Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 アジアと西欧  

「文明・西と東」クーデンホーフ・カレルギー(全集102)

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1  日本は第六の大陸
 池田 最近、ヨーロッパやアメリカでは、日本に対する関心が高まってきて、日本とは何か、日本とはどういう国か、という論議が盛んに行われているようですが、日本はあなたの生まれ故郷でもあり、すでに二度も訪問されている国です。まず、あなたの″日本観″をお聞かせください。
 クーデンホーフ 私はこのごろ、日本は一つの独立した大陸ではないか、と考えるようになりました。そして、これまでのアジア観も変えていったほうがよい、と思うようになりました。
 池田 ユニークなご意見ですね。
 クーデンホーフ 私の意見はつまり、こういうことです。
 日本は長い間、自分でもアジアの一部であると考えてきました。世界もそうです。しかし、日本の地理的、文化的基盤を考えると、また第二次大戦後のめざましい国力の発展を見ると、世界第六番の大陸である、と考えたほうが妥当なのです。
 しかも、現在および将来の世界政治を考えた場合、日本はアジア大陸から独立した存在である、とはっきり認識したほうがよいと思うわけです。
 池田 日本の位置づけを再検討するという点では、私も賛成です。
 クーデンホーフ 地理的にみますと、日本は巨大なユ―ラシア大陸の東のはずれにあり、太平洋に面した列島です。
 大陸とは何か、という明快な定義は、じつはありません。一般に大陸とは、大洋に囲まれた巨大な島と考えられていますね。その意味からすると、ユーラシア、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリア、南極は大陸です。ヨーロッパはユーラシア大陸の極西にある半島とも言うべきもの、インドは南の半島、日本はユーラシア大陸の極東にある列島です。
 池田 地理的観点からすればうなずけます。あなたの説によると、いわゆるアジア大陸というのは存在しない?
 クーデンホーフ 私は、いわゆるアジア大陸というものはなく、ただあるのは、大西洋から太平洋にまたがる巨大なユーラシア大陸である、と考えているのです。
 アジア・ヨーロッパという概念をつくりだしたのは、ギリシャの歴史家、ヘロドトスです。彼は中国、日本、シベリアなどの存在は、当然のことながら知りませんでした。知っていたのは、ペルシャとインドだけ、それをアジアとみなしたのです。
 当時、ギリシャ人は、黒海が北洋の湾の一部であると考え、ヨーロッパはアジアから離れた独立の大陸であろうと考えていました。ョーロッパとアジアが、別個の大陸であるかのような考え方は、ここから生まれたのです。
 だが、これは正しくありませんね。ヨーロッパは、ユーラシア大陸の西の半島です。日本は東にある列島です。
 ″ヨーロッパ半島″を大陸と呼ぶなら、″日本列島″も大陸と言ってよいでしょう。
 池田 しかし、あなたの日本大陸論は、たんにそのような地理的見解からのみ生まれたわけではないでしよう。
 クーデンホーフ ええ、地理的定義だけではありません。このような地理的定義以外に、大陸には文明論的定義があってよいと思います。私が言わんとするポイントはここにあるのです。
 つまり、この文明論的定義によれば、日本はまさにそれ自体、一つの大陸と言えると思います。日本はユーラシア大陸の中で、独自の文明と伝統をもっているからです。その文明は、現代においては、隣国の中国やソ連の文明よりも、むしろ、ヨーロッパ文明に近いと言えます。
 別の言い方をすると、日本という第六の大陸は、地理的には共産主義アジアに隣接し、政治的には同盟国アメリカに近く、文明的には、はるか遠いヨーロッパに近いと言えるのです。
 池田 アジアとヨーロッパの文化の流れを見ますと、日本は確かにユニークな位置にありますね。シルクロードが、ユーラシア大陸を東西に貫く文化交流の大動脈であった時代において、その東のターミナル(終着点)は日本だったわけです。
 私は、日本の文明は、東洋的要素と西洋的要素をあわせもっていると考えます。一千年以上にわたってアジア、とくに中国の文化を受け入れ、近代にいたって、ここ百年というLのは、もっぱら欧米の文化を取り入れてきました。現在は、こうした従来の個々の文明が、互いに融合していく時代に入ってきているように思われます。
 その意味で、これまでの世界の文化のそれぞれの中枢であった欧米とアジアの間にあって、日本はその架け橋となるべき、最も重要な立場にあると思います。
 クーデンホーフ そうですね。それこそ、日本の使命だと思います。この使命は、中国が共産化して以来、ますます重大なものとなってきました。なぜかと言いますと、中国が共産主義化した結果、西洋文明と仏教と儒教――この三つを融合した文化をもつ国は、世界では日本だけ、ということになったからです。その意味でも、私は、日本を独立した一つの文化大陸と呼びたいのです。
2  日本とアジア
 池田 「日本は第六の大陸である」とするあなたのご意見には、「日本はアジアの一部ではない」という意味が含まれているわけですね。
 クーデンホーフ 私は、日本はみずからアジアの一部分であるという考えをやめるべきだ、と思うのです。また、アジアの一部として、アジアを指導する立場に立とうとする考えもやめるべきだと思います。
 なぜかと言いますと、もしそうすれば、中国との間にライバル関係が起こることは必至だからです。その結果は、新しい戦争にまきこまれるか、それとも中国の衛星国になりさがるか、いずれかの道しか残されていない、と思えるからです。
 したがって、日本が平和を願い自主独立を保っていきたいと望むならば、アジアの一部であるという認識を放棄して、第六の大陸として、新しい文明――それは太平洋文明とも言うべき、文明の中心になるという考え方に立つべきだと思うのです。
 池田 非常に大胆な、興味あるご意見ですが、私はやはり、歴史的に言っても、民族的に言っても、また文化的に言っても日本はアジアの一部であり、日本はアジアの中にある国だと考えます。
 われわれ日本人がアジアを考えるとき、″指導的立場に立とうとするな″と言われるあなたのご意見は、重要な問題だと思います。
 それはかつての日本が、配なの植民地解放という美名のもとに、軍国主義にもとづいた大東亜共栄圏という構想をかかげ、アジア諸国を侵略したという歴史的事実があるからです。アジア諸国にも、これを強く警戒する気持ちがあるのです。
