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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部代表者会議 創価の女性は微笑みの英雄

2006.2.27 スピーチ(2006.1〜)(池田大作全集第100巻)

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2  恩に報いて咲く花のごとく
 内村はキリスト教徒であったが、日蓮大聖人の生き方を、深く尊敬してやまなかった。
 こうも述べている。
 「草木はすべて其生命の源なる太陽に向て其枝を伸し其花を開く者である」(同著作集17、原典には傍点)
 「草木は人に見られんとて其花を開くのでない、太陽の光に引かれて、恰かも其恩に報いんがために、太陽に向て之を開くのである」(同前)
 太陽の恩に報いて野に咲く花のように、注目や喝采はなくとも、恩を感じ、恩に報いていく人生。まさに、健気な婦人部の皆さまの姿である。婦人部こそが、創価学会の土台であり、原動力である。私は、創価の母たちに、心を込めて最敬礼したい。
3  海外においても、創価の女性メンバーの活躍が、光り輝いている。
 昨日、トリノ冬季オリンピックが閉幕した。開会式も閉会式も、ルネサンスの天地イタリアにふさわしい、芸術的な演出が絶讃された。総監督のもとでとの舞台演出の責任者を務めたのは、イタリアSぎの方面女子部長である。ほかにも、多くのメンバーがボランティアなどで貢献された。
 トリノ・オリンピックの大成功を、心から祝福申し上げたい。(=名誉会長はトリノ市の名誉市民。また二〇〇六年六月一月、イタリア共和国の「功労勲章 グランデ・ウッフィチャーレ章」を受章している)
4  法華経の第一の肝心
 日蓮大聖人の門下として、雄々しく堂々と、幾多の難を勝ち越えて、「師弟勝利」の人生の劇を残した四条金吾。その金吾とともに、大聖人から「日本第一の女人なり」と讃えられたのが、夫人の日眼女である。
 この日眼女にあてられた御手紙のなかで、大聖人は法華経の一節を引かれて、「この二十二字の文は、法華経のなかでも第一の肝心であり、あらゆる人々にとっての眼目なのです」(御書1134㌻、通解)と仰せになられた。
 その重要な文とは、いったい何か。それは、薬王品の「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復た是の如く、一切衆生の中に於いて、亦た為れ第一なり(有能受持是経典者、亦復如是、於一切衆生中亦為第一)」(法華経五九六㌻)という一節である。
 是の経典――つまり、法華経を受持する人は、一切衆生のなかで第一であるとの宣言である。
 この薬王品の文を受けられ、大聖人は、こう断言なされている。
 「この世のなかで、男女僧尼を問わず、法華経を持つ人は、あらゆる人々の主であると、仏はご覧になっているでしょう。梵天・帝釈は、その人を敬うでしょう。そう思うと、うれしさは表現のしようがありません」(御書1134㌻、通解)と。
 妙法を受持し、広宣流布に進みゆく人こそが、最も尊貴で、最も重要な使命を帯びた存在なのである。
5  妙法を持つ女性は「一切衆生の中で第一」
 そのうえで、大聖人は、もう一重、深い考察を重ねられている。
 「この経文を昼も夜も考え、朝にタに読んでみると、通常思われている『法華経の行者』のことではないのです。経文に『是経典者(是の経典を受持すること有らん者)』とありますが、この『者』の文字は、『人』と読むので、この世のなかの僧や尼、男女の信仰者のなかで法華経を信じている人々のことかと思えるのですが、そうではありません」(同㌻、通解)
 それでは、「一切衆生の中で第一なり」と、法華経で断定されている存在とは、いったい、だれを指しているのか。大聖人は、こう仰せである。
 「経文の続きに、この『者』の文字について、仏が重ねて説かれているのは、『若有女人(若し女人有って)』と述べられていることです。すなわち、法華経を持つ女性について述べられているのです」(同ページ、趣意)
 つまり、「一切衆生の中で第一なり」と説かれた人とは、法華経を持つ女性であると、大聖人は明快に示しておられるのである。
 そもそも、法華経以外の諸経では、女性はどこまでも差別され、蔑視されていた。大聖人は、この御手紙のなかでも、そうした事例を、一つ一つ指摘されている。
