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日蓮大聖人・池田大作

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「5・3」記念協議会 「異体同心」ですべての山を越えよ

2006.3.29 スピーチ(2006.1〜)(池田大作全集第100巻)

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2  「正義」の旗を永遠に
 桜花の季節とともに、今年もまた、「四・二」そして「五・三」がめぐり来る。
 私が第三代会長に就任したのは、今から四十六年前。昭和三十五年(一九六〇年)の五月三日だった。三十二歳であった。
 戸田先生が昭和三十三年(一九五八年)の四月二日に逝去されてから、二年余りが経っていた。約二年の間、会長不在の、空白の期間があったのである。
 ″柱″のない学会は、前進の勢いが衰え、なんともいえぬわびしさと複雑な空気に包まれていった。反学会の評論家たちは「学会は空中分解する」などと書き立てた。
 そのとき、「第三代会長を推戴せよ! 学会の首脳たちは、何をしているのか!」と、決然と立ち上がったのは、埼玉の青年部であった。「三代会長となる人は決まっている! 推戴を急げ!」と叫ぶ彼らの声に押されて、当時の首脳たちも動き始めた。
 戸田先生の心を知っていた人ならば、だれが三代会長になるべきかは明白であった。理事会は全会一致で、私の会長推戴を決定した。そして五月の三日、私は戸田先生の弟子として勇敢に立ち、日本、そして世界を舞台に、猛然と広布の戦いを開始したのである。
3  海を見つめて世界広布の指揮を
 私が第三代会長を辞任したのは、昭和五十四年(一九七九年)四月二十四日であった。
 その直後の五月三日、創価大学の体育館で行われた本部総会が、私の実質的な″会長辞任の総会″となった。私は総会を終えると、東京の本部には帰らず、その足で神奈川へ向かった。神奈川文化会館に行って、はるかな未来と広大な海を見つめて、全世界の広宣流布の指揮を執ろう!――そう決意していた。
 五月五日、私は神奈川文化会館で、大きく「正義」と書いた。脇書には「われ一人正義の旗持つ也」とつづり、この書を永久に保管するように言った。何があろうと、正義は正義である。仏法は勝負である。正義は、断じて勝たねばならないのだ。
 わが人生は、まさしく波澗万丈であった。頼みとできる何ものも持たず、ただ一人、戸田先生の後を術いで、「正義」の旗を蹴げて戦いぬいてきた。ともあれ、埼玉と神奈川には、深い歴史が刻まれているのである。
 私は、御書に仰せのとおりの精神で戦っている。牧口先生、戸田先生の教えのまま、広宣流布のために戦っている。ほかには、何もない。私の声は、戸田先生と一体である。牧口先生と一体である。師弟不二の道を歩みぬいてきた私は、そう確信を持って言いきることができる。戸田先生は、こう言われていた。
 「創立者を大切にしたところは栄える。創立者をないがしろにし、原点を忘れたところは、必ず派閥ができ、勢力争いが盛んになって乱れる。分裂と混乱と破壊の道へ落ちていく」
 創立者を大事にするかどうかで、その団体の未来は決まる。
 私は師匠の戸田先生を、最後の最後まで守りぬいた。自分のすべてを棋げて、先生と学会に尽くしぬいた。
 ″師匠が健康で、長生きして、指揮を執ってくださる。それが最高唯一の幸せである″
 この一点を胸に、一直線に突き進んだ。だから、今日の学会の大発展がある。このことを、絶対に忘れてはならない。
4  シルクロードの地から栄誉
 戸田城聖先生の祥月命日である四月二日を前に、はるかシルクロードの要衝にある都市から、まことに意義深い栄誉を頂戴した。私は、皆さまを代表し、謹んで拝受させていただいた。
 昨日は、新彊しんきょう(シンチャン)ウイグル自治区カシュガル市の「名誉市民」と、カシュガル博物館の「名誉館長」の称号授与式が、同市で行われた。
 さらに本日は、トムシュク市の「名誉市民」と、岡市「歴史文化研究会」の「名誉会長」の称号を拝受した。
 代理での受章となったが、各市長をはじめ、多くの来賓が出席してくださり、盛大、な式典を行ってくださった。まことに感謝に堪えない。
 以前、民音公演(「シルクロード音楽の旅」)の団長として来日された新彊ウイグル自治区の要人も、区都のウルムチから、白雪の天山山脈を越えて、はるばる祝福に駆けつけてくださったという。厚情に、深く深く御礼申し上げたい。
 一流の人は、「信義」を重んずる。大誠実を貫く。私たちはこれからも、一つ一つの出会い、一人一人との友情を大事にしてまいりたい。
5  鳩摩羅什の師弟のドラマ
