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日蓮大聖人・池田大作

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第二総東京代表協議 先手は必勝、後手は敗北

2006.2.20 スピーチ(2006.1〜)(池田大作全集第100巻)

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1  一日一日が真剣勝負
 一日一日が、勉強である。一日一日が、改革である。
 一日一日が、人間革命である。一日一日が、真剣勝負である。
 リーダーはつねに情報を共有し、意見を交換しながら、良き智慧を出し合い、的確な改革の布石を打ってまいりたい。
 イギリスの歴史学者トイン博士は語っている。
 「変革の必然性に対処する建設的な方法は、変革がぬきさしならなくなってくる以前に、自発的に変革を行うことである。われわれが行動を起すのが早ければ早いほど、われわれの洗濯の範囲は広くなるだろう」(『徳川幕府と平和への教訓』戸田基訳、「中央公論」一九六二年七月号)
 大事なことは、「先手」を打つことだ。手を打つべきときに、手を打たないことを、「後手」という。「後手は敗北」「先手は必勝」である。とくに現代社会は、変化のスピードがどんどん早まっている。ゆえに、指導者が安閑としていては、時代に取り残されてしまう。
 インドの大詩人タゴールは言った。
 「頭を働かせない者は、わずかな変化をも受けつけない固定化した習慣になじんでしまうものである」(「自治への闘い」森本達雄訳、『タゴール著作集』8所収、第三一文明社)
 つねに頭脳を回転させて、斬新な発想をしながら進むことだ。硬直した慣習は一つ一つ見直して、柔軟に変化させ、日々、生き生きと脱皮していくことだ。
2  生涯、広布の最前線に
 学会は広宣流布のための「折伏の団体」である。どこまでいっても弘教・拡大が根本である。平和・文化・教育などの各分野で活躍するリーダーも、この根本を忘れてはいけない。
 地道に拡大を進める広布の現場から離れてはいけない。それでは偉大な功徳は出ない。折伏精神を失い、見栄ばかり張って、要領を使うようになると、やがて信心がおかしくなってしまう。生涯、広布の最前線に立つことだ。
 六十代、七十代になっても、「こういう自分になろう!」と目標をもち、生き生きと、同志とともに進む。組織の現場に入り、ともに苦労し、ともに弘教に取り組んでいく。
 そこに永遠の功徳がわく。信心の大きな喜びがあるのである。
3  師子のごとく堂々たる大前進
 日蓮大聖人は、仰せになられた。
 「師子の声には一切の獣・声を失ふ
 「日天東に出でぬれば万星の光は跡形もなし
 師子のごとく堂々と、そして、旭日のごとく赫々たる、第二総東京の勝利、勝利の大前進を讃えたい。本当におめでとう!
 見事な歴史を残してくださいました。各区のうるわしい団結があったことも、全部、分かっております。尊いご健闘を、心からねぎらい、感謝申し上げたい。
4  第二総東京は拡大の電源地たれ
 フランスの信念の文豪ロマン・ロランはつづっている。
 「年齢とともに進歩し、別のものに、より偉大なものになるように不断の努力によって、自己の真の進歩をみるのです。どの年齢にも、その務めがあります!」(『クレランボー』宮本正清訳、『ロマン・ロラン全集』5所収、みすず書房)
 個人も、団体も、一年また一年、堅実に前進し、発展の年輪を刻んでいかねばならない。
 そのために、どこに力を入れ、どこを伸ばしていけばよいか。その新たな飛躍のためのフロンティア――開拓の最前線を、明確に見定めていくことが大事となる。
 植物にも、「生長点」と呼ばれる組織がある。すなわち、根や茎の先端部にあって、次々に細胞分裂を繰り返し、新しい細胞をつくり出している場所である。
 大宇宙にも、新しい星が続々と誕生していく際立った星雲がある。
 次元は異なるが、広宣流布の組織においても新たな人材がきら星のごとく光り輝いていく拡大の電源地がある。否、その電源地をつくり出していかねばならない。
 私は、その希望の天地を、ここ「第二総東京」と定めたのである。
 私は、この第二総東京を揺るぎなく確立するために、決然として、立川文化会館へ向かった。そして指揮を執り始めた。
 昭和五十二年(一九七七年)の師走、十一一月二十三日の開館記念勤行会に出席して以来、幾たびとなく足を運んだ。
 本部にいては、分からない。まず動くことだ! まず語ることだ!
