Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第二章 国連の現実
「文明・西と東」クーデンホーフ・カレルギー(全集102)
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1
第四の超大国
池田
これまで、日本、アジア、ヨーロッパ、ソ連、アメリカと、それぞれの国や地域がもつ問題について、話しあってきました。
ここで、あなたが半世紀にわたって提唱され、運動を推進してこられたパン・ヨーロッパ主義の立場から、ヨーロッパが世界政治において果たすことのできる役割は何なのか、また国連の現状と将来、世界連邦への希望などについて、ご意見をうかがいたいと思います。
クーデンホーフ
これまでにもお話ししましたように、私は、ヨーロッパが米中とならぶ″第四の超大国″になることを、望んでいます。ご存じのように、今日の世界政治は、米ソ中の三つの超大国――つまり二つの共産主義国と一つの民主主義国によって、牛耳られております。ですから私は、バランス・オブ・パワー(力の均衡)のために、世界の平和のためにも、ヨーロッパは世界第四の超大国になるべきだと思います。
私は核保有国である英仏を含むヨーロッパが、パン・ヨーロッパ主義――欧州統合運動に結束すれば、国際政治において、決定的な役割を果たすことができると考えるのです。
なぜかと言いますと、ヨーロッパは、その歴史的な経験のうえから、国際的な諸問題に対して、米ソ中の三カ国よりも、より理想的なアドバイスができると信ずるからです。
池田
私も、ヨーロッパがその豊かな歴史的経験と英知によって、これからの世界に、大きく貢献していくものと信じています。
そこで考えるのですが、あなたの言われる第四の超大国は、当然、米ソ中のような核による力の政治とは、おのずから違った基盤に立つべきだと思いますが、この点について、あなたのご意見はいかがでしょうか。
力の均衡に支配されている国際政治に対して、ヨーロッパがアドバイスできることは、いったい何でしょうか。
クーデンホーフ
ヨーロッパの将来のあり方は、現在のスイスにならうべきだと思います。ヨーロッパは、多くの国々から成り立っているため、こちらから戦争をしかけるということは、不可能です。万一、ヨーロッパがひとたび攻撃をしかけたり、あるいは征服しようとした場合には、ただちに自己分裂してしまうでしょう。もしも将来、ヨーロッパにとって、戦争があるとすれば、それは攻撃の戦いではなく、防衛の戦いでしかありえません。
池田
近い将来、ヨーロッパがスイスのように、平和愛好国として、一つの勢力に結集することは、はたして可能でしょうか。
クーデンホーフ
ヨーロッパの四大国――フランス、ドイツ、イギリス、イタリアが合意すれば、それは可能だと思います。この四大国が統合すれば、人口的には大国ヨーロッパが構成されます。その他のヨーロッパ諸国も、自然にこれに加わるでしょう。大切なのは、四大国の協力です。
池田
その場合、四大国のリーダーシップをとるのはどの国でしょうか。ひと口にヨーロッパといっても、宗教、言語、民族、歴史、伝統の違いなど非常に多様化していますね。政体についても、共和政体あり、君主政体あり、というように……。
クーデンホーフ
だれが指導者、どの国がリーダーシップをとる、ということではないと思います。
私は今、パリとロンドン間の相互理解をつくろうと努力していますが、そのために、二つの委員会を設立しました。一つはピユール・ビヨット将軍を委員長とするパリの委員会、もう一つは、セルウィン・ロイド氏を委員長とするロンドンの委員会です。
委員会の目的は、フランスとイギリスとの間の協調、理解をつくりだすことにあります。ヨーロッパは、またいっそう四大国間の調和と協力を推進するための国際機関の創設に努力すべきだと思います。
2
国連はこれで良いか
池田
国連の現状についてどうごらんになりますか。国連中心主義という主張がある反面、国連は、はたしてこれでいいのか、という悲観的な見方も増えています。私は、国連を将来の世界連邦への確実なステップにしていかなければならない、と考えていますが……。
クーデンホーフ
インドシナ戦争でも中東紛争でも国連は、すでに、力がないことが、証明されています。かつて、国際連盟は、第二次大戦の勃発によって崩壊しましたが、今の国連は、それよりもまだ無力化している状態です。にもかかわらず、さしあたって抜本的な改革は期待できません。
私は、世界のすべての国家が、真に協力しあえるようになるためには、まったく新しい国連憲章が制定されなければならない、と考えます。この新しい憲章は、世界のあらゆる国民や政府、議会によって、承認されるものでなければなりません。
別の言い方をすれば、すでに形骸化している国連の現在の機構を生き返らせるために、私は新しい世界機構がつくられなければならない、と思うわけです。
もちろん、この機構は、世界平和を願うすべての人々によって、承認されるような、それ自体の独立した主権と権限をもつことが必要でしょう。
池田
国連のあり方について、私の考えは、あなたの言われるのと、少し違います。私は、国連の憲章や機構を変えたとしても、これによって、事態が根本的に変わるとは思いません。
問題は、現在、国連が当面している懸案である地域戦争、軍縮等の諸問題をいかに解決し、どのように克服していくかにあるわけです。
これらの問題がなおざりにされているかぎり、たとえ新しい機構ができたとしても、これらの問題を根本的に解決することはできないのであって、現在の欠陥は、新機構にそのまま持ち込まれることになると思います。
重要なことは、そこへ行き着くまでの道程です。国連を無力化しているのは、国連自体のあり方というよりは、アメリカやソ連などの超大国の意思や行動が優先されているためだ、と考えます。
クーデンホーフ
国連が、これまでの超大国支配から脱皮することは、困難でしょう。問題は、総会に出席する小国も超大国も同じ投票権しかもっていないことにあると思います。つまり、大国が十分な権利を与えられていないことにあるわけです。
世界連邦ができるまでは、世界平和は現実には超大国間の協力によってのみ可能であって、超大国の支配に反対しても実現できるというものではないと思います。
平和主義者は一般に、抽象的な権利を過大評価し、現実に働いている力というものを過小評価しがちですね。ところが残念なことに、歴史はこれまで武力によってつくられてきました。だから平和というものも、武力によって守られていくのではないでしょうか。
池田
私は、大国の力による支配が不変だとは思いません。平和共存を前面に押し出して努力することが大切だと信じています。確かに
一挙に変革できるとは考えませんが、そのための段階的な方策は十分に研究すべきです。
″力による国際政治″の現状を改革するためには、究極的にはこれらの大国政府を支えている国民大衆の意識革命以外にありません。
力すなわち武力に頼る政治は、ひるがえって言えば、国家的利益のためには民衆の貴重な生命をも犠牲にする政府である、ということに気づかねばなりません。