 今回、称号を贈ってくださった地はいずれも、二千年を超す悠久の歴史を持ち、ギリシャ・ローマ文明、ペルシャ文明、さらにインド文明、中国文明が出あった「文明共生の天地」である。
 あのガンダーラで興隆した仏教は、紀元前後に、カシュガルに伝来したと考えられている。そして西暦四世紀ころ、カシュガルで刻まれた師弟の出会いは、「仏教東漸」の推進力となった。その出会いとは、妙法蓮華経の漢訳者として、あまりにも名高い鳩摩羅什と、その師匠・須利耶蘇摩との師弟のドラマである。
 鳩摩羅什は、若き日、カシュガルの地を訪れ、師から薫陶を受けた。そして、その師から、法華経を「東北」へ弘通することを託された。この逸話については、大聖人も繰り返し、御書に記しておられる。
 たとえば「曾谷入道殿許御書」には、こう仰せである。
 「僧肇そうじょうの法華翻経の後記には、こうある。『須梨耶蘇摩という鳩摩羅什の師匠は、左手に法華経を持ち、右手で羅什の頭をなで、羅什に法華経を授与して言った。″太陽が西に沈むように、仏(釈尊)が西(インド)に入滅されて、その残光が、まさに東北に及ぼうとしている。この経典(法華経)は東北に縁がある。あなたは心してこの法華経を伝え弘めよ″』と。
 私(日蓮)は、これを拝見して、両眼から滝のごとく涙が流れ、喜びが体にあふれるのである。『この経典は東北に縁がある』というのは、西天のインドは西南の方角であり、東方の日本国は東北の方角である。インドにおいて『東北に縁がある』とは、日本国のことではないだろうか」(御書1037㌻、通解)
 まことに厳粛な仰せである。鳩摩羅什は師弟誓願のままに、法華経をインドの東北に位置する中国へ伝え、さらに東北の日本への流通の道を開いた。そして、日蓮大聖人は日本に御聖誕なされ、あらゆる迫害と戦い、末法広宣流布という法華経の未来記を実現していかれた。
 今回、いただいた名誉称号は、仏法史上、まことに意義深い地からの栄誉なのである。
6  仏法西還を学会が実現
 さらに大聖人は、羅什の足跡を踏まえながら、こう仰せである。
 「正像二千年には、仏法は西から東へ流伝した。ちょうど暮れの月が西の空から始まるようなものである。(夕方、月が見える方向は、新月が西で、月齢が増すに従って東へ移り、満月は東に見える)
 末法のはじめの五百年には、仏法は東から西に返るのである。ちょうど朝日が東の空から出るようなものである」(御書1038㌻、通解)
 この大聖人の「仏法西還」、そして、「一閻浮提広宣流布」の仏意仏勅のままに立ち上がったのが、わが創価学会なのである。
 昭和二十六年(一九五一年)五月三日。晴れわたる青空のもと、第二代会長に就任された戸田先生は、高らかに「東洋広布」を宣言された。
 昭和三十五年(一九六〇)の五月三日。私の第三代会長就任式の会場には、戸田先生のお歌が掲げられていた。
  いざ往かん
    月氏の果てまで
      妙法の
    拡むる旅に
      心いさみて
 今、世界広宣流布の連帯は、百九十の国々・地域に広がった。
 アジア、北米、中南米、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカ――SGIの共は、今や地球のありとあらゆる場所で、仏法の人間主義を基調に、平和・文化・教育の運動を広げている。
 アジアでは、戦乱に苦しんだカンボジアでも、オセアニアでは、太平洋に浮かぶパラオやミクロネシア連邦でも、また中南米では、エルサルバドルやベリーズなどでも、メンバーが活躍している。ヨーロッパでは、ナポレオンの誕生の地コルシカ島や、民族紛争の悲劇から復興を進めるセルビア・モンテネグロでも、わが同志の存在が希望の光を放っている。
 さらに、アフリカでは、南アフリカ、トーゴ、カメルーンなどで、立派な女性理事長が誕生し、異体同心の前進をされている。
 私が皆さま方を代表して、世界の各都市からお受けした「名誉市民」称号の数も、四百三十を超えた。また、ブラジルの各都市で、5・3「創価学会の日」を祝賀する慶祝議会が開かれるのをはじめ、南米各国でも、SGIへの共感の輪が広がっている。
 これらは、すべて、わが同志の方々が、各国・各地域の模範の市民として勝ち取ってこられた信頼の結晶なのである。
7  指示待ちゃ受け身の心が前進を阻む
 さて、「栄光の大ナポレオン展――文化の光彩と人間のロマン」は、おかげさまで、東京展、九州展、四国展を大成功で飾り、現在、神戸市の関西国際文化センターで開かれている。
 二十五日の開幕式は、関西を代表する約三百人の来賓が出席され、盛大に開催された。
 ナポレオンは、奥が深い。その「光」と「影」、「栄光」と「悲劇」、「勝利」と「敗北」から、じつに多くの教訓を引き出すことができる。
 たとえば、「ワーテルローの戦い」で、ナポレオンは、なぜ敗れたか?
