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日蓮大聖人・池田大作

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代表幹部協議会 「よし、きょうも最激戦地へ」

2006.3.18 スピーチ(2006.1〜)(池田大作全集第100巻)

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1  最後に勝つのは誠実の人
 生き生きと、広宣流布のために、勝って、勝って、勝ちまくる。
 その人には、計り知れない功徳がわく。
 わが青春は、恩師戸田先生のもとで、朝から晩まで働き、戦った。毎日のように、さまざまな難題がもちあがる。そのたびに「よーし! きょうは、ここへ行こう!」と勇猛果敢に飛び込んだ。師のために、自分が最激戦地へ!――それが私の信条である。
 戸田先生は、ニッと笑って、「頼むよ」と一言。
 ときには、むずかしい相手もいた。私は、勇気を奮い起こした。偏見に凝り固まっていた相手が、最後は、「あなたの誠実に負けたよ」と、理解者に変わったこともあった。
 そうやって、世界に堂々たる民衆の城を築きあげてきたのである。
 イギリスの外交官ハロルド・ニコルソンは述べている。
 「外交がいやしくも有効であるためには誠実が必要である」
 「無分別やたいていのへマの根底には、自惚れがある」(『外交』斎藤真・深谷満雄訳、東京大学出版会)
 少し偉くなると、すぐうぬぼれる。そういう人間が間違いを起こす。また、そういう人間にかぎって、一番、大変なところから逃げる。とんでもないことだ。
 どんなに大勢いても、臆病者の集まりでは情けない。それでは、戦いに勝てるはずがない。
 どうせ戦うならば、大胆に、恐れなく、勝利の劇をつづっていきたい。
2  進歩のない組織は滅びる
 よりよい看護のために精魂をかたむけたナイチンゲール。
 彼女は「進歩のない組織でもちこたえたものはない」と強調した。そして、それを思えば、「まだなすべきことがたくさんある」(湯槇ます監修『ナイチンゲール著作集』2、編訳者代表・薄井担子、現代社)
 進歩のない組織は、必ず滅びる。学会もそうだ。だから私は真剣である。
 空転があってはならない。増上慢を許してはならない。これからの学会を永続的にするには、まず幹部みずからが「進歩」することだ。その戦いは、もう始まっている。
3  フィリピンの独立のために殉難したホセ・リサール博士。
 国家英雄と讃えられる博士は、革命への熱情を文学に謡いあげた。そのなかに、「ものごとの根本よりは、形式のほうによけい気をつけるようになる。これは無力化の第一の症状です」(『ノリ・メ・タンヘレ』岩崎玄訳、井村文化事業社)
 ここには、鋭い真実が含まれている。
 多くの宗教が形式だけにとらわれ、根本を忘れて衰退していった。創価学会は、草創の同志が命をかけて、実質的な戦いをやりぬいたからこそ勝ってきた。
 しかし、年配になるにつれ、どうしても体当たりでぶつかるような、生命と生命の触発がなくなってくる。信心の指導をする。また指導を受けにいく。そういう一対一の対話が、薄れてくる。
 同志と同志のつながりを、もう一回、学会全体で深めていかねばならない。リーダーが友のもとへ足を運ぶことだ。
 どんな人も、悩みがある。家庭のことで悩む。自分のことで行き詰まる――そうした一人一人の思いを包み込み、同苦しながら、きめ細かに激励していくことである。これを私は、ただひたすら実行してきた。そして勝った。これが戸田先生の教えだったからである。
4  あえて苦労し、盤石な土台を
 フランスのナポレオンは述べている。
 「悪事は殆ど常に閑暇(=ひま)からである」(『戦争・政治・人間』柳澤恭雄訳、河出書房)
 大きな責任を担う人間に、ひまがないのは当然のことだ。まず題目をあげる。そして一生懸命、なすべきことをなすのだ。
 だれにも迷惑をかけず、あえて苦労を引き受けて、後世の人から「よくやってくれた」といわれる盤石な土台をつくる。これが勇者の仕事である。
 オランダの哲学者スピノザは喝破した。
 「忘恩は感謝の軽蔑である」(『スピノア全集』1、斎藤晌訳、内田老鶴圃)
 短い言葉だが、込められた意味は深い。感謝するという尊い行為を、あろうととか、軽蔑する。それが忘恩の人間だというのである
 。
 思に報いる。これが仏法の道である。恩を知る人生を生きるのか。不知思なのか。これが人生の深さ、正しさを決定する。
5  信教の自由は人類が勝ち取った権利
 のちにアメリカの第三代大統領を務めたジェフアソンが起草した、歴史的な法律がある。
 「ヴァージニア信教自由法」である。その一節にこうある。
 「何人に対しても、その宗教上の思想見解または信仰のゆえをもって、強制、制限、妨害を加え、または、身体もしくは財産に関して負担を課し、その他いっさいの困苦を与えてはならない。
 すべての人は、宗教についての各自の思想見解を表明し、これを弁護、支持するの自由を有する」(「ヴァジニア信教自由法」松本重治訳、『世界の名著』40所収、中央公論社)
 これが一つの淵源となり、「信教の自由」が各国の憲法に謳われていったのは、有名な史実である。「信教の自由」こそ、人類が勝ち取ってきた、最も尊い人権である。
 イギリス・オックスフォード大学の名誉教授であられたブライアン・ウィルソン博士。国際宗教社会学会の初代会長を務めた博士が、こう述べておられた。少々、長くなるが、大切な内容なので、紹介しておきたい。
 「ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ノルウェーなどの国々で、はっきりとキリスト教の名を冠した政党が出現しているのです。
 成熟した民主主義社会では、人々の、自らの宗教的信条が、また、それに基づいた生き方というものが、彼らの政党への支持、献身を決定づけていくというのは、常識になっています。
 つまり、究極的には、宗教的自由の原理、政治的自由の原理は分離することが出来ないのです」(「聖教新聞」一九九五年九月二十二日付)
 さらに博士は、こう言われている。
 「国連やへルシンキ宣言などによる種々の国際宣言、すなわち、人権としての宗教的自由は、個々人の宗教的信条や、その集会、布教の推進、あるいは、宗教的信念に基づく社会的諸活動に対し、国家権力は干渉してはならないことを規定しています」(同前)
 「信教の自由」は、国家権力よりも上なのである。権力も、心まで縛ることはできない。また、縛つてはならないし、縛らせてもならない。当然のことだ。
 アメリカの教育哲学者デューイは、「権力は毒である」(Theory of the Moral Life, Irvington Publishers, Inc.)と鋭く喝破した。
 そのとおりだ。権力の魔性を、いかにして断ち切るか。これは、人類史的な難問であるが、一つのポイントは、「もっと民衆が強くなる」「民衆が賢明になる」ことだ。
 それが、権力の悪に対する歯止めとなる。
 そもそも、大聖人が、「王は民を親とし」と示されているとおり、民衆なくして権力者はない。しかも現代は、民主主義の社会である。民衆こそが「王」であり、権力者は、いわば「下僕」なのである。それであるのに、「下僕」たる権力者が、民衆を苦しめるなどという転倒は、断じて、これを許してはならない。
 いわんや、学会員の皆さまは、広宣流布という人類の幸福と平和のための偉業を進めている。最高に尊き仏子であられる。この方々を、断じて守れ! 一人も残らず幸福に! それが創価のリーダーの永遠の責務であると申し上げ、記念のスピーチとさせていただく。
 (東京牧口記念会館)

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