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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 現代の目標  

「文明・西と東」クーデンホーフ・カレルギー(全集102)

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1  新しい文明の興隆
 池田 現代文明は、今や世紀末的症状を呈している、と言っても過言ではないように思えます。というのは、ある意味で、現代は、確かに繁栄の絶頂にあるとは言えますが、しかし、人間精神の内部に目を向けると、その荒廃ははなはだしいものがあると言わざるをえません。
 物質的な繁栄と精神的な退廃、富める国と貧しい国との格差がますます開いている事実、″生きがい″の喪失――これらは、ある意味では、口―マ帝政末期の状況に似ているのではないかと思います。
 世界は、このまま退廃の淵に沈んでいってしまうのか、あるいは新しい文明の興隆によって立ち直れるのか、もし立ち直れるものならば、その新しい文明の興隆は、どのような形でなされるのか――などについて、あなたのご意見をうかがいたいと思います。
 クーデンホーフ これは、大変むずかしい問題ですが、私は新しい宗教運動が台頭してくるのではないかと思います。
 そこで、キリスト教がはたして生まれ変われるものかどうかが第一の問題です。キリスト教にもはや期待がかけられない場合は、次に仏教が新しく生まれ変われるかどうかです。
 新しいというのは、天才的な宗教家が出現して、新しい宗教の土壌の上に、新しい文明を建設するかもしれないという希望です。あるいはまた、唯物・共産思想が、さらに発展して宗教に変形するということも考えられるかもしれません。
 ヨーロッパの青年は、ソ連の共産主義者たちよりも、毛沢東に魅力を感じているようです。予言者的な面をもっているからでしよう。いずれにしても、明日の文明は宗教の文明になるにちがいないと、私は信じています。
 池田 アーノルド・トインビーは、歴史家の観点から、文明の発展は、直線的、一貫的ではなく、多様な特質と生命をもった文明が、同時に存在し、それぞれの文明は、その生命を終えるとともに消滅するが、その特質は、他の新しい文明に吸収されて、展開していくという考え方を述べています。
 こうした文明史観を、あなたはどう評価しますか。また、とくに日本は、これからの世界文明に対して、どういう役割を果たすことができると思いますか。
 クーデンホーフ トインビーが、現代における、最も偉大な歴史家の一人であることはいうまでもありません。
 私の考えでは、日本は、過去の文明の最先端のものを受け継いできています。仏教と儒教と、そしてヨーロッパ文明です。これらを統合することができる立場にいるのは日本だけです。したがって、二十一世紀における日本の使命は、全人類にとって、大変重要だと思います。
 池田 新しい二十一世紀の文明のあるべき姿は、種々の観点から論じることができると思いますが、私は基本的には、人間性の回復、人間の尊厳への復帰であると考えます。ところが、人間性とは、きわめて多様的で、しかも掘り下げれば掘り下げるほど、底知れない奥行き、深さをもつものです。
 人間性の回復、人間尊厳への復帰ということは、こうした多様性と奥行きを認め、人間のもつ多彩な能力を、フルに発揮させるものでなければならないと思います。
 現代の科学技術文明は、この人間性を画一化する傾向がきわめて強いところに重大な誤りがあると考えます。人間は、こうした画一化に我慢できないのです。これでは溌剌たる生気が発揮されるはずがありません。
 私は、これを打開する一つの学問的な方向づけとして、人間の中にある自然を再発見し、人間性をそのありのままの姿で認め、しかも良い方向へ伸ばしていくために、「人間自然学」ともいうべき、新しい人間再認識の学問を提唱します。そうなれば、必然的に、人間と環境との関係も明らかになっていくと思います。
 人間は、肉体と精神の統一体であるとともに、自然や、社会、文化など外的環境との統一体であります。
 ところが、これまで、学問は、人間を全体としてとらえるのではなく、部分部分に解きほぐし、各部分を、さらに細分化してとらえて、研究してきました。こうした研究も必要でしょうが、しかし、部分と部分との関係、さらに生命の全体としての調和――ここに生命の不可思議さがあります。
 生命について、さらに人間性について、その実体を明らかにするためには、人間を全体としてとらえる研究が、今後必要になってくると思いますが、いかがでしょうか。
 クーデンホーフ まったく同感です。医学と同じで、目、耳、歯といった個々の部分のスペシャリストも必要ですが、人間を全体としてとらえ、解明しようとする学問がなければなりません。
 池田 そうですね。医学は、それが最も端的に表れている例です。
 外科医学の発達によって心臓はじめ臓器移植が盛んに行われるようになっています。しかしそれは、人間生命を機械論的にとらえる考え方にもとづいているものであって、私は非常に危険なものを感じます。
 だから私は、これまでも、臓器移植は無制限に許されるべきではないと主張してきました。
 クーデンホーフ 私も、同感です。私は、どこで、その線を引くべきか――医学だけでは結論が得られない問題と判断しています。
2  自由と平等の止揚
 池田 自由について、さらに歴史的観点からのご意見をうかがいたいと思います。
 クーデンホーフ 過去、何世紀にもわたって、ヨーロッパは自由を最高の理想、理念としてかかげて、その獲得のために戦ってきました。
 自由獲得の歴史を振り返ってみると、まず、古代ギリシャはペルシャの王侯への隷属から解放されるために戦いました。古代ギリシャ人にとって、自由は、神聖そのものでした。ゲルマン民族は、強大なローマ帝国と戦って自由を守り抜きました。
 中世時代、騎士は、専制王制に対して、自由の名において戦い、農民は騎士を相手に、自由のために戦いました。プロテスタントは、信教の自由を旗印に、カトリックと戦って宗教革命を達成しました。文芸復興は、人間精神を封建制の束縛から解放するために戦った結果、勝ち取られたものです。
 近世に入ってからも、自由の名において、君主、王侯、貴族を相手に、臣民から自由市民になるために戦いました。フランス革命では、市民たちが君主制を打倒することによって、みずからの運命をみずからの手で決められるようになったのです。
 このようにして、自由は、ヨーロッパ人にとって最も重要な理念、最高の理想とされてきました。そして、そのために生命をもなげうつ人々を尊敬したのです。
 自由のための戦いは、ヨーロッパの伝統となり、そしてヨーロッパ文明の原動力の一つとなってきたのです。
 池田 確かに、自由はすべての人間が本能的に望むものであり、とくにヨーロッパの歴史の重要な原動力となってきました。しかし、人間が社会生活を営んでいくうえで、秩序と自制もまた、なくてはならないものです。
 その意味で、自由の理想の追求は、一歩誤ると、かえってその破壊をもたらす危険を含んでいるのではないでしょうか。
 クーデンホーフ ご指摘のとおりです。たとえば歴史的にこれをみますと、古代ギリシャは、市民と都市国家とが、互いに自由と独立を主張して譲らず、さらに都市国家同士で争ったため、まず、マケドニアによって征服され、次いでローマに征服されて滅亡しました。
 自由を求めたはずのフランス革命は、無秩序と無政府主義を引き起こし、やがてナポレオンによる専制によって取って代わられました。
 旧オーストリア・ハンガリー帝国は、二つの国民が合体することによって強大になるよりは、弱くてもいいから別々に自由でいたいと考えました。その結果、ヒトラーに征服され、次いでソ連の餌食となりました。
 幾世紀にもわたつて、ヨーロッパは分割されたままの状態がつづきました。それは、支配者と諸国民が自由と独立に執着して、より大きな脅威に対する対策を怠ったからです。このように、自由は、たえず無秩序、無規律、放縦、無政府主義、独裁制への危険をはらんでいます。
 池田 では、自由を防衛するためには、どうしたら良いと思いますか。
 クーデンホーフ 自由は、秩序と規律なしには、長つづきしません。秩序と規律の典型的事例はスイスです。二十五(=当時。現二十六)の小さなカントン(州)が、連邦政府の秩序と憲法にもとづく規律を守ることによって、それぞれが自由を享受しています。
 自由の過大視、自由の行き過ぎは、国家のみならず、個人や家族をも破壊する危険をはらんでいます。ところが、現代は無制限なまでに自由を求める風潮があり、これはきわめて危険な傾向だと、私は思います。
 ところで、ロシアの歴史は、ヨーロッパとは、まったく異なっていて、かつて自由が存在したこともなければ、民衆によって享受されたこともありません。
 中世の前期には、スカンジナビア人の支配下にあり、中世後期は、モンゴリアンの支配下にありました。近世に入って、帝政ロシア時代はツァーの独裁制のもとに置かれ、また、ボルシェビキ革命以降、現在にいたるまで、民衆が自由を享受したことはありません。ロシアの歴史は、およそ自由というものを知らないと言っても過言ではありません。
