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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川・静岡合同協議会 黄金の師弟はだれも壊せない

2006.1.12 スピーチ(2006.1〜)(池田大作全集第100巻)

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1  神奈川から世界広布の指揮を決意
 大発展の神奈川、おめでとう!
 正義の勝利で、さらに勢いを増す静岡の皆さんも、ご苦労さま!
 創立七十五周年を大勝利して、わが偉大なる法城・神奈川文化会館に帰ることができた。二年二カ月ぶりである。私は、うれしい。
 大神奈川は東京、大阪と並び、日本屈指の人口規模を誇る。未来が輝いている。静岡とともに、広宣流布の最重要地域と言えよう。その東海道の戦いを、日本中、否、世界中が見つめている。
 港・横浜に鳴り響く汽笛とともに、新しい勝利の海へ、晴ればれと船出しよう!
 私が昭和五十四年(一九七九年)五月三日、創価大学での儀式を終えて、その足で一番はじめに来たのが、ここ神奈川文化会館であった。
 到着したのは、午後六時五十九分。妻と一緒であった。
 そこには、大勢の、山をなした神奈川の同志がおられた。会館の前の、一階から二階にあがる大きな階段にもいた。皆、大拍手で迎えてくださったのである。
 あの時、なぜ私は、神奈川に行ったのか。それは、未来を見つめてのことであった。
 本部でもない。東京でもない。神奈川文化会館の前から、海を見つめて、これからは全世界の指揮を執ろう! 小さくて窮屈な、嫉妬の小国よりも、世界に向けて指揮を執ろう! そう決意していたのである
 私は全世界を志向して神奈川に来た。この海の向こうに、アメリカがある。ヨーロッパがある。アフリカがある。アジアやオセアニアにも通じている。海を見るたびに、構想は広がった。
 当時、嫉妬と陰謀と謀略、妬みと焼きもちが渦巻いていた。創価学会が、あまりにも大発展しているゆえであった。反発した邪宗門の坊主らが、若干の騒ぎを起こしていた。
 その時に私は、もっと高次元から、世界を凝視した。
 ――ちょうどいい。世界広宣流布の布石を、本格的に始めよう!――
 そして今や、五大州の百九十もの国や地域に、学会の平和勢力、文化勢力が発展したのである。
 私の指揮と行動は正しかった。戸田先生がおられたならば、「よくやった、よくやった」と讃嘆してくださることだろう。その師が今いないことは、さびしい限りである。
2  関西が立った! 埼玉も立った!
 私が第三代会長を辞任したのは、この昭和五十四年の四月二十四日であった。
 その時、真剣に、「偉大な学会と、宗門を発展させてきた大指導者が、なぜ、会長を辞めなくてはいけないのか」と、はせ参じた友がいた。その目は爛々と輝き、その態度は「必ず自分が師を護る」という強い強い魂が光っていた。今、彼らは、悠然として関西で、勝利への指揮を執りながら、戦っている。
 あの時、友は熱い熱い涙を見せた。その光景は一生涯、忘れることができない。
 私は言った。「新しい時代を必ずつくる。君も一緒に頼む。あとになって、皆が、偉大な仕事をしたと驚嘆するであろう」と。
 学会を弾圧した、恩知らずの邪宗門の連中は皆、もう立ち上がれないだろうと思っていたに違いない。心堕ちた学会の幹部もいた。しかし、あとになって、幾人か、「あの時は、本当に申しわけなかった」と後悔してきた者もいた。
 関西が立ち上がった。続いて埼玉の同志が立ち上がって、声をあげた。
 「これだけの大功労の会長を、なぜ宗門も、幹部も、辞めさせたのか。『勇退』と言いながら、引きずりおろした。学会の将来は、池田先生がいなくては、めちゃくちゃじゃないか。分裂してしまう」。こう憂えていたのである。
 「第三代会長を守れ! そうすれば、広宣流布は必ずできる」
 これが戸田先生の遺言であった。最高幹部ならば、皆、知っていることである。
 何よりも、日蓮大聖人が「難こそ誉れ」「難こそ安楽」と教えられている。
 何があろうと、いかなる波浪があろうとも、私は、戸田先生との誓いの道をゆく。平和の道、希望の道、広布の道を、朗らかに歩みぬく。
3  大聖人の仏法の真髄は「進まざるは退転」である。広宣流布へ前進また前進そのために、リーダーは心を砕くことだ。間断なく手を打ち続けていくことである。