 ある経は、女人は「地獄の使い」であると説いている。ある経は「大蛇」、ある経は「曲がった木のようなもの」、ある経は「仏種を断じた者」である、と――。
 また仏教以外の外典においても、「女性に生まれなかったことを一つの楽しみとする」など、女性への軽侮は絶えなかった。
 真実に「女人成仏」が明かされているのは、法華経だけである。
 大聖人は、この法華経の真義に立って、「妙法を持った女性」が、いかにすぐれた、尊い存在であるかを、強く訴えられたのである。大聖人は結論として、「此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたりとみえて候」と、赫々と大宣言されているのである。
6  要するに、妙法を受持した女性は、権勢をふるい、地位や名声を誇るいかなる男性たちよりも、すぐれている。法華経にのっとり、御書にのっとって、「女性が中心」であり、「女性が主役」であり、「女性が根本」なのである。
 現実に、広宣流布のため、仏意仏勅の学会のため、最も真剣に、最も勇敢に、最も誠実に、最も忍耐強く戦っておられるのは、気高き婦人部、女子部の皆さま方である。
 「一切衆生の中で第一なり」――すなわち、「全人類で第一」「全世界で第一」の存在である創価の女性に、私は、あらためて最大の尊敬と感謝を捧げたい。
7  生き生きと広布の大絵巻を
 さらに大聖人は、この御手紙のなかで、日眼女に、こう仰せである。
 「すべての人が憎むならば憎めばよい。釈迦仏・多宝仏・宇宙のあらゆる仏をはじめ、梵天・帝釈・日天・月天らにさえ、大切に思っていただけるならば、何がつらいことがあるでしょうか。
 法華経にさえ、ほめていただけるならば、何もつらいことは、ないのです」(御書1135㌻、通解)
 師匠であられる大聖人は、三障四魔、三類の強敵と戦っている日眼女と四条金吾の夫妻を、弟子として最大に信頼し、大事にしておられた。
 四条金吾が広布の表舞台で縦横無尽に活躍できたのも、夫人である日眼女の強い支えがあってのことである。そのことを、だれよりもご存じであった大聖人は、弾圧のなか、けなげな信心を貫いた夫人に心からの励ましを送っていかれたのである。
8  わが理想に生命を捧げた、有名な中国の女性革命家・秋瑾しゅうきん(一八七五年〜一九〇七年)。彼女が、こう詩につづっている。
 「この世の中には、本当の英雄と言える男性は何人いるのでしょうか。やはり女性の中から、多くの傑出した人物が出ているとよく耳にします」(鄭雲山・陳徳禾『秋瑾評伝』河南教育出版社)
 学会も、女性の、おかげで、ここまで発展してきた。婦人部、女子部の皆さん方の先輩には、広宣流布の「英雄」ともいうべき功労の方々が数多くいらっしゃる。
 妙法に生きぬき、師弟に生きぬき、どんなときも笑顔を輝かせながら、同志への励ましに徹しぬく。まさに″微笑みの英雄″と呼ぶにふさわしい方々である。
 この崇高なる志を受け継いで、生き生きと、楽しく、朗らかに、広宣流布の大絵巻を、さらに鮮やかに描いていっていただきたい。
9  「邪悪な人からの非難は最高の賛辞」
 イギリスのシェークスピアは喝破した。「嫉妬をする人はわけがあるから疑うんじゃないんです、疑い深いから疑うのです」(『オセロウ』菅泰男訳、岩波文庫)
 ドイツの哲人カントは言う。「これ(=嫉妬)は極度に厭わしい」「(=嫉妬の人は)この全世界から幸福を根こそぎにしようと欲する」(『コリンズ道徳哲学』御子柴善之訳、『カント全集』鈎所収、岩波書店)
 ″ウクライナのソクラテス″と謳われる哲学者スコヴォロダは、さらに痛烈である。
 「下劣な人間とは、次のような性質をいう。野心、保身、短気、そして、そのなかでも最悪なのが、うそつきと嫉妬である」(Э.Борохов, Энциклопедия афоризмов 〈мысль в слове〉, АСТ.)
 「嫉妬」の人は、すぐれた相手を見て、その人の境涯に自分を高めようとするのではなく、相手を高みから引きずり降ろそうとする。この不毛な「勝他の念」が嫉妬の本質である。しかし、逆に言えば、嫉妬するということは、内心では「相手は自分よりすぐれている」と気づいているのである。ゆえに、卑しい嫉妬の輩に、どのように悪口されようと、″風の前の塵″と思えばよい。
 「良い時も悪い時も、忘れてはならない。邪悪な人からの非難は、最高の讃辞であることを」(Jorge Sintes Pros, Diccionario de Frases Celebres, Editional Sintes, S.A.)
