「『詩――人類の展望』詩心の復権への一考察」と題する論文を寄稿しました。
 大宇宙の目に見えない法則、社会という変化してやまない現実世界を貫く法、そして人間の心の法――それらが融合し、律動し合いながら、悠久なる時空の中で展開される生命の壮大なドラマ。詩心は、その宇宙生命の脈動に満ちた世界の扉を開き、創造の根源の力に迫るものです。
 また詩歌にかぎらず、絵画・音楽等の優れた芸術作品にふれたときの、胸中のうちふるえるような感動、生命の充足感は、宇宙の精妙なるリズムにうながされて天空へと飛翔しゆくがごとき、自己拡大のたしかなる実感といえましょう。
 ところで、この短い詩は、俳句に似ていますね。博士は俳句もなさるとうかがっていますが。
3  俳句への関心
 博士 ええ、私にはじめて俳句の手ほどきをしてくれたのは、たしかセイロン大学で私が師事したダグラス・アマラセカラだったと思います。彼は非凡な数学者でしたが、同時に優れた文化人でもありました。れっきとした芸術家であり、画家だったのです。
 生まれて初めて芭蕉の俳句(もちろん翻訳されたもの)を読んだとき、私はこれこそ自分に適した文学様式であると感じました。この様式は表現の正確さという点で、ほかに類例のないものでした。その正確さが私の気質にぴったり合ったのです。しかも、この俳句に使われる単語の数はきわめてわずかでしたが、そこに呼びだされる心象は宇宙の果てにまで達していたのです。
   満月の夜
   ひすいの仏が
   灯明のほのかな光に
   見え隠れしながら
   微笑んだ 安らかに
    (一九五九年)
 俳句は〈宇宙的〉といってもよいような属性をもっており、その点で、おそらくこれに匹敵する表現形式はほかにないでしょう。一つの俳句を詠みますと、ほんの数秒のうちに宇宙のなんらかの側面を深く、そして強く経験することができます。
 池田 俳句は、極小の十七文字(音節)の中に、極大の天地をも収めようとする芸術です。博士の俳句への関心は、大変に興味深く感じます。二冊の俳句集も出版されているそうですが。
 博士 そうです。一九五八年と一九六一年に出版しました。実をいうと、専門である科学の分野では、当時まだ一冊も出版していなかったのです(笑い)。六一年の俳句集は、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジから評価され、同校のパウエル英詩賞を受賞しました。
 池田 それは、すばらしいことです。
 博士 ここで申し上げたいことは、俳句風の詩が現代英詩全体におよぼした影響は皆無に等しいということです。アメリカにエズラ・パウンドという詩人がおりましたが、名のある現代西欧詩人のうちで、俳句様式(「イマジズム」という名称で知られるようになった)を英詩の正当的な形式として取り入れようと試みたのは、おそらくこのパウンドただ一人でしょう。
 「イマジズム」の影響がなぜもっと広範囲におよばなかったのか――私にはこの点がいささか意外に思われます。それは多分、文化的にみて本来不適当な組み合わせであったからでしょう。二十世紀の西欧物質主義と俳句哲学とでは、根っから相いれない矛盾するものだったのです。
 池田 天文学者である博士が、大宇宙の神秘を表現するのに、日本の伝統的な詩の一つのジャンルである俳句の形態を用いられたのは、興味深いことです。
 わが国で初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士も、かつて「私は一体何を求めているのか。一言で要約するならば、〈詩の世界〉というのが適切であろう」(「唐詩選」、『湯川秀樹著作集』6、岩波書店)という意味のことを語っていたのを思いだします。
 仏教においても、経典の形成過程はまず詩(韻文)によってなされ、散文的な部分は後に加えられたのではないか、ともいわれております。もちろん、詩のほうが人々の記憶に残りやすいという実利的な要請もあったと思いますが、それ以上に、釈尊の悟りの境地という生命奥底の無形の内実を表現するには、散文による概念的な説明よりも、一挙に本質の洞察に導くような詩の表現が適していたからではないでしょうか。