 そして、この前途洋々たる第二総東京の未来構想を広げていきたい。
 すばらしい第二総東京を隆々と栄えさせていきたい――こう強く深く、私は決心していた。
 ここ第二総東京には、非常に優秀な人材が多い。そしてまた、まれに見る仲のよい異体同心の団結がある。
 「ここに二十一世紀の広宣流布の新たな大城を!」「ここに二十一世紀の教育と文化の大拠点を!」と、私は展望しながら、盤石な基礎を築きあげていったのである。
 その私の真情を知る人は、少なかった。しかし、私は第二総東京の大建設を断行したのだ。
 私が還暦(六十歳)を迎えたとき、九十三歳の松下幸之助氏が、「もうひとつ〈創価学会〉をお作りになられる位の心意気で」との心温まる祝詞を寄せてくださったことがある。
 私にとって、まさしく第二総東京の建設は、第二の創価学会をつくる決心での大事業であったことは間違いない。
5  世界が仰ぎ見る大城
 うれしいことに、今や第二総東京は、東京二十三区とともに、日本中、世界中が仰ぎ見る、すばらしき大城となった。
 ここ八王子も、創価大学が誕生した当時と比べて、人口が倍増している。まさに隔世の感を覚える。社会的にも、さらに大発展しゆく要因が満ち満ちている。
 新しく完成した八王子の歌「世界の宝 創価城」に、「今 前進の八王子」と高らかに歌われているとおり、伸びゆく青年の情熱にあふれでいる。
 大聖人は、「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」と仰せになられた。
 創価学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊は、厳然と、ここ東京牧口記念会館に御安置されている。
 この偉大な使命を帯びた第二総東京から、次の五十年へ「大法弘通」そして「慈折広宣流布」の新たな大波が広がりゆくことを、私は確信してやまない。
 ともあれ、自分自身の人生においても、自分たちの組織においても、現状に満足することなく、つねに″もう一つの大城″″第二の大城″をつくりあげていく気概をもって、大発展の歴史を残していきたいものである。
6  師弟に生き抜く人生――横山大観
 八王子から見る、白雪の富士は美しい。
 富士を数多く描いた、近代日本画の大家に、「横山大観」(一八六八年〜一九五八年)がいる。私も東京富士美術館で大観の富士の名画を鑑賞したことを思い出す。
 「富士」は「不二」とも書かれる。
 「師弟の関係というものは、まことに美しいものです」(『大観画談』日本図書センター)
 横山大観は、この言葉そのままに、美しき不二なる師弟の道を生きぬいた一人である。
 大観が終生、敬愛し続けた師匠とは、近代日本美術の父と謳われる「岡倉天心」(一八六二年〜一九一三年)である。
 青春時代、天心の著作に親しんだことは、私にとって懐かしい思い出だ。天心とタゴールの深き交友も有名である。
 天心は、みずから創設にかかわった東京美術学校(現・東京芸術大学の母体の一つ)の校長を務め、大観をはじめとする幾多の逸材を薫陶していた。ところが、ある事件をきっかけに、精魂をかたむけた美術学校の校長を辞職せざるをえなくなった。
 天心が校長の職を追われようとした時、決然と抗議に立ち上がったのが、大観ら弟子たちであった。弟子の教員たちは辞表を提出し、連名で声明書を発表した。その趣旨は、次のようなものであった。
 ――人身攻撃をもって岡倉先生を排斥した行動は、じつに恥ずべきことである。そもそも、岡倉先生は、長く美術教育に尽力してこられた。この美術学校も、先生が創設に奔走されたのである。
 その先生の労苦と功績を忘れ、不当な罪、人身攻撃を理由に、校長職を奪うとは!
