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日蓮大聖人・池田大作

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第22回「SGIの日」記念提言 『地球文明』への新たなる地平

1997.1.26 平和提言・教育提言・環境提言・講演(池田大作全集第101巻)

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1  二〇〇一年まであと千五百日を切り、「新たな千年」の扉を開く二十一世紀の開幕は指呼の間に迫りました。この「千年」という大きな時代の転換期を前にして、私が懐かしく思い起こすのは、今は亡きミシェル・バロワン氏と交わした言葉であります。
 一九八七年一月、「フランス革命・人権宣言二百周年記念委員会」の会長として来日したバロワン氏と私は、はるか三十世紀を展望しながら人類の未来を語り合いました。
 「人類の一員としての責務を果たす意味からも、二百周年の行事を三十世紀への幕開けともなる有意義なものにしていきたい」と意欲を語る氏に対し、私は、「仏法では"末法万年"と説くが、それはそれとして、三十世紀という視点は、まことに重要である」と述べ、今一度、「生命」に焦点をあてて輝かしい「人間」と「文化」の時代を招来すべきであると訴えたのであります。
 それから十年が経ちますが、私たち人類を取りまく状況は、まさしく抜き差しならない状況に至っているといえましょう。
2  核兵器をはじめとする大量破壊兵器の脅威、民族紛争の激化、温暖化やオゾン層破壊などの地球環境の悪化、経済面における南北格差の拡大、精神病理や凶悪犯罪の広がり等々――行く末に暗い影を落とす危機は、個人の心身や社会、また民族や国家、そして生態系や地球というように、幾重もの次元で深刻化するに至っており、まさに現代文明そのものが、大きな行き詰まりをみせている感は否めません。
 その意味でも、翻っては、過去数百年の近代文明史の歩みを総括しつつ、思い切って発想を転換し、千年、二千年といった巨視的なスパンで人類史を俯瞰する作業が必要不可欠ではないでしょうか。
 私たちが直面している課題はいったいどういう性質のものか。二十一世紀が必然的に帯びざるをえない「地球文明」というものの性格、システム、位階秩序をどう構想していくのか――。未来世紀の足音が大きくなるのに呼応するかのように、さまざまなアプローチが試みられております。
 それぞれに示唆されるところが多いのですが、総じていえることは、それらの基調は、次なる世紀の未来像に確たる手応えを感じ取ってのものというよりも、暗中模索の域を出ていないように思われてなりません。
3  半ば当然のことだと思います。それほどに、不確実で不透明な世紀末の闇は深いともいえます。裏返せば、我々が肩に負っている数々のアポリア(難問)は、規模からいっても質的にみても、かつて経験したことのない、未聞の"新しさ"を秘めている。"新しさ"といえば聞こえはよいが、下手をすると人類の文明史に終止符を打ってしまいかねない不気味な予兆を伝えており、その覚悟で臨んでいかなければ、とうてい対応できないと思います。
 新しさといえば、フランスの気鋭の思想家アラン・マンク氏や、田中明彦・東大助教授の「新しい『中世』」という問題提起は、時流の動向を感じさせるものです。
 というのも、すでに半世紀以上も前になりますが、亡命ロシア人哲学者のN・ベルジャーエフが、世俗化を強める現代文明の行方に鋭く警鐘を鳴らしながら、"新しい中世"の到来を待望していたと記憶しております(『わが生涯』志波一富・重原淳郎訳、『ベルジャーエフ著作集』8所収、白水社、参照)。私もそのオーソドックスな危機意識に、少なからぬ共感を覚えたものであります。
4  もとより、ベルジャーエフの主張は、キリスト教的実存主義の立場からする近代の世俗化の趨勢への警告であり、彼一流の剛直な形而上学的、演繹的な裁断であります。
 いわく、「人格の成就実現は永遠の自己創造、新しき人間の構成、古き人間にたいする勝利である。『新しき人間』はここでは時間の力を意味しない。(中略)それは永遠的なるものを実現する」(『孤独と愛と社会』氷上英廣訳、同著作集4所収)と。
 そこでは、神なき時代の人間の思い上がりと迷走を正し、宗教的な魂を吹き込まれた「あたらしき人間」が担い立つ新たな精神世界の開幕が志向されていました。
 それに比べ、マンク氏や田中氏の所論は、近・現代史の流れを忠実に追いながら、より帰納的、実証的に、近代文明が逢着している巨大な曲がり角に、ある種の位置づけをなそうとする試みといえましょう。
 いずれにせよ、その曲がり角は、数十年単位ではなく、近代文明それ自体を、総体としてどう捉えるかという、マクロ的な視点に立たねば、とうていスムーズに、過つことなくカーブをきっていくことのできない性格のものであると思われます。
5  変容迫られる国家中心の枠組み
 精神世界の出来事はひとまず置き、さまざまなアプローチが交錯するなかで、人々のほぼ共通認識として指摘できるのは、近代史が生み落とし、とくに二十世紀において猛威を振るった近代主権国家というものの変質、空洞化とまではいえないにしても、その相対的な地盤沈下でありましょう。
 たしかに、地盤沈下といっても、現在の主権国家の枠組みが簡単に揺らぐとは思えません。また、それに代わる世界連邦、世界政府的な機構へといきなり飛躍しようとしても現実的ではないし、危険でさえあります。既存の枠組みの強引な解体が、新たな秩序をもたらさず、むしろアナーキーな混乱を招き寄せてしまうことは、旧ソ連をはじめとする、かつての社会主義国のその後の動向が厳しい教訓として教えるところであります。
6  私は今、香港の著名な作家・金庸氏と対談を進めています。
 氏はそのなかで、中国返還後の香港と日本とのビザなし交流を提案され、私も大賛成しました。(『旭日の世紀を求めて』。本全集第111巻収録、参照)
 しかし、楽しい夢は夢として、世界中の民衆が、ビザなしに、世界のどこにでも自由に行き来できる時代というのは、残念ながらまだまだ先のことでしょう。
 とはいえ、主権国家が、国際社会における強力な、ほとんど唯一の意思決定の主体であった時代は、二十世紀とともに、次第に過去のものとなりつつある。その傾向性の流れだけは見落としてはならないと思います。
7  ネガティブな側面からいうならば、冒頭に挙げた環境問題をはじめとする"地球的問題群"は、どれ一つとっても、主権国家の枠内で解決することはできず、国際社会の緊密な連係プレーが要請されるものばかりです。
 ポジティブな側面では、情報や通信、交通システムの長足な発展によってもたらされたボーダーレス化の流れは、もはや有無をいわせぬ時流であります。この傾向は、とくに経済面において著しい。種々のデータが示しているように、多国籍企業に代表されるボーダーレス化は、主権国家の最大の権限の一つである徴税権の足元さえも揺さぶっており、よほどのことがない限り、これを逆流させることは不可能でしょう。P・F・ドラッカー氏などは「国家が不要になったわけではない。しかし、意思決定は国家の単位ではなく、世界レベル、産業レベルで考えなければならない」(「乱気流の時代を語る」、「中央公論」九七年二月号)といっているほどです。
8  そうした流れを反映してか、最近は、「インタナショナル」という言葉に換えて、「グローバル」あるいは「トランスナショナル」という言葉を使ったほうが、二十一世紀の世界システムを論ずるのにふさわしい、という声も聞かれます。主権国家同士の関わり合いを第一義とする「インタナショナル」に対し、必ずしも主権国家の存在を前提としない「グローバル(地球全体の)」、あるいは、主権国家を超える「トランスナショナル(脱国家的)」のほうが、時流の動向を的確に捉えることができる、と。
 私も、同感であります。SGI(創価学会インタナショナル)も、インタナショナルと称してはおりますが、民間レベルでの世界市民の連帯と、それによる世界平和への基盤構築を志向するグローバルかつトランスナショナルな運動をこそ、めざしてまいりたい。
 昨年(一九九六年)、逝去された国際政治学者の鴨武彦氏が、かつて私どもの機関紙に寄せた一文も、まさにその点を突いたものでした。