 博士 なるほど、よくわかります。
 池田 大乗仏教の中心経典であり、釈尊の悟りを表出している『法華経』では、無限にして永劫に流転する大宇宙の様相を描きあげるとともに、一方では、一瞬の生命に内包される絶妙な働きを説いております。そして、極大の大宇宙と極小の「一念」の生命の働きを貫く〈法〉を「一念三千」として説き明かすのですが、その表現方法はきわめて文学的な、なかんずく詩的な要素に満ちあふれております。
 俳句も詩の一種ですが、そうした詩の世界は、崇高なる宗教的な悟りの境地、精緻な哲学の直感に通底するものがあるようです。
4  宇宙と生命の探究
 博士 おっしゃるとおり、私も今では、詩こそ人間が考えだした芸術形式のなかで最も崇高なものである、と確信するようになりました。詩の中で詩人は、どこまでもどこまでも手を伸ばし、自分と外的世界との連携を確立しようとします。詩人と宇宙とが、ある意味で一体になるのです。
 専門である科学の研究をとおして、私がいつも感じていることがあります。それは、詩や詩的な経験は、いつでも、どこでも、私たちにインスピレーションを与えてくれる源泉であるということです。
 こうした体験がどのような性質のものなのか、また、科学と詩の間にはどのような関係があるのか、私も十分にはわかっておりません。しかし、それが存在することは疑問の余地がありません。
 ある意味では、詩人と科学者はまったく同じことをやっていると考えることもできます。どちらも究極の目的が、宇宙と生命の探求にあるからです。科学の研究は、理性が導き出す分析的な推論を用いて遂行されます。これに対して詩作は、もっぱら直感という意識下の段階で行われます。
 これまでの科学の進歩発展のなかで、重要なものはすべてこの二つの要素――すなわち分析的な方法と、科学者たちが自ら〈直感〉と称してきた属性――が一つにまとまってもたらしたものです。このことは私には不思議でもなんでもありません。科学に詩的な部分があるとすれば、この直感こそまさにそれなのです。
 池田先生は、今も多忙でいらっしゃるのに詩や俳句を詠み、小説まで書かれていますね。先生が青年時代に作られた詩を読み、深く感銘しました。
 池田 恐縮です。日本が戦争に敗れてそれまでの価値観が崩れさった時代、私はまだ十代でした。私はむさぼるようにして本を読みました。そして、心の底からわき上がってくるさまざまな思いを詩や歌に託しました。その習慣は今もつづいています。たとえば、以前に「宇宙」と題して次のような詩を詠んだことがあります。
  天空は限りなく
  大地は虚空に浮遊しながら
  思考も創造もなく実在する
  宇宙――
  
  その遠い昔
  天座の美しい詩的の光耀に
  人びとは幻想の曲を聞いた
  
  牽牛はあゆみ
  織女は相寄る銀漢の恋
  
  秋 中天に白鳥の翼の飛翔
  はるか航海の船に祈る北極星
  友と語り友と踊りし
  竪琴の音奏でる南十字星
  神秘の姫が昇りゆく赫夜の月
  ………………………………(『詩集「青年の譜」』読売新聞社、本全集第39巻に収録)
5  仏教では「宇宙即我」の法理を説き、本来、宇宙と人間とは一体であるとし、心の広大さを明らかにしています。空間的には十方の広がりが、時間的には過去・現在・未来と三世にわたる悠久の流れが、一瞬の心の中に収まっています。
 博士 美しく、しかも意味の深い詩ですね。その中に託されたお気持ちがよくわかります。人間がいなければ、宇宙もむなしいものにすぎません。
 池田 私は、〈宇宙〉の詩に限らず、人や自然とのさまざまな出会いを詩につづってきました。人の心、生命とは、まことに不可思議なものです。固定しようと思っても固定できません。矛盾した存在であり、かつ調和があり、ダイナミックであり、生き生きとしたものです。どの生命も絶妙なリズムを奏でています。ですから、生命そのものが詩的な存在といえるのではないでしょうか。