 戸田先生も、牧口先生も、一面から言えば、本当に、口やかましかった。「こんなに細かいことまで」と皆が思うほど、神経をめぐらせた。
 基本に徹し、よき伝統を守ることだ。それをないがしろにすると、あとで困る。崩れていく。
 よき伝統というのは、皆が納得し、安心するものである。正しい指導をたもっていける。
 教育の世界でも、すぐれた学校には、すばらしい伝統があるものだ。
 リーダーは、よき伝統を大事にしながら、「堅実な発展」を心していただきたい。
 きょうは神奈川と縁の深い四国でも運営会議などが行われている。四国の同志とも心を通わせながら協議会を進めたい。
4  荒海を越えて四国の友も来た
 今年は、「聖教新聞」の創刊五十五周年にあたっている。
 神奈川・静岡の同志も、また四国の同志も、いつも「聖教新聞」の拡大に健闘してくださっており、感謝に堪えない。
 つい先日の「聖教新聞」の「声」の欄に、あまりにも懐かしく、あまりにもうれしい思い出がつづられていた。それは、昭和五十五年一月十四日、四国の約千人の同志が、あの「さんふらわあ7」号で、冬の荒海を越え、ここ神奈川文化会館に来てくださった歴史である。
 あれから満二十六年。四国の友は、あの日あの時を原点として、人生の試練を乗り越え、師弟の誓いを原動力に、広宣流布の拡大を成し遂げてこられた。そのことが、感動的に記されていた。この「声」を読まれた方々からも、早速、多くの反響が寄せられている。
 あの年は、私の会長辞任の翌年であった。一月十三日の午後一時すぎ、神奈川文化会館で執務する私のもとに、第一報が入った。香川、高知、愛媛、徳島の四国全県から、勇んで集った約千人の同志が、高松港を出航したとの知らせである。目指すは、ここ神奈川文化会館の眼前に広がる横浜港。船は、白亜の客船「さんふらわあ7」号である。
 私は、航海の無事安全を、妻とともに真剣に祈った。一人も船酔いすることなく、元気で到着されるようにと、題目を送り続けた。出発したその日、横浜は雪の舞う寒い日であった。東海上には低気圧があり、海上は荒れることが予想された。学会本部からは「念のため中止にしてはどうか」という連絡も入ったという。しかし、もう出航直前だった。合図のドラが鳴っていた。″出航したあとは、すべて船長の判断に任す″と決め、旅が始まったのである。
5  異体同心の団結――″船上幹部会″
 ″船上幹部会″では、意気軒高に語り合われていた。
 ――本来ならば、池田先生に指揮を執っていただいて、本年の学会創立五十周年を盛大に祝賀すべきである。牧口先生、戸田先生、そして池田先生という三代の会長が築いてくださった創価学会ではないか。しかし、今、先生に、自由に動いていただくことはできない。四国にお迎えすることもできない。それならば、私たち四国が、全国に先駆けて、先生のもとへはせ参じて、創立五十周年のお祝いを申し上げようではないか。先生がおられるところが、広宣流布の本陣だ。最前線であるのだ――と。
 のちに、手書きで書き留められた、その船内の克明な記録を、私は拝見し、心で泣いた。
 船には、ドクター部や白樺(女性看護者のメンバー)の方々も、勇んで同行され、同志の健康を見守ってくださっていた。創価班や白蓮グループをはじめ、志願の男女青年部の、はつらつたる献身も光っていた。
 船内で皆が楽しく過ごせるようにと、私は、寅さんの映画(「男はつらいよ」)の手配も、事前に、そっと、お願いしておいた。
 ありがたいことに、波涛会(海外航路に従事する壮年・男子部のグループ)の方々も、太平洋岸の要所要所の岬に待機して、変化の激しい波の様子を、逐次、報告する態勢まで取ってくださっていた。四国で留守を守ってくださる同志たちも、皆、たえまなく唱題を続け、無事故・大成功を祈っておられた。そこには、どんなに嫉妬に狂った坊主らが壊そうとしても、絶対に壊せない「異体同心」の金剛の団結が輝いていたのである。
 波涛を越えて、四国の友が、横浜港の大桟橋に到着したのは、翌一月十四日の午後一時前であった。前日とうってかわって、この日は穏やかな陽気となった。
 大聖人は、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(法華経六七七㌻)という法華経の一文を「最上第一の相伝」とまで仰せであられる。私は大桟橋に立って、花束を抱えて、遠来の同志をお迎えした。
6  誇り高く、偉大な同志よ!