 池田 われわれが、明確に知っていかなければならないことは、自由は放縦とは違うということ、自分勝手な、無制限な自由というものはありえないということだと思います。言い換えれば、自由といっても、そこには、他人に迷惑をかけないという前提がなくてはならない――つまり、おのずから責任を含むものだということです。
 その意味で、自由の概念は、秩序や規律を前提としたものでなければならないわけですね。
 次に、自由と対照して、平等の理念についてどうお考えになりますか。
 クーデンホーフ 私の考えでは、自由に比べれば、平等は、それほど純粋な理想、理念ではありません。動物でも自由は求めますが、平等は必ずしも求めてはいません。
 というのは、いかなる動物の群れにせよ、必ずリーダーがおり、そしてその命令に従う者がいます。人間社会にも、たいてい命令する者と命令に服従する者の双方がいます。さらに、人間は多くの場合、この命令者であると同時に服従者でもあるという二重の性格をもっています。
 指導者をまったく欠いた絶対的平等の社会というものは、混乱と無政府状態を招きます。
 池田 平等を理想としたのが、ソ連の革命だったわけですが、その現状をどうみますか。
 クーデンホーフ 平等を求めて起こしたソ連の革命は、今日、別の不平等と特権階級を生んでしまっています。ボルシェビキによる独裁をめざしたものが、今日では、共産党による独裁体制になり、支配階級と権力なき民衆との間に、大きな格差を生じています。
 今日、ソ連国民が享受している平等は、自由を第一とするスイス市民のそれより低いと言えます。
 池田 私は、自由といい、平等といい、ともに人類にとって重要な理想であると考えます。
 問題は、ただ、これら二つの理想が、互いに矛盾し、対立しあう二元的な、どこまで行っても平行線をたどるものだということです。つまり、自由主義を貫けば、不平等になり、反対に平等主義は、必然的に不自由をもたらす――これは、歴史の示すところです。
 自由たらんとするのは人間の本性であり、その結果もたらされた弱肉強食の不平等の現実に対する革命、改革が平等の理念です。
 世界は、今日、それぞれ自由と平等を理想とする二大陣営に分かれ、対立していますが、私はそのいずれもが否定できない正しい理想だと考えます。ただし、どちらも部分観です。
 そこで、これら二つの対立理念を止揚し、昇華することのできる、より高い理念が求められるならば、二つの対立・相克を解消し、両方の理想を生かすことができると思います。
 このより高い次元の理念こそ、生命の尊厳――人間をはじめ一切の生物、自然、宇宙をも含めた――であり、人間性の尊重であると思います。
3  ファシズムと民主主義
 池田 次に、私は、現代文明の底流にある問題として、人間自身が非常に傲慢になっている点を指摘したいと思います。これは、近代合理主義が拠って立つ人間観のもたらした弊害ではないでしょうか。
 これを改めるためには、人間をふたたび、自然・宇宙の中に正しく位置づけた新しい人間観を確立する必要があると思いますが、いかがでしょうか。
 クーデンホーフ 宇宙の中心は、とうの昔に地球ではなく、いわば、宇宙中心というものはありません。あらゆる生物が、そのおのおのの世界の中心というべきです。したがって、環境とか社会というものは、同心円がいくつも集まって構成されたようなものだと思います。
 一人の人間の周りに、家族、友人、社会、国家などがあります。人間は自分自身に対して、第一の義務を負っているわけですから、他人や環境を変えようとする前に、まず自分自身を変える努力をすべきだと思いますね。
 池田 なるほど……。
 私は、人間の傲慢さが、政治的、社会的に表れた、最も極端な姿がファシズムであると考えます。あなたは、生あるすべてのものが、この世界の中心である、と言われましたが、ファシズムは、そうした考えとはまったく対立するものと言えますね。
 ファシズムのもとでは、独裁的な指導者のみが、その世界の中心であって、他は一切、それに結びつけられ、そのためにのみある存在でしかありません。その中心的存在と結びついていないものは、存在意義が認められないのです。これはまことに恐るべき政治形態だと思います。
 私は、現代の科学技術文明は、人間――とくに資本や権力をもった一部の人間――が独裁者であって、ほかの人間や生物、さらには自然にいたるまで、他の一切の存在に尊厳を認めようとしないのですから、これもファシズムに通ずるものがあると言いたいのです。つまり、生命の尊厳に対するファシズムというべきでしょう。
 クーデンホーフ ファシズムは、政治的にはボルシェビズムと同じように、民主主義と対立する政治形態です。また、ボルシェビズムに対する反動でもあり、いわばボルシェビズムのブルジョフ版でもあります。民族主義は、ボルシェビズムという毒物を注射されたことによって、ファシズムという伝染病に対して、免疫性と抵抗力をもつようになりました。
 私も、ファシズムは、まだ死滅してはいないと考えており、ふたたび台頭して、民主主義や金権政治に挑戦する可能性があるのではないかと恐れております。
 現に、ファシズムの亜流は、イタリア、スペイン、ポルトガルに残存しています。アメリカでも、人種抗争の激化にともなって、ファシズムが台頭する可能性はありうると思います。
 池田 いかなる場合であっても――それが仮に人間の主体性を勝ち取る目的で始めた運動であったとしても――やがて組織化され、機構化されて、定着してしまうと、かえってその組織や機構が人間の主体性を抑制する傾向があります。かつてキリスト教会が成立したときがそうであったし、今日では社会主義国の場合に同じ現象が見られます。
 そうした組織による人間性の抑圧を阻止するためには、どうすべきか――この点について、どうお考えですか。
 クーデンホーフ 私は、政治的な価値に二つの重要なものがあると思います。一つは自由であり、もう一つは安全です。自由は男性的な価値であり、安全は女性的価値です。男は本来自由を求め、女性はむしろ安全を求めます。
 各国家は、この自由と安全の間に妥協点を見いだすべきです。なぜなら、自由にも、安全にも限界があるからです。
 家族とは、安全性を約束する反面、自由を制約する社会制度です。個人主義は自由を高め、社会主義は安全を高めます。自由のない生活は悲惨であり、安全のない生活は危険です。
 だから、国家は、自由と安全とを、いかに結びつけるか、両方の妥協点をどこにみつけるかに努力すべきです。
 人間の行動は恐怖でなく、希望によって起こさせるべきです。
 池田 自由には、″与えられる自由″と、みずから″創造し、築いていく自由″があると思います。与えられる自由には、おのずから限界があります。私は、真の意味の自由とは、みずから創り出していく自由であると思います。
 民主主義とは、個人個人の自覚によって初めて支えられていくものです。ところが、現代文明、巨大な管理社会のもとでは、個人は、ますます埋没し、その自覚や自由な発想の機会が奪われていく傾向があります。
 今日、民主主義の危機が叫ばれているのも、この点にあると思いますが、いかがでしょうか。また民主主義をよみがえらせていくには、どうしたらよいか、ご意見があれば……。
 クーデンホーフ 民主主義の弱点ともいうべきものは、それがある誤った認識の上に立っているということです。つまり、民主主義は、国民の大多数が聡明であって、政治家の良し悪しを区別できるから、悪い政治家を排除して、良い政治家を選ぶことができるという前提に立っている制度です。
 しかし、事実はその逆で、多くの人々は、その区別がつかず、公約やイメージやフィーリングだけで投票してしまうものです。その結果、聡明でも善人でもない政治家が選ばれ、民衆の代表となるのが現実の姿です。
 だから、民主主義の歴史は、こうしてどこの国の場合でもかなり汚点があるようです。
 民主主義は、しかし、多数決の原則、つまり質よりも量を重んずるという現代の風潮には合致しており、今日、最も普遍妥当的なものと考えられています。
 しかし、私は、将来必ず、新しい、頭脳と精神による支配制度が出現して、民主主義に取って代わるだろうと信じています。そして、こうした知的な指導者層の教育のための、新しい学校がつくられなければならないと考えています。
4  民主主義は守れるか
 池田 政治制度の現発達段階において、民主主義にまさる制度はないと思います。しかし、これはあくまでも、相対的な意味においてであって、民主主義にも固有の欠点なり、内在的な危険というべきものがあります。
 この点についてこれまでも論じてきましたが、さらに、いかに民主主義を守っていくかについて、ご意見がありますか。
 クーデンホーフ 民主主義は、成立以来たえず固有の、内在的な危険性ともいうべき二つの重大な脅威にさらされてきました。
 一つはデマゴーグ(大衆扇動)の危険です。その、最も警告的な例は、前にも述べたとおり、ヒトラーの出現で、彼はまさに有史以来の大衆一扇動家でした。
 ヒトラーは、第一次大戦後、ドイツの若い未熟な民主主義の中で、つねに大衆を扇動によってあやつり、危機感を植えつけ、少数派の知識人、文化人の反対を抑えつけて、強力な世論の支持を形成しました。
 しかし、その方法は、つねに表面的には民主的な手続きにより、巧妙な多数決の原則によったのであって、暴力や革命的方法によったわけではなかったことを忘れてはなりません。
 そして、このようにして政権を手中にしたのち、ヒトラーは、独裁体制に切り替えました。
