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日蓮大聖人・池田大作

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最高協議会 師とともに! それが広布の勝ち戦

2006.3.17 スピーチ(2006.1〜)(池田大作全集第100巻)

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1  闘争なくして善の勝利はない
 広宣流布の新しい前進のために、きょうも語り合いたい。
 リーダーが「心をい一致させていこう」「同じ責任をもっていこう」――そうやって連携を密にすることが、大きな力になる。「異体同心」を貫くならば、今の何倍も広布は進む。
 命がけの非暴力闘争を貫いた、アメリカのキング博士は述べている。
 「人間の歴史は善と悪との闘争の物語だといえる」(『汝の敵を愛せよ』蓮見博昭訳、新教出版社)
 闘争なくして、善の勝利はありえない。「仏法は勝負」――日蓮大聖人の仰せは正しい。
2  「勝利への祈り」「徽密な作戦」を
 正義を叫べば、必ず、反発がある。それを、どう打ち返し、攻勢に転じていくか。
 そのために私は、祈りに祈り、思索して、人知れず手を打ってきた。
 偉大な勝利の作戦は、『三国志』の英雄・諸葛孔明のごとく、緻密でなければならない。迅速でなければならない。それができないのは、官僚主義に陥っている証拠だ。
 中国の王維の詩に、「総大将たるもの、まず敵の謀略をくだくが最上という兵法は、あくまで御存知でいらっしゃる」(『王維詩集』小川環樹・都留春雄・入谷仙介選訳、岩波文庫)との一節があった。
 負ける側には、必ず原因がある。油断がある。死力を尽くしていないのである。
 近代インドの大思想家ヴィヴェカーナンダは叫んだ。
 「臆病者はけっして勝利を収めることはない」(大野純一編訳『普遍宗教への階梯』コスモ・ライブラリー)
 大聖人は「不惜身命」との法華経の文を何度も引いておられる。
 臆病になるな! ずるい人間になるな! そう厳しく教えられているのである。
 いじめられている民衆がいる。迫害されている「正義の人」がいる。それを見ながら、何一つ、声をあげない。これほど卑怯なことはない。
3  ″目覚めた一人″の力は偉大
 マハトマ・ガンジーの令孫、アルン・ガンジー博士は訴えた。「一人の力は偉大です。『目覚めた一人の出現』こそ、社会変革の出発点なのです」(「聖教新聞」二〇〇二年十月八日付)
 まずリーダーが目覚めることだ。幹部から革命する以外ない。
 だから私は、先頭に立って、新しい人材への訓練を開始している。私は甘ったれの幹部を残したくない。命をかけて築いてきた学会が、万が一にも傷つけられるようなことがあれば、これほどの損失はないからだ。青年は気取りを捨てることだ。今、戦わなかったら、いつ戦うのか。そう決意して立ち上がってもらいたい。
 草創の青年部は単身、法論に乗り込み、敢然と相手を打ち破った。今は恵まれている。時には幹部に車を用意してくれたり、靴をそろえてくれたり、お茶を出してくれることもあるかもしれない。しかし、勘違いしてはならない。同志の真心を当たり前と思って、ふんぞり返る者がいたら、まるで「殿様」だ。これほど愚劣な姿はない。それは、「師弟」を忘れた姿だ。
 作家の下村湖人は「偉そうな顔ほど偉くない顔はない」(『下村湖人金集』7、国土社)とつづっている。
4  報恩とそ最高の人間の道
 広宣流布の戦闘は師匠とともに進む。ここに勝利の道がある。
 第二代会長の戸田先生が、牧口初代会長に、お仕えする姿は、それはそれは厳粛であった。豪放語落なあの戸田先生が、牧口先生の前に行くと、ひれ伏しておられた。