 「経済的な相互依存関係も濃密にはなっているが、どうしても市場メカニズムに左右されがちだ。すぐには利益に還元しないようなレベルのもの、すなわちもっと深い基盤の人々の思想や生活様式、更にはスポーツ、芸術など様々な領域にわたるトランスナショナルな交わりを重視したい」(「二十一世紀へ世界不戦の構想を」、「聖教新聞」一九八五年一月一日付)として、とくにNGO(非政府組織)を活性化させようとする私どもの運動に期待しておられました。
9  ともあれ、国境を超え、民族を超え、ネガティブ、ポジティブ両面から、否応なく地球を一つに結びつつあるこうしたメガ・トレンド(巨大な潮流)を凝視する時、かつては空言とまではいわずとも、現実とかけ離れたユートピアめいた響きしか伝えてこなかった「地球文明」の有り様というものが、にわかに、具体的なイメージを要請してくるのであります。
 そこまでいかなくとも、そうしたイメージ化を図っていくためには、何が一番必要なのか、何が緊要にして不可欠なのか――その辺の課題を浮き彫りにしておかないと、「地球文明」といっても"絵にかいた餅"になりかねない。それでは、後世に重大な禍根を残してしまう。「悔恨の世紀」の溜め息まじりに、新しい世紀を迎えるようなことだけはあってはならないと思います。
10  二十一世紀が露呈した「外形のみの改革」の本質的限界
 さて、私は、一九七〇年の十二月に「青年の譜」(本全集第39巻収録)と題する一つの長編詩を、若人たちに贈りました。当時は、六八年、六九年と内外を問わず猛威を振るった学生運動の余燼が、いまだ消え去らぬ時期でありました。前月の十一月には、三島由紀夫氏の衝撃的な割腹自殺が起こるなど、物情騒然たる世情のなかで、私は青年たちに静かに語りかけるようなつもりで詩想をめぐらせ、二十世紀から二十一世紀を巨視的に俯瞰しつつ、次のような時代認識、歴史認識を挿入しました。
11   二十一世紀に生きゆく
  民衆の願望は
  外形のみの改革にはない
  一人ひとりの哲学と思想の中に
  平和裡に漸進的な
  汝自身の
  健全なる革命を願っている
  これには長期の判断と
  深い哲理を必要とする
  これを総体革命と命名したい
  そしてこれを
  われらは広宣流布と呼ぶ
 詩の性格上、直截でその分、言葉足らずの感は否めませんが、私はここに、二十一世紀へ向けての人類史的課題のおおよそのところを、私なりに要約しておいたつもりであります。
12  二十世紀は、何といっても「外形のみの改革」に一意専心、社会の変革こそ諸矛盾を解決する第一義であるとまっしぐらに爆走してきた時代であった。とすれば、二十一世紀への避けて通れぬ第一義的な課題は、もう一度、眼を内へと向け直し、まずもって汝自身の内なる革命、「平和裡に漸進的な」「健全なる革命」でなければならない。その発想の転換こそ、すべての出発点とされなければならないとの思いを込めたものであります。
 つまり、「外」から「内」へと向いていた志向性の流れを、思い切って「内」から「外」へと、ベクトル(方向性)を転換させていくことこそ、二つの世紀を跨ぐ、のっぴきならぬテーマであることを訴えたかったのであります。決して、我が田に水を引くつもりはありませんが、以来四半世紀を経てこのテーマは、いやまして喫緊の時代的要請になりつつあるように思えてなりません。
13  七〇年当時といえば、六八年のワルシャワ条約軍のチェコ侵攻にみられるように、学生運動を含む左翼運動は、ようやく下降線というか衰退の色を見せ始めていました。しかし、「外形」すなわち社会変革による世直しへの志向は、とくにアカデミズムの世界などでは、しぶとく生き残っていました。今では見る影もないマルクス主義のテーゼ(命題)――"意識が存在を決定するのではなく、存在が意識を決定する""意識とは、意識された存在以外のなにものでもない"等の思考方法は、左翼陣営の論壇を中心に、まだまだ一定の磁気を失っていませんでした。
 しかし、一見騒然たるなか、その深層部分にアナーキーな刹那主義的な風潮にしのびよる虚無と退廃の影を感じ取らざるを得なかった私は何としても、若い人たちに、大胆な発想の転換を訴えずにはおれなかったのであります(のちに確認したことですが、私と対談集を編んだフランスの作家アンドレ・マルロー氏も、パリの"五月革命"を覆った同時代的雰囲気のなかに、同じようなニヒリズムの暗い影を感じ取っていたようです〔中野日出男『アンドレ・マルロー伝』毎日新聞社、参照〕)。
 その後の歴史の歩みは、「外形のみの改革」をもってよしとしてきた二十世紀が「戦争と革命の世紀」の名のままに、いかに巨大な悲劇を演じてきたかを、無残なまでに暴き立て、白日の下にさらしました。
14  とくに、ソ連をはじめとする社会主義国家の崩壊は、それが、ナチズムのヴァンダリズム(野蛮主義)と違い「外形のみの改革」の正当性に、一応もっともらしい理論的粉飾を施してきただけに、そして、それが資本主義の矛盾を憤る若い世代を中心に多くの良心的な人を魅了してきただけに、なおのこと悲劇的でした。
 私は、作家のアイトマートフ氏が私との対談集『大いなる魂の詩』で語っている肺腑の言が忘れられません。
 「これは父親としての助言です。若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。革命は暴動であり、(中略)国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。私たちはそれを十分すぎるほど知っています。民族主義改革の道を、無血の進化の道を、社会を道理に照らして改革する道を探し求めてください。漸進的発展は、より多くの時間を、より多くの忍耐と妥協を要求し、それによって幸福を育み、ひたひたと満たしていきますが、幸福を暴力で達成しようとはしません。私は神に祈ります――若い世代が私たちの過ちに学んでくれますように、と」(本全集第15巻収録)
 しかし、自由主義社会といえども、社会主義の悲劇を"対岸の火事"視して、安閑としてはおれません。なるほど社会主義の崩壊は、自由主義ないし資本主義の相対的優位を証拠立てたかもしれないが、だからといって自由主義社会の実情が"勝利"の名に値する輝きを放っているかといえば、どこからみてもイエスという返事はかえってこないでしょう。
 私は、あえて申し上げたいのですが、社会主義ほどイデオロギッシュで極端ではなかったにせよ、「外形のみの改革」にとらわれるという病理の点では、自由主義も同断でしょう。
15  かつて福田恆存氏は、「近代文明の最大關心事は世俗的な安全保障の確立といふ一語に盡きる」(『福田恆存全集』7、文藝春秋)と喝破しましたが、適切な要約であり形容だと思います。自由主義社会の二枚看板である「自由」と「民主主義」、それに日本の場合「平和」や「人権」を加えてもいいと思いますが、それらは、なべて「世俗的な安全保障の確立といふ一語」に集約されていくといってよい。
 もとより、「外形」も大切であります。とくに日本のように、それら諸々の近代的価値を欧米から直輸入し、ことごとく消化不良をおこし、いっこうに治癒のきざしが見えないようなところでは、人間の尊厳を脅かすものとの間断なき闘争を欠かすことはできません。そうでなくては、牧口常三郎初代会長が「卑屈にして脆弱な日本の精神土壌」と述べたような、"長いものには巻かれろ"式の、弊風は改まらないからであります。
16  丸山眞男氏が、有名な論文「『である』ことと『する』こと」で、「自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています」(『丸山眞男集』8、岩波書店)と指摘しているように、「所与のもの」ではなく、「闘いとるべきもの」としての性格は、総じて近代的諸価値一般にいえることですが、日本においては、とりわけ、この課題は重みをもっていると思います。私どもの仏法運動が人権闘争の性格を濃密にしてくる所以であります。
17  問われる自由主義社会の内実
 それだけに、今、私が声を大にして訴えたいことは、こうした人間の尊厳を守る闘争は、決して「世俗的な安全保障」のみを、私の言葉でいえば「外形のみの改革」をめざしてはならないということであります。「外形」の改革をより実り多きものたらしむるためにも、むしろ、眼をもう一度、内へと向け直すことが肝要であると思います。「自由」といい、「民主主義」といっても、あるいは「平和」といい、「人権」といっても、それらが法的、制度的に保障されることは、人間の尊厳にとって必要条件であっても、決して十分条件ではありません。