 これは、十九世紀スペインの女性作家で、人権活動家であったコンセプシオン・アレナルの言葉である。
 私が対談した歴史家のトインビー博士は、「いつの世でも、人間の最悪の敵は人間である」(『東から西へ』長谷川松治訳、『トインビー著作集』7所収、社会思想社)と達観しておられた。″だれが何と言おうが、日蓮大聖人がほめてくださればよい″――こう決めて、堂々と、悠々と進んでいくことだ。
 それこそが、最高無上の栄誉であり、永遠不滅の福徳となっていくからである。
 嫉妬の誹謗に動揺し、世間の評判に右往左往する惰弱な心では、広宣流布の戦いを進めることはできない。戦いは、見栄や気どりがあっては勝てない。婦人部の皆さま方の、一切の毀誉褒貶を超えた、何があっても微動だにしない信心。その力で、学会は勝ってきた。男性幹部は、心の底から、それを分からねばならない。
10  キング博士「勇気は前進、臆病は敗北」
 今、世界の各地から、「ガンジー・キング・イケダ――平和建設の遺産」展に、反響の声が寄せられている。
 この展示を発案され、推進してくださっているのは、キング博士の母校・米モアハウス大学キング国際チャペルのカーター所長である。あらためて感謝申し上げたい。
 (=アメリカ・ネパダ州リノ市では、同展の開催を記念して、二月八日を「ダイサク・イケダ地域建設の日」と宣言。ロバート・カシェル市長から、アメリカSGIの代表に宣言書が贈られた。そこには、こうつづられている。「マハトマ・ガンジー、マーチン・ルーサー・キング博士、そして池田大作博士の人生が示すもの。それは、平和とは静かなる沈黙の産物ではなく、むしろ″すべての人々、地域のために″との社会貢献の精神に貫かれた、活力と生気みなぎる生命活動によって築かれる――ということです」)
 人権の闘士・キング博士は、叫んだ。
 「勇気と臆病は対照をなす。勇気は、いろいろな障害や恐るべき状況にもかかわらず前進するという内面的決断であり、臆病は環境に対する屈従的な降伏である」(『汝の敵を愛せよ』蓮見博昭訳、新教出版社)
11  女性指導者が青年を牽引した人権闘争
 キング博士が指揮した公民権運動。それは人間の尊厳を勝ち取る、非暴力の戦いであった。
 一九五五年、私たちの忘れ得ぬ友人であるローザ・パークスさんの勇気の行動が、「バス・ボイコット運動」の口火を切った。だが公民権運動は一進一退。反発は根深かった。
 一九六〇年、今度は「シット・イン運動」(飲食庖にある白人専用の席に座り込み、立ち退きを拒否する非暴力の直接抗議行動)が始まった。ノースカロライナ州のグリーンズボロの学生が立ち上がり、またたくまにアメリカ南部全体に広がった。青年の「勇気」が、「正義の情熱」が、厚い偏見の壁を打ち破っていった。この青年たちの自発的な力を大切にしながら、若き彼らを牽引したのが、一人の円熟の女性指導者であったことは、知る人ぞ知る歴史といってよい。
 そのリーダーは、エラ・ベイカーさん。当時、六十歳に近かった。彼女は、第二次世界大戦の前から人権闘争に身を捧げてきた、不屈の女性であった。地道に南部各地をまわり、粘り強く、地域社会の指導者を育成してきた。彼女に寄せられる若い世代からの信頼は、抜群であった。
12  母の行動とそが勇気の太陽
 新しい世紀を創るものは、青年の「熱」と「力」である。そして、その熱と力を呼び起こしていく「太陽」こそ、勇気の母たちの、たゆみない行動なのである。
 じつは、「人権の母」ローザ・パークスさんも、このベイカーさんのもとに集い、教えを受けた一人であった。パークスさんも、人権闘争に脈打つ「青年を愛する心」を、そのまま受け継いでいかれた。パークスさんは語っておられた。
 「私は、青年と子供を見ると、気力と活力が湧きます」
 「子供は私たちの未来です。私たちが公民権運動で変えてきたことを活かしつづけようとするならば、彼らこそがその担い手になっていかなければなりません」(『勇気と希望』高橋朋子訳、サイマル出版会)
 同じように、創価の運動を発展させゆくためには、青年部、未来部を伸ばす以外にない。婦人部の皆さまには、青年部、未来部の激励、なかんずく女子部の応援と薫陶を、今後もよろしくお願いします。また、この席をお借りして、青年部教学試験一級にあたり、研鑽の応援や採点の役員など、陰で支えてくださった婦人部、壮年部の方々に、心から御礼を申し上げたい。
13  エレノア・ルーズベルトの人間学
 先日(二月一日)、私が創立した平和研究機関「ボストン二十一世紀センター」(現・池田国際対話センター)が「女性講演会」を開催した。全米随一の女子大学であるウェルズリー大学の「ウェルズリー女性センター」との共催で、これで五回目となる。