 それを目にした人が、「これほどまでに師弟は峻厳なものか」と襟を正していた。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「恩を知ることを最高とし、恩を報ずることを第一とする」(御書491㌻、通解)
 思を知るのが人間の道であり、なかんずく仏法者の道である。
 私は今日まで、戸田先生、牧口先生に、最大にご恩返しをしてきたつもりである。
 「開目抄」には、仏弟子であるならば、必ず恩を知り、思に報いるべきであると述べられている(御書192㌻)。恩知らずには、仏弟子を名乗る資格はない。
5  師は叫ぶ。
 邪悪と戦い三類の強敵と戦い、三障四魔を引き受けて、広宣流布へ戦おうではないか!
 それと「不二の心」で弟子も立つのだ。
 大聖人は、凡夫そのままの姿で、「凡夫即仏」の極理を示された。一面から言えば、凡夫の姿であるゆえに、人々からさげすまれ、大難にもあわれた。増上慢になり、小生意気になって、反逆した愚かな弟子もいた。しかし、真実の門下は大難のときこそ、大聖人をお守りしようと、喜び勇んで戦った。
 私も、打ち続く苦難のなかで、断じて戸田先生を守りぬくのだと、猛然と阿修羅のごとく戦った。ここに、学会の世界的発展の因がある。この師弟の闘争こそ、永遠の創価の魂である。
6  戸田先生が、よく話してくださった中国の『十八史略』。そのなかに、唐の名君・太宗の言葉があった。
 「人君の心はただひとつ、しかるに、その一心をなんとかしてかき乱そうとするものは、おおぜいいる。
 勇力を誇示して自分を売りこもうとする者、弁舌巧みにいい寄ろうとする者、娼びへつらって機嫌をとろうとする者、嘘いつわりでだまくらかそうとする者、嗜欲しよく(=嗜み好むこと)につけとんで誘惑しようとする者、このように、四方八方からいろいろな人間が、それぞれ自分を売りこもうとする。
 だから、人君たるものが、少しでも気をゆるしてとれらのうちのひとりにでもつけいる隙をあたえたら最後、国はたちまちにして滅亡のせとぎわに立たされることになる」(『十八史略』4、花村豊生・丹羽隼兵訳、徳間書店)
 いわんや、広宣流布の「将の将」たる者に、いささかたりとも私利私欲があれば、多くの同志を守り、励まし、幸福にすることはできない。
 「すべて禍は上より起こるものである」(『言志四録』1、川上正光訳注、講談社)とは、江戸後期の思想家・佐藤一斎の警句である。
7  学会は永遠に善人だけで進め
 自分が先輩の立場になっても、「退く心」があってはならない。広宣流布に引退はない。最後の最後まで、わが使命を果たしぬくことだ。決して利己主義や、独りよがりになってはならない。そういう先輩のもとでは、後輩は育たない。
 中米キューバの独立の英雄、ホセ・マルティは訴えた。
 「正義を愛する心が失せ、義務などどうでもよいとなれば、勝利や栄光にかわって不名誉が跋扈し、権力は狂気と憎悪に満ちた道を歩むことになるのです」(「キューバ革命を前にした共和制スペイン」青木康征訳、『ホセ・マルティ選集』2所収、日本経済評論社)
 私どもで言えば、失ってはならないのは、「信心」である。「学会を愛する心」である。「師弟不二の魂」である。それが、「どうでもよい」となった分だけ、広宣流布は遅れる。永遠に悔いを残してしまう。断じてそうならないために、今、あえて厳しく言うのである。
 思想家の内村鑑三は「傲慢は罪悪中の罪悪である」(『内村鑑三著作集』6、岩波書店)と述べている。
 嫉妬や増上慢の心が、自分自身を破壊する。師弟に徹し、強き信心を貫くならば、乗り越えられない壁などない。
 戸田先生が「学会は、善人だけでまとめてゆくのだ。絶対に悪人を幹部にしてはならぬ」と遺言したとおり、いちだんと「正義のスクラム」を強め、勝利また勝利の前進をしてまいりたい。
 (東京牧口記念会館)

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