 あなたは、日本はアジアの一部ではない、と言われるわけですが、このような歴史的事実をふまえたうえで、日本が第六の大陸として、太平洋文明を形成していくにはどうすればよいか、他のアジア諸国とどのようにうまく調和していけばよいか――私は非常にむずかしい問題だと考えます。
 クーデンホーフ 日本が太平洋文明を築くには、まずオーストラリアと、インドネシアとの関係を拡大すべきだと思います。日本―インドネシア―オーストラリアで、経済共同体を樹立するわけです。
 ついで、ニュージーランド、フイリピンなどの国々と提携します。いかに日本が第六の大陸であっても、経済的に孤立することは危険であり、またそのようなことは不可能なことですから。
 池田 今、挙げられた国々は、アジアのいわゆる自由主義国ですね。私は、アジアの大半を占めている共産圏諸国との融和も、きわめて重大な課題だと思います。
 ソ連、中国、モンゴル、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)などの共産主義諸国は、いずれもどちらかというと、内陸部に属しますが、モンゴル以外は、皆太平洋にも面しています。太平洋文明というものは、当然、これらの国々との協力関係を無視しては、成り立たないのではないでしょうか。
 それにまた、これからの世界は、もはや資本主義国だとか共産主義国だとか、はっきり二つに色分けできないようになってくると思います。
 経済、貿易面でも、資本主義国と共産主義国との結びつきは、今後もいっそう強まるだろうと思われます。また強めていかなければ、世界の平和も繁栄も実現は不可能でしょう。
 そこで日本も、オーストラリア、インドネシア、フイリピンなどの自由圏諸国とばかりではなく、ソ連ともシベリア開発で協力し、また中国とも積極的に貿易を図って、アジアの対立関係を緩和することが重要だと思います。
 クーデンホーフ 日本はまず、オーストラリア、ニュージーランド、インドネシア、フィリピンといった太平洋の自由諸国と協力して、独自のコモンマーケット(共同市場)を発展させる努力をすべきだと思います。日本経済はアメリカやヨーロッパにだけ頼っていては、将来を保証することはできません。
 池田 現在のアジアの様子を見ますと、経済援助の名のもとに、大国による内政干渉が競合し、大国同士の衝突の場になっています。
 アジアが政治的に自立するためには、まず経済的に自立することが大切です。私は″アジア人の手で、アジアの経済的、政治的自立を″という原則が貫かれねばならないと思います。われわれはこの原則に立脚すべきです。
 日本は、他の超大国のようなやり方ではなく、大国意識を捨てて、アジア各国の経済自立を助けるために、経済援助や技術援助を積極的に行っていくべきだと思うのです。
3  日本とヨーロッパ
 クーデンホーフ ヨーロッパ人は、日本の文化、とりわけ伝統的な演劇と絵画に強い関心をいだいています。話は古くなりますが、ヨーロッパの最も優れた文化人であり、一九二〇年代に駐日大使を務めたフランスの詩人、ポール・クローデルは、パリに帰ってきたとき、私にこう言いました。
 「もう、あのような劇場へ行けなくなって、残念です。フランスの演劇は、日本と比べると、あまりにもリアルすぎる……」
 彼は、日本の伝統的な演劇は、フランスよりはるかにまさっていると考えていたようです。
 また彼の戯曲「ル・スリエ・ドサタン」(邦訳「しゅすの靴」)は日本の古典的な演劇から、大きな誘響を受けた、とも語っていました。
 池田 そのように、外国からは、日本の古い伝統は、高く評価されているのに、日本人自身が、それらをどんどん失っている傾向があります。
 自然も文化も、古いものは、失われる一方です。これは、近代化への激しいバイタリテイーのなせるところですが、一面、私は残念に思っています。
 ところで、日本とヨーロッパの文明、あるいは道徳観は、その形成過程も、お互いに非常によく似ていると言われていますね。地理的には、この二つは、はるかに離れているのに、強い類似性があるのは、興味ぶかいことですね。
 クーデンホーフ それは、日本とヨーロッパの気候風土が非常に類似しているからです。同じような気候風土のもとで、よく似た文明が生まれたのです。
 地球儀を見ればわかりますが、日本とヨーロッパは、確かに経度の上では離れています。だが緯度の上ではほぼ同一線上にあります。インドやアフリカ、あるいは南米と同じ緯度の上を通過することはないのです。
 私に言わせれば、日本民族というのは広々とした太平洋に迷い出た、偉大なヨーロッパ民族のようなものです。
 日本とヨーロッパの気候は、極地的でも熱帯的でもなく、また過酷な砂漠もなく、暑すぎることも、寒すぎることもありません。日本人もヨーロッパ人も、四季が次々と移り変わる魅力にあふれた自然に囲まれて暮らしています。そこには、山や丘、平野や湖、川や泉、本々や花々があり、海も手の届くところにあります。
 池田 文化的な環境も似ていますね。ヨーロッパ文明がエジプトやメソポタミアの古代文明を吸収して生まれたように、日本も中国やインドの古代文明の恩恵を受けて育ってきました。そう考えると、なにか類似性、共通性といったものがあるように感じられますね。
 クーデンホーフ 日本とヨーロッパの間には、アメリカとソ連という二つの若い大国がありますが、この二国の過去と未来が、われわれの東西文化圏とは、非常に異なるものであるのも、運命的と言えましょう。
 私が東西文明について、もう一点挙げておきたいことがあります。それは、東西文明を築いたのは、日本では仏教の僧侶階級と武士階級、ヨーロッパではキリスト教の僧侶階級と騎士団であった、ということです。
 東西文明の基礎が、このように、まったく類似したエリート集団の手になったということは、注目すべきことだと思っています。
 池田 日本人は、外国の文化を吸収し、それを消化して、新しいものをつくりあげる、そういうことに、非常に優れています。しかしその反面、近代に入ってからは、みずから創造するということでは、劣っていると言われていますが……。
 クーデンホーフ どんな偉大な文化でも、よく考えてみますと、他の文化を吸収し、それを基盤としたものが多いのです。
 西洋文明の例にしても、アルフアベットは古代フェニキアから来たものですし、宗教はユダヤからです。数字はアラビアから学んだものです。このように、ひと口に、西洋文明といっても、多くの異質の文化を吸収した結果できあがったものです。
 日本についても、同じことが言えると思います。私は、一つの文明が、他の文明を吸収する度合いが