 (=同大学に本部を置く、全米三百五十大学のネットワーク「教育変革プロジェクト」からは、名誉会長に、第一号の「教育変革貢献賞」が贈られている)
 今回のテーマは、アメリカの社会運動家エレノア・ルーズベルトの事績であった。
 彼女は「世界人権宣言」の起草者でもある。文化も思想も異なる、世界各国の代表が集い合った委員会のなかで、彼女が中心となって、「世界人権宣言」の草案の取りまとめに成功した。
 人権宣言の審議に参加されたブラジルの人権の闘士・アタイデ博士も、私との対談で、彼女の「不眠不休の努力」を最大に讃えておられた。
14  協力と尊敬が力を倍加
 エレノア・ルーズベルトは、リーダーがか人と力を合わせることの重要性を、繰り返し強調している。歴史上の偉大な人物でさえ、多くの人々の協力がなければ仕事を完成できなかったのだ――と。
 彼女は言った。
 「世の中には一人でできることが比較的少ない」
 「だからこそ、個性を伸ばすことと並んで、他人と協力するととも同じくらい大切なこととなるわけで、また、そのためには、他人について学ぶことがぜひ必要になってくるし、他人とのつき合いの中から最善を引出すことも学ばなければならなくなってくる。文明社会のあらゆる人間関係の基となっているのは、相互の尊敬である」(『生きる姿勢について』佐藤佐智子・伊藤ゆり子訳、大和書房)
 まさしく、創価学会婦人部の実践である。皆、「桜梅桃李」で、個性が光っている。そうした一人一人のことをよく知ろう。一番いいものを引き出そう――それがリーダーの役目と言えよう。大事なのは、「相互の尊敬」があるかどうかである。
 わが婦人部に、おいては、皆が偉大な使命の同志であり、一切、平等である。たがいに「仏を敬うが如く」尊敬しあい、「異体同心」で力を合わせてきた。だから、世界一のうるわしいスクラムが築かれたのである。
15  皆の心を希望で潤せ
 エレノア・ルーズベルトは語っている。
 「個人として認められたい気持はだれにでもあって、これを無視してはならない。自分がだれとも判ってもらえないとき、人は根なし草のような気分となる」(同前)
 わが婦人部には、広宣流布の第一線で、そして社会の第一線で、人知れず戦い、努力を続けている尊き同志の方々が大勢おられる。その一人一人に心から感謝し、ねぎらいの声をかけ、励ましていっていただきたい。
 私は、若き日から、その一点に徹しぬいてきた。きょうは懐かしい文京支部出身の友も参加しておられるが、私は、労苦を分かち合って、ともに戦ってくれた方々を絶対に忘れない。
 ともあれ、「あの人は、自分を分かってくれている」との信頼があるところ、何倍もの力がわいてくる。それが、世界史に残る女性リーダーの結論でもある。どうか、創価の女性の草の根の対話で、現代社会の渇ききった心の砂漠を潤し、「希望のオアシス」を広げていっていただきたい。
16  空襲で焼け残った「ひな人形」
 ひな人形を見ると、思い出すことがある。
 戦争中、私の家は四人の兄が兵隊に取られ、働き手を皆、失ってしまった。子どもたちがいなくなり、父はがっくりしていた。そして、大好きだった長兄はビルマ(現在のミャンマー)で戦死。母は、どれほど悲しんだか。それも、戦死の公報が来るまで二年間くらい、その事実が分からなかった。戦争は、本当に憎らしい。
17  最初に住んでいた家は入手に渡り、そこには軍需工場が立った。同じ蒲田の椛谷二丁目(現在の大田区内)に移り、立派な家を建てた。しかし、その家も昭和二十年(一九四五年)の春には、空襲による類焼を防ぐために強制疎開させられ、取り壊されてしまった。本当に残念だった。
 疎開先は馬込だった。母の妹の家があったところで、東京といっても周りは畑が多く、当時は田舎だった。そこに建て増しをして、住むことになったのである。
 しかし、ようやく家具などを運び終え、明日からは皆で暮らせるという夜に、空襲があった。
 私たちは、裏山にある防空壕に逃げた。本当に恐ろしい状況だった。あんな空襲のなかでは、勇ましさとか、勇気とか、そんなことは言えない。それが現実だった。
 やがて焼夷弾が命中して、家は燃えてしまった。吹きあげる火の中で、私は弟と一緒に、必死になって荷物を持ち出そうとした。しかし、ようやく運び出せたのは、保険の書類や通帳などが入った大事なカバンと、大きな長持ち一つだけだった。あとは皆、燃えてしまった。
 翌朝、長持ちを開けてみると、中から出てきたのは、ひな人形であった。家族にとって、残ったのは、このおひなさまだけだった。