 仏典の『華厳経』には「心は工なる画師の如く」とあります。私たちの心が、もともと優れた画家のように、あらゆる事象を表現する働きをもっているというのです。
 詩人とは、この宇宙・社会・人間の三者を貫く大いなる〈法則〉と〈生命〉の探求者であり、一見ばらばらに見えるものを結びつけていく人、表現者であると私は信じます。そして詩人とは、事実の奥に隠された真実を鋭く見抜く人です。その意味で、私は博士が詩を愛し、詩の力を深い次元で認識されていることを高く評価したいのです。
 ですから、博士が「詩の中で詩人は、どこまでもどこまでも手を伸ばし、自分と外的世界との連携を確立しようとします。詩人と宇宙とが、ある意味で一体になるのです」「詩人と科学者はまったく同じことをやっていると考えることもできます。どちらも究極の目的が、宇宙と生命の探求にあるからです」と言われたことは、まさに「我が意を得たり」の思いです。
 博士 詩人と科学者では、つかんだ真理の表現の仕方が違うだけなのです。異なる言葉で話しますが、今言われましたように、事実の奥に秘められた真実をつかんでいこうとする目的は共通しています。
 池田 詩人と科学者はともに宇宙と生命の探求を究極の目的にしており、ただ直感によるか、理性を駆使しての分析的方法によるかの違いである、とのご発言は、重要な示唆を含んでいます。
 現代の人々は往々にして、詩と科学を対極にあるものとみています。また、近代における両者の歩みがそうした傾向を助長してきた側面があることも事実です。しかし、本来、偉大な科学には大いなる詩があります。偉大なる詩には、人間理性の最高の英知が輝いているものです。両者は相互に相手を豊かにしうる関係にあります。
 一人の人間においても、詩的側面と科学的側面を分離することはできません。分離できたとしたら、おそらく貧弱な人間になってしまうことでしょう。
 博士 まったくおっしゃるとおりです。これはお世辞ではなく、私は池田先生の中に、詩と科学が豊かに交響している〈新しい人間〉〈新しい探求者〉を見る思いがするのです。そうした人々は現代の世界では嘆かわしいほど少なくなりました。
 池田 いえ、それは過大評価です。そこでこれは個人的な質問になりますが、詩人でもある博士が、科学のなかでもとくに天文学を志すことになったのは、家庭環境からの影響も大きかったのではないでしょうか。
6  人生の方向決める十代
 博士 先ほど話しましたように、私は幼いころから夜空の美しさに心を奪われておりました。とくに私が天文学に興味をもつきっかけとなったのは、十二、三歳のころ、父と交わした会話です。子供はなんでも親に質問するものですが、私も宇宙のことについていろいろと聞いたのです。
 父は、イギリスのケンブリッジ大学で学び、一九三三年には最優秀の成績を収めるほど数学が得意でした。自分の体験をとおして、天文学がいかにすばらしい学問であるかを話してくれました。
 父は、一九三〇年代の恒星天文学者アーサー・エディントンとW・M・スマートのもとで学び、自らも天文学者になるつもりでした。ところが残念なことに、さまざまな理由で研究がつづけられなくなり、スリランカに戻ってイギリス政府関係の仕事についたのです。
 そうしたことから、わが家には『恒星内部構造論』『相対性理論の数学理解』『神秘の宇宙』といった、いくつかのエディントンの著書や天文・数学関係の本が父の書架にあり、私も理解できるようになりたいと、ページをめくって眺めた思い出があります。
 池田 仏教には「依正不二」という法理があります。つまり、環境としての依報と主体としての正報は、一体不二の関係にあるというのです。環境のなかでもとくに幼少期の家庭環境は、その人の人生にとって、ある意味で決定的な重要性をもつと言えましょう。
 私は、若き日から「家に書物なきは、人に魂なきがごとし」という言葉を大事にしています。博士は、書物を身近に感じられる環境で育ちました。そして博士には、生来の知的好奇心と努力がおありだったのでしょう。