その意味で、日本の憲法は、戦争の放棄を宣言した世界唯一の憲法です。国民の基本的人権、生命の安全を保障している憲法や理念は、どこの国にも共通していますが、現実には、国家自体が交戦権をもっているために、国民の基本的人権と生命の安全は脅かされており、また現実に犠牲にされております。
したがって、私は、戦争放棄こそ、人権擁護の重要なカギとなるものだと思います。
この点、日本国憲法の戦争放棄の条項は、国民の権利を守るための先駆的な意義と価値をもつ、と考えますが、いかがでしょうか。
クーデンホーフ
まつたく同意見です。戦争放棄こそ日本国憲法の基本的条項だと思います。日本国民は、この条項によって、世界平和へのパイオニアとなった、と言えましょう。
私は、先日、愛知外相に会ったとき、世界平和のパイオニアである日本を広く世界に知らせるためにこの条項を印刷して、額に入れ、各大使館に掲示してはどうか、と話したくらいです。
新しい世界機構への第一歩は、まずなによりも、米ソの和解と協力がなければなりません。この二カ国がまず戦争と軍拡に反対する同盟を結び、ついで中国もこの同盟に参加させるようにすべきです。ヨーロッパも、やがて第四の超大国になるでしょう。
日本は、その世界に誇る憲法を堅持して、平和主義、中立主義を貫くことによって、これら超大国の間にあって、大きな使命を果たすことができるものと信じます。
そのために、日本としては、アメリカやヨーロッパのみならず、中ソ両大国とも友好関係を保つことが先決ですね。
3
大国のエゴイズム
池田
国連の話をもう少しつづけたいと思います。あなたがおっしゃるように、現実の国際政治を動かしているのは″力の論理″であり、したがって、超大国が支配権を独占しているのが実情でしょう。
しかし、そうした力による横暴を抑制し、平和を実現するために生まれたのが国連であったとすれば、国連からは″力の論理″は排除されねばならない。
ですから、今の国連において、最も大きな問題は、このエゴイズムに対する歯止めをどこに求めるか、ということだと思います。
クーデンホーフ
大国のエゴイズムを抑止する最善の方法は、繰り返すようですが、第一段階として、平和のための米ソの歩み寄り以外にはないと思います。両国とも、最近は、軍事費の削減に関心があることを表明しております。
池田
米ソ両国の歩み寄りは、すでに早くから始まっているわけですが、問題は、両国が世界政治や国連の舞台で利害の共通する問題については、互いに手を組み合って、独占的な支配権を確立しようとしていることです。つまり、膨大な核兵器を後ろ盾にして、経済援助の力で、全世界の国々に、ニラミをきかせていることです。
現在、世界平和にとって最大の脅威は、いうまでもなく核兵器であり、日本は、世界で唯一の被爆国です。
かつて、ケネディ大統領は、偶発、誤算、あるいは狂気による核戦争によって、人類はまさに絶滅の危機にある、と訴えましたが、私も、人類が平和に輝く二十一世紀を迎えるために、ただちに核兵器の製造を中止し、これを廃棄しなければならない、とこれまでもしばしば訴えてきました。
日本こそ最先頭に立って、世界の世論をその方向へリードしていくべきだと思います。
あなたは、今日の国際政治の流れのうえから、核兵器をはじめ、あらゆる軍備撤廃を究極的に実現するためには、いったいどうしたらいいと考えますか。
クーデンホーフ
私も、二、三年前までは、第三次世界大戦が起こるとすれば、間違いなくそれは核戦争だろう、と憂慮しておりました。しかし今では、そうは思いません。なぜなら、すべての国が、核戦争は自殺行為だ、と気がついているからです。
私も、核兵器は廃棄すべきだ、と信じていますが、その撤廃は、大変困難な仕事です。なぜかと言いますと、核保有国がたとえ、核兵器廃棄条約にサインしたとしても、現実には、その完全な廃棄を強制することはできないからです。
とくに私は、全体主義国の場合を懸念します。全体主義国家は、表向き、核兵器の全廃を発表したとしても、厳しい報道管制をしいて、ひそかに核兵器をどこかに隠しておくことができるからです。
こうした国々では、議会もマスコミも、それを暴露することはできません。そして、戦争が起こればその核兵器で威嚇することもできるし、さらに事態が緊迫した場合には、それを脅迫の武器として、実際に使うこともできるからです。これは、非常に危険なことです。
これに対して、民主主義国の場合は、議会によってコントロールされ、報道機関によって監視されていますから、核兵器を隠しもつということは、実際にはできません。したがって全体主義国よりも、はるかに不利な状況下に置かれることになると言えましょう。
だから私は、この問題の解決は他の方法に求めなければならないと思います。それは各国とは独立の世界的な主権を有する世界政府のようなものがつくられることです。それ以外に方途はありません。
これは、現在ではまだ実現不可能でしょうが、将来はたぶん、可能になると思います。私は、この世界政府に軍事力を集中させるようにすべきだと思います。
ただし、世界政府の軍事力は、たんに威嚇の目的でのみ保持するものであって、もし、条約に違反して兵器を隠しもっている国があった場合には、世界政府の威嚇によって廃棄させるようにしておくべきです。
池田
核撤廃ということは、現実には、あなたのおっしゃるように、大変、困難な問題だと思います。
ただ、国際政治の動向を見ると、世界の指導者たちは″敵国″を恐れるという考え方の枠を、いまだに出ておりませんね。
核兵器の脅威の実態を知るならば、真に恐るべき″敵″とは、たとえば、アメリカ対中国、中国対ソ連、ソ連対アメリカ……といったものではなく、核兵器の巨大な、決定的な破壊力そのものである、ということがわかるはずです。それを身をもって知ったのが日本であったと思います。
その意味で、日本は核兵器廃棄、世界平和確立ヘ向かって、独自に推進的役割を果たすことができる立場にあるわけです。
4
日本の貢献
池田
あなたは前回(=一九六七年)来日されたとき、広島を訪問されたそうですが、そこで何を感じられましたか。また、広島、長崎、アウシュヴィッツによって代表されるような、人間による人間に対する残虐行為をどう考えますか。
クーデンホーフ
戦争というものは、すべて残虐そのものです。この人間の残虐性を根絶するためには、まずなによりも、戦争を防止しなければなりません。
私が広島で受けた最も強い印象は、あたかも不死鳥が灰の中からより強く、より生き生きとよみがえったように、広島市が戦前よりも、大きな都市として再建されたことです。日本民族の驚くべきバイタリティーを見た思いでした。
池田
第二次大戦後、すでに二十五年たちました。日本はこの四半世紀の間、国内的には、めざましい経済発展を遂げましたが、対外的には、ひたすら対米追従を旨として、今日にいたつた観があります。
だが現在では、大きく事情が変わってきました。経済にしろ、防衛にしろ、いつまでもアメリカに頼り、依存していくことは、許されなくなってきたのです。
貿易面では、ふたたびアメリカと競合関係が表面化してきておりますが、かつて日米戦争の原因が主として経済的利害の対立にあったことを思えば、現在の日米経済交渉が難航していることは大変重大です。
貿易は、あくまで相手のあることであり、これ以上事態の悪化は防ぐべきであって、そのためには、日本側としても、現在、深毅な不況対策に悩むアメリカの実情を正しく把握して、譲るべきところは譲って、歩み寄りの努力をすべきだと思いますね。