 現在、テレビの普及によって、デマゴーグの危険は、ますます増えています。テレビのほうが、新聞などの活字よりも大衆に訴える力がはるかに大きいからです。このように、民主主義は、衆愚政治になるか、あるいは独裁者の支配を許してしまうかの危険をたえず内在しています。
 もう一つの危険は、金権政治、富豪政治(プルートラクシー)の脅威です。
 民主主義は、国民に平等な基本的人権を保障しますが、権利の平等は、必ずしも権力の平等を意味しません。男女を問わず、富める者のほうが貧しい者よりも、より大きな力、権力をもっています。かれらは特定の政党のために資金を調達したり、またマスコミを操作することもできます。
 このようにして、少数の金権政治社会が、弱者たる民衆を、自分たちの道具化し、民主主義を変えていきます。つまり、経済力を中心にした新しい貴族政治ともいうべき形態に変えていくのです。
 しかも、ますます中央集権化している現在の民主主義体制においては、金権政治の危険は、増大していると言えます。アメリカをはじめ、これが民主主義、資本主義世界の実情です。私たちは、これらの危険性をはっきりと見きわめなければなりません。
 池田 私は、民主主義がおちいりやすい落とし穴が衆愚政治や金権政治にある、というご指摘に同意しますが、しかし、民衆とは愚かなものだと決めて、少数の特別の教育を受けた賢明なエリートだけが未来の指導者になる資格がある、というあなたのご意見には必ずしも賛成できません。
 問題はどのようにして民衆の知的水準を引き上げ、民衆全体の質的な向上を実現できるか、ここにこれからの最大の課題があると思います。
 クーデンホーフ 世界は、量よりも質を代表するような新しい指導原理を求めなければなりません。民主主義は、その中で、統治者が特定階層だけの利益を代表するのではなく、広く民衆や人類全体の利益を代表できるように改められなければなりません。
 そして、豊かな人間性、優れた頭脳と精神による社会主義志向型のリーダーシップを発展させるべきだと思います。
 民主主義・資本主義世界は、かつての武力支配から、今や、現実に金権支配、富豪支配へと変わりつつあります。しかも衆愚政治は独裁者の出現を招く危険があります。多数決の原理のもとでは、多くの国の場合、感情が理性を圧倒してしまうということがしばしばあります。
 そこで、多数決の原則を、知性・知能によって管理する必要が生じてきました。つまり、多数決原理を知性による管理と融合させることです。無制限の民主主義は管理民主主義によって取って代わらなければならないと考えます。私は将来、必ずそうなるとみています。
 前にも述べたとおり、今日、アメリカもソ連もフランスも頭脳による管理に向かいつつあります。
 すなわち、高度の頭脳・知性・才能をもった助言者を、選挙でなく、登用によって″ブレーン・トラスト″を構成する――そういう支配体制ができつつあります。アメリカの大統領のもとにあるブレーン・トラスト、フランス政府の閣僚が大部分知識人である事実、ソ連で一群の知識人によって代表される共産党の専制などで、これらは事実上、知能による管理体制です。
 池田 民主主義は、将来、多数決の原理と知性による管理制度とを融合した管理民主主義を志向すべきであり、そしてその優れた管理者として資格のある人材を、全国民階層から選抜して、特別の教育を行う必要があるとのご意見ですが、これに対する、私の意見を申し上げたいと思います。
 考えてみれば、今日の日本でも、また他の多くの国でも、ほとんど、事実上の管理民主主義であると言えないでしょうか。具体的には、国民の選挙による立法機関である議会と並んで、官僚が国の行政権を握っています。そこには、優れた知性の人が多くいるはずです。
 ところが、実際には、セクショナリズム、自己保身、金権との結びつきなど好ましくない風潮に覆われているのが現実です。結局、それは、組織の論理が優先していて、国民の大多数である民衆という基盤から遊離してしまっているからではないでしょうか。
 こうしたことから考えて、私は、民主主義の大前提として、まず民衆一人一人に自主管理という考え方が確立されなければならないと思います。その基盤がなければ、管理制度のみが優先し、民主主義は有名無実になってしまうでしょう。
 この民衆における基盤の確立がなされたときに、初めて管理民主主義も有効に機能することができるのではないでしょうか。
 要するに、国民一人一人が全体との調和の上にそれぞれの目標を主体的にかかげ、それを実現していくことのできるような、ダイナミックな民主主義社会――これをいかにして築くかということが、これからの課題であると思うのです。
 そして、民主主義の健全な発展のために、教育による民衆一人一人の質的向上こそ、最大のカギであると思います。
5  生命の尊重
 池田 今日、強大な国家権力は、国民の生命に対して、生殺与奪の権利をもっています。それは戦争と死刑の二つです。
 戦争については、これまでいろいろ論じてきましたので、さしおくとして、死刑という問題について考えてみたいと思います。
 私は、生命の尊厳という理念を貫くからには、死刑も当然、廃止されなければならないと考えます。
 クーデンホーフ 私も死刑には反対です。しかし結局、人間は、みんな死刑を宣告されているようなものです。所詮、人が人の命を奪うことはできません。ただ、人の命を縮めるにすぎません。
 しかし、私は、非人道的な不法・不当な理由で殺人を犯した人を死刑に処すことには、なんら反対しません。
 池田 私は、裁判が仮にどれほど厳正公平に行われたとしても、死刑というのは、根本的に誤りであると思うのです。
 どれほど科学主義・合理主義が強調されても、人間は所詮、不合理な存在で、日常生活においても多かれ少なかれ、およそ過ちを犯さない人間などというものはありません。つまり、人間を誤った裁判によって誤って死にいたらしめたならば、それは殺人罪と同じことになります。
 あなたが言われるように、確かに人間は、生まれながらにして死刑の宣告を受けているようなもので、いつかは死ななければなりません。死刑は、ただそれを早めるだけかもしれませんが、そうした早めさせる権利は、だれももっていないはずです。
 生命を縮めさせること、死を早めさせることが軽い意味しかもたないとしたら、殺人行為についても同じことになり、もはや大した罪ではなくなってしまうでしょう。
 自分の定まった人生を他人に妨げられないで生きる権利、つまり、生存の権利はこのうえない尊いものです。もし、一人一人の生存権が至上のものであるならば、これを侵すことは、どのような大義名分があるにせよ、罪悪とならざるをえません。
 生命の尊厳とは、他の何ものによっても代えられない、いかなる権力をもってしても侵すことができない、ということを意味すると思います。
 人間社会は、生命の尊厳を、もはや動かすことのできない、根本原理として認めながらも、国家に対しては、生命の尊厳を侵す権利を与えつづけているというのが現実ではないでしょうか。これこそ現代における最大の誤りであり、ここに一切の矛盾と悪の根源があると私は考えます。
 こうした観点からも、今日行われている死刑制度について、深い疑惑をいだかざるをえないのです。
 この生命の尊厳観に立って、国家は、死刑のみならず、さらに戦争という重大殺人権を放棄すべきだと、私は主張しております。個人による凶悪犯罪を一掃する道も、あるいはそこから開けるのではないかと、私は思うのです。
 一般に、死刑を廃止すれば、犯罪が曽えるのではないかといった議論もありますが、それは、人間の本性を″悪″と決めて、それを抑制するには権力以外にないという考え方、あるいは死刑という恐怖の処置によって犯罪を防ぐ以外にないという考え方の表れだと思います。
 しかし、人間の心は″悪″のみでもなければ、脅かしによってしか抑制できないような愚かな存在でもありません。人間は、本来、善悪の両面をそなえていますし、それを自制できる英知もそなえています。
 一人一人が、生命の尊厳に目を開き、そこに因果律にもとづいた″生命の法則″が厳然とあることを知ったとき、犯罪がいかに恐ろしいことであるかは、刑罰で脅かさなくとも生命の奥底から判然とするはずだと思います。
 クーデンホーフ 私は、死刑よりもむしろ拷問に強く反対します。
 第二次大戦中、私はあやうくナチの手を逃れて、スイス、イギリス、アメリカヘと亡命しましたが、私自身は、ナチの手で殺されることは恐れませんでした。しかし、ナチの拷問は恐れました。この恐ろしい拷問はなくしたいものだと思います。
 ナポレオンとビスマルクの時代、約百年にわたって、拷問が禁上になったことがあります。しかし、二十世紀に入ってから、ふたたび復活しました。多くの人が死刑には反対しますが、拷問はしかたがないと受けとめているようです。日本がそういう国にならないことを望みます。
 池田 話は変わりますが、生命の尊厳の問題に関連して、先進国における爆発的なモータリゼーションは、たとえば、日本では″交通戦争″とか″走る凶器″という言葉まで生みだしています。
 日本で、一九六九年の交通事故の死者が、一万六千七百人に達し、今や、物質文明に支配された人間性喪失時代を象徴している感があります。その解決策について、ご意見がありますか。
 クーデンホーフ 年間交通事故死が一万六千人以上というのは恐るべき数字ですね。
 一つの案として、日本は富める国になったわけですから、とくに、歩行者の人命を守るために地下道や歩道橋などの安全施設をたくさんつくるべきだと思います。