 博士 父は八十歳を超えましたが、今も健在です。私と池田先生の対談を報じた記事も読みました。父はスリランカの伝統的仏教の信徒ですが、池田先生の言葉に対して「まったく真実だ」と賛嘆しておりました。
 池田 不思議な存在の父上ですね。私の恩師戸田城聖第二代会長も天才的な方で、数学に深く通じておりました。博士と父上とのご関係は、私に恩師のことを深くしのばせてくれます。
 はっきり天文学への志をもたれたのは、十六歳のときの皆既日食にあったとうかがっていますが。
 博士 はい。スリランカでの皆既日食でした。一九五五年六月五日のことです。国際的な科学者たちで構成されたチームが八つもスリランカに集結しました。地元紙には、連日のように日食に関するニュースが報道されました。当時、高校生で科学者の卵だった私は、とくにこの日食が西暦六九九年以来、太陽が完全に隠れる時間が最も長いということもあり、胸を躍らせたものです。
 池田 このときの日食観測で、アインシュタインの相対性理論の正しさが証明されたわけですね。
 博士 そうです。それ以前にも、例えば一九一九年にブラジルからギニアにかけて見られた日食の際、エディントンが指揮した観測隊の観測によって部分的に実証されていますが、観測技術が未発達で精度が低く、決定的な証明というには不十分でした。
 この理論では、光は重力で曲がる。例えば、光が太陽のように質量の大きな物体のそばを通り過ぎるとき、その重力で少しだけ曲がる(角度にして一・七五秒)ことを予測していました。このことが太陽のそばに見える星の位置を観測することで確証され、正しいことが立証されたのです。私は、科学を詳細に理解できたわけではありませんでしたが、衝撃的な感動を受けました。こうした体験をとおして天文学者になろうと決意したのです。
 池田 劇的な第一歩でしたね。博士の今のお話を聞いても、思春期にあたる十代は、人生の方向を決める最も大事なときであると感じます。そのときにどんな体験をするかで、一生が大きく変わってしまいます。
 私は少年時代に戦争に遭い、兄弟を失いました。母の嘆く姿から、戦争ほど悲惨なものはない、また残酷なものはないということが心に焼きついて離れませんでした。これが私の平和行動の一つの原体験になっています。
 子どものときの体験は大切です。子どものときこそ本当のもの、本当の自然にふれていくことです。牧口常三郎初代会長も戸田第二代会長も教育者でした。価値創造の人間教育をめざした両会長の構想を胸に、私は二十一世紀を志向して創価学園・創価大学を二十年以上前に創立しました。
 また、環境は人をつくります。最大の教育環境は母であり、父であり、また学校の先生や友人ということになるでしょう。
 そこで博士は天文学者であるとともに数学者でもあります。数学の分野で忘れえぬ人はどなたですか。
7  ホイル博士との出会い
 博士 私は幼少のころから、数学がとても面白いものであると思っていました。また、幸運なことに数学が得意だったのです。ユークリッド幾何学を学ぶことがとても楽しみでした。この学問の中に初めて証明の本質を発見しました。その理論と厳密さが好きだったのです。
 後に天文学者になろうと思い立ち、大学で数学を学ぶことにしました。それは、数学こそが宇宙を探求するのに最も重要で最も強力な手段であると感じたからです。父から最初の指導を受け、その後セイロン大学で、幾人かの優秀な先生方から指導を受けることができたのは幸運でした。
 そのころ私に大きな影響を与えたのは、当時セイロン大学の数学教授であったC・J・エリーザー教授でした。彼は著名なケンブリッジ大学の数学者で、かつてクライスツ・カレッジのフェロー(特別研究員)を務め、有名な物理学者ポール・ディラックの弟子にあたる人でした。彼の講義をとおして私は、後年専攻することになった電磁気学の理論について洞察力を身につけることができました。
 当時は気がつきませんでしたが、実はエリーザー教授とフレッド・ホイル博士はケンブリッジの同期生で、しかも二人ともディラック博士の弟子だったのです。