 強ければ強いほど、その文明にとって、プラスになるものだと考えます。
 池田 日本文化は、独自の特質をもつ文化ですが、それは、他国の模倣と吸収によって発展してきたと言ってよい。
 これからは、創造的・主体的であることによって世界の文明に積極的に貢献すべき時が来たと言えましょう。そうすることによって大きな価値を発揮することができると思います。
 最近では、日本の科学者は、欧米に行っても、学ぶべき新しいものはほとんどなにもない、という状態のようです。もちろん、いろいろな分野によって、事情の違いはあるでしょうが、全体的にみて、吸収段階は終わりに近づいており、独自な創造に取り組まなければならないところに来ていると言えましょう。
4  美の国・日本
 池田 あなたは著作の中で、生国・日本を「美の国」と呼んでいますが、具体的に、日本人あるいは日本のどこに、その美を見いだしますか。
 クーデンホーフ 私は思うのですが、日本人の最終目標は美ではないでしょうか。日本人にとっては、美が最高の価値のようにみえますね。
 ヨーロッパ人にとっては、美というものは、日常生活のヘリにある一つのぜいたくのようなものです。ところが、日本人の生活では、美は日常生活そのものの中にあると思えるのです。
 私は、日本人の日常的な美として、次の三点を挙げたいと思います。一つは、礼儀正しいこと、二つ目は清潔好きであること、三つ目は食物が美しく調理されていること。いずれも、他の文明国と比べてみて、際立っていますね。
 池田 あなたは、人間にとって、礼儀正しいことは、不可欠の徳性であると考えますか。
 クーデンホーフ 東洋では、礼儀正しさがつねに徳性と考えられてきたようですね。だが西洋では必ずしもそうではありません。この点では、東洋の見方が正しく、西洋は間違っていると思います。
 人類共存のあらゆる形態――家族、友人、セックス、ビジネス、政治――において、礼儀正しさは美の要素をもっているのです。それは機械の潤滑油と同じ役目を果たすものと言えましょう。
 池田 日本料理と清潔好きについては……。
 クーデンホーフ 食事について言いますと、日本人は口で物を食べるというだけではなく、目でも食べますね。日本料理は大変美しく調理されています。
 日本人の清潔好きは、だれでも入浴を欠かさないということに表れていますね。私が日本人の生活様式で、一番興味をもっているのは、この風呂好きということです。
 五、六十年前までは、ヨーロッパ人はまことに不潔でした。フランスのベルサイユ宮殿の貴族でも、風呂に入る者はほとんどいませんでした。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世のベルリン宮殿には、風呂は一つもなかったのです。
 これは、キリスト教の責任です。人間の裸はセックスと結びつき、セックスは罪悪だとされました。だから、キリスト教徒がイスラム教国、サラセン帝国の首都グラナダを征服したとき、まず何をしたかというと、九百の風呂を閉鎖したのです。二十世紀に入ってからも、クリスチャンの学校では、女性はシャツを着たまま入浴しなければなりませんでした。
 今では、ヨーロッパ人もアメリカ人も、清潔な肌は、清らかな心の象徴である、と認識し始めたようですね。
 このような日本人の生活の中に根ざす美は、日本の文明において、西洋文明よりもはるかに高い役割を演じています。美は最高の価値である、という日本人の考え方を、西洋は学ばねばならないと思います。
 池田 私もこれまでたびたび世界を旅行して感じたことは、庶民の日常生活にある美の感覚において、日本人は確かに鋭いものをもっています。
 だがその反面、日本人は社会的、公共的なことになると、無神経、無責任になりがちです。
 たとえば、都市美について言えば、ヨーロッパでは、都市全体としての調和、美観がじつに大切にされています。この点、東京の現状をどうごらんになりますか。
 クーデンホーフ 東京を美という観点から判断しようとするのは、妥当でないと思います。
 東京は、戦争で破壊しつくされたあと、政治、経済などあらゆる活動の中心地としての要請を満たすために、急いで再建された首都であると思います。
 したがって、東京の美観は、将来の問題と言えましよう。
 池田 大変厳しく、しかし思いやりのある批評ですね。
 戦後は、アメリカ文化の影響でしょうか、合理主義、能率主義といったものが、一切に優先しました。実際上役にに立たないもの、生産に寄与しないものは、容赦なくこわしてしまう――という考えです。
 その結果、たとえば古い遺跡が、文化財として保護されずに、近代的な工場用地になったり、緑の山が切りくずされて宅地化したり、見る影もなくなるということになりました。古い民芸や伝統技術も同じような運命にあります。
 クーデンホーフ ヨーロッパも同じような状況です。この点、アメリカやソ連は、こうした古い遺産は比較的少ないので、なんの代価も払わずに、新しい文明を受け入れることは容易です。われわれは違います。まったく別の条件のもとにあるのですから。
 私は現代の日本よりも、″永遠の日本″のほうに、はるかに強い関心とあこがれをもっているのです。東京よりも京都のほうが好きです。
 私は世界を旅しても、工業国へは、あまり行きたくないくらいです。
5  西欧とソ連
 池田 話を、あなたのホームグラウンドである、ヨ―ロッパヘ移しましょう。
 かつて、ドイツの哲学者シュベングラーらによってヨーロッパの衰退が警告されたことがありますが、第二次大戦後はEEC(欧州経済共同体)が結成され、めざましい経済発展を遂げました。最近では、EECがEC(欧州共同体)形成へと拡大し、さらに新しい意気込みが感じられます。
 現実に、アジアや中近東にひきかえ、ヨーロッパは、戦後四半世紀もの間、戦乱に見舞われなかったことは、過去の苦い体験を生かした、ヨーロッパ人の英知を示すものであると思います。
 そこで、世界史的な視野から見て、あなたは、ヨーロッパの現在と将来をどうお考えになりますか。
 クーデンホーフ この問題については、いくつかお答えしたい点があります。
 まず第一に、ヨーロッパは、パン・ヨーロッパ運動、つまり欧州統合運動の結果、政治と経済の両面で、前進しつつあるということです。しかし、道徳観から言えば、キリスト教が衰退したため、道徳面でも低下しつつあると思います。まず、政治的局面について、次に文明の衰退についてお話ししましよう。
 現在のヨーロッパは、政治的には将来の方向として、次のような二者択一を迫られていると考えます。
 一つは、大西洋、地中海、そして鉄のカーテンに囲まれた、地域的には狭いが自由なヨーロッパ。