 この私と同じ心で神奈川県中から集まり、真心の歓迎をしてくださった友の顔も、私は今もって忘れることができない。わが音楽隊も、勇壮な学会歌の演奏で盛大に出迎えてくれた。
 そのあと、午後一時半から、四国・神奈川交流幹部会が、神奈川文化会館で劇的に開かれた。
 はるばると勇み来った四国の同志も、誇り高く偉大であった。その同志を勇み迎えた神奈川の同志も、また誇り高く偉大であった。
 私は、ピアノで″大楠公″や「熱原の三烈士」など数曲を奏で、贈らせていただいた。
 心と心の交流が、幾重にも深く、また強く結ばれた。凝結した黄金の時が流れた。そして、その日の午後七時、四国の同志は、横浜港を出航して、帰途につかれたのである。
 私は、船が見えなくなるまで、神奈川文化会館の窓から、妻とともに懐中電灯を振り続けて、お見送りした。深夜十一時半ごろと翌朝の九時、私は、船に直接、電話を入れて様子をうかがった。来られなかった方々への伝言も託した。
 船がついてからも、高知県の方々など、自宅へ戻るまで、さらに長い道のりが続く。妻も、皆さまが全員、無事に帰宅されるまではと、祈り続けていた。
 なお、この時の船長が語ったというお話も、のちにうかがった。
 「初めて、創価学会の方を乗せました。なんというか、言葉では言い表せませんが、本当にさわやかな気分です。この人たちを、一人も船酔いさせてはいけないと思い、慎重に舵をとりました」
 当時の宗門に遠慮した「聖教新聞」の紙面では、「交流幹部会」自体は報じられているものの、四国の同志と私との出会いのことは、一行も記されていない。しかし、誰人も冒すことのできない、いな永遠に冒すことのできない、荘厳な師弟の劇が厳然と刻まれていたのである。
 その後、五月にも、徳島の約千人の同志、そして愛媛の約千人の同志が、それぞれ船で、神奈川までお越しくださった。二回とも、私は心から歓迎させていただき、忘れ得ぬ歴史となった。
 のちに、私はとの方々を、「三千太平洋グループ」と命名させていただいた。
 学会が一番、大変なときに、私とともに、一番、深く、一番、尊い歴史をつくってくださったのは、四国の友であった。そしてまた、東海道の皆さまであった。
7  困難な時こそ本物が光る
 アメリカの鉄鋼王カーネギーの言葉に、「危機に当たって、人間の真価が試される」(『鉄鋼王カーネギー自伝』坂西志保訳、角川文庫)とある。困難な時こそ、本物が光る。
 古代ローマの詩人ルクレーティウスは言った。
 「人を見るのには、危機に陥った際に限る、逆境にあってその人物如何を見るに限る。即ち、かような時にこそ始めて真実の声が心の底から出るものであり、又仮面ははがれ、真価のみが残るからである」(『物の本質について』樋口勝彦訳、岩波文庫)
 そのとおりである。有名な『プルターク英雄伝』こう記されている。
 「真に高貴健剛な精神は、厄難に処し逆境に沈淪ちんりんする日において、真骨頭を発揮するものである」(鶴見祐輔訳、潮出版社)
 難よ、来るなら来い!――これが学会精神である。御聖訓に「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」と仰せのとおりである。
 あの日あの時の偉がな四国の同志は、私の胸の奥底に、永遠に刻まれて離れない。最も困難な時に、勇んで立ち上がり、戦ってくださった人を、私は断じて忘れない。
 あの日あの時の尊き皆さま方が、今、四国広宣流布の中核を担い立って、指揮を執っておられる。その英姿を私は、何よりもうれしくうかがっている。また亡くなられた方々にも、私は毎日、追善回向の題目を送っている。
