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日蓮大聖人・池田大作

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まえがき  

「文明・西と東」クーデンホーフ・カレルギー(全集102)

前後
2  本書は、昭和四十六年(一九七一年)二月から八月の間、「サンケイ新聞」紙上に連載されたクーデンホーフ=カレルギー博士と私との対談をまとめたものである。
 この対談は、博士が昭和四十五年(一九七〇年)の秋、二度目の来日をされていた折、東京で三回、延べ十数時間にわたって行われたものである。中国問題等を含め、東西文明論、世界平和への方途について率直に意見を交換した。
 博士との最初の出会いは、昭和四十二年(一九六七年)十月のことである。博士が生後一年余で日本を去られて以来、じつに七十一年ぶりに、文字どおり母の国に帰られたときのことである。NHKと鹿島平和研究所との共同招待が実現したもので、出発に先立って、予め、私との会見の機会を招待者側に申し出られたとのことであった。
 博士について、私の受けた最初の威難ぽ、血色の良い、整った面立ちの、知的で礼儀正しい、紳士ということであった。その折の懇談の中で、博士は、つねに現実をふまえながら段階的にその理想の実現に努められたこと、そしてつねに自己に厳格そのものであられたことがうかがわれた。
 その時、博士が「日本は世界第三位の経済力をもち、また世界に類例のない平和憲法をもっている以上、全世界の平和勢力を指導できる唯一の国となるべきである」と語られたことが、忘れられない。
 話が宗教におよんで、博士は、時代を超越し、科学と矛盾することのない仏法の普遍妥当性を信ずると述べられ、また「日本における近代仏教の復興は、世界的な物質主義に対する日本からの回答であり、宗教史上新たな章を開くものである」とも語られ、仏教の革新運動に多大な期待を寄せられていた。
 その後、チューリヒから丁重な書簡が届き「あの会見は、私の滞日中、最も有意義なものであった。私は、あなた方の運動に称賛の辞をおくるとともに、私が敬服してやまない仏教のルネサンスによって、日本一国のみならず、アジアと世界の将来に貢献されんことを心から期待する」と認めてくださった。
 それから三年後、博士は前夫人が亡くなられたあと再婚した新夫人を伴われて、昭和四十五年の十月ふたたび来日され、この対談となったのである。
 博士は「多くの人は日本の近代化に興味をもってやって来るが、私は永遠の日本に魅かれてやって来た」と語られた。
3  対談は、博士に比べれば遥かに若輩である私からの問題提起という形で進められた。日本論、日本とアジア、日本と西欧、西欧とソ連、中国論、日本と中国、アメリカ論、国連論、平和国家論、自然と人間、公害問題、宗教の従置、慇と死の問題、指導者策、人物論、太平洋文明、自由と平等、民主主義、生命の尊重、青年論、女性論、教育論等々――。
 博士は、キリスト教を基盤とする大西洋文明の後退と、それに代わるべき東洋の精神文明にもとづく太平洋文明の到来を予見された日本への提言から始まって、その独自の主張を数々展開された。そして博士の東洋的・演繹的ともいうべき発想に、私は少なからず共鳴したのである。
 この二度目の来日の折、博士はヨーロッパからの途次、カリフオルニア大学で一回、滞日中に八回、合計九回の講演を行われた。この講演を通じて、パン・ヨーロッパ運動の政治理想実現のための半世紀にわたる活動の上から、また生来の東西の英知を融合した演繹的・巨視的な歴史観・世界観の上に立って、日本および日本人に対し数多くの貴重な提言を行われたことは、われわれの記憶に新しい。その講演集『大陸日本』が、先に潮出版社から出版されているが、博士の言葉は、今日、世界平和を志向し、そのために何を成すべきかを模索しつつある日本人にとって、傾聴に値するものであったと思う。
 かつて三度にわたる世界大戦の発火点となったヨーロッパは、その第二次の大戦後二十七年を経たが、この間二度とほこを交えることがなかった。宿敵同士のフランスとドイツは歩み寄り、両国を中心としてヨーロッパ六カ国がEEC(欧州経済共同体)を結成して、これは近年EC(欧州共同体)へと次元を高め、そして近くイギリスをはじめとする四カ国を迎え入れようとしている。これら西欧十力国の共同体機構は、たんに経済面のみならず、政治面をも志向していることは周知のことである。究極の到達点がヨーロッパ合衆国になるか、ヨーロッパ連合になるか、それともヨーロッパ連邦になるかを予測することは、いまだ時機尚早であり、その前途に幾多の障害が立ちはだかっていることも事実であろう。だが、ともあれ、かつての対立が融合へと着実な歩を進めていることは剖目すべきである。ECのかかる動きは、対米、対ソ(=ソ連)、対中関係において、当然のことながらヨーロッパの地位を強化しつつある。そして幾多困難はあるにせよ、ECは、戦争のないヨーロくハを現出することに、やがては成功するだろう、と期待されるのである。