 否、世紀末の自由主義社会の現状が示していることは「世俗的な安全保障」「外形のみの改革」だけをめざしていては、永遠に満足すべき状態には到達できず、あたかも古代ギリシャの哲学者ゼノンが論じた"亀"を追う"アキレス"のように、そればかり追い続けていると、慢性の欲求不満に陥り、人間の精神や品格面がおろそかになっていくことは見易い道理でしょう。あげくは人間の尊厳を守るための運動が、かえってそれを貶め、損なってしまいかねません。
18  「生は闘争である」(『朝の影のなかに』堀越孝一訳、中央公論社)といったのはホイジンガですが、人生というものは、「善」と「悪」との、仏法的にいうならば、「仏」と「魔」との間断なき闘いであります。「自由」は「放縦」と、「民主主義」は「衆愚主義」と、「平和」は「怯懦」や「安逸」と、そして「人権」は「独りよがり」と表裏一体をなしており、少しでも闘いの手を抜けば、やすやすと後者へと堕していってしまうのであります。
 ちなみに、戦後日本の民主主義五十年の歩みを振り返って、これら近代的価値の堕落現象と無縁であったと胸を張れる人は一人もいないに違いない。最近の高級官僚の呆れ果てた腐敗、政治家の惨憺たる無定見をあげるまでもなく、日本人の品性や心根は、切磋琢磨などどこへやら、ひたすら卑しく醜くエゴ丸出しで、およそ人格の輝きというものを感じさせない。スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットの警告する「慢心しきったお坊ちゃん」(『大衆の反逆』神吉敬三訳、筑摩書房)さながらであります。これが、戦後の民主主義教育が育てた人間群像かと思うと、誰しも暗澹たる思いにかられるはずです。
 ゆえに私は、とくに青年たちに対しては、鍛えや錬磨の大切さ、すなわち「一人ひとりの哲学と思想の中に/平和裡に漸進的な/汝自身の/健全なる革命」の不可欠にして急務なることを、訴え続けているのであります。
19  「若いうちの苦労は、かってでもせよ」とは、恩師・戸田城聖第二代会長の留言であり、それはまた、恩師の膝元で薫陶を受けた、私の青年時代を振り返っての、揺るがぬ信念であるからであります。大きくいえば、それは、「外形のみの改革」に専念するあまり引き起こしてしまった、二十世紀の多くの悲劇を乗り越えて、希望の二十一世紀への橋を架けていくための"画竜点睛"であるといっても過言ではないのであります。
 そうした架橋作業の強力な支えとなり、推進力となっていくものこそ、宗教(その名に値する宗教)にほかならないのではないでしょうか。古くはトインビー博士やマルロー氏をはじめ、世界の卓越した知性の多くが、私どもの進めているSGI運動に、ひとかたならぬ思いと期待を寄せてくださっているのも、いつにその人類史的要請の急務なるがゆえであると、私は思っております。
20  「新しい『中世』」といった構想は、市場経済のグローバル化、ボーダーレス化などの具体的な動きと相まって、そうした精神史的な水脈にまでアプローチを試みなければならないでしょう。そうした求心力なくして、世界市場の遠心力(世界市場といっても、そのボーダーレス化、グローバル化の動機づけとなっているのは、所詮利害であり、究極の求心力とはなり得ないからです)にまかせておいては、そこに現出するのは、コスモス的調和ではなく、手のつけられない荒涼たるアナーキーであり、カオスという事態になりかねません。
 もとより、精神史的な水脈へのアプローチは、拙速は厳に慎むべきで、百年、二百年単位でみていかなければなりませんが……。
21  私は、社会主義体制の崩壊を「歴史の終わり」と位置づけ、センセーションを巻き起こしたフランシス・フクヤマ氏が、近著を『TRUST(信頼)』(邦訳『「信」無くば立たず』加藤寛訳、三笠書房)と題したのも、よくわかるような気がします。改めていうまでもなく、前著は、社会主義に対するリベラルな民主主義の優位、勝利をもって「歴史の終わり」と位置づけたものですが、そこに描かれたリベラリズムやデモクラシーをスローガンとする自由主義社会は、決して"勝利"の名に値するような晴れがましい風采を示してはおりませんでした。
 事実、その後のリベラルな民主主義、自由主義社会の混乱、荒廃、低迷ぶりは"勝利"がそのまま、"秩序や安定""活気や繁栄"に結びつくような生易しいものではなかったことを、あらゆる角度から証拠立てています。「自由」が「放縦」に、「民主主義」が「衆愚主義」に、「平和」が「怯懦」や「安逸」に、「人権」が「独りよがり」に堕しがちなのは、決して日本だけではなく、程度の差こそあれ、先進諸国に共通の風潮であるといってよい。
 そこから生ずるカオスをどのようにコスモスに転じてゆくか――そのカギを握っているのが「信頼」であると、フクヤマ氏はいいます。これは「世俗的な安全保障の確立」を第一義としてきた近代的諸価値とは、かなり異質の徳目であります。
22  「『歴史の終わり』の時期に姿を現わすリベラルな民主主義は、したがって、必ずしも『近代的』ではない。もし民主主義と資本主義の諸制度が正しく作動すべきだとすれば、それらはいくつかの前近代的な文化的習慣と共存し、後者によって程よく機能させられなければならない。法、契約、そして経済合理性は、脱工業化社会の繁栄と安定に必要な土台を提供するが、十分な土台を提供するわけではない。それらもまた、互恵主義、道徳的義務、コミュニティーに対する責務、そして信頼によって発酵させられなければならない」(同前)と。
 私はここで『「信」無くば立たず』の内容面に立ち入るつもりはありません。フクヤマ氏は宗教についてはほとんど言及しておりませんが、いうところの広義の「信頼」とは、単に「世俗的」次元の現象にとどまらず、何らかの形で「超俗的」ないしは「宗教的」次元へと回路を通じていることは明らかです。
 留意すべきは、一見、前近代的にさえ見える習俗的な現象が"ポスト・モダン"を切り開く大テーマとして据えられ、我々にも親しい形で真正面から論ぜられている、ということです。
 ちなみに、「信頼」を形成し更新しゆくキーワードとされている「自発的社交性(スポンテニアス・ソーシャビリティー)」という概念は、私どもSGIの運動のスローガンである"人間革命を第一義に、社会の変革へ"と、強く共鳴しあっていることを、付言しておきます。
23  しかしながら、伝統的な風俗や習慣に根差した「信頼」というものは、それだけに、ややもすると伝統をともにする仲間内、ベルグソン流にいえば「閉じた社会」内に限定されがちであります。
 大切なことは、それらをどう開いていくか、つまり、いたずらに文化摩擦を生むのではなく、どう「開いた社会」の潤滑油として発酵させていくかでありましょう。
 そして、ボーダーレス時代、グローバル時代を支えるに足る「信頼」関係を、何としても醸成していかなければなりません。そこにこそ、世界宗教の本来の役目はあるのであります。
 再び申し上げますが、「一人ひとりの哲学と思想の中に/平和裡に漸進的な/汝自身の/健全なる革命を願っている/これには長期の判断と/深い哲理を必要とする」(前掲「青年の譜」)とのくだりには、たとえ「カタツムリの速度」(坂本徳松『ガンジー』旺文社)でもよいから、二十一世紀への偉大なる架橋作業に、若い人ちは、勇気をもって忍耐強く挺身していってほしい、との私の切なる願いが込められていることを知っていただきたいと思います。
24  環境と開発問題の焦点――社会的公平と世代間公平
 さてそこで私は、現代文明の限界が際だった形で立ち現れた環境問題に焦点をあてて、新しい「地球文明」「人類文明」を創出する前提となる規範変革の方途を探ってみたいと思います。
 多くの生態学者が、このままの状態で地球があと百年もつかどうかと危惧しているように、いまや環境問題こそ人類の生存を脅かす最大の脅威といえるからです。
 これまでも科学技術が"諸刃の剣"であることを指摘し、警告を発する人々は少なくありませんでした。
 しかし、そうした声がかき消されるほど、加速度的に発達した科学技術は次々と不可能を可能とし、そのもたらす成長と繁栄は人々を魅了し続けてきました。長きにわたって科学技術文明の進歩と拡大は、とどまるところを知らなかったといえましょう。