 それでも母は、「このおひなさまが飾れるような家に、きっと住めるようになるよ」と明るく語り、皆を励ましてくれた。
18  永遠に戦火なき世界を
 戦争がなければ、どれほど良かったか。戦争のせいで、幸福だった家庭が、どれほど不幸になったか。これからという秀才が、未来の大指導者が、どれほど死んだり殺されたりしたか。
 本当に戦争は良くない。戦争ほど悲惨なものはない。多くの人は、もう戦争の残酷さを知らないかもしれない。空襲警報の音を聞いたこともないだろう。
 しかし、未来のためにも、戦争の悲惨さを絶対に忘れてはならない。平和の尊さを訴え続けなければならない。
19  「平和の文化」を広げゆく婦人部
 現在、女性平和委員会主催の「平和の文化フォーラム」が各地で開催され、大きな共感を広げている。各界から反響が寄せられるなか、国連のチョウドリ事務次長も、このフォーラムの成功を心から喜んでくださっている。
 チョウドリ事務次長は、「平和の文化」の理念を、国連で推進してきた方である。
 事務次長は″平和の文化)″の意義にふれ、かつて次のように語っておられた。
 「人生というものは、自分の手を必要としている人たちに手を差し伸べたときに、初めて価値を生むのではないでしょうか。手を差し伸べて一緒になって対話をする。そとから平和は、始まるのです」
 「女性は″平和の文化″を構築するために、さらには紛争の平和的解決を促進するためにも、大きな貢献ができるし、実際にできていると思います。何より社会のなかで対話というものを広げていくうえで大きな役割を果たしています」
 さらに、チョウドリ事務次長は、女性に期待する理由を、こう語っておられた。
 「女性が平和のプロセスにかかわると、より広い視野で社会を考えることができるということを何度も経験してきました。それは女性が本来的に平和を求めている存在だからだろうと思います。
 自分の子どもや孫たちが、平和な社会で育ってくれるように、一心に希望するからなのでしょう」(以上、鳥飼新市編著『世界の識者が語る池田大作』潮出版社)
 そして、事務次長が「平和への運動に対して、非常に情熱をもっておられる、すばらしい女性たち」と賞讃を惜しまないのが、創価の婦人部なのである。
 「平和の文化」を広げゆく、わが婦人部の対話運動は、国連の理念とも一致して、時代の最先端を切り開いていることを、誇りとしていただきたい。
20  女性教育の先駆者・津田梅子
 きょうは、首都圏の婦人部の代表が参加しておられる。そこで、東京・神奈川・関東にもゆかりのある、女性の師弟の物語を紹介しておきたい。
 それは近代日本の女性教育・英語教育の先覚者であり、津田塾大学の創立者であった津田梅子先生と、星野あい初代学長をはじめとする、愛弟子の方々である。
 津田先生は一八七一年(明治四年)、「岩倉使節団」とともに、日本初の女子留学生の一人として渡米した。二度のアメリカ留学を経て、彼女は、日本の女性の地位向上のために尽力することを決意し、帰国する。
 彼女は強く主張した。人類の半分は女性である。その女性の地位が向上し、すぐれた教育を受けられなければ、国際社会で日本が真に重要な地位を得ることはできない。また、日本の真の発展もない。女性は、社会に貢献する力となるべきだ、と。
 明治維新から問もない、十九世紀末のことである。
 そして一九〇〇年、私立の女性教育の先駆である「女子英学塾」を創設した。三十代半ばの若さであった。ほぼ同じ時期に、創価教育の父・牧口常三郎先生が、女性教育に取り組んでおられたことも、よく知られている。
 「女子英学塾」は、生徒数わずか十人から出発した。小さな日本家屋を借りて校舎とした。
 津田先生は、創立から五年後に回想している。
 「規模そのものは価値の基準には全くなりません。私たちは小さな始まりに誇りを持っていますし、今もなお小さな学校であることに同じように誇りを感じています」(古木宣志子『人と思想116 津田梅子』清水書院)
 開校式の式辞で津田先生は、次のように語った。
 「人々の心や気質はその顔の違うように違っています。従ってその教授や訓練は、一人一人の特質にしっくりあてはまるように仕向けなくてはなりません。多人数では無理が出来ます。だから私は真の教育をするには結局小人数に限ると思います」(『津田梅子文書』津田塾大学)
 人間を育てるには、「一人の人間」に対する、真剣で誠実な人格の啓発以外にない。
 広宣流布という壮大なる人間教育運動にあっても、一人一人を大切に励まし、人材を育成できるのは、支部であり、地区であり、ブロックである。そして「一人」を育てることが、「百人」にも「千人」にも通ずるのである。