 ならば、先生の恩を受けた者が、この不正を傍観し、学校の職に留まることはできない――
 そして、多くの弟子たちが実際に、職を辞したのである。(木下長宏『岡倉天心』ミネルヴァ書房、参照)
 どこまでも、恩ある師匠とともに――弟子・大観の心は決まっていた。
 私には、牧口先生が時の権力者の横暴によって、小学校の校長を追われたとき、師をお守りして行動をともにされた戸田先生の姿が思い起こされる。
 大観は、天心が健在のときも、亡きあとも、師匠の恩を絶対に忘れなかった。恩師を宣揚し、恩師の事業を発展させるために、終生、戦っていった。師匠の偉大さを叫びきっていったのである。
 のちに、天心が新しい美術教育の機関を設立した時にも、大観は即座にはせ参じた。
 大観は記している。
 「岡倉先生というお方は、本当に偉い人でした。時がたてばたつほどその偉さがわかって来ます」
 「顧みますと、私は実に岡倉先生から厚い恩誼を享けています」
 「このありがたい先生のご期待に背くまいと、私はただ脇目もふらず、一筋に芸術への精進をつづけて来ました。今日、私がこのはかり知れない先生のご恩誼にお報いすることのできるものといえば、それはこの芸術への精進という一事以外には何物もありません。
 先生は年若くして亡くなられたとは申しますものの、先生のご精神はいささかも亡びず、今なお生きていられます。先生はいつもいつも私を見守っていて下さいます」(前掲『大観画談』)
 師弟の道に生きぬく人生は、美しい。
 師匠というのは、弟子の一生の勝ち戦のために、希望と力を贈ってくれる存在である。
 大観の言葉には、師への深い感謝の思いがあふれでいる。
7  永遠の発展の道は師弟の精神に
 仏法の真髄もまた、師弟にある。
 妙法流布の先頭に立ち、軍部権力の弾圧をはじめ、あらゆる大難と闘いぬいた牧口先生。弟子の戸田先生は、牧口先生と一緒に牢獄まで行かれた。そして一人、生きて牢獄を出て、学会の再建に立ち上がられたのである。
 本当に偉大な先生であった。私は戸田先生を師匠と仰いだ。先生が事業の破綻で苦境にある時も、わが身をなげうって支えぬいた。戸田先生を守ることが学会を守ることになる。広宣流布を進めることになる――この思いで戦い、断じて勝った。先生は、私を見つけ、育ててくださった。私を大事にしてくださった。そして、学会の一切を私に託されたのである。
 学会の発展の根本は、三代の師弟の闘争にある。この「師弟の精神」がある限り、学会は永遠に発展の軌道を進んでいくことができる。このことを絶対に忘れてはならない。
8  インチキな人間は追放せよ
 私は青年時代、学会や戸田先生への不当な中傷は絶対に許さなかった。「真実の剣」「言論の剣」を掲げて、真剣に戦いぬいた。忘れ得ぬ歴史である。
 戸田先生は、悪い人間に対しては、それはそれは厳しかった。将来、学会のなかから反逆者が出ることを予見され、「インチキな人間は追放しろ」と遺言のごとく語っておられた。
 残念ながら、その後、同志のおかげで社会的に偉くなりながら、学会に反逆し、恩を倣で返す卑劣な人間が現れた。
 「人間の最大にして最多の悲惨は、不幸以上に人間の不正に基づいている」(『コリンズ道徳哲学』御子柴善之訳、『カント全集』20所収、岩波書店)とは、ドイツの哲学者カントの言葉である。尊き同志をバカにし、陰に隠れて不正をなすような人間、私利私欲を貧るような人間を絶対に許してはならない。
 また、フランスの文豪ロマン・ロランは、小説のなかでつづっている。
 「自分たちと同じようにひたすら正義のための熱意にうごかされているものとばかり彼らが信じていた人々、彼らのたたかいの僚友であった人々が、ひとたび敵が敗退するやいなや、利権に飛びつき権力を独占し、栄誉と地位とをかっぱらい、正義を踏みにじるありさまを彼らは見た」(『ジャン=クリストフ』片山敏彦訳、『ロマン・ロラン全集』3所収、みすず書房)
 こうした浅ましい、愚かな人間は、どこにでもいるものだ。
 御書には「前車のくつがへすは後車のいましめぞかし」と記されている。
 学会に仇をなし、反逆していった人間は皆、哀れな末路をたどっている。これは後世への戒めであり、重大な教訓なのである。
 同じことを繰り返さないためにも、悪の根は断ちきっておかねばならない。そのためには正義の言論で、徹して戦っていくことだ。最後まで、容赦なく責めぬくことだ。
 悪と戦うのがリーダーである。要領ではない。また、あいまいであったり、中途半端であったりしてはいけない。悪と戦わないのは、結局、悪と同じになってしまうのである。
9  「生も歓喜」「死も歓喜」の大境涯に
 現在、私は、「『生老病死と人生』を語る」とのテーマで「聖教新聞」紙上に連載を続けている。(=単行本は、二〇〇六年十一月、本社より発刊)
 人間の本来的な「生老病死」の苦悩をどうすれば乗り超えていけるか。そこに確かな解決の光を当てたのが仏法の英知である。
 「愛別離苦」――愛する人との別れもまた、誰人たりとも避けられない。その点についても仏法は明快な示唆を与えている。