 そんな得意満面の人類の前に立ちはだかって、進歩史観が単なる幻想に過ぎず、むしろ命取りとなる危険な考えであるという現実をいやおうなしに私たちに見せつけたものこそ、科学技術文明の歪みが生みだしたともいえる環境問題であったのであります。
 それは、大気汚染や水質汚濁、土壌汚染にはじまり、森林破壊、砂漠化という生態系の破壊、そしてオゾン層破壊や温暖化といった地球レベルでの危機という形で次々と顕在化したもので、いずれも無視を続けることができないものばかりであります。
 そこで、こうした問題が地球的課題として明確に認識されて、一九七二年に発表されたものがローマクラブによるリポート『成長の限界』であります。また同年、「かけがえのない地球」をキャッチフレーズに国連人間環境会議がスウェーデンのストックホルムで開催され、環境問題を人類への脅威と捉え、国際的に取り組むべきことを謳った「人間環境宣言」が採択されました。
25  以降、さまざまな研究や取り組みが活発となり、九二年六月にブラジルのリオデジャネイロで行われた国連環境開発会議(地球サミット)は、大きな関心を地球規模で呼ぶものとなりました。そこでは、「環境と開発に関するリオ宣言」や、持続可能な開発を実現していくための行動計画「アジェンダ21」、森林保護のための「森林原則宣言」の採択とともに、温暖化防止のための「気候変動枠組み条約」や「生物多様性条約」の署名が始められるなど、一定の成果を上げたのであります。
 その後、「生物多様性条約」(九三年十二月)や「砂漠化防止条約」(九六年十二月)が発効しております。とりわけオゾン層保護のためのフロン規制は着実に進展をみており、国際社会が一致して合意・結束することの意義を証左するものといえましょう。
 そして、リオでの地球サミットから五年を迎える本年は、国連環境特別総会の開催が予定され、サミット後の取り組みについて評価・検討されることになっております。
 また日本で行われる予定である「気候変動枠組み条約」の第三回締約国会議も、懸案となっている二〇〇〇年以降の二酸化炭素の排出量削減について具体的な結論を出す場として注目を集めております。
26  しかし、近年こうした努力が徐々に国際社会で積み重ねられてきたにもかかわらず、それをはるかに上回る勢いで地球環境問題の深刻化が進行していることは、多くのリポートが指摘している通りであります。
 UNEP(国連環境計画)は昨年四月、「地球の日(アースデー)」を前に、「地球環境はほとんどあらゆる面で危機的状況にあり、現在の流れを大きく変えなければ、地球の日を祝う意味はない」と警告を発しました。またワールドウオッチ研究所による九六年度版の『地球白書』のなかでも、「今日、世界は変革の必要に迫られている。そのために与えられている時間はきわめて短い」とし、変革に失敗するならば破局は免れないと強調しているのであります。
 まさに地球環境問題は従来の考え方を延長するだけでは解決できない、「現在の流れを大きく変える」変革――文明のあり方をも根本から問い直すことなくして破局は避けられないとの認識が高まっているといえましょう。
27  すでにこうした観点から、科学技術文明を支えてきた思想や価値観に対する吟味、再検討は始まっており、昨今では「環境倫理学」といった分野も確立されつつあります。
 なかでも、未来の世代に対し責任を果たすために現世代の自由を抑制する――いわゆる「世代間倫理」のテーマは、今後大きな焦点となってくるものと思われます。そこで展開されている議論は、これまで「自由」とされてきた概念そのものを根底から問い直すだけではありません。現在の人々の利益こその同意のみに基づいた「共時型」の意思決定の見直しをも迫るものであり、これまで「科学至上主義」とともに近現代の歴史を謳歌してきた「進歩史観」の内実を検討していくうえできわめて示唆的であります。
 もちろんこの世代間の公平とともに、「南北問題」に象徴される現世代内の社会的公平を図っていかなければならないことは当然であります。今日、環境問題を考えるうえでキーワードとなっている「持続可能な開発」も、この二つの公平に細心の注意を払うべきものでなければ"有名無実"となりかねません。
28  「北」側諸国にみられる極端な消費パターンこそ環境危機の核心であると指摘する識者もおりますが、私もそうした点は否めないと思います。
 「北」側諸国が突出して、大量生産と大量消費を繰り返す状態に対し、今後も"持続可能"と考えることは幻想に過ぎないばかりか、地球社会という見地からみて到底許される状況にはないといえましょう。
 同じ地球社会の隣人である「南」側諸国が抱える"悪循環"――つまり、貧困(Poverty)と人口増加(Population growth)と環境(Environment)とが相互に連鎖していく「PPE問題」とも称される厳しい現状が、まさにこうした南北格差という国際経済の構造問題に起因するものであることは、多くの識者が指摘する通りであります。
 UNDP(国連開発計画)も、昨年発表した年次報告「人間開発報告書一九九六」で、「もし現在の傾向が続けば、先進国と途上国の経済格差は不公平どころか非人道的なものになるだろう」(広野良吉・北谷勝秀・佐藤秀雄監修『UNDP「経済成長と人間開発」国際協力出版会、古今書院』)と警告し、二極化に対し注意を喚起しています。
29  そのうえで報告書では、誤った経済成長の姿を、(1)雇用機会の増加を伴わない「仕事のない成長」(2)貧富の格差拡大を顧みない「残酷な成長」(3)民主主義や個人の社会進出が伴わない「声もあげられない成長」(4)個々の文化的アイデンティティーを阻害したままの「ふらついている成長」(5)将来の世代が必要とする資源をも浪費する「未来のない成長」――の五つのパターンに分類し、「今日の不平等性を永続させるような開発は、持続性もないが、持続させる価値もない」と強調しているのであります。
 昨年十一月に行われた「世界食料サミット」では、現在八億以上いるとされる飢餓と栄養失調に苦しむ人々の問題が焦点となり、この「飢餓人口」を二〇一五年までに半減させようとの目標を掲げた「ローマ宣言」と「行動計画」が採択されました。
 また本年は、国連が定めた「第一次貧困撲滅の十年」の一年目にあたります。
30  根源的視座の転換を促す仏法の「依正不二」思想
 私はこうした国際的な取り組みを進めるうえでは、一人一人の人間に本来具わる「内発の力」を十分に引き出すことのできる環境づくりを眼目としなければならないと考えるものであります。
 飢餓問題の解決や貧困の撲滅といっても、単に物的・資金的な援助という"応急処置"で対処できるものではなく、むしろ長期的な視野に立ったエンパワーメント――すなわち、一人一人がその能力を十全に発現させていく環境づくり、自助努力のための条件を整えていく作業こそが肝要と思うのです。
 世界各地で起きている悲惨な紛争の背景には、経済的な問題が深く横たわっていることが少なくありませんが、先に述べた「PPE問題」を含めて"悪"の連鎖を断ち切っていく、運命を共有する地球社会の隣人としての自覚と責任ある行動が、私たち一人一人に求められているのであります。
31  改めて述べるまでもなく、環境問題は資源の賢明な利用法さえ確立すれば問題が解決するといった、政治的・経済的、また技術的レベルの問題に止まるものではありません。人間と人間、人間と自然、そして人間と社会という、それぞれの関係を規定している価値観という次元にまで掘り下げることなくして、私は道は開けないと思うのであります。
 今こそ、真の意味での「生命の尊厳」をあらゆる価値の根幹に据える文明への転換を遂げなければなりません。一人一人の根源的な視座の変革がまさに求められているのです。
 その思想的基盤となる、生命観、世界観の手がかりを、私は仏法の知見に求めたい。
32  仏典には、宇宙の森羅万象が互いに関連し合い、依存し合いながら、絶妙なる調和を奏でている様をあらわした美しい譬えが記されております。
 ――生命を守り育む大自然の力の象徴でもある帝釈天の宮殿には、無数の「宝石」で飾られた美しい網が掛けられている。
 その網には、結び目の一つ一つに「宝石」が取りつけられており、いずれの「宝石」にも他のすべての「宝石」の姿が互いに映し出され、ともに輝きあって荘厳な美しさをたたえている――というのであります。仏法の「縁起」観を示す美しい譬喩であります。