 後継の、お子さん方や後輩たちも、「さんふらわあ7」号の師弟旅の先駆者を、最大に尊敬し、感謝し、誉れとして、そのあとに続いておられる。広宣流布の″師弟の航路″を貫き通した人は、永遠に誇り高く、自分自身が光り輝いていくのである。
8  思えば、勇敢なる求道の信心を貫き通した在家の弟子を、日蓮大聖人は、「聖人」「上人」「賢人」など、最高の尊称で讃嘆されている。
 ここ東海道ゆかりの女性門下(乙御前の母)には、「日妙聖人」と認めておられる。
 のちに大聖人は、遠路をいとわず、妙法を求めぬいた、この女性門下に、こう仰せである。
 「日蓮が鎌倉にいた時には、念仏者らはさておいて、法華経を信じる人々でも、本当に信心がある人なのか、ない人なのか、分かりませんでしたが、幕府からとがめを受けて佐渡の島まで流されてみると、訪れる人もありませんでした。そのなかで、あなたは女性の身でありながら、さまざまな御志の品を届けられたうえ、ご自身が訪ねてこられたことは、現実のこととも思えず、考えることもできないことです」(御書1220㌻、通解)
 「道のり」が遠く険しい。だからこそ、その人の信心の志が分かる。いざという時こそ、まことの信心があらわれるのである。さらに大聖人は仰せである。
 「今、あなたは法華経を知り、慕われていますから、必ず仏になられる女性です」(御書1222㌻、通解)
 「日蓮が流されたのは、わけあってのことですが、(女性の身で、これまで足を運んでくださったあなたの姿にふれると、私が流されたのは)″あなたの厚い御志があらわれるためであったのか″と、ただありがたく思うばかりです」(同㌻、通解)
 このように、真剣な弟子の求道の姿を最大に賞讃されているのである。
9  自分らしく誠実に語れ
 リーダーは、同志をほめ讃える人であってほしい。言葉が力である。言葉が心である。何より、リーダーは、しゃべることだ。黙っていてはいけない。真剣に戦ってくださっている同志には、「ご苦労さまです」「ありがとうございます」と感謝の言葉をかけていっていただきたい。
 また当然、相手のことを知っていればいるほど、会話は弾む。ゆえに、相手を知る努力を惜しまないことである。そのうえで、あとは自分らしく、誠実に語っていけばいいのである。
 私も、さまざまな人と対話を重ねてきた。
 イギリスのチャールズ皇太子、アン王女、アメリカのキッシンジャー国務長官、キューバのカストロ国家評議会議長、ゴルバチョフ元ソ連大統領、中国の周恩来総理……。
 立場はどうあれ、皆、同じ人間である。こちらから心を聞き、信義を尽くせば、必ず分かり合える。その一点に立って、私は、懸命に、友情の橋を懸け、平和の礎を築いてきた。「世界平和」といっても、一対一の人間と人間の信頼から始まる。それが私の変わらぬ信念である。
 またとの間、各国語の通訳の皆さま方には、たいへんにお世話になった。きょうは通訳の代表も参加しておられる。一緒に戦ってくださったすべての通訳の皆さま方に、この場をお借りして、深く御礼申し上げたい。
10  師弟の結合があればこそ
 大聖人は、東海道の同志の大先輩である四条金吾へ、こう仰せである。
 「返す返す今も忘れないことは、(竜の口で日蓮が)首を切られようとした時、あなたが、私の供をして、馬の口に取りついで泣き悲しまれたことです。これを、いかなる世に忘れることがありましょうか。たとえ、あなたの罪が深くて地獄に堕ちられたとしても、その時は、日蓮が釈迦仏から、どれほど『仏になれ』と誘われようとも、従うことはありません。あなたと同じく、私も地獄に入るでしょう。日蓮と、あなたとが、ともに地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も、地獄にこそいらっしゃるに違いありません。