 池田 ホイル博士の師にあたるディラック博士とは、特殊相対性理論と量子力学とを調和させた学者ですね。
 博士 そのとおりです。ディラック、エリーザー、ホイルというつながりから、私が最終学年の学位試験に臨んだまさにその年に、ホイル博士が学外数学試験官としてセイロン大学にやってくることになりました。まことに不思議なめぐり合わせでした。
 池田 それは、初めてうかがいました。
 その後、博士は、フレッド・ホイル博士とよく仕事をされています。ホイル博士は定常宇宙論の提唱者として有名であり、また『暗黒星雲』を書くなど、SF作家としても幅広く活躍されています。ホイル博士とは、どのようにして知り合いになられたのですか。また、どんな影響を受けられましたか。東西の文化・思想の出合いという側面からも興味があります。
 博士 一九六〇年に私は、ケンブリッジ大学の大学院で数学を勉強するために、イギリス政府から英連邦奨学金を給付されることになりました。私は跳び上がって喜びました。天文学を専攻する機会がとうとうやってきたからです。
 ホイル博士は当時、天文学と経験哲学のプルミアン教授の席にありました。もともと多くの研究生を引き受ける人ではありませんでしたが、私を受け入れることはすでに決めていたのです。
 まだセイロン大学にいたころ、私はホイル博士の執筆した二冊の古典的著書、『宇宙の本質』と『天文学の最前線』をすでに読み、深い感銘を受けておりました。ですから、コロンボの私のもとに、ケンブリッジに行く前に読んでおくべき本の一覧をしたためたホイル博士自筆の手紙が届いたとき、私は狂喜しました。そのときのうれしさを決して忘れることはないでしょう。
 池田 ホイル博士は、すでに若き博士の才能を鋭く見抜いておられたのでしょう。学問にも師弟の道がある。この世界的な天文学者との初めての出会いは、どのようなものでしたか。
 博士 一九六〇年の十月初旬、私はこの偉大な人物に、ケンブリッジのクラークソン・クロースにある彼の自宅で初めて会いました。最初、私はただおろおろするばかりでした。しかし博士は内気な性格であり、私もまたそうだったので、意気投合したのだと思います。
 博士はまた教師としてもすばらしく、私の生来の好みが天文学にあることをすばやく見抜き、私に合っていると思われる道筋にしたがって私を導いてくれました。彼はまず太陽物理学――この学問は、偶然にも前に申し上げた日食と関係があります――の一部門に私の興味を引きつけようとしましたが、その後、現代の天文学のなかでも最も興味あふれる領域の一つに向かう道を私に示してくれたのです。
 ホイル博士は、科学において正確さ、厳密さ、そして自己批評がいかに大切であるかを私に教えてくれました。また科学においては、たとえ確定した見解であっても、新たな事実が現れるたびに常にその見解の正当性が問われ、真偽が検証されるものである、ということも博士から学びました。
 私は書物や賢人の権威を敬う傾向性の強い文化圏の出身なので、初めのうちは、この教訓を自分のものにするのに手間取りました。西洋の科学理論がしばしばくつがえされる可能性をはらんでいるという現実を知って、目からうろこが落ちるような思いでした。このときから私は、純理論的な科学理論に強い疑念をいだくホイル博士の立場を、一貫して自分のものにしてきました。
 池田 なるほど。若き博士にとって、ホイル博士との出会いは、まったく新しい科学観との出合いでもあったわけですね。
 博士 ホイル博士は、今世紀最大の思想家の一人であると思います。定常宇宙論を提唱したことにより、ホイル博士は歴史的にみて、ガリレイやコペルニクス、ニュートンに比すべき重要な人物になったと思います。このことが認められず、いまだにノーベル賞を受賞されていない理由は、いうまでもなく、彼の理論が強力なユダヤ・キリスト教的パラダイム(=支配的な考え方)に反する内容であるからです。
 私とフレッド(=ホイル博士のファースト・ネーム)との付き合いは三十年以上にわたっています。