 当然、さまざまな角度から分析できるが、一つの要因として、ナポレオンの側近や部下たちの多くが命じられなければ動けない、動かないという、いわば「指示待ち」の体質になってしまっていたことが指摘される。
 一人一人が″ナポレオンだったら、どうするか″を考え、責任を担って行動する、一騎当千の獅子の集団ではなくなった。「保身」と「事なかれ主義」が横行する、硬直した組織になってしまったというのである。
 ある将軍は、こう記している。
 「ナポレオン補佐の将軍たちは、ナポレオン直接指揮のもとに二万五千の部隊を動かすときは優秀であるが、自分たち自身の着想で大軍を指揮するだけの力量はなかった」(長塚隆二『ナポレオン』下、読売新聞社)
 著名な作家ツヴアイクも、そうした視点から「ワーテルローの戦い」の敗因を論じている。
 すなわち、ナポレオン軍の勝敗の帰趨を握った将軍(グルーシー)が、他人の命令に従うことに慣れ、自分で決断できない人物だったために、いたずらに命令を待つだけで、突入する時を逸し、勝てるチャンスを逃してしまった。
 肝心の、ナポレオンの″突入せよ″との命令も、伝令が遅れ、その将軍のもとに届いたときには、一切が手遅れになっていたというのである。(『人類の星の時間』片山俊彦訳、みすず書房、参照)
 もしも、その将軍が、ナポレオンと同じ責任感に立って、決断し、行動しゆく勇気をもっていたなら、歴史は変わっていたかもしれない。これは、あらゆる組織に当てはまる示唆をはらんでいると言えよう。
 いわんや、広宣流布の組織において、指示待ちゃ受け身の心があれば、前進を阻んでしまう。その行き詰まりを打開しゆく根本の力が、「師弟」なのである。
8  「師匠ならば、どうされるか」
 私は、若き日から、つねに″戸田先生なら、どうされるか″を念頭に置き、先生と同じ責任感に立って、思索し、動き、戦っていった。三障四魔、三類の強敵と戦い、難を受けきられながら、広宣流布の指揮を執られる先生の「境地」を、私は信じぬいて、先生にお仕えした。
 私が音楽隊や鼓笛隊をつくり、文化祭を推進し、新しい文化運動の流れを起こしたのも、戸田先生の遠望を拝察して、その具現化のために、絶対に必要であると着想したからである。当時の幹部はだれもが反対したが、戸田先生は、「大作がやりたいように、やってみなさい」と、応援してくださった。
 今日の創価学会の「平和」「文化」「教育」の世界的な運動の広がりは、すべて、この「師弟不二」の一念によって成し遂げられてきたものである。このことを、深く知っていただきたい。
9  「肩書は虚飾、権力は堕落」――英国詩人シェリー
 戸田先生は、「戦いは、あくまでも攻撃だよ。攻撃精神だよ」とおっしゃった。
 また、人材育成について「大事にするのは、そっとして置くこことは違う。うんと働かせるほうがいいぞ」とも訴えられた。
 学会の師弟の世界が、心ない中傷にさらされ、同志が馬鹿にされた時、「本気で怒る人」「死にものぐるいで戦う人」こそ、本物のリーダーである。それを、真剣に怒らず、高みの見物をしているような人間は、偽物である。絶対に信用してはならない。とくに、未来のために、若い世代を育てるために、本当のことを言っておきたいのである。