21  「師匠からの信頼」こそ最大の恩
 津田先生は、交流のあったへレン・ケラーの生涯を通して、「熱心があれば、鉄の扉も射通し、誠実があれば石も叫ぶ」(同前)と語り残している。
 彼女の努力は実を結び、塾は大きく飛躍していく。
 しかし、創立二十周年(一九二〇年)を前に、津田先生は病床に伏すようになる。彼女にとって、女性への高等教育の充実は、依然として遅れていた。まだまだ、やらねばならないことが残っていた。
 その彼女が、「塾のことはよろしく頼む」と信頼し、託したのが、弟子の星野あい先生であった。(星野あい『伝記叢書79 小伝』大空社)
 星野先生は、津田先生亡きあと、塾を大学にしたいとの恩師の望みを受け継ぎ、第二代塾長に就任する。(一九二九年)
 やがて時代は、偏狭な国家主義、軍国主義の狂気、そして戦争へと突入していった。英語が「敵性語」とされた時代である。全国の高等女学校の英語科は、全廃に近い状態となっていった。荒れ狂う怒濤のなかで、後継の弟子・星野塾長は、悪夢の連続のような苦闘を続ける。師の学校を守りぬく。そして、敗戦後の一九四八年、ついに思師の夢であった「津田塾大学」が設立されたのである。(飯野正子・亀田島子・高橋裕子編『津田悔子を支えた人びと』津間塾大学、参照)
 初代学長となった星野先生の強靭な信念と行動を支えていたのは、師・津田先生への報恩の一念であった。星野先生は、終生、師匠の恩を忘れなかった。のちに彼女は、こう述べている。
 「津田先生からわたしが受けましたご恩義の数々はいまさらことにしるすまでもないことですが、何よりも大きなことは、先生がわたしを信頼し、ご自分がおつくりになった大事な学校の後事をお託し下さったことであると思います」(前掲『小伝』)
 師匠の信頼こそ、自分が受けた最大の恩だったというのである。恩を知り、信義を知る人の心は美しい。師匠の信頼に断じて応えるのが、真の弟子の道である。弟子の使命と栄光は、師匠の構想を実現しゆくなかにある。
 星野先生の遺言には、こう記されていた。
 「津田梅子先生に見出されて海外に学び、母校に勤務することになり、四〇年に亘る一生を母校と一緒にふつつかながら過ごすことが出来たことはほんとうにありがたいことで深い深い感謝があるのみである」(上田明子「星野あい」、前掲『津田梅子を支えた人びと』所収)
 師の理想に生涯を捧げて、「深い深い感謝があるのみ」――。
 師弟に生きぬく人生は、人間としての極致の、荘厳な光を放つ。自分の利害や地位ばかりにとらわれた人間の眼には、決して分かろうはずがない。
 なお、婦人部・女子部でも、名門・津田塾大学の出身者が大いに活躍していることは、うれしい限りである。
22  トルストイの魂を継承した娘アレクサンドラ
 創価学会が創立された一九三〇年を中心に、ロシアの文豪トルストイの「魂の後継者」と呼ばれた一人の信念の女性が、東京、関西、関東をはじめ、日本の各地を訪れた。
 その女性とは、トルストイの愛娘アレクサンドラである。(Александра Толстая, Дочь, ВАГРИУС.以下、同書から引用・参照)
 トルストイの死後、革命によって、ロシアには無神論を掲げる共産党政権が誕生した。
 トルストイの教えを守り、敬虞な信仰と非暴力主義を貫くアレクサンドラは、さまざまな圧迫を受けた。新聞にはデマの中傷記事を書かれた。投獄もされた。
 しかし、獄中にあっても、アレクサンドラは囚人のための「学校」を聞き、囚人への教育・啓蒙活動を展開した。
 彼女は、どんな迫害にも、決して屈しなかった。父の理想と信念を抱きしめて生きぬいた。
 のちに彼女は、日本への滞在を経て、アメリカへ渡った。アメリカで、ある刑務所を訪問したさいには、ロシアの青年が、投獄された五年間を利用して大学の卒業資格を取ったことにふれ、若い囚人を励ましている。
 「人生でつまずくことだってあります。転ぶことだってあるでしょう」
 「でも、きっと立ち上がって、今度はつまずかないように、しっかりと歩いていくことができるはずよ。今の時を活用するのです」
 どんな状況でも絶望しない。否、困難のなかでこそ、新たな価値を創造していくのだ――これが彼女の生き方であった。
23  どんな相手にも朗らかにあいさつ
 ロシアでアレクサンドラが収容された牢獄で、一人の女性が働いていた。
 その女性は、無愛想で、目も合わせず、冷たい態度であった。食事やお茶、掃除用のバケツも、毎日、乱暴に置いては、乱暴に片づけていった。その人は、看守や刑務所長よりも、怖い存在であった。