日本経済界には、長年つづいた好況の波に乗り過ぎて、少し思い上がったところがあるのではないでしょうか。率直に言って、日米両国が、同じ太平洋圏の隣国として、将来ともに、相互依存の関係に立つことは、当然です。アメリカが日本にとって、将来ともに重要な貿易の相手国であることは、決して変わることがあってはならないと思います。
他方、アメリカのみならず、貿易立国に生きる日本としては、世界の各国と平和友好関係を築くことが必要です。
そこで、日本は、新しい目標を世界平和への積極的働きかけに置いて、今こそ確実な第一歩を踏み出すべき時を迎えていると思います。
クーデンホーフ
世界平和への道は、世界連邦の結成にあります。世界連邦こそ、戦争に終止符を打ち、恒久平和を築くことのできる唯一の機関と言えましょう。
しかし、残念ながら、世界の世論はまだ、そこまで熟してきておりません。そこで、そのためには、各国が互いに平和条約を締結することから始めなければなりません。
それにはまず、米ソ間の平和条約が先決で、軍縮をともなった両国の平和共存が大前提となるでしよう。
池田
クーデンホーフ
残念ながら、どんな組織においても、実際に決定権をもっているのは、強者であって、弱者ではありません。弱者は決定にあずかれない――これが私の持論です。この事実をふまえるなら、世界の将来も、弱者ではなく強者によって、決定されていくのもやむをえないことでしょう。
その点、日本は、今や経済大国ですから、なんらかの役割を果たすことができるでしょう。また将来、日本は好むと好まざるとにかかわらず、軍事的な大国になる可能性もあります。日本は国際政治の場で、中国と同じように、重要な決定権をもつようになると信じます。
インドもアジアの大国ですが、力がないため、その役割を果たすことができないでしょう。
池田
日本が、世界平和に貢献するには、これから具体的に何をなすべきだと思いますか。
クーデンホーフ
日本は、イデオロギー、体制の相違を超えて、あらゆる国と政治的に、経済的に、友好関係を維持し、推進していかなければならないと思います。
そうすることによって、日本は平和を維持できるだけではなく、世界平和に積極的に貢献し、さらに第三次世界大戦への歯止めの役割を果たすことができます。万が一、不幸にして、第三次大戦が勃発した場合でも、中立を保持できると思います。
私は、日本がもし国連の安保常任理事国になったならば、世界平和にいっそう貢献することができるのに、と考えています。日本は、常任理事国になるよう、もっと主張すべきです。
なぜなら、将来、国連で中国の代表権が、北京政府に移ったとすれば、アジアでは中国のみが安保常任理事国のメンバーになります。
そして、もし、ソ連もアジアの一国と考えるなら、アジアの代表は、二カ国とも共産主義国になってしまいますね。
私は、中国のほかに、二つの非共産主義国、すなわち、かつて、国際連盟のとき常任理事国であった日本と、中国についで二番目に多い人口をもつインドが、安保常任理事国になるべきだ、と信じているのです。
池田
日本が国連で、もっと発言できる立場にいたら、さらに世界平和に貢献していただろう、と言われますが、そのような期待にもかかわらず、現実には、日本は国連での発言権を、必ずしも平和のために有意義に行使してきたとは言えません。私は、これを、非常に残念なことだと思っています。
5
国連本部の移設
池田
私は、国連本部がアメリカにあること自体に、疑問をもっています。アメリカにあるということが、国際協調という点で、障害となっているのではないでしょうか。
クーデンホーフ
あなたも覚えていらっしゃると思いますが、かつて、ソ連のフルシチョフ首相は「国連本部をニューヨークに置くのは間違っている、どこか中立国へ移設すべきだ」と言ったことがあります。
フルシチョフ失脚後、ふたたび取り上げられていませんが、あなたが指摘されるように、近い将来この問題がまた論議を呼ぶことは、間違いないと思います。
確かに、本来、中立であるべき国際機関で、国家・民族を超越すべき世界機構である国連が、超大国の一つにあるということは、非常な矛盾です。もしソ連が、ふたたびこれを提起すれば、論議をかもしだすことになるでしょう。
池田
国連本部をどこかへ移すとすれば、どこが理想的だと思いますか。
クーデンホーフ
国連本部の候補地としては、一般的には、ジュネーブかウィーンが候補に挙がるでしょうが、私個人としては、ベルリンが最適だと思います。
その場合、ベルリンをバチカンと同じように、独立国としなければならないと思います。こうすれば、国連の強化とベルリン問題の解決とが、同時に行われることになります。
国連は、国家レベルではなく、あくまで、国家を超越した主権的な地位をもたなければなりません。国連は、また、すべての海洋および南極大陸を管理下に置くべきです。
池田
国連本部をベルリンヘ移すという考えは、ヨーロッパにおける東西関係の改善という観点からすれば、非常に注目すべきアイデアです。だが、より深刻で重要な国際問題である南北問題をどう解決するかという観点に立てば、ベルリンは必ずしも地の利を得ていないのではないでしょうか。
私は、地の利という観点から、東京にアジア・極東地域本部を新設するよう、以前から主張しています。というのは、第二次大戦後の世界における戦争と対立は、そのほとんどがアジアの地に起こっているからです。
中国をめぐる問題については、日本の外交政策も関係があるわけですが、これを改善していくことと並行して、国連のアジア・極東地域本部を設置する提案が、具体的に考えられてよいと思います。ウ・タント事務総長も、この構想には興味を示したようです。
クーデンホーフ
国連本部を移すことについては、一つはベルリンが適当だという意見、もう一つは中立国がふさわしいという議論があります。中立国に移設せよ、というのは、現在の本部がアメリカという超大国にあるという不合理から出る意見です。
私がベルリンを提案しているのは、こういうわけです。つまり、ベルリン問題を解決することは、もはやほとんど不可能に近いので、ベルリンをいわゆるバチカン化して、一つの小さな中立国とすることが、唯一の解決策だと思います。
どうしても、アメリカでないと駄目だというのなら、私は地理的にみて、ハワイのホノルルのほうが良いと思っているくらいです。
東京に国連アジア・極東地域本部をとのご提案は、注目すべきことですが、中国が間違いなく反対するでしょうし、実現はむずかしいと思います。
中国は、アジア第一の大国という自負心をもっていますから、地域本部が東京に新設されることになれば、国連加盟も拒否するようになるかもしれません。ただし、将来、中国の対日認識が変わってくれば、その限りではないと思いますが……。
池田
私は、″国連の中のアジア″というものが、今後の世界の動きに、大きな影響を与えると考えています。ところで、ウ・タント国連事務総長について、あなたはどうごらんになりますか。
クーデンホーフ
ウ・タント事務総長は、ベストをつくして、仕事に取り組んでいると思います。彼の立場は現在、世界で最も困難なものの一つです。私は、ウ・タント事務総長をうらやましいとは思いませんが、今の国連事務総長がアジア人(ビルマ人)であるということは、象徴的な意味で望ましいことだと思います。