 純粋な学会員の皆さまのおかげで、創価学会は世界に広がった。大発展した。だからこそ、最高幹部の責任は重い。懸命に広布に励んでくださる、大切な同志が苦しむようなことがあってはならない。尊き民衆の城を護りゆくために、リーダーはみずからが矢面に立って邪悪と戦っていくのだ。
 イギリスの詩人シェリーは「肩書は虚飾、権力は堕落」(『飛び立つ鷲』阿部美春・上野和廣・浦壁寿子・杉野徹・宮北恵子訳、南雲堂)
 外から、内から、和合の団結を破壊しようとする動き。慈愛のかけらもなく、己の醜い欲のために、うるわしい世界を食い物にしようとする魔性――。そうした魔の蠢動を打ち破るのは、「信心の剣」である。戸田先生が、おっしゃっていた「攻撃精神」なのである。
10  今、学会も、学会をめぐる環境も、大きな潮のように動いている。変化している。
 広布を進めゆく「三代の師弟」の精神を、永遠たらしめることができるかどうか。その重要な節目を迎えている。
 これまで学会は、数限りない非難中傷を浴びてきた。また、仏法を軽んじ、尊き仏子をあごで使い、のさばった増上慢の反逆者もいた。しかし学会は、すべてを乗り越えてきた。
 なぜか。それは、「信心」で勝ったからだ。「異体同心」で戦ったからである。
 「異体同心」を貫く限り、仏法に行き詰まりはない。私は今、永遠に学会が栄えゆく軌道を厳然と敷いておきたい。この軌道を絶対に踏み外してはならない。
 仏法は勝負であり、厳しい。甘く考えてはならない。私は、戸田先生を馬鹿にした人間とは、すベて戦った。学会の師弟をせせら笑った人間を、絶対に許さなかった。
 この信心は、仏になるための、永遠の幸福の大道である。ゆえに、仏道修行が必要であり、信心の世界に、おいて、臆病の心にとらわれではならない。ましてや、「名聞名利」で動けば、人間の生命に具わる魔性を見破ることができなくなる。そして、必ず自分自身が損をする。
 広布のために戦えば、必ず難が起こる。あらゆる中傷や謀略を寄せつけず、むしろ、苦難をもチャンスに変えて、善の勢力を大きくしていくのが、指導者の使命である。
 リーダーの皆さんもまた、全員が「広布の責任者」との自覚に立って、勇敢に、全魂の指揮を執っていただきたい。
11  婦人部・女子部に最敬礼
 今年の五月三日は、戸田先生の会長就任五十五周年である。
 また本年は、男子部、女子部の結成五十五周年(男子部は七月十一日、女子部は七月十九日)であり、さらに、「聖教新聞」の創刊五十五周年の住節(四月二十日)である。
 この意義深き本年の「5・3」を記念して、待ちに待った「創価女子会館」の開館式を行う運びとなった。本当におめでとう! 私も、「名誉館長」である妻も、女子部の幸の城を、さまざまに荘厳してさしあげたい思いでいっぱいである。
 五月三日を、花の女子部を中心として迎えることは、創立八十周年へ、さらには次の五十年へ、わが学会が、創価の乙女の希望の大行進とともに、いやまして隆々と勝ち栄えていく象徴であるといってよい。
 各部の皆さんも、女子部への応援、本当にありがとうどざいます!