 もう一つは、リスボンからウラジオストクにいたる、より大きなヨーロッパ。この二つのうちのいずれをとるか、という選択です。後者の場合は、ヨーロッパ諸国中で最強のソ連の支配下に入ることを意味します。
 池田 なるほど、あなたの考え方はわかりますが、後者の場合、逆にソ連の西ヨーロッパ化、つまリヨーロッパ世界に融合していく方向は考えられないでしょうか。
 クーデンホーフ ヨーロッパ自由圏の五倍もの領土をもつソ連が、ヨーロッパに対して、政治的支配権をもつことを、私は恐れるのです。またたとえ、ソ連が共産主義国でないと仮定しても、ソ連のヘゲモニー(主導権)が、より高い文明をもつ西ヨーロッパにおよぶことには反対です。
 それにまた、ソ連の体制について、内部からの変革が起こりうるかどうか、私にはまったく確信がありません。たとえ、今の体制が変質したとしても、その後を継ぐのは、民主主義ではなく、むしろナポレオン型の独裁主義ではないかと考えられますね。
 もしそうなったら、ソ連は現在よりも、さらに大きな脅威を世界に与えることになりましょう。
 池田 ヨーロッパの最近の重要な動きの一つは、西ドイツとソ連との国交修復ではないかと思います。あなたは、この事態をどのように考えますか。
 クーデンホーフ 西ドイツが、ようやく現実を認め、それによって、ヨーロッパとソ連の和解が一歩前進したことは、大変良いことだと思います。
 しかし同時に、この接近は、ソ連のヨーロッパ支配をも招きかねないと思います。
 池田 西ドイツとソ連との関係にしてもそうですが、私は、西ヨーロッパがソ連に向かって窓を開いておけば、ソ連内部でも、必然的に自由化が進むことは、避けられないと思うのです。歴史の必然性と言いましょうか、現に、ソ連の知識人や文化人の間では、自由化の波が現れ始めていますね。
 今のところは、党および政府が、必死になって、その波を押しとどめようとしているようですが、これは長つづきしないと思います。もちろん、甘い観測はすべきではありませんが、いたずらに恐れて閉鎖的、孤立的になるよりも、窓を開いていくところに新しい希望が生まれてくると思うのです。
 クーデンホーフ 私は、これまで五十年間、欧州統合のパン・ヨーロツパ運動のために、力をつくしてきました。ヨーロッパは現在、国家としては、互いに分離していますが、ECも形成され、私の理想も一歩一歩現実化してきました。
 私は、ヨーロッパ人全体を、単一民族とみなしているのです。私はヨーロッパは、ある程度まで孤立主義を貫くべきだ、と提唱するものです。
 なぜかと言いますと、繰り返すようですが、私はヨーロッパがソ連に征服されたり、ソ連圏に併合されたりすることを望みません。またヨーロッパがアメリカ化することも、アメリカ的生活様式になることも望まないからです。
 私の願いは、ヨーロッパは、あくまでヨーロッパとして、そのうえでアメリカやソ連と平和友好的な関係を維持していくことです。
6  西欧の精神的支柱
 クーデンホーフ 私のソ連観をもう少し、お話ししましょう。私に言わせれば、ヨーロッパとソ連の大きな相違は、ヨーロッパ諸国は何世紀にもわたって、自由のために戦ってきたのに対し、ロシア人は昔から、自由というものを知らない、ということにあります。
 ロシア人は、古代スカンジナビアの北方民族の支配下でも、蒙古族の支配下でも、旧帝政下でも、現在の共産党政権下でも、およそ自由というものを経験したことがないのです。彼らは、自由を求めようともしないし、自由がなくとも、素晴らしい世界ができると思っているようです。
 レーニンが、自由について述べた言葉の中に「自由とは、ブルジョワ的偏見である」というのがあります。
 チェコは、共産主義と自由とを融和させようとしましたが、ソ連は、共産圏の同盟国に自由を許すことを好みませんでした。一九六八年の夏、ソ連はチェコを軍事力で抑圧するほうを選びました。
 池田 あのソ連のチェコ侵入は、絶対に許せない暴挙であったと思います。日本でも、多くの社会主義者がチェコ事件で動揺し、少なくとも、ソ連型の社会主義体制に、疑問をいだく人が多くなりました。
 ところで、あなたが「ヨーロッパ文明は衰退しつつある」と言われるその原因は、何でしょうか。
 クーデンホーフ ヨーロッパ人のモラルの基礎となり、その文明の母となってきたのは、キリスト教です。そのキリスト教が今日では衰退してきており、これが近代ヨーロッパ文明を行き詰まりにしている最大の原因です。
 池田 そうした文明の行き詰まりを打開するためには、キリスト教に代わって、新たにヨーロッパの精神的支柱となるものが現れてこなければなりませんね。
 それは、キリスト教がまったく新しい宗教に変貌するのを期待するか、それとも、新たな宗教の出現を期待するのか、あるいは、宗教という精神的支柱を必要としない道を模索するのか――さまざまな方向が考えられます。
 私には、ヨーロッパが究極的には、東洋的な新しい宗教を求めていき、それが新しい価値観となるのではないかと思われますが……。
 クーデンホーフ 私は、キリスト教がまったく没落するとは思いません。たぶん、改革されるのではないでしょうか。その新しいキリスト教は、聖霊(ホーリー・スピリット)の概念によって、啓示を受けたものであろうと考えます。
 それは、万物の生滅、興亡の原動力は「聖なる息吹」(ホーリー・ブレス)であるとするもので、もし、この考えが将来、キリスト教に影響を与えるならば、近代科学との和解が成立し、ふたたび隆盛を迎えることになるかもしれません。
 しかし、別の宗教によって、キリスト教が取って代わられる可能性があることも否定できません。
 池田 その新しい宗教というものを、どのように想定されますか。
 クーデンホーフ その可能性の強い宗教の一つに、共産主義を挙げることができます。共産主義は、基本的には反宗教的ですが、宗教運動と同じような傾向をもっています。
 もしも、レーニンが、もう十年長生きしたとすれば、彼は共産主義を一つの宗教に発展させていたかもしれません。
 だが、レーニンの後継者は、だれもそれには気がつかなかったようです。彼らは、共産主義は政治的、経済的プログラムであって、宗教とは対立抗争の関係にあると考えていたようです。
 歴史的に考えますと、共産主義の台頭は、コーランと剣によるイスラム教の興隆を思い起こさせるものがあります。イスラム教は世界の広大な領域を征服しました。共産主義は、マルクスの資本論という″コーラン″と赤軍という″剣″を持っています。
 将来、歴史的には共産主義は新しい世界宗教の誕生であった、と考えられる時が来ると思います。