6
軍事力は必要か
池田
私は、恒久的な世界平和を実現するためには、どうしても、各国が保有する軍事力を、国連あるいは世界連邦政府といったものに集中し、管理するよりほかに対策はないと思います。いわゆる国連による警察権です。軍事力が世界から完全になくなることが、最も理想的なことはいうまでもありませんが……。
クーデンホーフ
警察権を、国家を超越した世界機構に集中すべきだ、という考えは、私も正しいと思いますが、現在ではその実現の可能性は、全然ないと思います。
もっとも、将来、世界の情勢が根本的に変化したときには、可能になるかもしれません。ともあれ、国連が最強の軍事力を保有するということは、非常に効果があるでしょうね。
池田
今日、世界の大国も小国も、軍事費に巨額の国家予算をあてていることは、世界平和にとって憂慮すべきことであり、人類の福祉にとっても、まったく無意味なことです。
人類は、むだな軍拡競争をやめて、一日も早く軍備縮小、さらに軍備撤廃へと向かわなければなりません。
パワー・ポリティクス(権力政治)の支配する世界の現状では、軍事力は必要悪だという考え方もあるようですが、むしろ、そうした状況をたんに宿命的なものとして受けとらず、そうした現実を打開していくためには、いったい何をすべきかを探ることが、急務だと思います。
その意味からも、世界各国は国連を中心に、軍縮の問題に積極的に取り組むべきです。こうした世界平和への努力の積み重ねの中から、世界連邦政府のような機構が形づくられていくのではないでしょうか。
クーデンホーフ
軍縮こそ世界平和のカギである、というご意見には同感です。各国とも、軍備のために、大変な国力を消耗していることは、周知の事実です。日本は軍事力なしに、偉大な経済発展を遂げるという模範的な先例をつくりました。しかし、現在の国連は、とてもここまでは手がおよびません。
前にもお話ししたとおり、この問題はさしあたって、米ソ二大強国間で検討されるべきでしょう。この両大国が、仮に軍事費を半分に削減したとすれば、世界の力関係も大きく変わるにちがいありません。そうなれば巨額の資金が、人類の福祉と繁栄のために振り向けられることになるでしょう。
池田
あなたは、日本が平和憲法のもとに、今日の発展をみたことは、各国の模範とすべき先例と見ておられますが、私は、日本は軍事力なしに偉大な経済発展を遂げたのではなく、軍備をもたなかったから、現在の発展があったのだと考えています。
次に、戦争と平和という問題を考えてみたいと思いますが。
クーデンホーフ
非常にむずかしい問題です。ひと口に戦争と言いますが、戦争はたんに侵略のためばかりではなく、防衛のための戦争もありうるからで、その場合″防衛戦争″が、倫理的なものであることは、だれも疑わないでしょう。日本も、他国から攻撃を仕掛けられたときには、自衛する権利があります。
ここで、もう一歩進めて考えなければならないことは、侵略のための戦争、防衛のための戦争のほかに、第三の範疇に属する、もう一つの戦争があるということです。それは、解放のための戦争です。
解放戦争は、形のうえでは侵略戦争ですが、基本的には防衛のための戦争だ、と私は思います。
池田
あなたは戦争というものを、侵略、防衛、解放という、三つのタイプに分類されましたが、そういうことは概念的にできたとしても、現実には、どのタイプの戦争なのか、それを客観的に判定することは、不可能ではないでしょうか。
とくに、戦争を引き起こした国は、自分の都合の良いように、言い訳をするに決まっています。
ヒトラーが、ポーランド、チェコを侵略したときには、両国に住むゲルマン民族を救うための戦争ということでした。
またアメリカは、″自由の防衛″という名目で、今日、何十万もの兵士をインドシナ半島へ送り込んでいます。これに対しては、″史上かつてない汚い戦争″という烙印が押されました。
日本がアジア諸国を侵略した時も、アジア民族の解放、独立、救済、共存共栄のためという大義名分をかかげました。日本国民は、一方的にそう信じさせられていました。したがって、侵略のための戦争は否定するが、防衛のための戦争は認めるべきだ、という主張は、現実には無意味になってしまうのではないでしょうか。
私は、戦争や暴力は、すべて悪であると断定せざるをえません。とくに、現在のような国際情勢のもとにおいては、戦争や暴力を否定して、平和主義を貫くことが、重要であると思います。
もっとも、一般的には、力の論理の前では、それに対抗する力が必要だとする思想もあります。
7
スイスとノルウェー
クーデンホーフ
私は、武力を単純に悪ときめつけたりすることも、武力放棄を理想主義的に賛美したりすることも良くないと考えます。なぜなら、武力をもつということも、平和への一つの要件だと信ずるからです。
その対照的な二つの例を挙げてみましょう。ヒトラーの侵略を受けたノルウェーは、きわめて小規模な陸海軍しかもたない平和主義の国家でした。ヒトラーは、その弱みにつけ込んで侵略したわけです。
ところがスイスのほうは、強力な軍隊をもっていたために、見事にヒトラーの侵略を阻止しました。
もし、ノルウェーの軍隊がスイスのように強力であったならば、ヒトラーはおそらく攻撃しなかったかもしれません。反対に、スイスの軍隊が、ノルウェーのように力がなかったならば、いかに永世中立を標榜したとしても、ヒトラーに征服されたにちがいないと思います。
このことは、武力を放棄したからといって、それがただちに平和を保障するものではないということを示すものです。平和維持の最良の方法は、力をもちながら、しかも平和的であって、侵略的ではないことです。
池田
平和を維持する最善の方途は、侵略されないための武力をもつことである、というご意見ですが、核兵器が戦力の主力となっている現代においては、その規模を決めることは、きわめてむずかしいのではないでしょうか。
通常兵器の時代と違って、核兵器時代においては、まったく戦争をやらないか、それとも全滅するか、そのいずれかを選ぶしかない場合も出てくるでしよう。しかも、戦争というものは、どんどんエスカレートしていく性質をもっています。
私としては、本当の力というものは、軍事力よりも、むしろ、国民自体の総合的な文化水準の高さや、高度の学問的成果、確固たる自主独立の精神、イデオロギーや政治体制のいかんにかかわらず、内政不干渉の原則を貫き、国と国民双方のレベルで友好関係を推進する努力にあると考えます。
クーデンホーフ
民族の価値は、その民族のもつ武力ではなく、その民族の文化、あるいは知的、倫理的特質による、というご意見には賛成です。
もしすべての国が、武器を全廃する用意があるなら、じつに喜ぶべきことです。だが現実には、世界の大多数の国が、対外的理由のみならず、国内におけるクーデターや革命を阻止するため、あるいはみずからの政権防衛のため等の理由で、強力な軍隊を保有しています。
しかし、全世界の人々は、核戦争が、自国民を含めて集団的な自殺行為であることを、すでに知っていると思います。だから私は、もはや戦争が核兵器によって行われるとは思いません。
万一、核戦争が起きた場合、日本は自国を防衛することはできないでしょう。そこで少なくとも、核武装国の一つから保護を受けることによって、危険を軽減することができると思います。