 現在、ヨーロッパでは、このような対策が大規模に行われていますが、歩行者よりも、まだ車のほうが優先されている傾向があります。
 パリのエトワール広場には地下道があって、ここはかつて、人身事故でひどいところでしたが、ようやく歩行者の安全が保証されるようになりました。中央・地方の政府、議会は、歩行者を守るための安全施設を最優先で増やしていくべきだと思います。
6  人間性喪失とコンピューター
 池田 現代文明の直面しているさまざまな問題をつきつめていくと、結局、人間性の喪失という問題に集約されると思います。科学技術、産業が発達し、社会が高度に発展すればするほど、人間のかけがえのなさ、尊さというものが失われていく傾向があります。
 本来、文明が人間から出発したものである以上、人間に帰着すべきものです。
 ところが、物質的豊かさとか、カネとか、権力とかいったものが中心になってしまって、人間はそれらの目的に奉仕する下僕になりさがってしまった感があります。
 私は、人間をふたたび文明の中心に位置づけして、学問も、技術も、政治も、経済も、産業も、まったく新しく立て直す必要があるのではないかと考えております。
 先にあなたは、第一次技術革命に対して、新たに第二次技術革命が行われなければならないと言われましたが、それは、どのような形で行われるべきだとお考えですか。
 クーデンホーフ 人間性の喪失こそ人類の直面している最大の危機である、というご意見には、私もまったく同感です。産業や科学技術は、ますます発達していくことでしょう。
 しかしこうした発達の結果が、すべて人間性の喪失に結びつくとは考えません。私は人間の英知を信じます。
 また、よく″古き良き時代″と言いますが、これは金持ちにとっての古き良き時代だったのであって、貧しい人にとっては″古き悪しき時代″だったと思います。
 池田 同じく人間性の問題ですが、コンピューターの登場によって、将来の国家は国民一人一人に関する、あらゆる情報を集めることができ、しかも、容易に抽出したり、活用したりできるようになるだろうと言われています。
 これは、かつてない強力な中央集権的な統治機構の出現を意味するわけです。そうなれば、個人のプライバシー、人間の尊厳、主体性に対して非常な脅威になると思います。この点あなたのお考えはいかがでしょうか。
 クーデンホーフ コンピューターは人間の自由にとって大きな脅威となるでしょう。もしも超全体主義国家によってフルに活用されるところとなれば、その強力な手先となることは間違いありません。
 つまり、国家によって、すべての人間が完全に掌握され、国家がある種の全体的人格をもつようなことになれば、これは、人間から、あらゆる自由を奪うことになり、すべての人間の尊厳が完全にそこなわれることになります。
 池田 それは恐るべき非人間的な社会と言わねばなりません。
 われわれは科学の進歩が与えてくれる便利さとか、能率の良さなどによって、それが無条件に人間の幸福生活にプラスするものと思いがちですが、便利さや能率の良さが、われわれを支配するために悪用される危険性を秘めていることに、気づかねばなりませんね。
 クーデンホーフ この点をさらに掘り下げて考えてみますと、こういった事態は宗教と道徳的基盤が危機にさらされた結果、起きるものとも言えましょう。
 もし、すべての宗教が行き詰まり、それに代わるべき新しい宗教も、新しい道徳的原理も生まれてこないとしたら、こうした事態が現実となり、その結果は、コンピューターや唯物思想によって、すべての社会がならず者の集団と化してしまうでしょう。
 万一、そんなことになれば、この世界には、二つの階級――武装した少数派と、武器を持たない市民の多数派――だけしか存在しなくなってしまうことになります。これは軍事的独裁、軍事国家、警察国家を意味します。
 一つの国で、無政府主義と専制主義のいずれを選択するかということになれば、無秩序の社会というものは本来、成り立ちえませんから、結局、専制主義になり、独裁者を出現させることになるでしょう。
 仮に無政府主義が、現代の産業化社会を支配したならば、ただちに、あらゆる生産や流通に破壊と混乱を与え、集団飢餓状態にまで追い込むことは必至です。したがって、人々は、無政府主義よりも、むしろ専制主義のほうをとるという結果になるのです。
 池田 人間の尊厳を脅かすものは、結局、人間自身です。では、その人間をそうさせていくものは何か――帰するところ、思想であると言えます。逆に言うと、人間性の確立に向かわせていくものも、やはり、思想ということになりますね。
 クーデンホーフ 私の考えでは、唯物主義は、あらゆる倫理的価値の基盤を破壊し、専制、武力統治、軍事的独裁、全体主義国家へと、直線的に結びつきます。
 自由は、市民が自由の権利を享受するに値するとき、初めて生きてくるものです。自由の権利に対して資格のある市民ならば、警察の取り締まりがなくとも、法律を遵守し、互いに自制しあって治安を保つことができます。しかし、ならず者の世界では、自由は蹂躙され、死滅するしかありません。
 スイスは小国ですが、その自由の理想の伝統のもとに、自由な人々が、平和と繁栄のうちに生活しており、民主主義国の一つの立派な模範と言えます。
7  真理と価値
 池田 現代文明に人間性喪失をもたらした原因を考えるとき、私は人々の行動の基準である価値観に問題があるように思います。
 価値観とは、人々の日常的な行動における判断の基準であり、あらゆる文化的、学問的探究や創造的活動の方向を決める″ものさし″とも言えるでしょう。
 従来、ヨーロッパの伝統的な唯心哲学の価値観では、カントの説いた真・善・美が人間の求めるべき価値の内容とされてきたように思います。
 近代以後、真理を探究する科学が大きな比重を占めるようになり、しかもその科学によってもたらされた″真理の発見″が、人類の運命をも支配するにいたりました。
 真理の発見は、確かに幾多の恩恵をもたらしましたが、しかし、同時に、取り返しのつかないマイナスにもなってしまった、というのが現代文明の実情ではないかと思います。
 これを、よく考えてみますと、真理は元来、認識の対象であって、評価の対象ではない、ということを無視したのが原因とは言えないでしょうか。
 もちろん、正しく評価するために、真理を知る必要がありますが、真理そのものはプラスの価値にもなれば、マイナスの価値にもなります。それを単純に、真理をそのままプラスの価値としてきたことが、人類に不幸をもたらす原因の一つとなったと思いますが、この点あなたのご意見はいかがでしょうか。
 クーデンホーフ ヨーロッパにおいて、真理の価値が過大評価されてきた、というあなたの批判には、私も、まったく同感です。真理は科学にとっては、非常に重要ですが、芸術にとっては、ほとんど意味がなく、ましてや道徳にとっては重要ではありません。
 ヨーロッパでは、どの宗教にも、ほかの宗教にはない真理があると信じられています。預言者の説いた教えだけが、唯一の真理であって、他の教えはことごとく誤りである、ということです。
 だから人々は、あるいは偽りであるかもしれない真理のために、みずからの生命を犠牲にしたり、他人をも殺したりするわけです。
 中世ヨーロッパのカトリックでは、聖書によって真理とされたことがらに異議を唱えるものに対して拷問が行われました。
 しかし、カトリックだけを責めるのは不公平でしょう。プロテスタントの創始者の一人であるカルヴァンは、三位一体説を否定したというだけの理由で、スペイン人セルヴェトを死刑に処しました。真理への盲信のために西洋は狂信と不寛容に走ったのです。
 池田 私どもも、教義のことについては、まったく同じ考え方をもっております。ただ、あえて言うなら、宗教が教義上の問題で潔癖を貫くのは当然のことでしょう。
 しかし、それはあくまで教義自体についてであって、人間や個人の尊厳に対しては、最大に寛容でなければならないと考えます。その点、アジアの仏教や儒教は、この寛容さを非常に大事にしてきたと言えるのではないでしょうか。
 クーデンホーフ 私は、日本の仏教と神道が、狂信的にならず、互いに寺社を共有してきた事実を、高く評価してきました。
 ギリシャの賢者ソクラテスは、真理に対して別の見方をしていました。「私が知っている唯一のことは、私が何も知らないということである。しかし、人々は、このことすら知らない」と言っております。
 キリスト教徒は、たいてい、シナイ山上の十戒の一つが「汝嘘をつくなかれ」であると信じていますが、じつは間違った解釈です。この戒律の正しい読み方は「汝謗るなかれ」ということで、別のものです。
 嘘のない人生なんて、およそ耐えられないでしょう。もし、今日、超大国の首脳が会議を開き、それぞれが真実であると考えていることを、そのまま語ったとしたら、明日にでも世界大戦が始まるかもしれません。しかし、幸か不幸か、外交は真実ではなく「ていねいな嘘」を前提としています。
 もちろん真実を愛する人が、道徳的に嘘つきよりも優れているのは当然です。人間にとって、誠実は偉大な徳性です。しかし、真理や真実が美と同じように徳性であると考えるのは誤りです。
 この点からも、真理を最高の価値の一つとするヨーロッパの偏見を、あなたが指摘されたことは正しいと思います。
 池田 多くの人が、真実という問題について迷うことは、つねに、真実を話すべきかどうかということだと思います。この点、あなたは、どう考えますか。