 南条時光の父は、時光が七歳のときに、若くして病気で亡くなった。圧迫を恐れず、大聖人に帰依し、一家の宿命転換の道を厳然と開いた父であった。
 大聖人は、時光の母にあてて、「(亡くなられた夫君は)生きておられたときは生の仏、今は死の仏です。生死ともに仏です」(御書1504㌻、通解)と仰せになられた。
 生命は永遠である。妙法に生きぬく生命は、「生も仏」「死も仏」である。ゆえに、必ず必ず、「生も歓喜」「死も歓喜」の大境涯を、悠々と堂々と進んでいくことができるのである。
 夫の心を継いで、時光の母は、強盛な信心を貫き、時光ら子どもたちを立派な後継者へと育てあげていった。子どもたちも、父から学んだ信心を毅然と受け継いでいった。
 その時光も、当然、「自分は早くに父を失い、いろいろ教えてもらうことができなかった」との無念な思いも抱いていたようだ。
 その時光の心を深く知っておられた大聖人は、こう励ましておられる。
 「この経を受持する人々は、他人であっても同じく霊山にまいられて、また会うことができるのです。まして、亡くなられたお父さまも、あなたも、同じく法華経を信じておられるので、必ず同じところにお生まれになるでしょう」(御書1508㌻、通解)と、お約束なされているのである。
 妙法で結ばれた縁は永遠である。いわんや、妙法に生きる家族は、同じところに生まれ合わせていくことができる。それが、不可思議なる妙法の力用なのである。
10  熱原の法難のときも、南条家は広布の牙城となった。襲いかかる三障四魔と、時光は一歩も引かずに戦った。
 法難の後、幕府は時光に経済的な圧迫を加えた。これは何年も続いたが、敢然と耐えぬいた。
 時光の父が逝去して十五年後、今度は、時光の弟の七郎五郎が、十六歳の若さで、急逝した。大聖人も、その成長を心から期待されていた、頼もしい好青年であった。
 母の悲しみと嘆きは、あまりにも深かった。
 大聖人は、その母の心の奥深くに希望の光を灯されるように、こう教え励まされたのである。
 「(亡くなられたご子息に)やすやすと、お会いになる方法があるのです。釈迦仏を御使いとして、霊山浄土へまいり、会われるがよいでしょう。
 (法華経方便品第二に)『若し法を聞く者あらば、一人として成仏せずということ無けん』と言って、大地をさして外れることがあっても、日月は地に落ちられでも、潮の干満がなくなる時代はあっても、花は夏に実にならなくても、南無妙法蓮華経と唱える女性が、愛しく思う子に会えないということはない、と説かれているのです」(御書1576㌻、通解)
 ″見事に信心を貫ぬいた息子さんは、断じて成仏されました。貴女も、妙法に生きぬくならば、愛するわが子に、絶対にまた会うことができますよ″――この大聖人のお言葉に、時光の母は、どれほど深く勇気づけられたことであろうか。
11  妙法は絶対的幸福の軌道
 大聖人の門下には、立派な最愛の息子に先立たれたことが発心のきっかけとなって、両親ともに妙法への信仰を深めていった家族もいた。
 この両親は、真剣に妙法を行じ、真心込めて大聖人に、お仕えしていった。
 大聖人は、その信心を讃えられ、こう仰せになられている。
 「(あなた方の信心のすばらしさは)ただごとではありません。ひとえに釈迦仏が、あなた方の身に入り替わられたのでしょうか。また、亡くなられたど子息が仏になられて、父母を仏道に導くために、あなた方の心に入り替わられたのでしょうか」(御書1397㌻、通解)
 「あなた方に、もしものことがあるならば、暗い闇夜に月が出るように、妙法蓮華経の五字が月となって現れ、あなた方の行く手を照らすでしょう。そして、その月のなかには、釈迦仏・十方の諸仏はもとより、先立たれたご子息も現れて、あなた方を導いていかれることを確信してください」(同㌻、通解)
 妙法に結ばれた生命は、生死を超えて、ともどもに、たがいに、励まし合い、護り合い、導き合って、絶対の幸福と勝利の軌道を進んでいくのである。
 妙法の世界には悲嘆もなければ、悲観もない。妙法を行ずる家族は、何があっても「常楽我浄」の月光に包まれていく。そして、その足跡が、あとに続く人々に、計り知れない希望と勇気を送っていくのである。
12  大聖人は、法論のさいの心構えを、こう教えておられる。
 あなたは、「法華経という大梵天王の位」にいるのである。だから、権宗の者どもを「鬼畜」などと見下しても、あえて誤りではない。そう心得て、法論しなさい――と。(御書1282㌻)
 この誇り高き破折の精神を燃えあがらせていくことだ。そこに真実の仏道修行の道がある。
 大聖人は、こうも言われている。
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず
 この御聖訓を、ゆめゆめ忘れてはならない。
 広宣流布は「勇気」で決まる。勇気の二字のなかに、慈悲も、正義も、幸福も、勝利も、すべてが含まれているのである。
 さあ勇気凛々と、仲良く愉快に、新しき広宣流布の大行進を広げてまいりましょう!
 (東京牧口記念会館)

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