しかし私は、日本が攻撃のためではなく、侵略から自衛するに足るだけの軍事力はもつべきだと考えるものです。つまり、武装中立です。
池田
なるほど。しかし、ひと口に中立と言っても、米ソ中の三つの大きな力の谷間に位置する日本のような場合、ともすれば、いずれかに引きずられてしまう恐れがあります。私は、中立には、それを支えるだけの理念がなければならない、と思いますが……。
クーデンホーフ
私は、今の国際情勢のもとでは、核兵器をもたない国は、核武装国の保護を必要とすると考えます。したがって、日米安保条約は、一時的にせよ、日本の利益のためになっていると思います。
しかし、日本の将来を考えた場合、米ソ中という強大な核武装国の間にあって、いかに中立を保つか、ということが大問題ですね。
私の予想では、米ソはまもなく同盟関係に入るでしょう。ただし、中国の将来についてはなんとも言えません。
中立主義については、日本はスイスにならうよりはむしろベルギーにならったほうが良いと思います。ベルギーの中立は、同国をめぐるフランス、ドイツ、イギリスの三大国のどれか一カ国が、ベルギーを攻撃した場合、他の二カ国はベルギーを防衛しなければならない、というものです。
私の考えでは、日本は、こうしたベルギーの行き方を将来の中立の目標とすべきではないでしょうか。たとえば、日本がもし一カ国から侵略された場合、他の二カ国がその侵略に対して、ただちに対応し、日本を守らなければならないという取り決めをしておくことです。
池田
非常に興味ぶかいお考えですね。だが、もし、一カ国だけではなく、二カ国以上が共同で侵略してきたときは、どうなるでしょうか。また、防衛援助という名目で、かえって結果的には、侵略され、破壊されるという結果を招く危険性もあるのではないでしょうか。
われわれは、インドシナ半島で、援軍であるアメリカ軍によって、無残な破壊や、罪のない市民に殺戮が行われている事実を知っています。
8
分裂国家
クーデンホーフ
ヨーロッパの小国ベルギーが、多国間中立保障条約によって、どのように独立を守ったかについて、もう少し詳しくお話しすれば、私が日本をめぐる米ソ中三カ国による中立保障条約を提唱する理由がわかってもらえると思います。
一八三〇年に、ベルギーが独立したとき、イギリス、フランス、ドイツの三カ国が中立を保障しました。それは、三カ国のうち一カ国がベルギーを侵略すれば、他の二カ国はベルギーを支援する義務をもつ、というものだったのです。
一九一四年の、第一次大戦で、ドイツは条約を破って、ベルギーヘ侵入しました。その結果、フランスにつづいて、イギリスも中立保障の約束を履行せざるをえなくなりました。
結局、ドイツは敗北し、ベルギーは戦争で災禍をこうむったものの、その後、独立国として復活することができました。もし、中立保障条約がなかったとしたら、ベルギーは、世界地図の上から抹殺されていたことでしょう。
日本も、なソ中の三大国の間にあって、当時のベルギーと同じような立場にあります。そこで、米ソ中三カ国と中立保障条約を結べば、日本はいずれの国の衛星国にもなることなしに、しかも、戦争が起こった場合、他の二カ国は、長期にわたって日本を守る義務を負うことになります。
池田
これは大変むずかしい問題ですね。もし、仮に一国が日本を侵略した場合、それが核兵器によるものであれば、壊滅的破壊を受けることは必至です。万一、三カ国全部が参戦することになれば、形のうえでは独立が守れたとしても、国家としては、実質的にもはや立ち直れない状態になってしまうのではないか、とさえ思います。
私は、なんとしても、日本は完全中立を志向して、戦争なき平和な世界、さらには国境なき世界の実現に向かって、積極的に働きかけていかなければならないと信じております。
クーデンホーフ
日本が中立を志向するならば、絶対に武器を他国に輸出してはなりません。なぜなら、外交上は中立を保っていても、戦争のさい、参戦国のいずれかに武器を輸出していれば、その軍需工場が攻撃の対象となるでしょう。そうなれば、参戦を余儀なくされることになります。
だから、日本は、他国のための武器製造も、武器輸出も、絶対にやるべきではないと思います。
池田
まことに、お説のとおりです。
ところで、第二次世界大戦が残した多くの傷跡のなかで、最大のものは分裂国家の悲劇だと思います。
ヨーロッパにおいては東西ドイツ、アジアでは南北朝鮮、南北ベトナム、そして、これは第二次大戦とは直接関係はありませんが、中国本土と台湾の問題があり、いずれも同一民族が祖国を分断されたままになっております。これら分裂国家の問題にどのように対処するか、どのように解決するか、今後の世界の大きな課題だと思います。
とくに国連は、どういう形にせよ、この問題に対してなんらかの役割を担っていかなければならない、と考えますが……。
クーデンホーフ
分裂国家は、第二次大戦後だけの特異現象ではありません。たとえば、アルメニアはトルコ、ベルシャ、ロシアの三カ国によって、一千年間も分割されたままになっていました。トルキスタンは、中国とロシアによって百年以上も、また蒙古は、中国とソ連によって五十年間も分割統治されたままになっています。
さらに例を挙げれば、ラテン・アメリカ(南米)は、ほぼ二世紀にわたって、同じスペイン語民族にもかかわらず、いくつもの国家に分裂しました。北アメリカが、アメリカとカナダの二カ国に分かれていることは、周知のことがらです。
確かに、第二次大戦後に派生した多くの分裂国家は、分裂後いまだに半世紀もたっていないために、まだ傷跡がなまなましく、悲劇的な要素をはらんでいます。今日、多くの国際問題が、じつは、そうした現実から派生していることも事実です。
しかし、私の基本的な考え方を申しますと、同じ言語を話す民族が、二つ以上の国家を形成してはならない、という理由はどこにもないということです。もちろん、あなたが言われるように、現在の分裂国家の悲劇は、第三国の手によるものであって、その民族の意思によるものではないことは事実ですが。
しかし、分裂国家同士の意見が一致しないからといって、戦争を起こすことは許されません。また、新しい戦争によってのみ、分裂国家を統合できるというのであれば、むしろ統合は、新しい悲劇を生むばかりです。
したがって、分裂国家を統合するために、戦争を引き起こすということは、まったく愚かなことです。私はむしろ、分裂国家の統合は不必要だ、という考え方もなりたつと考えます。
9
対立の中の対話
池田
現在、アジアの最大の悲劇は、いうまでもなくインドシナ戦争です。この悲劇は、いつ果てるともしれません。
いったい、インドシナ戦争とは何なのか。世界の政治学者や軍事評論家は、いろいろな分析や論評をしていますが、世界史的観点からは、東洋と西洋の衝突の一断面、という見方もあります。あるいはまた、東西両文明の衝突という見方もありますが。
クーデンホーフ
私は、そうは考えません。インドシナ戦争は、東洋と西洋の衝突ではなく、むしろ、世界革命をめざす共産主義十字軍と、それに対抗する反共主義十字軍の激突であると考えています。
この戦争を究極的に終わらせるためには、私は、ベトナム、カンポジア、ラオス三国が一体となり、中立化することが望ましいと考えています。つまり、インドシナはユーゴスラビア的な連邦になれないものだろうかということです。