4  ヨーロッパの世界第四の大国への道は、なによりも、現在の平和主義路線を絶対条件としている。つまリヨーロッパではそのたどってきた苦い歴史的な経験と英知によって、最早こちらから戦争を仕かけるならば、かえって自己分裂を起こすような結果となろう。したがって平和主義の上に統合化へ向かうしかない、という考え方が、イギリスをも含めてすでに支配的になっており、世界もすでにこの立場を容認し始めているように見える。
 この、ヨーロッパの今日の統合化への大きな潮流をさかのぼってその淵源をたどるとき、一人の独創的な政治思想家クーデンホーフ=カレルギー博士に帰するところが多い。博士は、第一次世界大戦後にパン・ヨーロッパ主義の理念を提唱され、以来、全生涯をその理想実現に捧げられてきた。第二次大戦前のヨーロッパの対立・抗争を想うとき、博士の卓抜した理念は、あらためて高く評価されるべきであろう。ナチ・ドイツの台頭とともに博士はスイス、フランス、イギリスそしてアメリカヘと逃れられ、あらゆる困難の中で、あくまで自己の信念を曲げることなく、理想実現への努力を貫かれたその情熱と忍耐に対して私は、心から尊敬の念を禁じえない。
5  さて、ヨーロッパに比して、われわれのアジアの現実はどうだろうか。
 戦後二十七年の間に、中国における共産革命の内乱から、朝鮮戦争、インドシナ戦争、印パ、中印、中ソの紛争、近くは東西パキスタンの紛争とバングラデシュの独立、インドシナ戦争再燃等、およそ戦火の消える暇がない。火山にたとえるならば、まさに活火山である。原因は数々ある。欧米の植民地支配の残滓ざんし、ナショナリズム、イデオロギーの対立・抗争、大国の利害衝突等々――。
 そこでアジア諸国民が過去の負債を清算し、平和を希う民衆の渇仰を実現するために、いったいどうしたらよいか。この問題はアジア全体にとって、そして当然のことながら、日本の将来、また全人類の平和を招来するための重要な鍵となるものである。
 ここで、この対談後の現段階で日本文化、東西文化および二十一世紀の諸問題について私の所感を少しく述べてみたい。
6  まず、日本文化の特質を考えるに、日本民族はこれまで他国文化の吸収、同化において、優れた素質を示してきた。
 古代日本の国家的統一は、中国、朝鮮を模範とし、先般発掘された高松塚古墳にも見られるように、産業、経済、工芸についても、中国や朝鮮半島から学ぶところが多くあった。飛鳥、天平期は、まだ模倣の域を脱しなかったが、平安時代になると、すっかり同化して日本独自のものにしてしまった。その後、鎌倉、室町時代には、戦乱の影響もあって、ふたたび中国文化の吸収が主流になったが、江戸時代に入ると、鎖国政策のもとで、庶民のレベルにまで文化の浸透が進んだ。明治以後は、ヨーロッパから学んで近代化が急速に行われ、第二次世界大戦後は、これにアメリカの影響が加わった。
 明治以後、欧米文化の吸収は、あまりにも急激であったため混乱におちいり、充分消化するまでにはいたらず、そのため在来の文化を無用に破壊する傾向さえ現出した。
 現在は、この反省の中から新しい創造へと姿勢を転換すべき時であると考えたい。それ以外に日本の人類に貢献する道はないと考える。これまで、インド、中国、欧米から吸収し自分のものとしてきた資産が、このためにこそ価値を発揮するからである。
7  巨視的に見ると、個々に生成、発展してきた諸文明が、地球世界という一つの増禍の中で、融合されてなんらかのハーモニーを創り出すことが望ましい。しかもこれは今日、時代の要請でもある。しかし世界の多くの民族は、他文明の吸収に不安をいだきつづけているし、拒絶的ですらある。それには、民族、言語、宗教、歴史の違いのほかに、イデオロギーや利害の対立があるからである。
 日本が、今後の世界に貢献できる道があるとすれば、それは一つには前述の独自の創造性であり、もう一つは他文明との融和性、同化性において、諸民族に対しなんらかの可能性を示すことができる、という点であろう。独自の創造ということ自体、決して容易ではないし、まして第二の点については、諸民族の動向という外的・客観的条件にかかっているので、なおさらむずかしい問題であることはいうまでもない。