 私が日ごろ、不思議に思っていることがあります。それは、何かと言いますと、ソ連はなぜ、キリスト教を、少なくとも自国内のギリシャ正教会だけは、味方につけておかなかったのか、また聖書の中から、反資本主義的な字句を引き出し、それにもとづく共産主義的キリスト教派とでも言うべきものを、なぜつくらなかったのか、ということです。
 毛沢東のほうが、ソ連共産党の指導者たちよりも、預言者的要素をもっていますから、もしかすると、共産主義の宗教化は、中国のほうでなされるかもしれませんね。
 ヨーロッパの場合は、その新しい精神土壌から非キリスト教的な、たぶん科学と矛盾しない新しい宗教が生まれ、これまでのキリスト教が果たしてきた道徳的基盤としての役割を引き継ぐかもしれません。
7  西欧を教化した儒教
 池田 これまでのお話では、ヨーロッパは新しい道徳律の基盤を求めているということですが、もう少し詳しく述べていただけますか。
 クーデンホーフ 私は、ヨーロッパの新しい道徳律の基盤として、次の二つの可能性を考えています。一つは宗教であり、もう一つは美の問題です。
 歴史を振り返ってみますと、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はいずれもモーセの啓示にもとづいていますね。
 これらの宗教は、全能で不滅な宇宙的な神が、預言者を通じて、人がなすべきこと、なしてはならぬことを厳しく説いています。だから、人々は神の教えにしたがえば天国へ行けるが、もし反すれば地獄へ堕ちる、と言われてきました。これが長い間、西洋人の行動の規範となってきました。
 だが、これだけが道徳律の主たる基盤であったわけではありません。
 たとえば、ギリシャ人は、彼らの道徳規範を宗教とは切り離していました。ギリシャの神々は、あまり道徳的でなかったので、模範とはならなかったのです。そこで、ギリシャの哲学者たちは、美にもとづいた新しいモラル、つまり道徳とは″精神の美″以外のなにものでもない、という道徳律を打ち立てたのです。
 彼らは、善と悪ではなく、高貴と野卑という立て分け方をしました。ギリシャ人にとっては、高貴で美しい英雄、アキレウスが理想像でした。そのアキレウスに対抗するものとして、醜悪で野卑な悪漢がテルシテスです。
 ギリシャの青年たちは皆、アキレウスを模範としました。このように、ギリシャでは、美の原理が宗教とは無関係に道徳の基盤となったわけです。
 宗教と無関係という点では、よく似た道徳的基盤に、中国の儒教がありますね。その思想は、道徳とは″楽″、すなわち調和に立脚するというものです。したがって、儒教というのは、宗教とは無関係の一大道徳体系です。
 池田 その儒教は、近代ヨーロッパ哲学に影響を与えたと言われていますが……。
 クーデンホーフ ええ、大きな影響をおよばしました。十八世紀から十九世紀にかけ、フランスは中国をキリスト教化するため、たくさんの宣教師を送り込みましたが、失敗に終わりました。
 中国をキリスト教化するどころか、フランス自身が中国から大きな影響を受けたのです。
 どうしてかと言いますと、中国に送られた宣教師たちは、そこで儒教を知り、儒教の古典を翻訳して、フランスヘ送ってきたのです。それを読んで、フランスの指導者層、哲学者たちが、大変な影響を受けたというわけです。
 彼らは、キリスト教文明とは縁のないところに一大文明国が存在し、しかもその国の倫理的水準が非常に高いのに驚きました。
 このように儒教の影響を受けた哲学は、フランス革命や現代科学の源泉となったのです。現在では、ほとんどのヨーロッパ人は、西洋哲学におよばした中国の影響ということを忘れ去っていますが……。
 中国がヨーロッパの精神土壌に与えた影響については、近代中国の哲学者・辜鴻銘ここうめい(クウ・フォンミン)が興味ぶかい本を書いていますね。ドイツ語にも翻訳されています。
 ヨーロッパでも、キリスト教とは無関係の一つの道徳律として、ジェントルマン(紳士)という概念が、まだ残っております。ジェントルマンというのは、キリスト教徒でも、ユダヤ教徒でも、無神論者でも、不可知論者でもさしつかえありません。この倫理観の伝統は、ヨーロッパの武士道、騎士道の時代にさかのぼります。
 このジェントルマンの理念は、いまだにヨーロッパの人々の中に生きているものの、やはり薄れつつあります。なぜかと言うと、ジェントルマンと″ならず者″がケンカすれば、たいてい、腕力の強い″ならず者″のほうが勝ち、ジェントルマンのほうが負けてしまうからです。(笑い)
 池田 これまでに存在した古い宗教から新しい宗教が生まれるという可能性については、どうお考えになりますか。
 クーデンホーフ 古い宗教、たとえば、バラモン教とかイスラム教は、キリスト教の跡を継ぐ見込みはありません。そうなると、今後のヨーロッパを支配する可能性がある唯一の古い宗教は、仏教のみでしょう。それも古い形のままの仏教ではなく、二十世紀の息吹をそなえた仏教でしょう。
8  自然を見る目
 池田 私が、ヨーロッパにとって東洋的な新しい宗教が必要ではないか、と感じている理由の一つは、自然に対する東西の考え方に、大きな相違があることです。
 西洋では、人間を自然より優越した存在とし、自然は人間の所有物である、とする考え方が支配的なようですね。この思想が、自然を思うがままに操作しようとする科学技術の発展を可能にしたわけでしょう。
 科学技術は、宗教との戦いに打ち勝ったかに見えたとき、文明の代名詞にさえなりました。それが今日、自然から逆襲を受けている形になっています。このこと自体、西洋における自然観の欠陥を証明しているのではないでしょうか。
 クーデンホーフ 現代科学は、洋の東西を問わず、人間が自然の一部であり、自然と対立する存在ではない、という東洋的思考に向かっていると思います。
 他方、キリスト教は、人間は神の世界に属し、動物は植物や石と同じく自然界の一部であって、不滅の魂といったものはもたない、と説いております。
 私は、将来、この東洋思想が勝利をおさめ、人間は他の動物と同胞的存在であるという考えが、広まっていくだろうと予想しています。
 池田 この東西の自然観の相違は必然的に生命観の相違につながりをもっていると思いますね。
 たとえば、生命の尊厳ということは、東洋でも西洋でも言われていますが、その意味合いは、おのずから違うと思います。
 一般に、ヨーロッパ社会で言われているのは、自己中心主義(エゴイズム)のニュアンスが強いように感じられます。それは、ひとり人間生命のみの尊厳であって、他の生命あるものを同胞として考えているわけではありません。人間への奉仕的な存在と見ているわけです。