池田
現在は中断されておりますが、ワルシャワのだ米中会談は、たんに政治的意味でとらえるのではなく、東西の″対話″という観点からとらえることはどうでしょうか。
そして、これがもし成功すれば、今後の国際間のあらゆる問題について、対立から対話へという機運をつくっていく重大な試金石となるのではないかと思います。
こうした対話は、粘り強くつづけられるべきです。日本としても、このような国際的な対話を積極的に推進する役割を果たしていかなければならない、と信じます。
クーデンホーフ
私も、このような対話が、平和と将来にとって、きわめて重要だという点で、あなたと同意見です。
また、日本が果たすべき役割を考えることも重要ですが、現在の日本の外交方針では、その効果はあまり期待できないのではないでしょうか。日本がアメリカに追随して、中国を承認していない現状では、日本としては、何もできない、ということになりますね。
池田
ワルシャワ会談は、成功すると思いますか。
クーデンホーフ
米中両国は、インドシナをめぐる立場の相違にもかかわらず、お互いにチャンネルは残しておきたいと考えているようです。万一、中ソ関係が悪化すれば、米中関係が好転する可能性がでてくると思います。
池田
インドシナ戦争とならぶもう一つの悲劇は、アラブとイスラエルの対立による中東紛争です。あなたはこの紛争の行方について、またイスラエルの将来について、どう考えますか。
クーデンホーフ
前に「人種問題」のところで述べましたように、私は、ユダヤ民族に大いなる尊敬と同情の念をもっています。
それというのも、私の父が反ユダヤ思想を批判した書物を書き、私も父の影響を受け継いで、この問題に強い関心をもつようになり、その結果、イスラエルに同情的になりました。
しかし、現実に立って考えてみますと、地理的にアラブ世界の真っただ中にあるイスラエルが、反アラブ国として存続することはきわめて困難であろうということです。
ユダヤ人の長年におよぶシオニズムの思想と運動は、かつて、キリスト教徒がパレステナにキリスト教国を建設しようとした、あの十字軍の伝統を再現したものです。
十字軍の場合は、キリスト教徒がイスラム教徒に対して、公正な平和と共存を保障できなかったため、失敗に終わりました。
もっとも、成功した例が一つあります。それはレバノンの存在です。この国民の半数はキリスト教徒、半数はイスラム教徒ですが、両者は平和に共存し、繁栄しています。
イスラエルが独立を維持していくためには、地理的に属している大アラブ世界の中に、ユダヤ教国、自由主義国として、融和して生きていく以外に道はありません。これが成功するかどうかが、イスラエルの運命を決定するでしょう。
10
深刻化する南北問題
池田
次に、東西問題と同様に、いわゆる南北問題が深刻になってきていますね。
クーデンホーフ
文明の間に大きな差異が認められるのは、東西の間よりも南北の間です。南の諸民族は、恵まれた自然条件のため、勤勉である必要は少なかったわけで、そのため、低い生活水準を余儀なくされたと思います。これから先も、その状態がつづくでしょう。
反面、北方の民族は、厳しい環境の中で、生活できるための努力を積み重ね、それが産業の発達を促しました。
今後、大きな問題としては、南方地域の貧しい諸民族と寒帯地域で何千年間にもわたって勤勉さを身につけてきた富める諸民族との間のいちじるしい格差を、どうしたら少しでも縮めることができるか、ということだと思います。
池田
南北の諸民族の間に、大きな文明の格差があることは、何千年という積み重ねによるもので、自然環境が文明に与える影響の大きさを示すものですね。
クーデンホーフ
現在およびこれからの国際関係で、最重要な問題は東西問題よりも南北問題だと思います。東西間の抗争が、現状より激化することは、まずないでしょう。むしろ南北問題のほうにより大きな危険があるように思われます。
私は、アメリカとソ連は、やがて和解に達するだろうとみています。そうなればヨーロッパと日本はなんらかの形で、この協力体制に参加することになるでしょう。
そこで将来の大きな危険は、北の大連合と南の大連合との対決にあると思います。中国は南の富まざる国々と手を結び、かつての植民地支配者であった白人の国家に対する怒りと敵愾心をあおる挙に出るかもしれません。
その結果、富まざる有色人種諸国が、日本を含めた富める白人国家に対して、世界革命を起こすかもしれません。
日本はこの″闘争″において富める国の側に立っていますが、もし平和主義と中立主義を貫いていくならば、この二大勢力の仲裁者として、平和への重要な役割を果たすことができるでしょう。
池田
ご指摘のように、日本は確かに富める国の側に立つでしょうが、その立場に甘んじていてはならず、アジアの一員であるという立場を貫くべきだと思います。
アジアの平和の実現を考える場合に、私は、日本がアジアから離れることなく、その一員であればこそ、その役割を果たすことが、さらには、世界平和樹立に貢献できると思います。
なぜなら、真の平和実現は、第三者の仲裁によってではなく、同胞諸国民の自発的な相互理解と協力によってのみ実現できると信ずるからです。
現実のアジアは、今、世界で最も多くの戦場をかかえておりますが、実際に平和へのカギを握っているのはむしろアジア自身ではなく、米中の両大国である、と言えましょう。
本来、アジアの底流にある仏教の思想は、本質的に平和思想であり、これは仏教三千年の歴史が証明するところです。日本で仏教を新たに蘇生させたわれわれとしては、この平和的宗教・思想を伝えていきたいと念願します。そしてアジア諸国民が主体性をもって平和を築いていかなければならない、と考えます。
このようにして、アジアは、力によらず、仏教の平和思想によって、調和ある平和世界の実現に寄与していかなければならない、と思うわけです。私はこの願いをいだきつづけているわけです。
クーデンホーフ
これは提案ですが、先ほども述べましたように、アジアの紛争の中にあって、日本は完全中立を貫くべきだと思います。
日本は、中立国、共産主義国、資本主義国の別なく、アジアのすべての国に援助を与えるべきだと思います。万一、中ソ間あるいは中印間に戦争が起こったとしても、日本は中立を保つべきです。
次に、世界平和に対するアジアの使命――ということがよく言われますが、私はこの点については残念ながら悲観的です。と言いますのは、この対談シリーズの冒頭でお話ししましたように、私はアジアという存在を認めていないからです。いわゆるアジアと呼ばれる地域は、ソ連と中国とインドをつなぐ環の上にあると思います。
この地域において、これまで三つの″冷たい戦争″――米中、中ソ、中印の対立が現存しているわけです。このような現状で、アジアが世界平和に寄与できるとは、とても考えられず、期待もできません。しかし日本は、独自に世界平和への役割を果たすことができると思います。
なぜかと言いますと、これも対話の初めに述べましたように、日本はアジアの一部ではなく、アジアから分離した独立の存在だからです。
池田
中ソ戦争というようなことが言われていますが……。
クーデンホーフ
中ソ対決は、あるかもしれません。