 私は一日本人として、世界の中での日本の位置づけと、将来への希望のために、限りなく模索をつづけたい。こうした日本特有の、文化生成力ともいうべき民族の知恵は、二十一世紀を志向する東西文化の融合、人類文化の発展に、大きく寄与するにちがいないと信じている。
 今日の世界は、西洋文明の中から発展した科学技術が圧倒的に主導権をとり、それぞれの民族に伝えられてきた精神的文化の遺産は、非情にふり捨てられつつある。そのため、科学技術によって得られた物質的豊かさは、人間本位の文明社会を現出することができないでいる。こうした現代文明の行き詰まりが指摘されても、なおかつ人間という本質に立ち還るとき、解決の方途とはなりえない。
 世界文化の融合がどのようになされるか。私はここに、日本文化の特質が東西文明の重要な接点の役割を果たせるのではないかと期待するのである。
8  博士はしばしば二十一世紀は、科学文明・物質文明を指導する偉大な東洋の精神文明が台頭する世紀であり、また世界のリーダーシップをとる世紀になるであろう、と指摘された。そこで、私も若干、私なりの二十一世紀論について、ここで述べてみたい。
 現代に最も欠けていることは、人間を本源的に考えること、つまり、人間生命の尊厳なる存在についての考え方の欠如であると思う。この思考を忘れて人間復権はありえない。私はそこで、二十一世紀をあえて″生命の世紀″と名づけたい。というより、その方向にリードしていかなければならないという私の願いでもある。
 ″生命の世紀″とは、端的に言えば生命の尊厳を根底とする時代、社会、そして文明ということである。そして生命の尊厳とは、人間の生命、人格、個人の幸福を、いかなることのためにも、手段としないことである。言い換えると、人間の生命、人格、幸福は、一蹴の目的であって、絶対に手段としてはならないという考え方が確立された社会であり、その上に築かれる文明ということである。
 いかなる対立や、相克であっても、力によるのでなく、人間の英知によって、新しい解決の道を求めるべきである。そしてそれを私は、二十一世紀に賭けたい。
9  二十世紀の前半、人類は、世界大戦を二度も経験した。そして、その結果がどんなに悲惨きわまりないものであったか、身に刻んで知っているはずだ。価値ある解決は、平和の中にこそあれ、戦乱の中からは何ものも能ごされはしない。″生命の世紀″は、それゆえ、根本的な価値観の転換を前提としよう。
 人間が本来もつべき価値観とは、偏狭なものであってはならない。つまり自分の利欲さえ満足させればよいという極端な利己主義は当然のこと、一集団、一国家、一民族、一つのイデオロギーのためのものであってもならないのである。偏狭な価値観こそ、過去において、戦争を引き起こし、また社会の矛盾と不合理を形成してきた元凶であったことを忘れてはならない。
 すなわち、二十世紀後半の人類がもたなければならない価値観とは、たんに一つの社会、国家に基盤をおいた狭隘なものではなく、全人類的な視点、全地球的な視野に立ったものでなければならない。さらに大自然と関係しあった生命的存在にまで深い洞察がなされる必要がある。
 人間存在の淵源にある生命的存在という一点が、これまで意外なほど軽視されてきた。もちろん、戦争や災害が起こるつど、人間生命の尊厳性が強調されてきたが、存在論から生命を論じたものは稀であった。
 人間が生命的存在であるということは、いかなる社会、国家、民族をも越えて普遍的であり、かつ絶対的な事実である。それに対し社会的存在としての人間は、時代、民族、国家の違いによって異なってくるのである。
 その意味で、人間が真に人間らしく生きるためには、まずみずからの原点であるこの生命的存在という大前提に立たねばなるまい。
 しかもそれは、人類という普遍的な横の広がりでとらえられねばならない。換言すれば、現代の価値観とは、タテには人間存在の根源である生命的存在に立脚するものであり、現実行動の上では、ヨコに、その生命的存在を共通とする地球人類という普遍の連帯をもつことによるものでなければならない、と私は考える。
10  対談中、さらに詳しく掘り下さげてみたいと思った問題も数多くあったが、博士の多忙な講演スケジュールと、私自身の多忙な日程の間を縫っての企画でもあり、時間的な制約もあって、思うにまかせないものもあった。
 もしもこの対談集が、同じく人類共通の諸問題を思索しておられる大方にとって、なんらかの参考になれば、私の望外の喜びとするところである。
 ともあれ、この対談は、私の二十一世紀への模索・思考の一段階を成すものであり、さらに私の志向するところは、今後もあるいは書き、あるいは語っていきたいと念願している。
  一九七二年四月     池田大作

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