 ある朝、アレクサンドラは、思いきって、「こんにちは!」と声をかけた。
 その女性は、驚いた表情で一瞥したが、何も返事はなかった。
 以後、来る日も来る日も、アレクサンドラは、粘り強くあいさつを続けた。囚人たちは「無駄な努力だ」と言っていた。
 しかし、ある朝、「こんにちは。きょうはどんな天気ですか」と、親しみを込めて話しかけると、思いもかけず「こんにちは」との返事が返ってきた。その後も、アレクサンドラは、誠実に、相手の心を開いていったのである。
24  次元は異なるが、私が初めてソ連を訪問したときのことである。
 クレムリン宮殿のすぐそばにある宿舎には、各階ごとに鍵を預かる当番がついていた。
 私たちのフロアの担当は、中年の婦人で、最初はまったく無愛想であった。しかし、私の妻は、彼女とすれ違うたびに、微笑みかけ、あいさつの声をかけていった。
 その婦人は最初は戸惑った様子であった。だが、私たちが笑顔のあいさつを繰り返すうちに、やがて笑顔を返してくれるようになった。そして、心を開いて言葉を交わすようになったのである。
 彼女は、夫を第二次世界大戦で亡くした体験も話してくれた。
 妻は、少女時代に牧口先生と出会いを結んだ、いわば″未来部一期生″であり、戸田先生の直々の薫陶を受けた″女子部一期生″である。創価の女性の代表として、妻は微笑みの平和外交を繰り広げてきたのである。
25  名画のごとき人生を創る「心」
 ソ連での私たち夫婦の懐かしい友人の一人に、ナターリヤ・サーツさんがいる。ソ連国立モスクワ児童音楽劇場の総裁を務めた方である。
 サーツさんは、スターリンの粛正によって、夫を銃殺された。
 自身も冤罪によって、シベリアなどに五年間、流刑された。しかし、サーツさんは、収容所のなかにあっても、くじけなかった。そこで即席の劇団をつくって、芸術の創造を続けたのである。
 仏法では「心は工なる画師の如し」と説く。「心」一つで、名画のごとき人生を、いくらでも創りあげていける。豊かな人生を描いていくことができるのである。
 たとえば、年を取っても、心まで老け込んでしまってはいけない。胸を張り、「生涯青春」の心意気で生きぬいていくことだ。そう決めていけば、本当に年齢を忘れるくらいの、生き生きとした毎日を送っていくことができるのである。
26  「人材群を育てた」と胸張る歴史を
 さて、アレクサンドラは、「宗教は阿片」とされた当時のロシアにあって、多くの子どもたちに、父・トルストイの平和と人道の宗教的信念を語っていった。圧迫を恐れて黙っていては、一番大事な、父の信念を伝えることはできない――これが彼女の決心であった。
 アレクサンドラは、トルストイの生前、ずっと父のそばにいて、多くの弟子たちの姿を見つめてきた。師匠トルストイの死後、ある弟子は、師の教えに背くようになった。その人は虚栄心が強く、冷淡で、傲慢な人物であった。また、同じように師の教えに背いたある弟子に対して、彼女は「父の遺訓を踏みにじっているではないか!」と厳しく追及していったのである。
 これまで、戸田先生の弟子のなかからも、反逆者や退転者が出た。皆、もっともらしい理由をつけながら、自己の保身のため、私利私欲のために同志を裏切っていった。
 もしも将来、こうした卑劣な人間が出たならば、手厳しく糾弾することだ。断固として戦い、打ち砕くのだ。そうであってこそ、創価の「師弟の魂」は正しく継承される。
 組織は上から腐る。大切なのは幹部自身が変わることだ。また、上が変わらなければ学会の前進はない。いつも、ツンとしている。笑顔がない。格好はつけるが、敵とは戦わない。新しい人材も育てられない――こんな幹部では、かえって広宣流布を妨げる存在となってしまう。信心と闘争心を忘れてはならない。
 自分がリーダーの時代に、「これだけの人材を育てた」と胸を張れる歴史を残すことだ。雲霞のごとく、人材が集まる。そして各界に躍り出る。そうしていくのがリーダーの責務である。
 ますます婦人部が大切である。どうか婦人部の皆さまが団結し、堂々と正義の声をあげ、正しき師弟の軌道を永遠に護りぬいていただきたい。
 一緒に戦おう! 未来の学会のために! 広宣流布のために!
 今こそ、将来への確固たる土台を築きあげる時なのである。
27  トルストイは述べている。「互いに虚偽で結びついた人々は、一つに固まった集団となる。この集団の結合こそが、世界の悪である。人類の良識ある活動はすべて、この虚偽の結合を断ち切ることにある」(Полное собрание сочинений, Том23, Художественная литература.)