 婦人部、女子部の皆さんは、楽しく、伸び伸びと活動していただきたい。
 学会の、どの地域にあっても、実質的に広宣流布を担ってくださっているのは、女性の皆さんである。遠慮はいらない。自分たちがやりやすいように、どんどん意見を言っていただきたい。
 男性幹部は、それに、きちんと耳をかたむけることだ。女性の意見を大事にして、皆さんが活動しやすいように真心を尽くしていくのである。そこに、もう一歩、学会が大きく発展していくカギがある。
 また信仰活動のうえで、言うべきことがある場合も、男性幹部は、絶対に女性をしかったり、怒鳴ったりすることがあってはならない。どこまでも紳士的に、尊敬を込めて接していただきたい。幹部だからといって、しかる権利など、だれにもないのである。自分のかわいい娘さんがしかられたならば、親御さんは、どう思うか。また、大切な、お母さんが、だれかに怒鳴られたならば、家族はどれほど悲しいか。たとえ、どんな理由があっても、ご主人やお子さんが納得するわけがない。
 日蓮大聖人は、弟子の四条金吾に対し、どんなことがあっても、身内の女性をしかったり、争ったりしてはならないと御指導されている。
 「女性には、どのような失敗(罪)があったとしても、決して教訓などしてはならない。まして絶対に争つてはならない」(御書1176㌻、通解)
 このころ、四条金吾は、主君の信頼を回復し、苦難の時期を耐えぬいて、春を迎えていた。しかし、それゆえに敵に狙われてもいた。ただでさえ、危険な状況のなか、味方をも敵に回すことのないよう注意された御文と拝される。女性の繊細な心理を理解された御本仏の深い御配慮が伝わってくる。
12  第一線で労苦を分かち合え
 ともあれ、広布のため、学会のために奮闘してくださる婦人部、女子部の皆さんへの感謝を忘れてはならない。
 やってもらって当たり前――こうなったら、もう仏法ではない。創価学会ではない。
 そうならないためにも、つねにみずからが第一線で戦い、広布の労苦を分かち合っていくことだ。そして、大変ななかで戦ってくださっている同志が健康で、幸福になり、勝っていけるよう祈っていくのである。
 婦人部、女子部の皆さんも、男性幹部から一方的に無理なことを言われでも、決して聞く必要はない。時代は急速に変わっている。上意下達では、組織は硬直する。下から上を変えていくのである。上が慢心や不正を起こさないよう、下が意見を言い、しっかり見ていくのである。
 女性の皆さんが、心晴れやかに、生き生きと躍動した分だけ、学会は躍動し、広宣流布は躍動する。その歓喜と福徳こそが、わが家庭、わが地域、わが国土を栄えさせていくのである。
13  信心の利剣で魔を断て
 四十八年前(一九五八年=昭和三十三年)のきょう三月二十九日、ご逝去される直前の戸田先生は師子吼なされた。最後の遺言である。
 「邪悪とは、断固、戦え! 一歩も退いてはならんぞ。追撃の手をゆるめるな!」
 今ふたたび、この究極の学会精神を、深く強く命に刻みつけてまいりたい。
 法華経の薬王品の一節には、次のように記されている。
 「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ」(法華経六〇一㌻)
 要するに、悪魔・魔民どもに、いささかなりとも、つけ入るスキを与えてはならないとの遺命である。戸田先生は、つねに幹部に厳しく指導された。
 「断じて魔を寄せ付けるな、信心の利剣で断ち切っていけ」
 「法が正しいほど、魔が競い起こり、強敵が現れる。世間では、仏法者は従順と思っているが、とんでもない。邪悪に対しては、決して妥協するな。徹して責めぬけ!」
 この精神で戦いぬいてきたからこそ、学会は、すべてを勝ち越えたのである。
 ある時、戸田先生は青年に、こう指導された。
 「自分の世界を不満に思う者は、出世しない。また人の悪口を言い、自分の失敗を弁解する人も、出世しない」
 反対に、光っていく人とは、どんな人か。
 「御本尊につねに感謝の念をもっている人は、いよいよ栄える。福運がいよいよまさる」
 「感謝を忘れた人は、福運が消えていく」
 また戸田先生は、厳しく言われた。昭和三十三年の三月二十二日のご指導である。
 「今後も、学会の組織を、私利私欲のために利用しようとする者があらわれよう。そのためにも、今のうちに断固たる処分を行い、そうした芽を摘んでおくことが大事なのである」
 戸田先生が、どれほど学会の組織を大切にされたか。
 仏意仏勅の学会の組織を、私利私欲のインチキな輩に利用されてはならない!
 そうした人間を放置しておいてはいけない。徹して責めぬいて悪の根を断ち切っていけ!