 今も彼は、定期的にカーディフにいる私を訪ねて来ますし、また、よく二人で歴史・哲学・政治から科学にいたるまで、さまざまな問題について夜更けまで延々と議論します。純粋に科学的な問題について当初意見が合わない場合は、厳密な議論と事実の詳細な検証によって、初めて同意に達するのです。
 池田 三十年以上の歳月をかけて意見を交換してきたわけですね。とくに宇宙塵についてのお二人の学説はたいへんにユニークですが。
 博士 私自身が行なった宇宙塵の性質についての研究から、一九七六年の半ばにいたって私は、宇宙塵が〈生きている〉と確信するようになりました。それはホイル博士よりも一年早い時期でした。
 当時、博士はアメリカにいましたので、私は計算した結果を手紙で送って意見の交換を始めました。一九七七年四月、私は共同研究論文の原案を書きあげて、当時コーネル大学の客員教授であったホイル博士に送りました。
 同年の五月五日と七日に受け取った彼からの返事は、私をとてもがっかりさせる内容でした。私が書いた共同研究論文の中で、「データは宇宙塵が〈生きている〉ことを示している」とした最後の一節に同意できない、と言ってきたのです。この結論は正当だとは思えないというのです。
 このような悶着が起きたのは、コーネル大学にいた彼の周囲に、宇宙に生命が存在する可能性を猛烈に否定する天文学者たちがいたことも、その一因であると感じました。私たち二人は手紙を交換して議論をつづけました。そして、データと計算の結果が明らかになってきたので、ホイル博士と私は一九七八年の末には、この問題について完全な意見の一致をみていました。
 池田 宇宙塵という微小な物質の中に生命を探ろうとされる博士の試みは、きわめて独創的で興味深いものがあります。
 ところで、スリランカからイギリスに留学されて、新鮮に感じられた自然との出合いもあったと思いますが。
 博士 私のこれまでの人生で最も印象的だった時間は、十九歳のときにホイル博士とともに、ワーズワースの詠んだ湖水地方を歩いたときのことです。子供のころから愛読した詩の中の風景を、今、自分は現実に見ながら歩いている――それは至福のひとときでした。
8  影響を受けた三人の詩人
 池田 博士は好きな詩人として、シェークスピア、ミルトン、そしてワーズワースの三人を挙げていますね。
 博士 まさに今、先生が挙げられた順番で好きなのです。影響を受けた順番も同じです。
 池田 私にとっても、三人とも青春時代から敬愛してきた詩人です。
 博士 シェークスピアは、いうなれば仏陀が理解するように世界を洞察していました。実験にもとづく科学的アプローチの仕方ではありませんでしたが、深い直観と才能で、人間と世界の真実を見抜いていました。
 またミルトンは、人間性の精神的側面を代表する詩人です。キリスト教的観点からではありますが、彼は、人間が求めてやまない大いなる神聖な〈何か〉と自身との合一を明快に表現しています。そしてワーズワースは、偉大な自然界の徳と恵みを美しく歌った詩人です。今や失われつつある緑の風景を、丘や湖のすばらしさを教えてくれます。
 池田 ワーズワースの詩の中で私が好きなものの一つにこうあります。
  わが心はおどる
  虹の空にかかるを見るとき。
  わがいのちの初めにさなりき。
  われ、いま、大人にしてさなり。
  われ老いたる時もさあれ、
  さもなくば死ぬがまし。
  子供は大人の父なり。
  願わくばわがいのちの一日一日は、
  自然の愛により結ばれんことを
 (「虹」田部重治選訳、『ワーズワース詩集』岩波書店)
 「子供は大人の父なり」(=子供の時代がもとになって大人がつくられる、という意味)との卓見は、教育者にとっても、父母や為政者にとっても、そして、かつて子供であったすべての人々にとっても、尽きることのないインスピレーションを与えてくれます。
 博士 私もこの詩が好きです。世界を発見しようとする子供のころの意欲をなくしてしまった大人は、もはや知的な人間ではなくなるのです。彼らは知性の階段を下へ下へとおりているのです。