もう一つ、アジアには、大きな戦争の危険があります。それは、もしインドで、共産主義と反共主義両勢力の内乱が勃発した場合、中国がインドヘ侵入する危険性があるということです。私の考えでは、そうした悲劇からインドを救うことのできる唯一の国は、ソ連でしょう。
池田
私は、世界平和の象徴的なイメージの一つは″調和″だと思います。この点いかがでしょうか。
クーデンホーフ
調和とは、美の一要素です。音楽や建築、庭園など、あらゆる素晴らしい美の基本的要素です。
だが、それだけではありません。調和とは、すなわち平和であり、平和はすなわち調和です。自己の内面の、家庭内での、友人との調和です。
別の言い方をすれば、平和とは、諸国民の間の調和とも言えましょう。調和がなければ、平和もないし、友情もなく、個人の幸福もありえません。私はそう考えております。
11
共存か絶滅か
池田
アジア民族共存の意識ということですが、ヨーロッパ民族よりも、この点で優れている、という説と、まったくその反対の説があります。しかし、いずれにしても、これからの世界は、共存と調和の上に生きていかなければならない。これが新しい歴史の方向だと思います。
私はその意味で、あなたのパン・ヨーロッパ運動を高く評価しております。
クーデンホーフ
歴史をみると、西洋よりも東洋のほうに共存形態が多く存在したとは必ずしも言えないのではないでしょうか。
たとえば、徳川幕府は鎖国主義・孤立主義の政策によってのみ、平和を保ちえたのではないでしょうか。日本のように、何世紀にもわたって、孤立していた国は、ヨーロッパにはありません。
中国人を考えてみましょう。中国人は、元来、他民族に対して強い優越感をいだいていますから、共存意識が高いとは言えないと思います。また、イスラム教諸国の間で、共存がうまくいったという実例を知りません。インド、パキスタンの場合も、同じアジア大陸の民族という点で、もし共存意識があったら、インドからパキスタンが分離しなくともすんだことでしょう。
池田
イデオロギーも異なり、それぞれの民族主義をかかげる諸国家が、共存に向かうためには、どういう条件が必要だと思いますか。
クーデンホーフ
科学技術の進歩によって、すべての国が距離的に近くなり、世界は結局、共存を志向せざるをえないことになるでしょう。世界は狭くなってきており、共存の必要性が日一日と高まってきていることは、もはや否定できない歴史的事実です。
池田
あなたは、科学技術の進歩が必然的に世界を共存に向かわせる、と言われましたが、私の考えでは、そのことは、いちおう共存への必要条件にはなっても、はたして十分な条件となるかということには、疑問をもっております。
というのは、世界が距離的に近くなったという理由だけで、各国が妥協するということはありえないからです。核抑止力による共存などは、恐怖に裏付けされた共存であって、共存の理想的形態とはとうてい言えません。
極端な言い方をすれば、科学技術の進歩は、共存か絶滅かのいずれかへ、われわれを導くしかないと言えるのではないでしょうか。
世界が狭くなって、共存の必要が高まってきているからといっても、現実に共存を推進するためには、対立の原因となっているイデオロギーの相違をどう超えるか、が大事だと思います。
そのためには、思想的基盤がなければならず、それが科学技術等の条件とあいまって初めて、共存ヘの十分な条件となるわけです。
その対立のイデオロギーを超えた思想とは、科学技術を人間の次元にまで昇華できる哲学でもなければならないと思います。
クーデンホーフ
科学技術の進歩が人類を共存に向かわせる場合、問題は、こうした共存が第三次世界大戦の結果としてもたらされるものか、またはこの共存によって、第三次大戦が回避できるものか、という点です。
第三次大戦の回避は、なんらかの精神運動によって、人種、宗教、イデオロギー、国籍などによるあらゆる対立を超えて、人類の共存と相互信頼の重要性が徹底された場合にのみ可能だと思います。
池田
私が主張する思想的条件とは、まさにその精神的な運動のことです。
共存への機運がいかに高まったとしても、国家間の対立を止揚するものがなければ、第三次大戦は阻止できないかもしれません。この、あらゆる対立を超えさせるものを、人類の精神の中に構築しなければならないと思います。
したがって、平和共存への必要が日一日と高まっている今日、最も重要なことは、友好平和関係を保っていくケース・バイ・ケースの努力とともに、恒久的な立場から、国家のエゴイズムを超えたインターナショナリズム、つまり、地球民族としての普遍的な精神を打ち立てなければならないと思います。
あなたのパン・ヨーロッパ運動が果たした役割も、そこにあったと思うのです。私は、パン・ヨーロッパ主義は、やがて全人類を含めたインターナショナリズムヘのワンステップとなるべきものと考えるのですが……。
クーデンホーフ
おつしゃるとおりです。パン・ヨーロッパ運動は、スイスの歴史にヒントを得ています。スイスはたとえ、近隣諸国が交戦状態にあったときも、あらゆる国と友好関係を維持し、永世中立を保ってきました。
私は、日本もこうした先例にならって、近隣諸国が共産主義国であろうと、資本主義国であろうと、それにかかわりなく、すべての国と友好平和関係を結ぶべきだと思います。
12
民族主義と愛国心
池田
アジアの連帯ということを考える場合、どうしても問題になってくるのは、民族主義です。現在のところ、まだ、アジア全体を包含するような幅広い民族主義は形成されていません。各国の狭い民族主義が、かえって国家間の対立の原因になっていると思います。
もちろん、アジアの民衆自体には、アジア人の意識、同胞意識があります。しかし、国際政治の現実には、それがありません。ここに問題があります。
民族主義をどのようにとらえ、それをどう昇華させることができるか。この問題を避けて、アジアの連帯は考えられないと思います。
クーデンホーフ
中国の民族主義が、共産主義世界に亀裂を起こさせたという事実は、注目すべきことです。中ソ対立が始まるまでは、ソ連を中心とする国際共産主義が形成されて、それが将来の世界平和の環につながるのではないか、という希望をいだかせたものです。
しかし、中ソ対立が始まって以来、この希望は薄れてきましたね。異なったイデオロギーをもった民族同士が盟友となり、他方、同じイデオロギーをもった民族同士が戦争をも起こしかねない――これは、きわめて重大な変化だと思います。
中ソ対立は、ヨーロッパと同様に、アジアにおいても大変強い民族主義が今なお残っていることを示すものです。したがって、民族主義は消滅してしまうものではなく、異なった民族関係における本質的要素の一つと考えなければならない、と思います。
池田
私も、民族主義は自然に消滅していくものでも、また消滅させるべきものでもない、と考えます。
大切なことは、民族主義を消滅させるということではなく、地球民族という、より高い次元の連帯意識、人類という共同体の意識にまで高めることだと思います。
だが、そうした全人類を包含する共同体意識は、高い思想的裏付けなしには、形成されるものではないと思います。なぜなら、たんなるスローガンのみでは、各国間の利害対立を乗り越えることができないからです。
私は、この共同体意識を形成すべき思想的基盤に宗教を置かなければならないと考えております。民族主義を昇華できるものは、真に全人類的な、普遍的な宗教だと思います。