 それが戸田先生の叫びであった。
14  戦いは「執念」である。そして、明快な「目標」を持つことだ。一つ一つ結果を出すことである。それがなければ、本当の戦いとはいえない。戦っているつもりになっているだけで、空転してしまう。
 「曖昧な的に向かって放たれた矢が当たるわけはない」とは、牧口先生の箴言である。
 私は、戸田先生の言われたとおりに実行して、盤石な学会をつくってきた。先生をデマによって誹謗する者がいれば、ただ一人で飛んでいって、真実を叫びきった。
 ひとたび、学会や師匠がバカにされ、侮辱されたならば、「断じて許さない!」と、心の底から燃えあがるものがなくてはいけない。腹のなかでせせら笑っているような、卑劣な人間にだけは、なってほしくないのだ。
 今は、何もかも順調に見えるかもしれない。しかし、もしも「師弟の精神」を失ったならば、将来は危うい。
 だからこそ、私は、戸田先生の炎のごとき「戦う魂」を、厳然と後世に伝え、残しておきたいのである。創価学会という偉大なる人間の結合を、断じて守りぬかねばならない。
15  「まことの時」に戦うのが真実の弟子
 「まことの時」に、いかなる信心を貫き通せるか。三世を通暁なされる仏は、その一点を峻厳なまでに凝視しておられる。日蓮大聖人が佐渡に流罪された時、多くの門下が退転した。大聖人は「千人のうち九百九十九人は退転してしまった」(御書907㌻、通解)と仰せである。
 「あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、あるいは心は堕ちなくても身は堕ち」(御書1181㌻、通解)た人間もいた。
 反逆しなかった者も、「まことの時」に本気で立ち上がらない人間もいた。
 そのなかで、いざというときに変わるととなく、「勇気ある信心」を貫き通して、正しき「師弟の道」を歩みぬいた弟子を、大聖人は顕彰し、宣揚してくださっている。
 四条金吾に対して、大聖人は、こう仰せである。有名な御手紙である。
 「返す返す今も忘れないことは、(竜の口で日蓮が)首を切られようとした時、あなたが、私の供をして、馬の口に取りついで泣き悲しまれたことです。これを、いかなる世に忘れることがありましょうか。たとえ、あなたの罪が深くて地獄に堕ちられたとしても、その時は、日蓮が釈迦仏から、どれほど『仏になれ』と誘われようとも、従うことはありません。あなたと同じく、私も地獄に入るでしょう。日蓮と、あなたとが、ともに地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も、地獄にこそいらっしゃるに違いありません。たとえば、闇のなかに月が入って輝くようなものであり、湯に水を入れ冷ますようなものであり、氷に火をたいてとかすようなものであり、太陽に闇を投げつければ闇が消えるようなものでありましょう。(それと同じように、地獄であっても、必ず寂光土となるでしょう)」(御書1173㌻、通解)
 なんと深く、なんと尊く、なんと美しい師弟の道であろうか。これが、日蓮大聖人の仏法の真髄なのである。さらにまた、乙御前の母(日妙聖人)にも、こう仰せである。
 「日蓮が鎌倉にいた時は、念仏者らはさておいて、法華経を信じる人々でも、本当に信心がある人なのか、ない人なのか、分かりませんでしたが、幕府からとがめを受けて佐渡の島まで流されてみると、訪れる人もありませんでした。そのなかで、あなたは女性の身でありながら、さまざまな御志の品を届けられたうえ、ご自身が佐渡まで訪ねてこられたことは、現実のこととも思えず、考えることもできないことです」(御書1220㌻、通解)
16  「苦労をかけるが、君の師匠は僕だ」
 ともあれ、大聖人の示されたとおりに、学会は師弟の道を歩みぬいてきた。
 ご存じのとおり、戦時中、軍部権力から弾圧されて投獄された戸田先生は、牧口先生をしのばれて、「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」と語られた。
 その戸田先生に、私も、まったく同じ決心でお供した。
 それは、昭和二十五年八月二十四日の夜、西神田の学会本部での、法華経講義が終わったあとのことであった。
 戸田先生は、当時の事業の苦境を端的に語られると、突然、発表された。
 「熟慮の末、思うところあって、理事長の職を辞任する」
 皆に動揺が広がった。
 「理事長が変われば、師匠も変わってしまうのであろうか」
 私は一人、戸田先生の部屋にうかがい、悔し涙を流しながら、この一点を確認させていただいた。戸田先生は明快に答えてくださった。