 池田 その意味で、真に知的な人生とは、少年のようなみずみずしい好奇心と真理への愛を、最後まで失わない一生といえるでしょう。
 硬直した頭脳の人は、どんなに知識があっても知的とはいえません。そして仏教は、いわば〈宇宙即生命〉〈宇宙即一念〉という、外なる大宇宙と内なる小宇宙(人間)の連動・交流・交感の実相を、万人が自らの生活の中で一生涯、探求しつづけていくべきことを教えています。
 その探求は、知性の課題であるとともに、わが無限の小宇宙を開いて、永遠なる価値を創造しゆく境涯の確立の問題でもあります。
9  強く引きつけられた仏教
 博士 人間には、自分の存在理由は何なのか、どのような方向に向かっているのか、を見定めようとする基本的な欲求があると思います。方向の定まらない人生は、ドライバーなしで走る車のようなものだからです。人間の性質として、宇宙の中での自身の位置を知ろうとするのは当たり前のことです。また、そうした探求の中から宗教が生まれてくるのも当然のことといえます。
 また知性をもつゆえに、宇宙を考え、他の生命の存在にも配慮していける唯一の生物が人間です。地球に限っていえば、他の生命に寄生せずに自給自足できるのは植物だけです。人間も多くの生物のおかげで生存することができるのです。そのことを自覚し、他の生命への思いやりをもつところに、人間性の究極の証明もあると思います。
 池田 その意味でも、生命を慈しむ心、宗教心の復活が大切ですね。
 博士 そのとおりです。宗教心や倫理観の欠如が、今日、暴力の横行や弱者への冷酷さとなって表れています。今こそ生命の尊厳が、ぜひとも確立されなければならないと思います。ですから、私は仏教に強く引きつけられるのです。
 池田 生命の尊厳の確立といっても、生死の問題を解き明かした正しい生命観に立脚してこそ可能となります。これから順次、論じ合いたいと思いますが、生死の問題こそ人間にとって最重要の課題です。
 しかも生死の問題は人間ばかりでなく、動物や植物においても、さらには宇宙でも星の誕生と死の壮大なドラマが繰り返されており、生死の法則は宇宙に共通する法則であります。
 中国の天台大師は「起はこれ法性の起、滅はこれ法性の滅」(『摩訶止観』巻五上、大正四十六巻)と説き、現象の生起もその消滅も、ともに宇宙永遠なる〈法〉の顕在化と潜在化にほかならないことを示しております。日本の伝教大師は「生死の二法は一心の妙用」(『天台法華宗牛頭法門要纂』、『伝教大師全集』巻五上)と説きました。生も死も「一心」という人間内具の生命の働きであることを示しました。
 さらに日蓮大聖人は、「天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし」と結論されております。
 わが生命の内奥に宇宙と人間とを貫く不滅の〈法〉を自覚し、その〈法〉にのっとって生き抜いていく。そこに一切を希望・価値・調和の方向へと回転させていく生き方が開かれていきます。最高に福徳に満ちた生命の軌道を歩んでいくこと――それが仏教の実践なのです。
 博士 興味深いことですが、今日、西洋の科学者の大半は、キリスト教の諸教義に対して本能的とさえいえるような拒絶反応を示しています。なかには東洋の哲学に知的な刺激と洞察力を求めようとする人もおります。例えば、フレッド・ホイルの信念はキリスト教と合致したことは一度もありませんが、仏教の教えるところとはほぼ一致しております。
 池田 ホイル博士と響きあうものはもともと備わっていたのですね。宇宙と生命とを貫く永遠なるものを探求する道程において、真実の師に出会い、師との深い思い出をもつ人生ほど、美しく充実しゆく幸福の境涯はないといえましょう。
 いみじくも博士は、十九歳のときホイル博士とイギリス湖水地方を散策した至福のときのことを語られましたが、私も人生の師と決めた戸田第二代会長に出会ったのが、十九歳のときなのです。
 師との思い出を大切に温め、師を誇りとし、師の理想を実現していく。そこには人間としての至高の〈道〉があり、いやまして英知の光が輝きわたってくると思うのです。

1
1