 クーデンホーフ 私は、だれしも自分自身に対しては誠実であるべきであり、また臆病にかられて、人を中傷したり、嘘をついたりしてはならないと思います。しかし真実を話すと、相手を傷つけることになる場合もあり、やむをえず嘘をつかなければならないこともあります。
 われわれは、社会生活において、真実と偽善、または真実と礼儀、というように、二者択一を決めなければならない場合にぶつかります。こういうような場合に、つねに本当のことをしゃべってしまう人は、男女を問わず、じつは、人間に値しないのではないでしょうか。
8  幸福と平和
 池田 次に、幸福ということについてですが、人間は、だれしも幸福を求めて生きていると言えます。
 そこで、いかなる状態を幸福というか、幸福とはいったい何かということについては、種々の議論があります。あなたの幸福論をうかがえませんか。
 クーデンホーフ 私は、調和こそ幸福の主な源泉であると考えています。調和は数学や、幾何学、音楽などにおいて大切な要素とされており、また均衡、対称という概念とも密接なつながりがあります。
 調和は第一に、美の基本的な要素であり、さまざまな幸福を創り出します。われわれ自身の中の調和、家族や友人との間の調和、社会環境との調和、食欲と食物との調和、身体の調和そのものである健康、職業と経済生活との調和、そして平和と繁栄による国際的な調和などです。
 調和とは、われわれの生活が恐怖政治によって支配されていないことを意味します。
 しかし、調和は幸福の唯一の形態ではありません。それは、どちらかといえば、女性的な価値で、むしろ勝利と支配を求める男性の本能とは対照的なものです。
 ライオンはカモシカを殺したときに幸せを感じ、英雄は敵を倒したときに幸せを感ずるでしょう。これらは、男性的な幸福と言えるようです。
 しかし、ここで考えねばならないことは、幸福は善に結びつかないかぎり、それだけでは道徳的価値とはならないということです。幸福は生活の価値の一つであり、われわれにとって行動の原動力となるものです。
 池田 人間は、これまで科学技術が発達すれば、より幸福になると考えられてきました。しかし、科学技術の発達が必ずしも人間の幸福に結びついているとは言えません。この問題については、どうお考えですか。
 クーデンホーフ 先に、私は、科学技術や産業の発達が、人間性を失わせるとは考えない、との意見を述べましたが、それは、こういうことです。現代は、百年前に比べれば、いろいろな面で条件が良くなっていると思います。
 第一に、近代産業と科学技術の発達は、多くの″手″を重労働から解放しました。人力車を引くより、タクシーを運転するほうが容易であり、能率的です。
 第二に、人々は科学の発達によって、かつてないほど多くの自由な時間をもてるようになりましたが、さらに、今後の技術革命はたんなる生産力第一主義でなしに、公害を制圧し、労働をできるだけ快適なものにし、人間の尊厳と幸福を高めるものでなければならないと考えます。
 機械が行うことのできる作業は、できるだけ機械に任せます。しかし、どうしても労働によらなければならない仕事や、必ずしも快適ではない仕事にたずさわらなければならない人たちには、余分に自由な時間を与えて、その苦労をおぎなってやるべきでしょう。そうしてやれば、たとえ仕事自体は楽しくなくても、余分のレジャー・タイムでつぐなわれるでしょう。
 第二次技術革命は、もちろん″公害に対する戦い″となるべきもので、そのために必要とあれば、生産を抑えることもやむをえないでしょう。なぜなら、生産自体は最終目的ではなく、美と幸福をもたらすための手段なのですから。
 池田 幸福に関連して、次に平和ということについて、ご意見をうかがいたいと思います。
 人間の世界、ひいては生あるものの世界は、一面では一切が戦いの歴史であるとも言えると思います。人間のこの社会も、武器による戦いではなくとも、経済の戦争、思想の戦争がつづいています。平和といっても、いかなる状態をもって平和とするかは、きわめてむずかしい問題だと思います。
 私は、生命の尊厳がすべてに優先する状態、すなわち、いかなる目的のためにも生命が犠牲にされることのない状態が″平和″というものではないかと思いますが、いかがでしょうか。
 クーデンホーフ 平和とは何かという問題に答えるのは、幸福とは何かという問題に答えるのと同じようにむずかしいことです。平和とか幸福とかいうような基本的な価値は、論理や頭では説明できないもので、心によって感じとる以外にないと思います。
 生活とは、つねに闘争です。人間同士の間でも、動物の世界でも生命が存続するかぎり、闘争がつづきます。この事実を遺憾だとする理由は何もありません。
 闘争は、あらゆる競争の根底にあるものであり、完成への道程です。最も強いものが勝ち、最も美しいものが生き残ることが、進歩と繁栄の秘訣です。
 闘争は、騎士精神でもあります。日本の武士道は、闘争を演劇にまで高めました。男は皆戦わなければなりません。唯一の問題があるとすれば「騎士のごとく戦うか、悪人として戦うか」でしょう。闘争を美化するのは、フェアプレーのみです。
 池田 私は思うのですが、宗教だけが、真の世界平和を保証することができるのではないでしょうか。
 クーデンホーフ そのとおりです。政治ではありません。
 私は、正当防衛のための行為が犯罪であるとは思いません。
 これまでも、侵略戦争は別として、防衛戦争は必ずしも非道義的とはみなされておりません。この侵略戦争をすべて絶滅するために国際政治は努力をすべきです。
 長期にわたって平和を維持することが、決してたんなる理想ではないという証拠に、スイスとスウェーデンの例があります。しかし、真に世界平和を保証する唯一の道は結局、宗教以外にはないと思います。
 宗教ないし道徳的な価値というものをもたない人々は、恐怖政治によって飼いならされてしまうことになるでしょう。聖職者は警察官によって取って代わられ、自己統御が警察統制によって取って代わられてしまいます。私は、人類の将来は、まさに、宗教の興亡いかんにかかっていると思います。
9  女性と政治
 池田 あなたは、女性こそ平和の母体である、と言われていますが、私もまったく同感です。しかし、その女性の特質は、今日必ずしも十分に発揮されているとは言えません。日には男女平等が叫ばれても、現実は、両性の地位にあまりにも大きなギャップがあるからです。
 その原因は、第一に、それを支える理念の欠如にあり、第二に女性の特質についての認識の欠如にあると思います。
 私は、その意味からも、男性と女性がそれぞれの特質を理解しあい、とくに女性に対して、もっと社会的に進出する機会が与えられるべきだと考えます。
 クーデンホーフ 私の持論は、女性がより大きな役割を果たす機会が与えられれば、それだけ世界が平和になるということです。なぜなら、女性は本来、平和主義者だからです。
 子どもを見ても、女の子は、皆人形で遊びますが、男の子の遊びは、どこでも戦争ごっこです。世界中、どこの国でも、男性が興味をもつことは、相手を負かすことです。
 これは映画を見てもわかるとおり、最近の映画の二つのテーマは殺人とセックスです。スパイ映画やアクションものでも、興味をわかせるのは殺人の場面です。これは何千年も前から、男性の殺伐な欲求でした。野獣を殺し、敵を倒して、家族と自分を守るのが男性の役割だったのです。
 だから男性が、すべて生まれながらの闘士であるというのは、きわめて自然な姿です。男性とは、立派であればあるほど、ますます戦士であるわけです。
 男性は頭の中では平和主義者でも、心ではやはり戦士のままです。だから、男性の支配がつづくかぎり、地球上の平和はありえないでしょう。
 池田 男性と女性の特質がともに十分に発揮されて、本来の調和が保たれていくことになるわけで、それが真の意味の平等だと私は思います。そこから、女性の具体的な役割も出てくるわけでしょう。
 クーデンホーフ そうです。女性は男性よりも、はるかに誠実な平和主義者です。
 女性は生命をはぐくみ育てるのが本能であって、殺戮を望みません。それは、自然が女性に、男性にはできない使命を与えたためです。たとえば、世界中どこでも、婦人運動はつねに、平和運動と密接につながっているはずです。
 池田 いつの時代でも、戦争で最も苦しむのは女性の側です。私も、長兄の戦死の知らせがきたとき、悲しみにじっと耐えていた母親の姿をいまだに忘れることができません。
 そこで私が強調したいことは、女性の幸、不幸の姿こそ、一つの社会、一つの国が安泰であり、健全であるかどうかの具体的な表れだということです。そして、これこそ、人類の未来にとって重要な道標となるものだと思います。
 さらに言えば、女性の幸福を保証できる指導者や為政者こそ、本物の指導者・為政者だというべきでしよう。
 クーデンホーフ 私は、女性がいっそう政治に力をもつようになることを願っています。政治面で女性に開放されている仕事はたった一つ、女王という任務だけだと言われ、政治家、官吏、外交官など、いかなる政治上の仕事からも、概して女性は除外されてきました。
 今日なお、多くの男性は、女性に政治能力がないと考えていますが、歴史はまさにその逆であることを示しています。
 数こそ少ないですが、ヨーロッパを支配した女王たちは、いずれの国においても、最も優れておりました。
 オーストリアの、最も偉大な国王は、マリア・テレサ女王で、その前にも後にも、彼女の右に出る国王はでていません。また、イギリスでは、エリザベス一世女王、ロシアでは、キャサリン女帝、スペインではイザベラ女王が、それぞれ最も偉大な国王でした。