 ところが東洋では、仏教思想の影響で、人間以外の動物や自然についても、尊厳という認識をもっております。もちろん、人間生命の尊厳が大前提となっていることは、いうまでもありません。肉食もしますが、基本的には、他の命あるものはすべて、尊いものであるという姿勢です。
 これは、人間は無力で自然が偉大であるという、自然崇拝の思想とは、全然違います。人間と自然を、一個の有機的連環として見るわけです。
 だから、人間は、動物や植物、自然をいじくりまわすことには、どうしても、慎重になります。科学技術の分野において、東洋が立ち遅れた原因の一つは、ここにあったのかもしれません。
 しかし、来るべき二十一世紀の文明においては、東洋的な自然に対する尊厳観、慎重さが見直されなければならないと思います。
 クーデンホーフ そのとおりです。仏教は、たとえば動物に対する考え方において、キリスト教よりもはるかに、優れていると思います。
 医学の分野などで行われている動物を使った残虐な実験は、人間の利益になることは認められますが、無反省なやり方は、改められるべきでしょう。この種の実験は、目的があるとはいえ、そのために手段を選ばないという考えは、いけないことだと思います。
 池田 こうした思想の形成には、ヨーロッパの肉食中心の食生活と、東洋の菜食中心の食生活に、深いつながりがあるように思えますね。
 菜食中心の種族にとっては、自然は、生命を創造する尊い存在であり、大地を耕すことによって、自然と親しみ、自然と調和する思想が植えつけられます。
 反対に、肉食中心の種族にとっては、自然との闘争が日常的な活動となります。両者の間に、自然観の本質的な違いがあり、したがって、文化も違ってくるわけです。
 肉食主義にとっては、動物とは人間に食べられるためにある、という考えは都合が良い。キリスト教が、西洋で受け入れられ、用いられたのは、こういう一面があったのかもしれませんね。
 ところで、仏教と初期キリスト教の間には、なんらかの関係があったのではないか――という研究が今、進んでいるようですね。私は教義的にも、両者の間に似かよった面があるように思いますが、あなたは……。
 クーデンホーフ 私も、なんらかの関係はあったと思いますが、今ここでは、具体的な証拠を挙げることはできません。確かに、仏教と初期キリスト教の間の類似性は、驚くべきですね。これは、武士道と騎士道の相似性のように、人間に固有の類似性として説明できるかもしれません。しかしたぶん、この二つの宗教には密接な関係があったのでしょう。
 紀元前八〇年まで、現在のアフガニスタンに、バクトリアという国があったと言われています。この国は、ギリシャの王国でしたが、仏教に帰依したと伝えられています。この国が、西に向けて、仏教思想を吹き込んだという説です。
 また最近、死海の沿岸で、ユダヤ教の僧院の遺跡が発見されました。元来、ユダヤにも、ギリシャにも、ローマにも、僧院制はなかったので、これもたぶん、仏教の影響を受けたものではないかと考えられています。
 この僧院は、キリスト出現前のユダヤ教のエッセネ派の本山ですが、キリスト教の揺監期に、仏教とキリスト教を関係づけたところではないか、という説があります。
 池田 なるほど、西暦紀元前の昔から、すでに東洋の仏教と、ヨーロッパの一神教の間に、密接な関係があったのかもしれないわけですね。
9  毛沢東の中国
 池田 これまで、「日本とアジア」「仏教文明とキリスト教文明」などについて話しあってきましたが、ここで、中国のこと、アメリカのことへ、話を移していきたいと思います。
 現在の国際政治の焦点は、中国問題と言われています。事実、国連総会では、中国加盟が最大の論点となりました。最近、カナダ、イタリアなどがあいついで中国を承認し、外交関係を樹立しました。このような動きは、大きな波紋を呼び起こしています。
 インドシナ戦争によって代表されるアジアの紛争も、根源をたどれば、中国問題に行き着かざるをえないことは、今日、常識化していると言えましょう。
 一般に、中国は、共産主義勢力全体の中の一つの″目″というふうに見られています。確かにそういう面もありますが、中国をソ連と同じように考えるのは、誤っていると思います。中国とソ連を比較するとき、同じ共産主義といっても、中国の場合は、東洋的な発想と理念が底流にあるように、私には思えますが……。
 クーデンホーフ 私は、中国は本来、世界最大の文明国の一つであると思います。少なくとも、これまではそうでした。東洋思想の底流が、根強く残っていますね。
 したがって、共産主義の経済体制と、中国古来の儒教の道徳性との間に、なんらかの妥協点がつくられるだろうと信じています。
 池田 朝鮮戦争以来、アメリカのアジア政策は、中国を最大の脅威として、いかにこれを封じ込めるか――に重点が置かれてきました。そのほかにも、たぶんに政治的思惑や、被害意識があります。これが対立関係を増大させ、仮想敵国という考えを生みだしたのではないでしょうか。
 この見解を根本的に改めるためには、中国民族の本質を正しく、見直さなければならないと思います。
 黄色人種・中国人を恐ろしい民族とする考えは、かつてヨーロッパにまでその暴威をふるった、蒙古族のイメージに、もとを発しているのではないでしょうか。
 中国の主要民族である漢民族は、もともと農耕民族で、攻撃的、侵略的であるよりは防御的、平和的な民族です。その歴史を見ましても、高度の文明をもって近隣諸国を心服させていますね。武力による侵略や征服をしてはおりません。
 今日、中国が、核兵器をみずから開発したのは、侵略、征服のためではなく、中国民族の能力と科学技術の水準を誇示するのが目的と思われますが。
 クーデンホーフ 中国が攻撃的でなく、平和的であるというご意見には同感です。中国の歴史がそれを証明しています。
 しかし、中国が核兵器を開発したのは、たんに国力を誇示するためであるとは思えません。私はもっと切迫した、現実的必要性、つまリソ連からの侵略に対応するためであると考えます。もし中国が、核兵器を開発していなかったとしたら、ソ連に侵略されていたかもしれません。
 池田 中国が核兵器の開発をしたのは、ソ連への追随を拒否したものと言えるでしょう。
 ところで毛沢東は現代の中国における最高の指導者であり、世界的にも大きな影響力をもっています。
 毛沢東抜きで、中国を論ずることはできません。あなたは、毛沢東の人物、業績をどう評価しますか。
 クーデンホーフ 私は、毛沢東を尊敬しています。今世紀の偉人の一人だと思います。彼は政治家、軍事的指導者であるばかりではなく、哲学者でもあり、詩人でもあるからです。