 周知のように仏法では、「縁起」といって、万物の相互依存性を通して人間・自然・宇宙が共存し、小宇宙(ミクロ・コスモス)と大宇宙(マクロ・コスモス)が一個の生命体として融合していく共生の秩序感覚を説いています。
 それは近代科学の背景をなしてきた人間と切り離された機械論的宇宙観を大きく超えるものです。とりわけここで私が強調しておきたいのは、仏法が、宇宙の森羅万象が織りなす関係を単なる静的なイメージではなく、創造的な生命がダイナミックに脈動し合うものとして捉えているという点であります。
33  仏典では、その生命のダイナミズムを端的に、「正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつく」と説いております。ここでいう「正報」とは主体となる人間の生命を、「依報」とはそれを取り巻く環境世界を意味しています。
 重要なポイントは、この文の前段と後段が単に並列的に配置され、依報と正報の不二関係が明かされる、いわゆる静的なイメージではないということです。
 前段と後段は逆転されてはならず、まず最初に「正報なくば依報なし」という、宇宙をも包み込む人間生命の主体的な発動が、まずあるのであります。しかしそれだけでは、観念論というか、近代人のファウスト的自我の倨傲きょごうに陥ってしまう。ゆえに後段の「正報をば依報をもって此れをつくる」と、人間も自然の一員であることを忘れてはならない、と補足されているのであります。すなわち依正不二とは、「正報をば依報をもって此れをつくる」とあるように環境から生命主体への影響性を踏まえながらも、「正報なくば依報なし」として、あくまで人間生命を変革の主体と捉え、その関連性において環境を捉えていくダイナミックにして意志的な概念なのであります。
34  「人間革命」から「地球革命」への道
 昨今、「共生」という言葉が時代のキーワードとして脚光を浴びておりますが、「正報なくば依報なし」と断固たる変革の意志をもちながら、環境に対する温かな眼差しを失わない――こうした「依正」が絶妙なバランスを保ちつつダイナミックに相互浸透しゆく姿にこそ、真の「共生」のあり方があるのではないかと私は考えるのです。
 その点、私は、オルテガの「生の哲学」に強い興味と親近感をもっております。彼が「私の哲学的思索のすべてを凝縮している」(井上正氏が「解説」の中で紹介。『オルテガ著作集』1所収、白水社)としている、オルテガ哲学の精髄ともいうべきテーゼ(命題)には、「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」(『ドン・キホーテに関する思索』A・マタイス、佐々木孝共訳、現代思潮社)とうたわれています。
 「正報なくば依報なし」と同じように、「私」ぬきの、素朴実在論的な「環境」というものはありえない。逆に「環境」は観念論・唯心論的に「私」の中にあるのではなく「私」がその中にあり、しかも「私」がなくなろうとも存在し続けるであろう、ある種の客観的実在でもある。
35  ゆえに「正報をば依報をもって此れをつくる」と同様に「環境を救わないなら、私をも救えない」とフォローされているのであります。真実の「私」は、そうした「私」と「環境」との精妙に交差するところに躍動している何ものかなのだ――彼は、このように位置づけます。
 デカルトのコギト・エルゴ・スム(「我思う、ゆえに我あり」)を想起させるような、簡潔かつ含意性の深いこのテーゼは、近代文明の危機を鋭く感じ取りながら、機械論的宇宙観や二元論とは踵を接して、一種の二元的一元論、あるいは一元的二元論を志向しているようです。いわく、「この世の決定的な存在が物質でもなく、魂でもなく、その他特定のものでもなく、ひとつのパースペクティブなのだ、という確信に、われわれはいつ目ざめるのであろうか」(前掲『ドン・キホーテに関する思索』)と。
36  私は、この「パースペクティブ」という言葉の含意と、「依正不二」論を貫く創造的生命の意志的にしてダイナミックな発動とが、深い次元で通底し合っているように思えてなりません。
 そしてなぜ私が、あえてこのような類似に言い及ぶかといえば、ジレンマならぬトリレンマ(一に地球環境の破壊、二に経済発展の要請、三に資源・エネルギー危機)に囲繞されている現代文明の窮境は、ともすると人々の意気を喪失させかねないようなペシミスティックな状況を呈しており、不屈の勇気をもってそこに挑み、何らかの突破口を見いだしていくには、確たる哲理の支えが不可欠であると信じてやまないからであります。
 一人一人の生命次元での変革――すなわち「人間革命」を通し「環境革命」を、そして「地球革命」を実現させなければならないと私が常々主張しているのも、こうした考えに基づいております。
37  私どもSGIはまさにこの自覚に立って、地球環境問題についても展示活動などを通して、幅広く意識啓発に努めてまいりました。
 九二年には、ブラジルでの「地球サミット」の公式行事として「環境と開発展――人類の課題・生命の世紀をひらくために」を開催し、その後もブラジル国内で巡回を続けてきました。加えてブラジルSGIの「アマゾン自然環境研究センター」では、「熱帯雨林再生プロジェクト」も推進しております。
 アメリカでも、九三年から「環境と人間展」と題する展示を全米各都市で巡回しており、また昨年にはボリビアで「共生と希望 アマゾン――環境と開発展」を開催したのであります。
 これらの展示活動は、問題の所在を明らかにし、ともどもに行動する決意を促そうとの思いで進めてきたものにほかなりません。
 私は常々、地球的問題群の解決を図るためには旧来の「国益」中心の考え方を克服し、「人類益」を基盤とするアプローチで事にあたっていくべきであると訴えてきました。地球環境問題はまさしく、こうした視座の転換を要するものなのです。恣意的に地球に引かれた国境線に自らの関心と責任を合わせている時代には、もう終止符を打たなければならないのです。
38  国連改革で″人類共闘″の体制づくりを
 そこでまず私は、地球環境問題の解決において重要な位置を占める国連に関して、いくつか提案をしておきたいと思います。
 地球サミットの成果の一つとして、「持続可能な開発委員会(CSD)」が九三年に国連の経済社会理事会のもとに創設されました。
 この委員会は、「持続可能な開発」の達成をめざして採択された行動計画「アジェンダ21」の実施状況を監視するとともに、各国連機関が進めているプログラムを整合させ、その統一性をもたせるという管理調整的な役割を担う組織となっております。
 国連には七二年に設立された国連環境計画(UNEP)などがすでにありますが、これに加えて政策の整合性の確保を図るCSDの創設は大きな前進といえましょう。これまでにもCSDでは、テーマ別に実施計画のフォローアップが進められてきております。しかし資金問題をめぐる議論の紛糾に象徴されるように、課題も少なくありません。また、かりにCSDが政策の方向性を調整できたとしてもこれを推し進めるためには、やはり十分な実行力が必要とされるのです。
 現在の国連の一つの限界は、主権国家の集合体という組織形態に由来しているといえましょう。しかし、環境問題解決のためには、国益中心の考え方を乗り越えることなくして活路は開けません。EU(ヨーロッパ連合)で進められている"主権の自主的制限"をも含む環境政策に見られるような前向きな協力関係を、地球レベルにおいても実現させていくシステムづくりを探らなければならないと思います。
39  政策調整という課題については、CSDの設立によって幾分解消されてきたとはいえ、やはり地球環境問題について最終的な決定権や各機関の責任分担を明確にさせる権限を有する、強力なリーダーシップをもった機関が要請されてくるのではないでしょうか。私がかつて提唱した「環境・開発安全保障理事会」のような形で、緊急を要するこの問題の国際的な意思決定の場をつくる必要があるのではないかと思うのです。
 これまでさまざまなグループによって国連改革のプランが提示されてきておりますが、環境問題への対応を重視したシステムへの移行を求める声は少なくありません。組織形態・権限などについては衆知を集めて幅広い検討を進め、国連改革の率先すべき課題として取り組むべきであると考えます。
40  もう一点は、民衆の声を広く反映させるための仕組みを検討していくことであります。