 女王のほうが優れていたことは、このように歴史の示すところです。したがって、女性が政治家として、また指導者として劣るという考え方は、まったく偏見です。私は、反対に女権拡張運動こそ重要な世界平和への運動であると信じています。
 池田 現実に、インドのI・ガンジー首相、セイロン(=現スリランカ)のバンダラナイケ首相、イスラエルのメイア首相など、優れた婦人政治家が現れてきているのは喜ばしいことですね。
 女性こそ、本来生命をはぐくむ特性をもった平和の担い手であり、だからこそ女性は、その特性をもって、積極的に社会に進出していくべきだ、とのご意見には、私も賛成です。
 しかし、そのためには、女性のみならず、男性も認識を変え、意識を改めていかなければならないと思います。それには、どうしたら良いか、何か具体案がありますか。
 クーデンホーフ 私は、女性のみによる政党結成を提案したいと思います。世界平和のために、女性だけが立候補できる政党です。
 女性の有権者に対しては、当然、最優先で投票するよう呼びかけます。もちろん、男の有権者も女性候補者に投票できます。地球上の女性は、男性より数が多いわけですから、そうなれば、女性が国会や内閣で過半数を占めることも、決して不可能ではないでしょう。
 池田 私もそう思います。それには、やはり私は、今日、男女ともにいだいている――女性には、政治的才能がもともと欠けている――という先入観を、きっばり捨てることだと思います。
 そのかわり、政治の場に立つ女性は、その自覚に立つと同時に、みずからも思うぞんぶんに女性らしい持ち味を発揮して、その声を政治に反映していけるようであってほしいと思います。
10  女性の役割
 池田 ところで、女性は、互いに力を合わせるという面が非常に苦手だと、しばしば指摘されるところです。あなたがおっしゃる女性の力をこの社会に反映していくためには、女性の団結ということが大事になってくると思います。
 利害の打算、醜い憎悪や嫉妬の感情に汚されない、女性同士の美しい団結の花を咲かせ、人間関係の不信と憎悪の世界を、信頼と調和のリズムで包容し、転換していくこと、これは女性の団結に対する私の希望でもあるのですが……。
 今、女性は平和の担い手として、力強く、歴史の主役を演じなければならない時を迎えています。
 本来、平和主義者としての女性の面目をいかんなく発揮するためには、決して自分中心の狭い世界にとどまっていてはならないと思います。そして、男女双方の特性があいまって、初めて調和ある世界が築けるわけです。
 本性的に生命の尊厳を知っている女性こそ、現代という生命軽視の風潮の時代にあって、よりいっそう、社会の諸活動に参加して、強いリーダーシップをもっていかなければなりません。
 そのためには、女性は、もっと社会的自覚と責任に立つべきだと考えます。
 歴史を振り返ってみても、たとえば戦争の絶滅という問題について、女性の声が力強く反映されたとは言えないのではないでしょうか。
 それは、男性と同じような権利が与えられていなかったことにもよりますが、女性の側にも責任があったと思います。つまり、女性が、それぞれの小さな殻に閉じこもっていて、積極的に社会への視野を広げなかったことにも原因があるのではないで
 しょうか。
 女性も、あくまでも主体的に、社会の諸問題に取り組んでいく姿勢が、今後ますます大事だと思います。
 クーデンホーフ 女性が戦争を憎む一方で、強き者、戦士を愛するというのは、おもしろいパラドックス(逆説)です。
 女性が強き者を愛するのは、男性の保護のもとにありたいという本来の願いから出たものでしょう。ですから、女性はえてして平和主義者よりも、英雄的な戦士を選ぶという危険があります。
 このことから考えると、私が提唱した女性のみによる政党ができたら、女性の有権者は同性の候補のみを選ぶようにしたら良いと思いますね。
 いずれにしても、女性が参政権を得たことは、恒久平和に向かっての決定的なステップとなったと言えましょう。
 池田 最近のいちじるしい傾向に、婦人の家事労働の軽減があります。こうした傾向は、さらに進むでしょう。そこで、自由時間が増えてきたという新事態に、女性はいかに対処すべきか。また、社会は婦人のエネルギーをどのように吸収すべきかということが重要な問題となってきます。
 そこで、女性の権利と力について、ご意見をうかがいたいと思います。
 クーデンホーフ 私は、二つの事実の認識の上に立たなければならないと思います。
 第一に、男性と女性とは極端に違うということです。たとえば、日本人の男女の違いは日本人の男性とヨーロッパ人の男性の違いよりも大きいと言えます。
 男女は互いにかけ離れた二つの世界に属しています。自然は別々の責任や義務を課しているわけですから、本来、両性は同じ責任・義務を果たすことができません。
 女性の主な仕事は、子どもを産み、育て、その一生の初めの大切な時期に教育を与えることです。
 しかし、子どもが成長してしまうと、時間に余裕ができてきて、あとはせいぜい孫の子守りをするぐらいしかやることがなくなってしまいます。こうした婦人たちこそ、男性を助け、アドバイスを与え、政治的活動に入っていくべきです。
 私は、世界中で女性が議会と政府の半分を占めるようになれば、世界平和は盤石になるだろうと考えております。
 第二に、男性が女性よりも知性的だというのは、大変根の深い偏見だということです。この偏見は打ち破らなければなりません。女性より男性のほうが、有名人が多いのは事実です。しかし、それは女性に教育の権利と機会が平等に与えられていなかったことによるものです。
 もしも、ラジウムの発見者キュリー夫人が、もう百年早く生まれていたとしたら、おそらく勉学する機会が与えられなかったことでしょう。またもし仮に、ニュートンが女性であったとすれば、せいぜい料理上手の一介の主婦で終わっていたかもしれません。
 しかし、今や多数の国において女性は勉学する権利と機会を享受しているわけですから、女性は知性においても男性と平等であると認められるべきです。現実には、しかし、まだ政府、議会、企業など男性支配が一般的です。
 ただし、一つ例外があります。それは秘書の仕事です。ヨーロッパでは、過去二十年の間、秘書の仕事も男性によって占められていましたが、今日では、女性がこの仕事を征服しています。
 もう一つの興味ぶかいことは、自動車が普及し始めたころのことですが、女性に運転を許すべきではない、という議論がありました。ところが、自動車事故の統計によれば、女性のほうが男性より事故が少ないことが明らかとなっています。
 スウェーデンでは、女性の事故率が大変低いことから、自動車保険料が男性よりも一〇パーセントも割り安だということです。
 池田 女性の秘められていた力がしだいに開発されてき、また、そのことについて男性も認識し始めたということでしょう。ともかく、固定した枠をもうけて、人間をそこに押しこめてしまうことは、非常に危険なことだと思います。
11  男女平等
 池田 次に男女平等についてですが、男性と女性とは、人格的にまったく平等であるという考え方がまず確立されなければならないと思います。そのうえに立って、男性と女性が、それぞれの特性をともに生かしきっていける社会を築くことが大事だと思います。
 それぞれが特質をもっていて、しかも、人間としての価値に差別はないというのが、正しい男女平等のあり方ではないでしょうか。
 これまで男女平等という言葉はあっても、その実質は明らかにされていなかったように思えます。本来、両性の人格的価値の平等、具体的には、社会活動に参画する機会の平等という明確な観点から、男女平等が考えられていくならば、女性に対してさらに大きい門戸が開かれるのではないでしょうか。
 現在のウーマン・パワーの運動も、たんに女性が平等の権利を要求するということだけで始まったものではないように思えます。
 つまり、現代文明に行き詰まりをもたらした原因の一つは、女性の特質である平和主義が反映されなかったことにあるわけで、そこで、ウーマン・パワ―は、女性こそ新しい時代づくりのための重要な役割を果たすことができるという認識から発しているのではないでしょうか。
 子どもを育て、生命の尊さを、みずから骨身にしみて知っている女性こそ、生命軽視の風潮の強い現代にあって、よりいっそう強いリーダーシップをとっていくべきだと思います。
 クーデンホーフ 同感です。女性解放は、女性に平等の権利を与えることであり、これは平和の理念と密接な関連があります。ここに、ヨーロッパのある小さな歴史的逸話があります。
 十六世紀にヨーロッパの支配をめぐって、スペインのカルロス一世とフランスのフランソフ一世が争いました。両国は、和平を実現すべくあらゆる手をつくしましたが、失敗に終わりました。
 そこで、ついに二人の婦人――フランス国王の母とスペイン国王の叔母が和平工作にあたりました。
 二人は、平和条項について、まもなく話しあいによって合意に達し、今日なお「カンブレーの婦人和平」として知られた、輝ける歴史の一ページをつくったのです。
 池田 これまでも女性解放運動や、とくにわが国でいえば第二次世界大戦後の男女同権の要求は、人間という本質的命題に立ち返っての論議、要求ではなかったように思います。いうなれば、そこまで掘り下げるゆとりがなかったとも言えます。