 たとえば、闇のなかに月が入って輝くようなものであり、湯に水を入れ冷ますようなものであり、氷に火をたいて溶かすようなものであり、太陽に闇を投げつければ闇が消えるようなものでありましょう。(それと同じように、地獄であっても、必ず寂光土となるでしょう)」(御書1173㌻、通解)
 この大聖人の御心に直結して、築きあげられた「異体同心の和合僧」こそ、創価学会である。
 その三代にわたる「広宣流布の師弟」の結合があればこそ、いかなる三障四魔も三類の強敵も勝ち越えることができた。そして、法華経と御書に、寸分も連わず、世界百九十カ国・地域への「一閻浮提広宣流布」が成し遂げられてきたのである。
11  あの日あの時、神奈川の皆さまと、四国の同志をお迎えした、忘れ得ぬ「一月十四日」が今年もめぐってくる。あの時の名誉ある同志の名前を、私は永遠に宣揚してまいりたい。とともに、この神奈川文化会館の一角に、歴史を留める記念のプレートも残してさしあげたいと思っている。
 (=翌二〇〇七年、創立七十七周年の五月三日を記念し、記念プレートが完成。同年四月二十六日に除幕式が行われた)
12  きょう(一月十二日)は、大晴天の一日であった。夜空には、月光が美しい。十四日は、「満月」である。御聖訓には、こう仰せである。
 「法華経は、闇夜の月のようなものである。法華経を信じても、深く信じない人は、半月が闇夜を照らすようなものである。深く信じる人は、満月が闇夜を照らすようなものである」(御書1551㌻、通解)
 尊きわが同志が、「満月」のごとく、「名月」のごとく、信心を輝かせ、すばらしき「所願満足」の人生を送っていかれることを、心より祈りたい。人材を見つける。人材を育てる。新しい人に、どんどん光をあてていく。この一点に、私は今、全力を挙げている。「人をつくる」ことが「未来をつくる」ことだからである。
13  横浜の文人がつづった孔子と子路の師弟愛
 さて、この神奈川・横浜の地で、教育に尽力した近代日本の作家に、中島敦(一九〇九年〜四二年)がいる。(私立横浜高等女学校〈現在の横浜学園〉の教諭を務め、国語と英語を教えていた)
 中島敦の小説に『弟子』という名作があった。古代中国の思想家・孔子の門下「十哲」(十大弟子)の一人である「子路」が描かれている。(『李陵・山月記 弟子・名人伝』角川文庫。以下、同書から引用・参照)
 子路は、武勇にすぐれ、剛毅、実直であったうえに、最も孔子と心の通いあった弟子とされる。あえて、日蓮大聖人の門下になぞらえれば、四条金吾のような存在ではないか、という人もいる。
 ご存じのとおり、孔子は、祖国・魯に、おいては人々から軽んじられ、侮られた。十年以上にわたって亡命生活を余儀なくされ、迫害と苦難の連続であった。そのなかで、弟子の子路ほど、喜んで師匠に仕え、付き従った者はないという。子路には、孔子の弟子となることによって、やがて偉くなろうとか、地位を得ょうという、師匠を利用する名聞名利の心が、みじんもなかったからである。
 「死に至るまでかわらなかった・極端に求むる所の無い・純粋な敬愛の情だけが、この男を師のかたわらに引留めたのである」と、中島敦はつづっている。
14  他の人々の目には、子路の「利害」を度外視した純粋な生き方は、「一種の不可解な愚かさ」に映った。しかし、師匠・孔子だけは、この弟子の生き方の「無類の美点」を知り、だれよりも高く評価していたのである。