 中国の偉大な将来は、彼によって決定されると信じています。毛沢東は、かつて無政府状態におちいり、また諸外国から屈辱を受けていた中国を、立派に立ち直らせました。日本や西欧諸国、アメリカ、ついでソ連の支配から独立することに成功しました。
 池田 そこで、毛沢東以降の中国についてですが、世代が交代し、経済的に豊かになれば、ソ連と同じように、かなり修正主義化するのではないか、そういう見方があります。
 もちろん、現在の中国は、そういう修正主義を厳しく戒め、否定していますが、あなたは、今後の中国をどう予測されますか。
 クーデンホーフ それはやはり、後継者の如何によると思いますね。ソ連の場合でも、レーニンの後継者がスターリンでなく、トロツキーであったとしたら、事態はまったく変わっていたにちがいありません。
 中国は人間性に富んだ偉大な歴史をもっていますから、ソ連よりも早く民主主義的な国家形態に発展していくのではないかと思います。一世代も過ぎれば、ソ連よりも高いレベルに達するかもしれません。
10  日本と中国
 池田 一九六八年のことですが、私は、日中の国交回復と中国の国連加盟を強く訴えたことがあります。中国は長い間、日本人にとって文化的母体でもありました。
 今の中国は、七億以上(一九七〇年当時)の膨大な人口を擁しながら、国際政治の場においては、合法的発言権を与えられておりません。それが無用の国際緊張の大きな原因にもなっています。
 わが国は、自由圏に属していますが、中国の隣国でもあります。中国に対する日本の態度が、アジアの自由諸国と中国の緊張関係に、どれほど深い影響をおよばしているか、計り知れないものがあります。
 その意味から、私は、日中の間に平和共存関係を打ち立て、親密な友好関係を結ぶことが、アジアにおける平和の実現にとって、重要な条件であると信じているわけです。
 クーデンホーフ 日中の平和共存は、世界の将来を決定するものであり、それを確立するために、あらゆる努力が払われなければならないと思います。
 池田 日本は、現在まだ、中国を承認していません。この点で国内の世論も分かれています。あなたは、わが国がいまだに中国を承認していないことをどう考えますか。
 クーデンホーフ 私は、日本政府が中国を承認しない理由は、日本や中国自身とは無関係な事情によると考えます。
 その事情には二つあります。一つはアメリカの態度、もう一つは台湾の存在です。この二つが今日まで、日中国交の正常化を妨げてきたと言えましょう。アメリカに追随せざるをえない外交姿勢と、台湾への義理が日本を浚巡させていると考えます。
 池田 日中関係を正常化するには、まず何から手がけるべきでしょうか。かつて、ド・ゴールが中国承認に踏み切ったいきさつなどから、今の日本が学ぶとすれば、その教訓は何でしょうか。もちろん、日本とフランスとは、それぞれ、歴史的、文化的、地理的関係が根本的に異なりますが……。
 クーデンホーフ 中国承認については、フランスよりもイギリスやスイスのほうが、ずうっと以前に踏み切っていることを忘れてはなりません。イギリスもスイスも、世界で最も先進的な資本主義国です。それがいち早く、中国を承認し、北京に大使館を置きました。
 私は、これは非常に賢明な外交であったと思います。他の国々は、イギリスやスイスを見習わなければなりません。
 日本が中国と国交を正常化するためには、まずアメリカと密かに協議すべきと思いますね。日本が中国と国交を正常化し、友好関係を結ぶことは、米中共存への道でもあります。おそらくアメリカは、日本が米中共存の橋渡しになることを望むにちがいありません。
 池田 最近、いくつかの国が中国を承認しましたが、とくにカナダの場合、その経済に対するアメリ力の影響力が非常に強いことを考えると、カナダの動きは、アメリカの意思の反映であるともみられます。
 アメリカ自身も、やがて中国との国交樹立に踏み切るのではないでしょうか。
 クーデンホーフ かつて、今世紀の初めに、ソ連が誕生したとき、その承認をめぐって、ヨーロッパ各国に非常な反対がありました。だが結局、世界はソ連を国際社会へ受け入れました。中国の場合も、必ずそのようになると思います。
 池田 アメリカの場合、現在、経済政策、対外政策の行き詰まり打開のために、中国と和解し、ひいてはその巨大な市場へ進出しようとする関心が非常に強いと思います。そうした要素もからまって、中国の国連加盟実現は、もはや時間の問題という見方がなされています。
 クーデンホーフ アメリカは、中国に新市場を開拓しようとして、強い関心を寄せています。それは、一世代もたたないうちに、中国が世界の最重要市場の一つになると予測されているからです。これは、日本が中国と友好関係を樹立できる一つの理由にもなると思います。
 日本は、地理的に中国に近いので、中国市場との関連性ではアメリカよりも有利な立場にあるわけです。たぶんアメリカは、日本の産業が中国市場へ進出するのを、促進し、支援するのではないか、と思います。
 国連加盟の問題については、私は、はたして中国が国連に入りたがっているかどうか、わかりません。
 中国が国連へ入りたいということよりも、国連が中国の加盟を求めているといった面のほうが強いのではないでしょうか。
11  苦悩する米国
 池田 話題をアメリカに移したいと思います。
 クーデンホーフ 私は、第二次大戦の戦前、戦中、戦後とアメリカには何度も行ってよく知っていますので、アメリカには強い関心があります。
 私の感じでは、アメリカ人はヨーロッパよりも、理想主義的国民ですね。この点については、いろいろと議論があると思いますが――。
 たとえばマーシャル・プラン。これはいかにもアメリカ人らしい発想でした。それは、歴史上初めて、敗戦国に戦勝国が敗戦処理費を支払った例として、私は高く評価しています。
 もちろん、このプランは、アメリカの利益を意図した壮大なジェスチャーという面もありましたが、私はアメリカの理想主義的見地から行われたものだと考えています。
 池田 アメリカは今、国際的にも国内的にも、大きな危機に直面しているわけですが、その危機を招いた大きな原因の一つに、アジア政策の失敗が挙げられていますね。
 クーデンホーフ 私も、アメリカのアジア政策には、重大な誤りがあったと思います。それは、現在インドシナ半島に見られるように、反共十字軍をつくろうとしたことです。私に言わせれば、反共十字軍で、共産主義を打倒しようとしても、それは不可能です。不可能とわかっているのにやったことは、大きな間違いですね。
 ニクソン大統領は、一九六九年にルーマニアを、七〇年にユーゴを訪問しました。アメリカ大統領としては、初めての共産圏国の訪問で、そこで平和共存のジェスチャーを示しました。