 「いや、それは違う! 苦労ばかりかけてしまうが、君の師匠は僕だ!」
 先生の目にも、涙が光っていた。
 私はうれしかった。そして、生命の底から決意したのである。
 「先生に襲いかかる、ありとあらゆる難は、断じて私がはね返してみせる。そして、必ず必ず、戸田先生に会長になっていただくのだ」と。
17  ″難″は真の師子をつくる
 戸田先生は当時、莫大な借金を抱えておられた。生死の淵に立つように、憔悴しきっておられることもあった。給料も出ない。社員は次々と辞めていく。「戸田の馬鹿野郎!」「インチキ野郎!」「タヌキ野郎!」などと口汚くののしる人間もいた。恩を仇で返す人間もいた。彼らの心根は、わがままであり、自分勝手であり、増上慢であった。
 私は、師匠に人生を捧げた。すべてをなげうってお仕えした。
 あるとき、戸田先生に申し上げた。
 「先生、私は戸田先生の弟子です。力をふりしぼって、私が、お守りします。どうか、ご安心ください」と。
 戸田先生は、肺病を患っていた私のことを心配してくださった。
 「このままでは、三十歳まで生きられない」「大作が死んだら、おしまいだ」と涙を流されることもあった。厳しい先生であられたが、心は、慈愛に満ちあふれでいた。
 私は文字どおり「阿修羅のごとく」、全身全霊で戸田先生をお護りし、事業の打開に師子奮迅の戦いを続けた。
 そして、最も厳しい試練の冬を乗り越えて、戸田先生の第二代会長就任の「五月三日」を迎えたのである。
 「難は、まやかしの信仰者を淘汰し、師子をつくる」
 戸田先生の忘れ難いご指導である。
18  私が、戸田先生のもと、本部職員となったのは、昭和三十三年の三月一日のことである。
 戸田先生は私に言われた。
 「君の本部入りは、天の時だ。十年間、苦難の道を歩みゆけ! 理事室に新風を入れよ!」
 そして、先生は、万年の学会の発展のために、私に後事の一切を託されたのである。
 私は今、心から願う。新時代のため、後継の新しい青年を見つけだしたい。立派な人材に鍛えあげたい、と。
 リーダーの皆さんは、どこまでも「会員第一」の道を貫いていただきたい。尊き同志の奮闘があるからこそ、学会は盤石であり、リーダーも指揮を執れるのである。
 戸田先生は「幹部のご機嫌をとってはいけない」と言われた。もしも、威張る幹部や、ずるがしこい幹部が出たならば、皆で率直に意見を言っていく。そうした建設的な気風を、いちだんと強めてまいりたい。
19  世界の知性との対談集が四十点に
 このたび、インドの世界的な農学者スワミナサン博士と私との対談集が、発刊の運びとなった。(=『「緑の革命」と「心の革命」』と題し、二〇〇六年四月に潮出版社から発刊)
 世界の知性との対談集は、これで、ちょうど四十点となる。現在、進行中、準備中のものも含めると、五十五点にのぼる。
 トインビー対談は、世界の二十六言語、ペッチェイ対談は十六言語、ポーリング対談は九言語で刊行されている。私の著作や対談集は、これまで三十四言語で出版された。海外出版だけでも八百点を超えている。
 インドネシア語やポーランド語、トルコ語やスワヒリ語、イタリア語やセルビア語など、多様な文化圏で翻訳され、仏法とは縁のなかった多くの国々の方からも、反響をいただいている。
 今後も、「ゴルバチョフ対談」のアイスランド語版、「テヘラニアン対談」のインドネシア語版、「セレブロフ対談」のロシア語版、「ポーリング対談」の中国語版等々、各国から要請が相次ぎ、出版の予定となっている。
 スワミナサン博士も、今回の対談集の発刊を、ことのほか喜んでくださっている。
 (=博士は、名誉会長との対談について「私の人生における最も輝かしい出来事」と述べている)
 博士は、核兵器と戦争の廃絶をめざす科学者の団体「パグウォッシュ会議」の会長としても活躍されている。
 長年、会長を務めてきたロートブラット博士の心を継いで、世界を結んでおられる。
20  女性を大切にする社会は発展
 スワミナサン博士との対談でも、「女性の力」が一つの焦点となった。
 かつてインドの食糧危機を救った「緑の革命」において、ひときわ重要な役割を果たしたのは、名もなき庶民の女性たちであった――博士は、こう強調されている。
 すなわち、科学者が、米や小麦の新しい品種を開発しても、その品種が本当に人々に受け入れられるかどうか、実際に見極め、判断するのは、庶民の女性であった。そして、ひとたび、品種の採用を決めると、その「種」を植え、育て、増やして、多くの人々に普及させていったのも、女性たちであったというのである。