 一方では、子路ほどしかられる弟子もなかったという。それは、つねに、師匠に体当たりでぶつかっていったからである。
 「他の弟子たちのように、わらわれまい叱られまいと気を遣わない」。それが子路であった。
 自分が偉くなりたい。また、偉く見せたい。そのために、へつらったり、威張ったり、気取ったり。相手によって態度を変え、いつも他人の評判に右往左往する――そんな生き方では、あまりにもむなしい。そのような浮ついた心では、未来に残る仕事を成すことはできない。必ず行き詰まる。
 一度、「わが道」を決めたならば、人が何を言おうと、人がどう変わろうと、忍耐強く、誠実に、変わらずに「わが道」を進む。それが人間として偉大な生き方である。最後には勝つ。また、そういう人を登用していくべきである。何千何万の人生を見てきた私の結論である。
15  子路にとって、「幾ら憤慨しても憤慨し足りない」ものがあった。それは、「邪が栄えて正が虐げられる」という世の姿である。子路は、わが師匠の苦難の連続に涙し、心からの怒りを発した。そして、断固として決心し、立ち上がっていくのである。
 子路の決心として、中島敦がつづった言葉には、神々しいまでの人間の輝きがある。
 「濁世のあらゆる侵害からこの人(孔子)を守る楯となること。精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労汚辱を一切己が身に引受けること。借越ながらこれが自分のつとめだと思う。
 学も才も自分は後学の諸才人に劣るかも知れぬ。しかし、一旦事ある場合真先に夫子(孔子)のために生命をなげうって顧みぬのは誰よりも自分だ」
 弟子・子路は、師匠を誹謗し、ばかにする者たちには、憤然と反撃していった。
 孔子の悪口を言っていた者も、怒りに燃えた子路が姿を現すと、「顔色を失い、意味も無く子路の前に頭を下げてから人垣の背後に身を隠した」。
 孔子は、子路が門下に入ってからは「自分は悪言を耳にしなくなった」と語った。
 師匠・孔子が魯国の宰相に就いた時には、子路は、師匠の手足となって、いかなる困難な使命にも、「孔子の内政改革案の実行者として真先に活動した」。
 孔子にはほかにも、才能あり余る弟子たちがいた。しかし、彼らよりも、自分を飾ることなく、素直に、まっすぐに師匠を敬愛し、仕えた子路こそが、時代を超えた孔子の深い使命をつかんでいた――そう文人・中島教は結論している。
16  「正しき人」に力を与えよ
 現在、私は、米ハーバード大学教授で、中国思想研究の第一人者であるドゥ・ウェイミン博士と、対談の連載を続けている。(=対談集は『対話の文明平和の希望哲学を語る』と題し、二〇〇七年一月、第三文明社より発刊)
 対談では、「儒教ルネサンス」を唱える博士と、孔子の『論語』についても、さまざまに語り合った。『論語』のなかで、孔子は弟子の質問に答えて、こう語っている。
 「正しい人々をひきたてて邪悪な人々の上に位づけたなら、邪悪な人々も正しくさせることができる」(金谷治訳注、岩波文庫)
 古代の名君がそうであったように、正しい者を引き立てることによって、邪な人間は遠ざかっていく――『論語』では、こうも述べられている。国や組織が発展を続けていくための重要な智慧であり、方程式であると言えよう。
 要するに、「正しき人」が悪の上に立たねばならない。そして、正しき人が力を存分に発揮しゆくことだ。また、正しき人に活躍の場を与え、力を与えていくことである。
 それでこそ組織は、悪を正し、悪を排除しながら、まっすぐに伸びていくことができる。