ヨーロッパ共同体の場合も、その意識が形成された基盤は、ある意味でキリスト教の精神的遺産に負っている面が強いのではないでしょうか。
クーデンホーフ
私は、共同体意識という点からみると、人類は同心円を構成していると思います。個人という単位をとってみても、同心円という図式はあたるようです。つまり各個人が、自分の世界の中心にいて、その周りに家族があり、次に社会がある、というふうになっています。
そして、一人一人が、自分が最大の義務と責任を背負っているという意識がなければなりません。二つの同心円は、対立でなしに、共存すべきものと考えます。
キリスト教については、それが、一千年にわたって、ヨーロッパに影響を与えたことは、疑いない事実です。キリスト教こそ、ヨーロッパを真に形成した唯一の要因であり、すべてのヨーロッパ人をつなぐ絆でした。ところが、その絆を断ち切ることになったのが民族主義の台頭でした。
キリスト教は、ヨーロッパを、各国の国民が集まった大家族のようなもの、と唱えてきました。現在、ヨーロッパのキリスト教諸政党がすべて、パン・ヨーロッパ主義に同調しているのは、ご承知のとおりと思います。
池田
世界の現状は、それぞれの国が、それぞれの民族主義をかかげているわけですが、そのように、民族主義を鼓吹し、主張しあっているかぎり、アジアの安定も世界の平和もありえないと思います。
それぞれのナショナリズムを認めつつ、それを、どのようにインターナショナリズムに結びつけていくかが、これからの大きな課題だと思いますが、いかがでしょうか。
クーデンホーフ
それは、ナショナリズムをどう定義するかにかかっていると、私は思います。
もし、ナショナリズムが母国への愛であるなら、善と言えますが、しかし同時に他国への憎しみを意味するなら、悪になります。
母国愛のみのナショナリズムならば、インターナショナリズムと完全に両立できると思います。自分の家族を愛することが、ただちに他の家族を憎むことにはならないということを、考えてみればよいでしょう。自国を愛することが、他国を憎む理由にはなりませんね。
池田
日本では、第二次大戦で敗北をこうむったその反動として、愛国心を排斥する傾向が強いわけです。私自身としては、人間の平等観、相互尊重の精神に立脚した愛国心は、未来においても、重要な意義をもつと考えております。
この点、独善的、排他的な愛国心というのは、本当の愛国心ではないと思えますが。
クーデンホーフ
ナショナリズムの問題のさいに触れましたように、自国に対する愛国心が、反対に他国を憎む感情になっては断じてならないと思います。
13
日本を見る目
池田
話をふたたび日本へ一戻しましょう。あなたを含めて、ヨーロッパの人々は、最近の日本をどのように見ていますか。
クーデンホーフ
われわれは日本を世界の大国の一つと見ています。とくに日本の経済成長はめざましい。
戦前のヨーロッパでは、日本製品といえば、安物の三流品と考えられていました。今は違います。日本の製品は、ヨーロッパの製品と同等に見られています。その結果、日本の国際的地位と声望が高まっており、畏敬ともいうべき見方にさえ変わってきています。
もっともその反面、ヨーロッパの経済界で、日本の輸出力に対する警戒心が強まっていることも事実ですが。
池田
日本には″エコノミック・アニマル″という自嘲的な言葉がありますが……。
クーデンホーフ
私の知る範囲では、ヨーロッパで日本人のことをエコノミック・アニマルと呼ぶ人はいないようです。日本に対しては、尊敬と警戒の念が確かに入りまじつていますが、軽蔑しているようなことはありません。
池田
アメリカやカナダでは、日本が安売りで国内産業を脅かしたり、また資源を買いあさり、物価をつりあげ、自然破壊もお構いなし、といった敵意に満ちた対日感情も一部にあることは見逃せない事実です。
経済交流が深まるにつれて、先進諸国の対日感情には微妙な変化が表れてきています。ヨーロッパにも、日本の経済発展を恐れる気持ちがある、ということは、日本にとって重大なことだと思います。
われわれは、警戒が恐怖となり、憎悪に変わって、やがてそれが平和を脅かすものとならないように注意しなければなりません。
かつて、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、いわゆる黄禍論を説きました。今日でも″イエロー・キャピタリズム″といった敵意に満ちた見方が一部にあるようですが、それにあたるような対日感情が、今のヨーロッパにもあるのでしょうか。
クーデンホーフ
かつての″黄禍″という考えは、日本に対する警戒ではなくて、中国に対するものでした。
ヨーロッパには、七億の人口をかかえる中国が、世界制覇をねらって、将来ヨーロッパと戦争を引き起こすのではないか、と恐れている人が事実かなりいます。だが、この黄禍という感情は、ヨーロッパに関するかぎりは、日本とは関係ありません。
池田
そういう対中国観のような憎悪や恐怖をかきたてるイメージやアジテーションは、早くこの地上からなくしたいものですね。私は、中国は本質的には、攻撃的というよりは、むしろ防御的であると考えております。
ところで、ヨーロッパからも注視され、警戒されている日本の経済成長ですが、GNP(国民総生産)はなるほど自由世界第二位になりましたが、同時にさまざまな歪みが国内でも対外的立場でも出てきているわけです。
したがって、GNP第一主義については強い批判と反省があり、GNPに代わるべき新しい指標を探している状況です。
その国内における歪みの第一として挙げられるのが、自然環境の破壊と汚染です。現実に、自然の美しさは無残にも破壊され、多くの人々が企業のまきちらす毒物によって、命を奪われたり、身体障害者になったりしている状態です。
クーデンホ…フ 私は、ヨーロッパと日本は、地球上で最も美しいところだと考えています。私が自分の著述の中で、母の国であり私の生地である日本を「美の国」と名付けたのも、このためです。
日本は、その美しい自然を守るために、あらゆる対策を講ずべきだと思います。
池田
ヨーロッパでは、環境破壊の問題に、どのように取り組んでいますか。
クーデンホーフ
われわれもじつは、この問題の対策と研究に着手したばかりです。西ドイツ政府は、公害対策の熱心な提唱者ですが、ヨーロッパ各国の政府は概してまだ、問題を調査し、検討している段階で、根本的な解決策を講ずるまでにはいたっておりません。イギリスが、この分野では最も先進国でしょう。
池田
私は、公害は本質的には現代文明のもつ矛盾の現れだと思います。とくに、それは人間による自然征服という論理のもたらした結果と言えるのではないでしょうか。
人間の征服欲は、人間同士では戦争という形をとり、自然との関係では破壊という形で現れているわけです。樹齢幾百年の原始林も、開発という名のもとに、無残にも次々と切り倒され、野生の生きものは、日に日に姿を消しています。
農薬のため、蝶やトンボが絶滅するさまを描いたレーチェル・カーソン女史の著書『生と死の妙薬』(=『沈黙の春』の一字一句が、私には今、現実となって胸に迫ってくる思いです。
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