Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 文明の英知  

「文明・西と東」クーデンホーフ・カレルギー(全集102)

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11  チャーチルとド・ゴール
 池田 あなたは、チャーチルやド・ゴールとは親しい間柄にあったと聞いていますが、この二人の人柄や指導者としての特質について、さらに詳しく触れていただけますか。
 クーデンホーフ 二人とも現代の英雄で、私は大きな尊敬の念をもっています。チャーチルの英雄たるゆえんは、ヒトラーの圧倒的な攻撃に対抗して、孤立化した小さなイギリスで、国民の知配に立って戦ったことです。
 ド・ゴールもペタン政権がナチスに屈服したあと、フランスの栄光のため、自由のために政府と軍に対抗してただ一人立ち上がりました。
 私とド・ゴールとの交流は、一九四三年に始まりました。チャーチルと初めて会ったのは一九三八年です。私は彼らとヨーロッパの将来について語りあいながら過ごしたときのことを、愉しく想い起こします。
 この二人の偉人には、互いに大変違った面がありました。チャーチルは、どちらかといえばより芸術家肌で、ド・ゴールのほうは学者肌のところがありました。チャーチルにとっては、人生はスポーツであり、ド・ゴールにとっては美でした。
 しかし、チャーチルは英国への、ド・ゴールはフランスヘの忠誠を第一としていましたから、二人ともヨーロッパ全体への忠誠者であったとは言えません。
 池田 とくに、どんな話題が出ましたか。
 クーデンホーフ 彼らとの会話では過去の歴史と現代との対比が主な話題でした。二人とも非常な行動派の歴史家でした。彼らの情熱は、歴史を書くことではなく、歴史をつくることに向けられていたようです。
 二人とも、その政治上の業績もさることながら、同時代の人々の模範となるような何かを示したことは特筆に値します。すなわち英雄崇拝という永遠の伝統をよみがえらせたことです。政策上の反対者たちも、二人の人格や勇気、忠誠心、寛容、威厳には尊敬の意を払いました。
 チャーチルとド・ゴールは、ともに偉大なジェントルマンでもありました。二人とも、素晴らしい女性――それぞれイギリス一、フランス一の美しい婦人を伴侶としました。チャ―チルはノーベル文学賞を受けましたが、ド・ゴールも受賞の資格があったと、私は思います。
 チャーチルは優れた文章家でしたが、同時に才能ある画家でもありました。また彼は、素晴らしい俳優になれたかもしれません。
 一九四〇年、チャーチルとド・ゴールはフランス陥落の直前に、英仏両国を統合して一つの政府、一つの議会をもち、同じ市民権をもつ連合国家をつくろうとしたことがあります。戦後の統合ヨーロッパヘのスタートともなるべきものでしたが、この計画は失敗に終わりました。
 戦後、大戦の犠牲国になったフランスと敗戦国ドイツとの間の深い憎しみが、ヨーロッパの和解と統合を不可能にしたかにみえましたが、一九四六年九月に、チャーチルがチューリヒで行った大演説によって、統一ヨーロッパヘの動きがふたたび台頭しました。
 第二次大戦中、私はニューヨークからド・ゴールに対し、書簡でパン・ヨーロツパ連合の名誉総裁ヘの就任を依頼し、また、フランスのみならずヨーロッパの自由と解放のためのレジスタンスの指導者になってほしい、と要請したことがあります。
 池田 ド・ゴールはどう反応しましたか。
 クーデンホーフ その内容に共感したそうですが、丁寧に断ってきました。フランスのナショナリストたちは、ド・ゴールがドイツまでも解放するのではないかと憶測したのでしょう。
 その後しばらくして、われわれは最初ニューヨークで、次にパリで会いました。ド・ゴールと私は、彼が政権につく以前もその後も、非常に興味ぶかい会話を数多く交わしました。
 日本からの帰路、私は妻とともにコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズに立ち寄り、ド・ゴールの墓に詣でました。それから数時間後にチューリヒに帰ったとき、この懐かしい友の筆になる最後の書簡と、遺作となった『希望の回想録』が一冊、私の机上に届いておりました。(=この部分は、クーデンホーフ=カレルギー伯が希望して、帰国後に加筆)
 池田 あなたのパン・ヨーロッパ主義に対して、ド・ゴールとチャーチルは、どのような見解をもっていましたか。
 クーデンホーフ 二人ともパン・ヨーロッパ主義者ではありませんでした。
 先にも述べましたように、チャーチルは一九四六年、チューリヒでの大演説でヒトラーの抑圧で潰滅にひんしていたパン・ヨーロッパ運動をよみがえらせていますが、彼の発想はいつの場合も、ヨーロッパ全体よりは、自分の母親の祖国であったアメリカヘの親近感にこだわりすぎた感があります。
 一方、ド・ゴールは、アデナウアーとともに、一九六二年に、十一世紀にわたって敵対関係にあったフランスとドイツを和解させ、パン・ヨーロッパヘの気運を高めるうえで大きな役割を果たしました。
 しかし、結局、彼が生涯をかけて追求したものは″栄光のフランス″であり、フランスヘの熱烈な愛国心でした。したがって、ド・ゴールはフランスにとっての利益という範囲内でパン・ヨーロツパ構想に賛成しました。
 私は、彼らが真のパン・ヨーロツパ主義者ではなかったとはいえ、しかし、そのことによって彼らの歴史上の業績に対する評価が低下するとは決して考えておりません。
 彼らはとにかく、二十世紀の世界に偉大な貢献をした偉大な人物でした。私は彼らと会い、多くの時間をともに過ごすことができたことを喜ばしく思っております。

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