 ただ政治的、社会的次元のうえで封建的な因習や、法律的規制から脱して、男性と平等の権利を取得することに、汲々としてきたというのが実情ではなかったかと思うのです。
 結局、人間としての幸福を前提にしないかぎり、いかなる女性解放運動も、真実の成果を挙げることはできないと思います。
 ところで、最近、アメリカのウーマン・リブが注目を集めており、ヨーロッパでは、ベルギーが盛んだと聞いていますが、アメリカやヨーロッパの女性は、男性から抑圧を受けているという意識をもっているでしょうか。
 クーデンホーフ 女性が抑圧を受けていることは事実で、その結果、ウーマン・リブの意識は高まっています。女性の平等権についても、まだ観念にとどまっているようで、現実の社会は男性支配であり、女性は、今なお脇役の地位でしかありません。
 四千年前の社会は、これとまったく逆でした。当時、政治の実権は、女性の側にありました。
 今日では、男性支配となり、女性は抑圧されております。ウーマン・リブに表れた女性の台頭は、それが世界平和の理念と結びついているだけに、建設的な革命だと思います。
 池田 今日、世界的にみて、女性の社会的進出が最も活発なのは、ソ連などの社会主義国であろうと言われています。
 先ほど、あなたは、欧米自由諸国では、女性の地位は向上しているものの、現実には差別が依然、激しいと言われましたが、この自由主義国と社会主義国との違いを、どうご覧になりますか。
 クーデンホーフ ソ連の女性がアメリカの女性よりも、地位が高いかどうかは知りません。私は、女性が最高の地位を得ている国は、やはり、アメリカではないかと思います。ソ連では医学博士の半分ぐらいが女性だとは聞いていますが……。これまでは、ヨーロッパに比べれば低い地位に置かれていたように思えます。
 ヨーロッパでは、伝統的な騎士道のためか、女性はつねに尊敬されていました。今でも、婦人の手に接吻し、また婦人が部屋に入ってくるとき規律する習慣があります。これは、ヨーロッパの騎士道のなごりです。
 池田 日本の女性については、いかがでしょうか。
 クーデンホーフ 私は、日本女性は私の母一人しか知りません。帰国後、若くして未亡人となった母は一人で私たち七人の兄弟を育ててくれました。
 母は、生涯日本の音楽を愛し、また画の才能もあるといった、芸術を理解する女性でした。母は鉄の意志と深い使命感をもった、非常に知的な女性でした。
12  教育
 池田 現在、日本では幼児教育の重要性が強調されていますが、この問題については、私も深い関心を寄せている一人です。
 私は、生まれたばかりの赤ん坊というのは、白紙と同じだと思います。かつて、インドで狼に育てられた子どもが発見された有名な話があります。その子どもは、体は人間であっても、生活態度や行動は、狼とまったく同じだったということです。
 苦心の末、言語も数十語まではなんとか教えたけれども、最後まで人間と同じ思考や会話はできなかったそうです。
 子どもというのは、初めから人間ではなく、人間が人間として育て、教育することによって人間らしくなっていくわけです。極端に言えば、人間は、一生をかけて一人前の″人間″となるために努力していくものだと思います。その最も大事な時期が幼児期であるわけです。
 残念ながら、今日本で議論されている幼児教育は、たんなる知識教育や才能教育という観点に重点が置かれています。
 私は、幼児教育において、最も大切なことは″人間教育″であると考えています。この点、あなたのご意見をお聞かせください。
 クーデンホーフ 私は、幼児に対しては自制心を教えるべきだと思います。欧米の現在の育児法は、自制心を教えることに反対しています。抑制する結果になるのではないかと恐れているためです。私は、しかし自制心こそ、幼児が身につけるべき、最も重要な教育だと思います。
 池田 日本女性であった、あなたの母、光子夫人は、あなたがたご兄弟に対してどのような教育をされましたか。
 クーデンホーフ 若くして夫を失ったあと、七人の子どもを立派に育ててくれたのですが、母は、子どもの教育については、夫である私どもの父の精神を、そのまま受け継いでおりました。つまり、日本人としてではなく、ヨーロッパ人として、キリスト教徒としてでした。息子たちよりも、娘たちに対して、より厳格でした。私は、こうした母がいなかったとしたら、決してパン・ヨーロッパ運動を始めることはなかっただろうと考えています。
 池田 まことに、母親の感化は偉大だと思います。
 あなたは、社会を指導するのは、選ばれた頭脳でなければならないと言われていますが、現在のようなマスプロ教育制度のもとでは、高い知性と優れた精神の教育は不可能ではないかと憂慮されます。
 そうしたエリート教育と民主主義体制が要求する大衆教育の普及化とを両立させるためには、どうしたら良いと思いますか。
 クーデンホーフ 私は、二つの教育形態がなければならないと思います。大衆教育と、知的で道徳的なエリートの指導者教育です。
 指導者教育については、知性豊かな青年男女を選ぶ必要があります。そういう青年こそ大学で教育し、強い正義感と責任感をもった指導者を育てあげるべきだと思います。
 ナポレオンは、そのような指導者教育のため、高等専門学校を創立しました。この学校は、今日でもあります。成績優秀な学生であれば、だれでも入学でき、今日まで百五十年の間、フランス共和国の指導者の多くが、この学校から輩出されました。
 彼らは、政治家になるか、文筆家や教師や教授となり、フランス国民の指導者・教育者になりました。また、多くの作家が、この学校から育ちました。
 自国を、より良き未来に導くためには、あらゆる国で、このような学校を設立し、知的な指導者層を育てるべきでしょう。
 池田 巨大化した産業社会においては、学問の自由が、目に見えない形で強く抑圧され始めています。一九六八年をピークとしたスチューデント・パワーは、それへの抗議が動機の一つであったと思えます。
 そこで、文明の進歩のために今一度、学問の自由を取り戻さなければならないと思います。この点、いかがでしょうか。
 クーデンホーフ もつと若い世代の教師を起用する必要があると思いますね。彼らは、青年に対する理解において、違った世界、違った世代、あるいは違った世紀に生きてきた古い教師たちよりも、それだけ断絶が少ないからです。
 池田 現在、日本で、教育権は国家ではなく、国民の側にあるべきだとする主張が論議されています。
 この点、私は前々から、四権分立を考え、教育を立法、司法、行政の三権に並んで独立したものとすべきであると主張してきました。
 今日、世代の断絶が叫ばれていますが、現在の様相は、その溝を埋めるべき教育から火がついた感があります。これは、政治権力に追随している、また追随せざるをえなくなっている教育のあり方に問題があると思います。
 クーデンホーフ 一般に古い世代は若い世代を理解しようとしません。若い世代が新しい世界に生きているのに、古い世代のほうは依然古い世界から抜け出ようとしていません。古い世代が、もっと理解に努めるべきであり、他方、若い世代もまた古い世代をもっと尊敬しなくてはならないと思いますね。
 この点、日本では仏教や儒教の影響で、若い人たちが年配者を大事にしていますが、この精神はもっと強調されてよいと思います。この傾向は、ヨーロッパでは失われつつあります。むしろ、しばしば古い世代のほうから、若い世代を尊敬しようと努めています。
13  現代、未来の青年像
 池田 一九六八年以来、世界中の若者たちが、強固な既成体制に対して、過激な手段で反抗を試みてきました。一時、収まったかに見えても、問題の本質は少しも解決されたわけではありません。
 ところで、彼らの反抗は、いずれも暴力的な方法に訴える点で共通しています。こうした暴力的な反抗と比較して、かつてガンジーがとった非暴力主義を、あなたはどう評価されますか。
 クーデンホーフ 歴史的にみると、ガンジーの非暴力運動は、この種の抵抗に寛大な態度を示したイギリス政府に大きな名誉を与えるべきものであったと考えます。
 当時、もしもイギリスの支配者たちが、ヒトラーのようなファッショであったとしたら、ガンジーと、その仲間たちは、皆虐殺されてしまったことでしょう。したがって、ガンジーの非暴力運動を成功させたのは、一面では、イギリスの寛大な統治であったとも言えましょう。
 現代の若者の暴力は、一面では、彼らがエネルギーのはけ口を闘争に求めているということでしょう。大きな戦争がないために――それは大変良いことですが――反抗によってエネルギーを発散させようとしているのだ、と言えないでしょうか。
 池田 こうした若者たちの反抗がなぜ起こったか。その原因を、あなたはどうご覧になりますか。
 クーデンホーフ いろいろな理由が挙げられると思います。第一の理由は、彼らより古い世代が第二次世界大戦を阻止しえなかったということです。若い世代は、もし古い世代がもっと賢明であったならば、この戦争を引き起こすことはなかっただろう、と考えているわけです。
 第二の理由は、現在の社会が、若い世代のもつ理想主義を満足させることができないということです。とくに、衰退の一途にあるキリスト教に代わるべきものを見いだせないため、あるいは、革命的な思想に走ったり、また、麻薬を使ったりしています。
 第三の理由は、今日の大学機構の中に多くの問題があるということです。その結果、学生たちの闘争本能が、話しあいよりも、暴力的な行動に訴えさせるわけです。