 博士は、述べておられる。
 「種子を保存するときも、農作物を管理するときも、さらには食用としての品質を判定するときも、あらゆる段階で女性が中心でした。女性の役割は、多くの場合、過小評価され、無報酬であり、報われることも、称賛されることもありません。しかし、それは非常に重要な役割なのです」
 博士は、六十年間、農業にかかわってこられた。その経験のうえから、農業のあらゆる場で「女性」の意見がさらに尊重され、男女の平等が確立されるならば、みずから理想とする「永続的な緑の革命」は必ずや成し遂げられると、展望しておられた。
 博士はまた、「女性を大切にすることが、社会にとって、どれだけ有益か」について、ご自身の信念を、次のように語っておられる。
 「生物学的にも心理学的にも、母親は子どもたちや共同体全体に対して、より大きな愛情と慈悲の心をもっています」
 「もしある家庭で女性のために何かをすれば、それはあらゆる人に恩恵を与える」と。
 つまり、女性を励まし、大事にすれば、その恩恵は、家族のみならず、まわりの人々にも及び、広がっていく。結果として、より多くの人が幸せになるというのである。
 博士は率直に″男性に同じことをしても、そうはならないでしょう″とも言われていた。
 女性に光を当て、女性の意見を重んじ、女性に十分な活躍の機会を開き、女性が最大に力を発揮できるようにする。そうした「女性のエンパワーメント(女性に力を贈ること)こそが社会の発展のカギであると、私たちは語り合った。
21  五月三日は創価の元朝
 思えば、昭和三十五年の五月の三日。私が第三代会長に就任したとき、学会の世帯数は百四十万であった。そして、二年後に三百万世帯を達成。さらに、会長就任十年にして、七百五十万世帯を実現した。五月三日は、創価学会の元朝である。世界広宣流布の祝日である。つねに、皆の心が一致して、この日を祝賀し、新たな「一歩前進」を踏み出していく。これが、学会の希望のリズムであり、勝利の法則である。
 二〇〇一年の五月三日に開学した、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスも、おかげさまでめざましい発展を遂げている。
 卒業した一期生も、見事な活躍を繰り広げている。立派に成長したこ二期生も、まもなく巣立っていく。
 先日も、ハーバード大学教育大学院に進学が決まったアメリカ創価大学の一期生が、りりしい決意の手紙を寄せてくれた。そこには、こうつづられていた。
 「三月十六日の創価学園の卒業式で、私がハーバード大学教育大学院に合格したことを紹介してくださり、ありがとうございます。これまでの十倍の努力をしてまいります」
 ハーバード大学といえば、私も、要請をいただいて二度、講演した。(一九九一年九月と、九三年九月)
 私は、即座に、彼に返事を英語で送った。
 「君よ、君よ!
 勇敢に、そして朗らかに、一生涯、大空を飛び、遊べ!
 ハーバードの空に、大きな美しい虹かかれ!」
22  誠実と慈愛の勲章をわが胸に
 最後に、箴言を贈りたい。
 有名な中国の思想書『韓非子』には、こう記されている。
 「悪事が必ず見ぬかれるとすれば、だれでも用心をするし、必ず誅罰されるとなれば、だれでも悪事はやめる。しかし、見ぬかれないとなれば、わがままにふるまい、誅罰もないとなると、どんどんやってのける」(金谷治訳注、岩波文庫)
 だからこそ、正と邪を明快に言いきっていかねばならない。断じて悪を放置してはならないのだ。さらに『韓非子』にこうある。「明君は善人をさがし出してそれを賞し、悪人をさがし出してそれを罰する」(同前)
 賞罰の乱れは、滅亡の因となる。明確な賞罰の実行が、発展の力となる。
 広宣流布のリーダーは、陰で戦っているけなげな同志を徹して讃え、堕落した反逆者とは徹して戦う責務がある。どうか、常勝の名指揮を頼みます!
 われらの目的は一つ、広宣流布である。その一点に向かって、すべての同志が団結することだ。
 異体同心で進んでいくのである。
 結びに、
  めぐりくる
    五月三日の
      晴れの富士
  誠実と
    慈愛の勲章
      わが胸に
 と贈り、記念のスピーチといたします。
 長時間、ご苦労さまでした。
 お会いできなかった全国各地の皆さま方に、くれぐれもよろしくお伝えください。
 本当にありがとう!
 (東京・新宿区内)

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