 NGO(非政府組織)のもつ建設的なエネルギーを取り入れていくことは、政策の方向性を更に確かなものへと高めることに役立つとともに、政策を実施するうえで欠くことのできない支持基盤を形成することにも寄与するでありましょう。
 先に触れた主権国家の相対的な地盤沈下ということを勘案すれば、国連も現在の主権国家連合的な色彩を徐々に薄めつつ、"国家の顔"より"人間の顔"を表に出していかざるをえないと思います。その際、NGOのもつネットワークの強化・拡大が大きなポイントとなりましょう。
 また、こうした民衆レベルでの広範な支持基盤があれば、最大の焦点である政策遂行のための財源確保の道も開けてくるのではないかと思うのです。現在、「地球環境ファシリティー(GEF)」などによって、環境保全の資金が調達されるようになってきたものの、いまだ小さな規模に止まっており、本格的な体制が確立されてはおりません。
 そうしたなか、環境税や国際的な共有空間の利用料(海洋や空などの使用料)など、財源確保の試案が出されておりますが、民衆レベルでの関与の広がりに伴って、現実味を帯びた形で検討できる国際的な土壌が整ってくるのではないかと考えるのです。
41  そこで私が提案したいのは、五年前、地球サミットと並行する形で行われた「グローバル・フォーラム」のような場を、今後、毎年一回、会期を決めて開催していく。
 そのうえで、国連総会や特別総会における政府間の討議に対し、NGOが"民衆のアンテナ"として有益な情報を提供したり、"民衆の声"を集約し、結論に一定の方向性を与えていくなどの役割をもたせていっては、どうかということであります。
 平和学の創始者であるガルトゥング博士は、私との対談集のなかで、現在の国連痩・iUNGA)と並ぶ第二の議会として「国連民衆総会(UNPA)」の創設を提案しておりました(『平和への選択』。本全集第104巻収録)。その実現にはかなりの時間を要するとしても、その前段階として、民衆の側から国際社会の意思決定に一定の影響力を与える場として、「グローバル・フォーラム」というシステムの定着化を図っていく意義は大きいと思うのです。
 「われら連合国の人民は」という一節で始まる国連憲章に象徴されるような、"民衆一人一人こそ地球社会の主役"との精神を国連にみなぎらせるためにも、また名実ともに国連を「人類の議会」にまで高めていくうえでも検討に値するのではないでしょうか。
 いずれの提案も実現には多くの困難が伴いますが、地球環境問題への取り組みを万全なものにすべく模索し努力を続けていくなかで、時代が要請する新しい国連のあり方も自ずから浮かび上がってくるのではないかと、私は考えるのです。
42  高まる軍縮・核廃絶への機運
 続いて私は二十一世紀へ向けて地球環境問題とともに解決の道筋をつけなければならないテーマとして、軍縮、そして核廃絶の問題を取り上げたいと思います。
 冷戦の終結を契機にして軍縮や核廃絶への機運が高まり、国際社会ではさまざまな取り組みが進められてきましたが、昨年はこうした一連の努力が実り、いくつか大きな成果を上げるまでに至っております。
 軍縮の面で特筆すべきことは、九三年に調印された「化学兵器禁止条約(CWC)」が、本年四月に、ようやく発効する運びをみたことであります。この条約は、現存する化学兵器の全廃とともに、今後の化学兵器の生産活動なども全面的に禁止するという、"真の意味での軍縮条約"とも評されるほどの徹底した内容をもつものであります。
 廃棄の対象として、もはや使用することのできない「老朽化化学兵器」や、他国の領域に遺棄した「遺棄化学兵器」をも含めるだけでなく、生産禁止を徹底させるために、これまで化学兵器を生産してきた施設までもすべて廃棄することを取り決めております。
43  重要なのは、こうした全廃義務がすべての締約国に及ぶという点で、「核不拡散条約(NPT)」について指摘されていたような不平等性が解消されていることであります。また、条約違反を防ぐために、関連する産業施設への査察や申し立てに基づく「抜き打ち査察(チャレンジ査察)」制度も認めるなど、まさに今後の軍縮条約のモデルとされるにふさわしい内容を有する条約といえましょう。
 しかし、この画期的な条約が今後どれだけの実効性をもち得るかは、ひとえに、二十カ国ともいわれる化学兵器の保有国や開発疑惑国の態度如何にかかっております。とくに、世界における化学兵器の大半を保有しながら批准をいまだ済ませていない国には、国際社会が一致して早期加盟を強く働きかけていく必要があると思われます。
 私は、きわめて広い範囲での検証制度を有する信頼性の高いこの条約の成功が、他の分野における軍縮を推進させるためにも極めて重要となってくると考えるのです。
44  各国が誠実に軍縮義務を履行し、また検証制度を通し互いの透明性を高めて信頼を醸成していくなかで、更に加盟国を増やし、実効力ある国際制度として確立させていく――こうした流れを化学兵器の分野一つだけでも成功させるならば、七五年に発効しながらも検証・査察制度をもたないために実効性が半減したといわれる「生物兵器禁止条約(BWC)」をはじめとして、合意をみながらも軍縮がなかなか進捗しない他の兵器分野の状況に対しても、大きな影響を与えることは間違いありません。
 このことは、昨年、一定の前進をみた対人地雷の規制の問題にもあてはまりましょう。
 昨年五月、「特定通常兵器使用禁止・制限条約(CCW)」の再検討会議において、新たに対人地雷の規制強化を盛り込んだ議定書の全面改正が合意されました。
 しかし、規制の実施には最長九年間の移行猶予が認められただけでなく、検証制度の導入も先送りにされた結果、実効性をもたない単なる"倫理規定"に終わってしまうとの危惧の声があがっております。
45  私はそこで、国連の諸機関やNGOなどが求めている全面禁止という目標を実現させるために、すべての加盟国の同意を必要とするCCWとは別の枠組みで、「対人地雷禁止条約」の制定をめざしてはどうかと提案したい。
 昨年十一月には、国連総会第一委員会でも初めて地雷の全面禁止条約の策定を求める決議が採択されたように、その機運は高まっており、化学兵器禁止条約のような枠組みをつくることも不可能ではないといえましょう。
 国際赤十字社の調べによれば、現在、世界全体で約一億個もの地雷が除去されぬまま放置されており、そのために毎月八百人が命を失い、数千人が傷害を被っているといいます。
 その主な被害者は一般民衆であり、子どもたちも数多い。放置された地雷による脅威は、戦争が終わった後も長く続いております。人道的な観点からも、私は、日常的に人々の生命と生活を脅かしている地雷の全廃という課題に、一日も早く国際社会は取り組むべきと訴えたいのです。
46  国際司法裁判所の勧告的意見に大きな意義
 さて、このように国際社会は徐々にではありますが、軍縮という方向をめざし歩み始めてきております。また核兵器の分野においても、昨年は大きな進展がみられました。
 一つは、あらゆる核兵器の爆発実験こその他の核爆発を禁止する「包括的核実験禁止条約(CTBT)」の締結であります。紆余曲折を経ながらも、昨年九月に国連総会で圧倒的多数をもって採択されたこの条約は、コンピューターを使った模擬実験(シミュレーション)など核爆発を伴わない各種の実験を許し、核保有国に核兵器性能の維持・向上の抜け道を許したものとの批判もありますが、これまで野放しだったともいえる核爆発を国際法で明確に禁じたことの意義は大きいと思います。
 しかしながら、このCTBT発効の見通しはいまだ立っておりません。発効のためには、核保有国・保有疑惑国など条約の指定する四十四カ国の批准が必要とされています。そのなかにはいまだ署名の意思をみせていない国もあり、しばらく条約が未発効の状態が続くことが懸念されているのです。
47  ただし、条約の発効以前にあっても署名国に条約の趣旨および目的に反する行為は行ってはならない義務がある(「条約法に関するウィーン条約」第十八条)ことについては、国際社会の共通の理解が形成されております。核保有五カ国をはじめとして、大多数の国が署名を済ませているCTBTは、すでに実質的な"国際規範"として確立しつつあるといえましょう。
 その意味では、CTBTが克服できなかった問題点を踏まえつつ、更なる核軍縮へのステップに進むための課題――とりわけ核保有国側の誠実な軍縮遂行を焦点とした合意形成に取り組むことが重要となってくると思われます。