 「真実というものは、真実の行いによってのみ、人々に伝えることができる。真実の行いのみが、一人一人の意識に光を注ぎ、虚偽の結合を断ち切り、虚偽の結合で結びついた集団から人々を、次から次へと解放することができる」(同前)
 人々を、虚偽の鎖から解き放たねばならない。
28  「真実の宝剣」を掲げて進め
 徹して真実を叫びぬくことだ。嘘を打ち破っていくことだ。仏法では、口によって生じる悪として、「妄語(偽りの言葉)」、「綺語(真実に背いて巧みに飾り立てた言葉)」、「悪口」、「両舌(二枚舌)」を挙げている。
 日蓮大聖人は、「日妙聖人御書」のなかで、法華経に対するならば一切経は妄語であり、綺語であり、悪口であり、両舌のようなものであると仰せである。そして、鎌倉からはるばる佐渡まで大聖人を訪ねてきた日妙聖人を讃え、こう仰せである。
 「実語(真実の言葉)の法華経は正直の者が信じ会得できるのである。今、あなたは実語の女性でいらっしゃるのであろう」(御書1217㌻、通解)
 最高の真実の法である妙法を持ち、尊き求道の心に生きぬく婦人部の皆さまを、大聖人が最大に讃嘆されることは間違いない。どうか「真実の宝剣」を堂々と掲げ、一切の嘘を打ち破りながら、痛快に前進していっていただきたい。
29  今いるところが「幸福の都」
 さらに、御聖訓を拝したい。
 「私たちが住んで、法華経を修行する所は、どんな所であれ、常寂光の都(仏が住む国土)となるであろう。私たちの弟子檀那となる人は、一歩も歩むことなくして、天竺(インド)の霊鷲山(仏が住して法華経を説いたところ)を見、本有の(永遠存在する)寂光土へ昼夜に往復されるのである」(御書1343㌻、通解)
 今、戦っている、その場所で、「平和の文化」の都を築きあげていくことだ。また、必ず築いていけるのである。この思想、この行動に、世界宗教の最も進んだ、最も理想的な姿があると、多く知性が刮目している。
 大聖人は、熱原の法難で外護の戦いをした南条時光に対して、こう、おっしゃっている。
 「しばらく苦しみが続いたとしても、最後には必ず楽しい境涯になる。たとえば、国王のたった一人の王子のようなものである。どうして国王の位につかないことがあるだろうかと、確信していきなさい」(御書1565㌻、通解)
 大聖人は、つねに「一人の生命」「一人の幸福」を根本にされ、徹底して勇気と希望を送られた。
 ゆえに学会も、まったく同じ軌道を歩む。信心を貫いた人が、最後には必ず勝つ。それを証明していくのが「人間革命」の大道である。
30  大聖人は、南条時光の母に対して、彼女が息子(時光の弟)を亡くした直後に、こうつづられている。
 「悲母がわが子を恋しく思われるならば、南無妙法蓮華経と唱えられて、亡き夫君の南条殿と御子息の五郎殿と、同じ所に生まれようと願っていかれなさい。一つの種は一つの種であり、別の種は別の種です。同じ妙法蓮華経の種を心に孕まれるならば、同じ妙法蓮華経の国へお生まれになるでしょう。父と母と子の三人が顔を合わせられる時、そのお悦びはいかばかりで、どれほどうれしく思われることでしょう」(御書1570㌻、通解)
 これは、仏法の本質であり、非常に大事な一節である。皆、三世の生命観といっても、なかなか信じることはできない。ゆえに、何度も拝してきた御聖訓であるが、あえて紹介しておきたいのである。
 この御文にもあるように、彼女は、夫にも先立たれていた。南無妙法蓮華経と唱えぬいていけば、必ず、愛する夫とわが子と一緒に、生まれることができるのですよ!――大聖人は、渾身の励ましを送られた。
 かけがえのない存在を亡くす。それは言葉にできない悲しみである。残念であり、無念である。しかし、この御書の一節を疑ってはならない。何があろうとも、必ず善い方向へ、皆を幸福にする方向へ、意味のある方向へと進んでいける。その根本の力が、大聖人の題目には厳然と具わっている。その力を、現実に引き出していくのが、私たちの信心なのである。
31  苦悩は、人間にとって偉大な師
 最後に、十九世紀スペインの人権活動家であるコンセプシオン・アレナルの言葉を贈りたい。
 「苦悩は人間にとって偉大な師である。時には涙を流し、またある時には涙を拭うことにも尊い教訓がある」(Concepcion Arenal : Obras Completas, Tomo 1, Atlas.)
 「悪はいつまで続くのであろうか。われわれがやるべきことをやり、信念に基づいた行動があれば、悪を断ち切ることが出来るのである。力を合わせれば、一時的な悪を永続的な善に変えられることもある」
 季節の変わり目であり、健康には十分、気をつけていただきたい。
 きょう二月二十七日は、「アメリカ婦人部の日」であり、「ブラジル婦人部の日」でもある。
 妻とともに、全国、全世界の婦人部の皆さまの健康と幸福、栄光と勝利を、心の底から祈りに祈りつつ、記念のスピーチとしたい。
 皆さんが勝利者となり、きょうから明日へ、未来へと進んでいけるように、懸命に、お題目を送ります。長時間、ありがとう!
 (東京・信濃文化センター)

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