 アメリカは、この原則にそって、反共が目的でないこと、またベトナム戦争は、共産主義の浸透を阻止する十字軍でないことを、全世界に宣言する必要があると、私は思います。
 池田 アメリカが、開発途上国への共産主義の浸透をあくまで防ぎたいと願うなら、武力によらず、むしろ平和的にその国の経済的、文化的発展を図ることのほうが、より効果的ではないでしょうか。
 とくに、アジアやアフリカでは、今日なお飢えと貧困に悩む地域があり、これら諸国の経済的自立を促進しないかぎり、革命と戦争の危機は、いつまでも避けられないと考えます。
 クーデンホ…フ 経済さえ発展させれば、共産主義は防げるというのは、この問題の一面にすぎないのではないでしょうか。
 もう一つの面として、私は、自由主義と共産主義とは本来、両立しないということを強調したいのです。
 私が共産主義に反対する理由は、共産主義が資本主義と対立するというより、もっと重要なことは、自由と対立するからです。
 池田 戦後日本では、アメリカナイゼーション(米国化)がかなり激しく浸透しました。今では、その行き過ぎを反省する気持ちが出てきています。ナショナリスティックな傾向も見られるようになりました。
 私は戦前のような、極端なナショナリズムには当然反対しますが、日本独自の文化を大切にしながら、広く世界に目を開き、文化的、平和的発展を心がけていくのは、正しいことだと考えています。
 ヨーロッパでも、戦後、アメリカナイゼーションという現象が、あったと思いますが……。
 クーデンホーフ 日本とヨーロッパでのアメリカナイゼーションには、大きな違いがあると思います。
 日本におけるアメリカナイゼーションは、文化的な面から政治的な面まで、広範囲にわたっているようですが、ヨーロッパでは経済面だけです。
 だから、アメリカがヨーロッパ文明やその生活様式にまで、大きな影響を与えた――とは言えないと思います。
 身近な例を言いますと、チューインガムでさえ、ヨーロッパでは広まっていません。
 アメリカ社会が行き詰まっている最大の原因は、キリスト教が衰退したためで、その結果、西洋の倫理的支柱が崩壊しつつあるからです。このことはヨーロッパにもあてはまります。
12  深刻な人種問題
 池田 アメリカといえば、黒人と白人の、いわゆる人種問題が深刻になっていますね。
 クーデンホーフ この問題の解決は、非常に困難です。
 池田 私は、人種問題は、人類にとって、重要な課題だと思います。これを解決するためには、生命の平等観を実現する、新しい宗教理念を根底にしなければならないと考えますが、いかがでしょうか。どのような対策も、そうした精神的基盤があってこそ、初めて生きてくるものです。
 クーデンホーフ あなたの言われる生命の平等観というのは、人種、民族といった、起源などの異なる人たちに、すべて平等の権利、平等の機会を与える、仏法の生命観だろうと思いますが、私も同感です。私は、人間同士、心と頭脳に判断の基準を置くべきだと考えているからです。
 池田 私は、人種問題は、たんなる皮膚の色の相違によって起こるのではなく、深く立ち入って言えば、結局は人間の内部にある差別意識によって、引き起こされるものと考えます。
 アメリカやヨーロッパには、長い間、アジア人やアフリカ人などを軽蔑する考えが定着してきたように思えますが、こういう偏見は、まつたく是正されるべきですね。
 クーデンホーフ そのとおりです。白人が他の人種に比べて、優れている、という意識は、今世紀初めあたりから、徐々にですが衰えてきています。その最初の打撃が日露戦争だったわけです。今日では、多くのコーロッパ人が、黄色人種の優秀性を理解するようになってきました。
 私は、シンガポールに住んでいたヨーロッパ人の何人かに会ったことがありますが、彼らはヨーロッパ系の銀行よりも、中国人の銀行と取り引きするほうが良い、と言っていました。中国人のほうが正直だから、ということでした。
 現在、教養あるヨーロッパ人で、黄色人種がヨーロッパ人よりも、知的に劣ると信じている人はおりません。
 しかし、いまだに変わっていないのは、白人と黒人との関係です。なぜ、白人は黒人を蔑視するのかと言いますと、それは、白人はセッセと働いて、人類の文明を築いてきたのに比べて、黒人は何もしなかった、という意識が一般にあるからです。もちろん、将来は、黒人ももっと文明に貢献することになるでしょう。
 忘れてならない事実は、白人と黒人の混血であるエジプト人が、西洋文明の基礎をつくったということです。また最近では、ガストン・ムネルビイルという人が、フランス上院の議長になりましたが、この人は黒人です。アフリカの黒人国、セネガル共和国のレオポルド・サンゴール大統領は、最も知性の優れた人物の一人として、フランスでは高く評価されています。
 今後、人種的偏見は、しだいに姿を消していくと思いますが、現在はまだ、根強いですね。アメリカでは、人種的偏見が原因で、内乱さえ起こりかねないありさまです。
 池田 ユダヤ人問題については、どう考えますか。
 クーデンホーフ アメリカの黒人問題と反ユダヤ主義とは、大きな違いがあります。というのは、反ユダヤ主義というのは人為的なもので、人種問題ではないからです。
 ユダヤ人は白人系で、そのなかでも最も知性的に優れた民族です。ほとんど毎年といってよいくらい、ユダヤ系の人がノーベル賞を受賞していますね。ユダヤ人は、何世紀にもわたって迫害されてきたので、優秀な人だけが生きのびてきたのかもしれません。アメリカとヨーロッパでは、反ユダヤ主義は、もはや深刻な問題ではありません。
 けれども黒いアメリカ人と白いアメリカ人の争いは、現在および将来にわたって、最も深刻な問題でしょう。その意味で、アメリカの将来はヨーロッパの将来よりも大きな危機をはらんでいる、と言えます。ヨーロッパでは、皮膚の色による人種問題は解消されつつあるのです。
 池田 私は、人種差別は、人間の内部にある差別意識が引き起こすものと考えていますから、ユダヤ人問題と黒人問題は、本質的には同じ根だと思います。
 アジアとヨーロッパの融合、また異なった民族や人種間の接触は歴史上、さまざまな紛争や戦争を生んできました。
 しかしこれからの世界は、異なった民族や文化土壌をもつ人々が、あくまで平和的に、地球上の運命共同体の一員として、共存していくものでなければなりません。私は、そうした世界平和への理念として″地球民族主義″をかかげたいと思います。

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