 CTBTでは万全ではなかった「質」の面での制限、つまり核保有国に対する核兵器の性能の維持・向上をストップさせる更なる厳しい措置を取り決めるとともに、核兵器自体の数を削減させていくという「量」の面での歯止めを設けることが必要となるのです。
48  一つは、核兵器の原料となる放射性物質の生産を禁止する「カットオフ条約」の早期締結を図ることであります。交渉は難航が予想されますが、核軍縮の大前提となる核兵器をこれ以上増やさないための不可欠の合意の一つとして、保有国が責任をもってこれを推進すべきでしょう。
 もう一点は、現実に核兵器を削減させていくための環境づくりを進めることであります。アメリカとロシアの間で交渉が進んできた「戦略兵器削減条約(START)」は現在、ロシアが第二次条約(START?)の批准を見合わせているという状況が続いています。米ロがこの膠着状況を打開し、STARTの計画をまず進めることが重要であるとともに、即時に第三次条約(START?)の交渉を開始させることで、次の軍縮交渉の段階――イギリス、フランス、中国をも含めた核保有国全体の交渉の土台づくりを進めるべきではないかと考えます。
 すでに非核保有国の間では「非核地帯」を設置させる努力が続けられております。中南米の「トラテロルコ条約」、南太平洋の「ラロトンガ条約」に加え、九五年十二月には「東南アジア非核地帯条約」が、そして昨年四月にはアフリカの「ペリンダバ条約」が相次いで調印されました。その結果、「南極条約」と合わせると、南半球の地上全域と北半球の南部のかなりの部分において非核地帯化が実現したことになります。
49  九五年のNPT再検討・延長会議で採択された文書にもあるように、非核地帯を設置することで地球的・地域的平和と安全保障が強化されるのであり、中東地域や北東アジアなど他の地域でも構想をすすめ、更に非核地帯を拡大させていくことが重要と考えます。
 と同時に、成立した非核地帯を実効性あるものとするためにも、核保有国側の保証と協力が必要不可欠であります。昨年三月に、南太平洋のラロトンガ条約の付属議定書に米英仏の調印をみて、核保有五カ国がそろって協力する体制が確立したように、他の条約にもこうした協力体制を確立していく核保有国の前向きな姿勢が求められましょう。
 そして更には、非核保有国を核攻撃しない保証とともに核兵器の先制使用を禁ずる条約化を早急に考える必要があると思われます。NPTとCTBTが結論をみた今こそ、核保有国が誠実な態度をもって、そのための交渉を進める責任があるのではないでしょうか。
 とかく指摘される、保有国と非保有国との不平等性を解消させていく上でも、大きな意味をもってくると私は考えます。
 もはや、核保有国が自己本位な態度を続けることを許さぬほど、「核のない世界」を望む人々の声はかつてないほどの高まりをみせているのであります。
50  昨年七月、国際司法裁判所(ICJ)が核の使用に関する勧告的意見を出しましたが、これを求めた九四年十二月の国連総会決議の採択自体、NGOの働きかけによるところが大きかったことはよく知られております。
 この勧告的意見では、自衛のための核使用に対しては判断が回避されたものの、核兵器による威嚇または使用に対し「一般的には武力紛争に適用される国際法、特に人道法に反する」との判断が示されたことの意義は、まことに大きいと私は考えます。また勧告では、核保有国に対し誠実に核軍縮を遂行する義務があることを全員一致で強調しております。これは国連総会の諮問では要請されていなかった点であり、ICJが独自に見解を示したものとして注目できましょう。
 とともに、審理における意見陳述などを通じて、核兵器の違法性というテーマに対し、全世界的なレベルで議論が活発に行われたことは、大きな成果であったと私はみたいのであります。
 これまで採択されてきた国連総会の決議と同様、今回のICJの勧告的意見が法的拘束力をもたないとしても、核兵器廃絶を目指すコンセンサス(合意)づくりにおいて、今後、国際社会に与える道義的、政治的な影響力は無視できないのではないでしょうか。
51  事実、CTBTの採択をめぐる国連総会の討議のなかで、このICJ勧告に言及した国が少なくなく、今や核軍縮を求めるうえでの新しい論拠となりつつあります。また昨年十一月、国連総会の第一委員会で採択された決議でも、この勧告に留意するとしたうえで、本年中に「核兵器全面禁止条約」の早期採択に向けた交渉を始めるように要請しているのであります。
 このように時代は着実に「核のない世界」をめざし動き始めております。私はこうした流れを更に確たるものにするためにも、核兵器の存在を抑止のための"必要悪"としてきた「国益」優先思考から、核兵器使用をいかなる理由があろうとも認めない"絶対悪"の立場、「人間益」を最優先させる思考への脱却を図らなければならないと訴えたい。
52  戸田第二代会長の「原水爆禁止宣言」から四十周年
 本年は、私の恩師・戸田第二代会長が、核兵器は"絶対悪"であると訴え、そのもつ悪魔性を鋭く糾弾した「原水爆禁止宣言」を発表してから四十周年を迎えます。
 恩師は亡くなる少し前の一九五七年九月、病の小康状態の中で生命を振りしぼって青年への遺訓を発したのであります。"死の死"といわれる時代の到来さえ人類に予感させた核兵器の脅威の高まりに対して、恩師は、真っ向から挑み、世界の全民衆の「生存の権利」のために獅子のごとく叫んだのであります。
 「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命である」(『戸田城聖全集』4)――と。
 ここに明らかなように、恩師は無条件で核兵器の使用を禁止しようとしたのであります。この遺訓を現実化するためにも、核兵器の開発・保有・使用禁止の条約化を具体的に進めることが必要であると訴えたい。
53  イデオロギーや国家の利害にとらわれず、「核抑止」や「限定核戦争」といった"力の政治"の議論にも惑わされない、深き「人間の次元」に立脚した魂の叫びに、私はこの宣言の不滅の輝きがあると思います。
 この宣言には、人間の根本の権利としての「平和に生きる権利」を確立させなければならないという、恩師の深き思いが貫いております。核兵器による破壊、人命の犠牲という悲惨からの解放はもとより、戦争のために苦しみ抜いてきた民衆が二度と戦火にあわないことを切実に願っていたのであります。
54  「人間の安全保障」へ先見的な問いかけ
 「地球上から"悲惨"の二字をなくしたい」との恩師の熱願がまさに結晶したこの宣言には、今日叫ばれる「人間の安全保障(ヒューマン・セキュリティー)」の核心に通じる先見的な思想があったといえましょう。とともに私が強調しておきたいのは、恩師が「奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」と喝破したように、宣言は核兵器を生みだした「生命の魔性」という"見えざる敵"との妥協なき闘争を、青年の私たちに託したものであったということであります。
 核廃絶といっても、単にそれが物理的に廃棄されれば済むという問題ではなく、人類が一度手にしてしまった核兵器製造の"知識"にいかに対処していくかという問題が大きく残るのです。したがって、その本質的な解決の道は、あくまで人間の生存を脅かす"生命の魔性"それ自体と不断に戦うこと以外にはあり得ないといえましょう。だからこそ、「生命の尊厳」の思想を時代精神にまで高め、広げていくしかない――と、恩師は後に続く青年たちに後事を託したのであります。
55  私どもが信奉する日蓮大聖人は、「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」と仰せであります。恩師の宣言は、まさにこの生命尊厳の思想を基盤としたものでありました。
 私どもSGIが、「生命」こそこの世の"最高の宝"であり、「生命」を犠牲にしてまで守るべき価値などこの世にはあり得ないという「生命尊厳」の思想を、一人一人の内面的変革、すなわち「人間革命」を通し、人類社会の根本規範として確立させようとめざす所以は、ここにあります。
 SGIではこの人間革命運動を基調として、これまで"核の脅威展"や"戦争と平和展"などの国際的な広報啓発活動を通し、幅広い民衆の連帯のネットワークを広げてまいりました。それは、座して危機を看過してはいられないとの止むに止まれぬ思いに基づいたものにほかなりません。