17  牧口先生は、″大善の光明に照らされると、悪の正体は暴露される″と述べておられた。
 小善の前では、悪の存在はたいして目立たない。しかし、大善を前にすると、その狂いが明らかになる。それは、あたかも、人が暗闇から急に太陽の下に出ると目がくらみ、強烈な光を正視できないようなものである。犬が、獅子の前に立つようなものである。
 それと同じように、絶大なる妙法の光明に照らされると、それまで潜伏していた悪があぶり出され、追い出されていくのだ――牧口先生は、こう喝破されたのである。
 皆さま方は、妙法という不滅の太陽を胸に抱いた、「善のなかの大善」の闘士である。ゆえに、いかなる悪も、不幸も、すべて打ち破って進んでいくことができる。そのためにも、強盛に祈りぬいていくことだ。学会活動に励むことだ。正義の心を燃やして、勇敢に戦いぬいていくことだ。
 学会の組織で戦いきった人は強い。何があっても崩れない。反対に、どんなに偉くなり、社会的な地位を得たとしても、学会活動を軽視し、学会の組織から離れた人は、最後は惨めである。
 その本質は、要するに見えっぱりである。そこから信心がおかしくなっていく。これは、戸田先生が言われていたことである。学会のなかで「心」を磨き、「人間性」を鍛える――そこに人生の勝利の王道があることを忘れてはならない。
18  永遠の「正義」の天地に栄光あれ
 第三代会長を辞任した直後の昭和五十四年五月五日。
 吹き荒れる迫害の烈風のなか、私は、ここ神奈川文化会館で筆を執り、「正義」の文字を認めた。そして、その脇に「われ一人正義の旗持つ也」と記したのである。
 何があろうと、正義は正義である。ゆえに、絶対に勝つのだ。愛する同志とともに、世界広布を断じて成し遂げるのだ――これが私の決意であった。
 神奈川には、あまりにも深き思い出がある。神奈川は、永遠の「正義」の天地である。だからこそ、勝利の「使命」があり、「責任」があり、「栄光」があると申し上げたい。
 ここ神奈川にも、今は亡き、多くの忘れ得ぬ同志がおられる。きょうも私はあらためて、神奈川、静岡の亡くなられた全同志への追善を、懇ろにさせていただいた。
19  学会を支える婦人部に最敬礼
 また、きょうはお会いできなかったが、婦人部の懐かしい皆さまの多くが、今も元気に、広布の第一線で活躍しておられる。学会のため、広宣流布のために戦う。これほど尊いことはない。私は同志の皆さまの奮闘に、心から感謝している。そうした方々のために、何かしてさしあげたい――いつも、そう思っている。各地の方々に、どうか、くれぐれもよろしくお伝えください。
 学会の前進は、健気な婦人部の皆さまの活動によって支えられている。男性の幹部は、最敬礼していくことだ。「婦人部の皆さまのおかげです」と、最大に感謝していくことだ。そうすれば、皆、もっと大きな力を出すことができる。もう一歩、大きく前進していくことができる。女性が伸び伸びと、生き生きと活躍している団体は発展していく。それが時代の趨勢である。もはや、男性が威張る時代ではないのである。
20  師弟の魂塊が刻まれた東海道
 どんな戦いにも、主戦場がある。
 日蓮大聖人、日興上人が広宣流布の主戦場とされたのは、神奈川であり、静岡であった。
 大聖人は、当時の政治の中心地であった鎌倉で果敢に弘法の闘争を展開された。そして、鎌倉幕府の最高権力者に対して「立正安国論」を送り、国主諌暁を行われたのである。
 その結果、幕府権力は、大聖人に苛烈な弾圧と迫害を加えてきた。一二六一年(弘長元年)、大聖人は現在の静岡県にある伊豆・伊東へ流罪された。日興上人はこの流罪の地においても、大聖人に常随給仕された。そして大聖人のもと、付近に弘教もしておられる。