 池田 今挙げられた理由は、私も一つ一つ納得できます。たとえば第一の「第二次大戦を引き起こした責任への反抗」という点は、私は、若者たちのレジスタンスの一つの大きなテーマである″反権力″″反国家主義″というものに、よく表れていると思います。
 あの大戦を引き起こした主役は、なんといっても″国家主義″であり″権力″です。
 しかも、インドシナでは、今日なお、若者たちを戦争に駆りたてています。そして、彼らから、平和と生命の安全、自由の権利を奪っているのが、″国家″であり″権力″です。若者たちが、それらに対して徹底的に反抗しようとするのは、私は当然なことだと思います。
 にもかかわらず、多くの若者たちが、ある種の絶望感、挫折感におちいっているように思えます。アメリカなどでは、多くの青年たちが、ヒッピー化し、麻薬におばれて現実から逃避しようとしています。本来なら前途に希望多かるべき青年たちが、みずから身を滅ぼしていくのを見るのは、大変痛ましいことですね。
 クーデンホーフ 私の意見ですが、人類の未来は、明敏な頭脳が主導権をにぎる世界となるだろうと思います。したがって、現在の学生たちが明日の世界を決定づける指導者となるのであって、彼ら自身は、その自覚に立って、未来に向かって自己形成し、準備をするべきだと思います。
 池田 世界の若者は、要するに″生きがい″を求めているのだと思います。言葉をかえて言えば、″生きるに値する価値″を求めているのです。生きるために精いっぱいであった段階から、この″生きていること″を、何のために生かすかということが重大事となった段階に入っています。
 技術的な要素が強かったこれまでの価値観に比べて、二十一世紀に向かおうとしている人類に求められている新しい価値観は、人間の内面に深くかかわる問題であり、したがって、きわめて宗教的なものであると思います。
 クーデンホーフ 私もそのとおりだと思います。
 若者たちのために、こういう提案はどうでしょうか。
 たとえば、青年男女を訓練して、二千人から一万人のグループに組織し、地震などの災害救助活動に乗り出すのです。そして、仮に、世界のどこででも地震が起きたら、その救済のために、これらの青年男女を飛行機で現地へ派遣します。
 これが実現すれば、全世界の青年たちにとって、素晴らしい目標となるでしょう。
 池田 なるほど、興味ぶかいお考えですね。
 青年たちは、あまりにも虚偽・虚構にいろどられた社会に反発を感じているように思えます。言葉そのものも抽象化されて実態のないものが多いですね。思想といっても色あせてしまって、それがどれだけ生きがいへの力となるか、疑わしくなってきています。
 青年が求めているものは、虚像ではなく実像です。確かな実感であって、むなしい言葉ではありません。
 目標を失い、充実感もなく、自分の生命を心から燃焼させることのできるような確かなものがない、そうした挫折感に覆われた青年の気持ちを、われわれは、もっとくんであげなければならないと思います。
 私は青年たちが好きであり、これまで多数の若い世代と対話をしつづけてきました。結局、青年とともに生きよう、青年とともに前進しようとする指導者のいないことが根本の問題だと思います。
 そして、もっと青年のもつ多面的な可能性を開いていけるように、社会体制の改革を図っていかなければならないと思います。
 現代の社会体制は、青年のためよりは、大人たちのため、既成体制の利益を守るためのものとなっています。そして大人たちは、かれらが定めた運命のコースを青年たちに強いているのだといっても過言ではありません。こんなことに青年たちは我慢がならないのです。
 われわれは青年を尊重し、その隠された可能性を十二分に発揮できるような社会を、われわれの責任においてつくるべきです。もし、すぐにできないとしても、その姿勢は、次の世代に必ず受け継がれていくのではないでしょうか。
14  テレビ、人口問題、恋愛と結婚
 池田 現代は″テレビ文化の時代″と言われているとおり、とくに先進産業社会においては、夜の家族団欒の時間が、ほとんどテレビ視聴に費やされているようです。そして家族同士の対話を欠き、夫婦や親子の断絶を生む一因にもなっています。
 テレビ文化が人間の意識形成や価値観におよばしている影響は、大変大きいと言えます。これは、いろいろな角度から考えられると思いますが、とくにあなたがお感じになっているのはどういう点でしょうか。
 クーデンホーフ テレビは、たとえばアメリカでは、立法・行政・司法のバランスの上に立った大統領制中心の政治機構を変えつつあるように思えます。
 これまでは、議員のみが、自分の選挙区の有権者を戸別訪問するなど、直接有権者と接してきたわけです。今日では、テレビを通じて、大統領がどの家庭にも入り込み、直接話しかけられるようになりました。もっとも、国民のほうからは大統領に話しかけることはできませんが……。
 その結果、議会と大統領の間のバランスがくずれて、大統領のほうがずっと有利な立場になっています。こうして、アメリヵでは、テレビは、ある意味で代議政治制の脅威になっていると言えます。
 テレビは、視聴者の意識や判断をリードして世論を形成するうえで、新聞よりも影響力があります。そのため、有権者の自主的な判断力が、以前よりも低下しているのではないかと思われます。いわゆるタレント出身の政治家の出現などはテレビ文化の影響と言えますね。
 池田 次に、人口問題についてですが、地球が支えられる人口の絶対的限度は、どんなに多く見積っても、三百六十億人ぐらいだという説があります。今の人口の約十倍です。
 現在でも、人類の多くが飢餓状態にあり、このまま人口が増えていけば、将来、食糧問題はますます深刻になることは必至です。この問題の解決について、あなたのご意見をうかがいたいと思います。
 クーデンホーフ 人口問題の解決は避妊法を普及して出産率を低下させる以外にないと思います。生まれてくる子どもの九〇パーセントは母親の望んでいない子どもと言われているくらいです。現在、人口過剰に悩む国々への最高の援助は、避妊法と言えるかもしれません。
 もう一つ私が考えているのは、世界の食糧は、将来、陸よりはむしろ海洋から得られるであろうということです。
 これは、人類が海洋を汚染してはならない重要な理由の一つです。豊富な食糧供給源である海洋を汚染することは最大の悪である、と言わなければなりません。
 池田 食糧問題に関連して、日本では反対に、米の生産が多過ぎて、それが重要な政治問題になっております。この余剰米の対策について、いいお考えがあれば、おうかがいしたいと思います。
 クーデンホーフ 私は経済学者ではありませんから、この問題は私の専門外ですが、しかし、二つ私案を申し上げましょう。一つは余剰米を、低開発国や、飢餓国の児童への救済援助にあててはいかがでしょうか。
 もう一つは、日本酒を世界に宣伝してみてはどうでしょうか。ヨーロッパではブドウ酒やウイスキーやウオツカの味を知らない者はいませんが、日本酒の素晴らしい味を知っている人は、ごくわずかです。そこで、日本酒を大いに宣伝し、輸出すれば、余剰米問題解決の一助にならないでしょうか。
 池田 次に、うかがいたいのは、恋愛と結婚の問題です。
 現代社会では、恋愛は恋愛、結婚は結婚と別々のものとして割り切ることが若者らしい近代的な行き方であるかのように言われていますが、私はそれは間違いだと思います。やはり、真剣な恋愛は、結婚という実を結ぶためのものであるべきです。
 家庭生活というものは、一つの生命体と同じで、夫婦が互いにたゆまず努力し、成長していってこそ、幸福な家庭が舞かれるのであって、そこに夫婦の愛情の年輪、家庭の年輪が刻まれていくのではないでしょうか。
 恋愛と結婚についてのまじめな考え方こそ、こうした家庭生活の出発点となり、支えとなるものであると思います。
 ところが、そうしたモラルや考え方といったものが、世界的に変化してきていますが、北欧などにおけるフリーセックスなどの問題もこれと無関係ではないと思います。あなたは、これをどうお考えになりますか。
 クーデンホーフ はじめに、恋愛と結婚のモラルの問題ですが、動物のなかにも、たとえば白鳥や鷲やサイには一夫一婦制も、自由恋愛も両方あります。
 歴史上、一夫一婦制は、女性が自分や子どもを養うために、生活を支えてくれる異性を見つけなければならないという必要から形成されたものです。
 しかし、現在は事情がまるで違ってきました。女性が教育や技術を身につけて、生計をたてることができるようになったからです。私は、将来も、結婚とフリーセックスは別々の問題だと思います。
 同性愛の問題ですが、私は、人々が同性愛に否定的なのは、それが少数の例外的問題だからだと思います。
 しかし、ミケランジェロ、サッフォー、レオナルド・ダ・ヴインチ、シェークスピア、ソクラテスなど歴史上、最も偉大な人たちのなかに、同性愛の人がいます。生まれつきの人もいます。だから、一方的に同性愛を軽蔑することはできないと思いま
 す。
 池田 離婚が急増していることも危険な傾向ですね。こうした危機を、夫婦が、お互いの努力で乗り越えることによって、本当の愛情が生まれてくるのではないでしょうか。
 そうした試練を経ていない愛情は、それがいかに純粋で、美しいものであったにせよ、磨かれないダイヤモンドに等しいと思うのです。

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