 「核のない世界」も「戦争のない世界」もこれを築いていく主導権は、あくまでも民衆一人一人にあるとの確信と責任感を手放してはならないのです。
56  核廃絶を実現する現実的な方策としては、専門家グループである「核兵器廃絶のためのキャンベラ委員会」が、昨年八月にきわめて示唆に富む報告書をまとめております。私はこうしたプランを一つのベースとしたうえで次なるステップとして、広く世論を喚起し、世界の「英知」を結集しながら、核兵器ゼロに至るまでのより詳細な手順と具体的なタイムテーブルへの合意づくりを推し進める努力が必要だと思うのです。
 昨年二月、恩師・戸田先生の平和思想を原点とする研究機関、「戸田記念国際平和研究所」が設立されました。
 「原水爆禁止宣言」四十周年の本年、この研究所が核兵器廃絶のためのプロジェクトを最優先の課題として取り組むよう、私は強く念願しております。
 民衆自身の手でより良き世界への建設的なプラン、現実を変革する人類益に立った平和へのオルターナティブ(代替案)を描き出し、その実現に向けて心を合わせて共闘を続けていく――私は、こうした民衆の連帯をグローバルに広げるなかで、「核のない世界」そして「戦争のない世界」を築いていくしか道はないと考えるのです。
57  第三の千年へのビジョン示す「地球憲章」の制定を
 私は二年前の「提言」のなかで、二十一世紀における国際社会のめざすべき方向性として、「平和の国際法」を強化・確立していくことを強調しました。すなわち、現行の国際人道条約をより発展・強化させる形で「平和の国際法」を拡充させるとともに、これが遵守されるよう拘束力をもつ制度を確立させていくことが重要になる、と論じました。そして、そのために国連という機構と「平和の国際法」を更に強く結びつけ、国家間の平和的関係のルール化を推進していくことが大切であると主張しました。
 近年、CTBT締結やICJ勧告などに象徴されるように、その萌芽がみてとれます。
 こうした流れを後押ししたものこそ、ほかならぬ民衆レベルの広範な運動だったのであります。その意味からも私は、国家間ベースで国際法や制度の整備を進めるというだけではなく、むしろ下から盛り上がった"草の根レベル"の民衆の力で平和のための新しい秩序を構築するという主体的な取り組みが、「平和の国際法」確立のために欠かせないと思うのです。
58  これまでの国際法は、問題を事後的に解決するうえでは役立ってきたといえましょう。
 しかし国際法の究極的目的が広い意味での「平和」の実現・達成にあることを思うと、それだけでは決して十分とはいえません。また「平和の国際法」を拡充させるうえで軸となる国連についても、環境や核といった問題がその創設当初に想起されていなかったことは、憲章をみても明らかであります。
 今や「平和」の概念は単に"戦争のない状態"にとどまらず、広い意味での「人間の安全保障」が焦点となってきております。私は現状の国際社会の限界を打ち破り、新たな千年の礎となる「平和の制度化」を実現させるための挑戦を、民衆自身の手によって開始すべきであると訴えたいのです。
59  そこで私が取り組むべき課題として提起したいのが、「第三の千年」への確たるビジョンを示す「地球憲章」ともいうべき人類の新しい規範を、民衆が中心となって打ち立てるという作業であります。
 あの「世界人権宣言」は、第二次世界大戦の悲劇を繰り返してはならないという決意、すべての「人間の尊厳」を保障しなければならないとの思いの結晶として制定されました。私は「地球憲章」を、現代文明が生みだした危機を次代にまでもち越さないという決意、そして「生命の尊厳」を基調とする共生の精神の結晶として、制定すべきものと考えるのであります。
 無論、その実現には大きな困難が伴うことは承知しておりますが、危機に立ち向かうという"人類共闘"の同じ責任感に立ち、粘り強い「対話」を積み重ねていくなかで、道を開くしかないと思います。
60  「世界人権宣言」制定の検討作業に携わった一人である故アタイデ氏(前ブラジル文学アカデミー総裁)は、私との対談集の中で当時の苦労を振り返りながら、「対立する教義、信条、利害や主義主張の激突の末に創り出された『世界人権宣言』は、人類の歩む苦難の道のりの一里塚として永遠に残るでしょう」(『二十一世紀の人権を語る』本全集第104巻収録)と述べられておりました。
 また氏は、「経済的なつながりや政治的なつながりはまことにもろい。人びとを結びつけるには不十分です。そうした結びつきよりも、はるかに高く、はるかに広く、はるかに強く、人類を結びつけ、人間の運命さえ決定づける絆を結ばなければなりません」と強調しておりました(『二十一世紀の人権を語る』、潮出版社)。「地球憲章」制定にあたって求められる精神性も、思うにここにあるのではないでしょうか。
 私は、運命を自ら切り開く人間精神の「勇気」と「英知」の証として、またその崩れざる連帯の絆の証として、人類の総意をもって「地球憲章」を打ち立てなければならない、と訴えたいのであります。具体的には、アメリカにある研究機関「ボストン二十一世紀センター」などを中心に今後作業を進めていってはどうかと提案しておきたい。
61  ともあれ地球環境問題にしろ、核兵器をはじめとする大量殺戮兵器の問題にしろ、こうした「人間の尊厳」「生命の尊厳」を脅かす文明の危機を生みだした最大の元凶は人間の心に巣くう「分断」のエネルギーにあるといえましょう。
 私は一貫して、「分断」は悪であり「結合」は善であるとの根本認識から、人間の「善」の力をもって分断という「悪」の力を顕在化させないことこそ、二十世紀までの人類史で起こった悲劇を繰り返さないための鉄則であると訴えてまいりました。
 私がこれまで世界の心ある人々と「対話」を重ねながら友情を育むなかで、人類共闘の道を模索してきたのも、こうした信条の発露にほかなりません。
 それはまた、私どもSGIが発足二十周年を記念して、九五年秋に制定した「SGI憲章」を貫く基本精神でもあります。
 この点については、昨年の「提言」のなかで詳しく論じましたが、私どもの信奉する日蓮大聖人の仏法の核心は、まさに分断という「悪」の力を顕在化させないために、「人間の連帯」「人間性の連帯」を築き上げることにあるといっても過言ではないのです。
62  歴史を振り返れば、「善」なる人々は常に分断され、社会を変革しようとする「正義」の行動も確たる力を出せぬまま、その多くが挫折を経てきたことがみてとれます。私は、この人類史の不幸な流転を何としても止めたい。このままでは、ますます人々の間に無力感とあきらめがつのり、危機に敢然と立ち向かう勇気と英知を糾合するチャンスさえ永久に失われてしまうでありましょう。
 人類は今まさに、これまでの歴史をただ延長させて"自滅"の時を待つのか、それとも「第三の千年」という新たな地平を開いて「地球文明」「人類文明」を創出させるのかという運命的な分岐点に立たされております。
 そこで重要となるのは、同じ一つの船に乗る人間として、他人任せの「乗客の気楽さ」で過ごすのか、それとも、自ら進むべき方向を見いだし自ら舵を取る「船長の責任感」で臨むのかということでありましょう。
63  ローマクラブのホフライトネル会長は昨年二月、私と会談した折に、現実が深刻であればあるほど、人々には「希望」が必要であり、また、「問題点を探す」ことに止まることなく「解決法を見いだす」努力が重要となると強調されておりました。それに続けて語られた会長の言葉は、印象深く記憶に残っています。
 「私は信じます。すべての問題の解決の知恵は、民衆の中から生まれることを」――と。
 まさに私たちは、一人一人が歴史を変革しゆく主人公であるとの気概と確信をもって、眼前に立ちはだかる地球的問題群の解決へ堂々たる挑戦を開始していかなければならないのであります。
 私どもSGIはその強い自覚のもと、仏法を基調とした平和・文化・教育の推進を通じ、「新たな人間主義」に基づく連帯の輪を更に広げてまいりたい。そして、世界の善なる人々とともに手を携え「勇気」と「英知」を結集し、"文明の危機"という最大の試練を乗り越え、すべての人間が光り輝く「第三の千年」の扉を開いていきたいのであります。

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