 一二七四年(文永十一年)、大聖人が身延に入られると、日興上人は静岡の富士方面で活発に折伏を行われ、多数の門下が誕生した。後の「熱原の法難」の舞台となったのが、この富士の地であった。
 また、牧口先生、戸田先生も、この大聖人有縁の天地に魂魄をとどめられた。
 一九四三年(昭和十八年)七月、国家権力によって牧口先生が捕らえられたのは、伊豆の下田であった。治安維持法違反と不敬罪の容疑である。
 先生は、軍部政府による思想の統制と弾圧が進むなかで、勇敢に弘教を進めておられた。この時も、折伏のために下田を訪れておられたのである。
 そして一九五七年(昭和三十二年)九月、戸田先生が未来への遺訓となる「原水爆禁止宣言」を発表したのは、ここ横浜であった。
21  現在、イギリスの著名な出版社であるI・B・トーリス社で、ロートプラット博士(パグウォッシュ会議名誉会長)と私の対談集(英語版)の発刊へ向け、準備が進められている。亡き博士の遺言ともいうべき対談集である。(=二〇〇六年秋、発刊)
 同書には、三ツ沢の競技場で戸田先生が発表された「原水爆禁止宣言」が、歴史に名高い「ラッセル・アインシュタイン宣言」とともに収録される予定である。
 対談でロートブラット博士は、戸田先生を「平和の英雄」であり、「平和の殉ー教者」であると最大に賞讃しておられた。「私どもと志を同じくしていた戸田氏」と会えなかったことが残念だと言われ、こう続けられたのである。
 「パグウォッシュ会議は、『核兵器のない世界』と『戦争のない世界』という、戸田氏が開始され、池田会長とSGIの皆さんが受け継いでこられた運動と同じ目標に向かって、共に進んできたと、私は思っています」
 神奈川を原点とする「原水爆禁止宣言」は、いちだんと深く世界の良識に共鳴を広げていることを、ご報告申し上げたい。戸田先生も、どれほど喜んでくださっていることか。
 広宣流布の戦いは、「師弟」に貫かれているからこそ、行き詰まりがない。「師弟」があるからこそ、永遠性の流れができあがる。創価の平和運動もまた同じである。
22  新しい世代の成長を応援
 神奈川は現在、東横浜、南横浜、西横浜、川崎、横須賀、湘南、相模、神奈川凱旋の八総県体制へと発展した。また静岡は、静岡、浜松、富士、伊豆、駿遠の五総県体制へと拡充している。
 私はこれまで、これらすべての地域に足を運び、広宣流布の歴史をとどめてきた。あらゆる波浪を乗り越えて、皆さまとともに、偉大なる勝利の歴史を刻んできた。
 神奈川も、静岡も、わが同志は堂々と、晴ればれと勝ちに勝った!――私は、そう強く宣言したい。とくに両県の婦人部、女子部の団結は見事である。模範の人材育成を行っておられる。
 私たち夫婦がお会いした、「アフリカの環境の母」マータイ博士は述べておられた。
 「私は、一人では何事も成し遂げられないことを肝に銘じています。とにかくチームワークなんです。一人でやってたら、自分が抜けた後は誰も引き継いでくれない、ということになりかねないのですから」(『モッタイナイで地球は緑になる』福岡伸一訳、木楽舎)
 どうか婦人部の皆さまは、学会の未来を担いゆく女子部を、最大限に応援していただきたい。新しい世代の成長があってこそ、学会の発展も永遠のものとなっていくのである。
 師弟の闘争の歴史が刻まれたこの地から、さらに多くの人材を陸続と輩出していただきたい。
23  偉人の心は逆境にも大山のごとく
 最後に、インドの詩人バルトリハリがつづった一節を、敬愛する皆さまに贈りたい。
 「偉大な人々の心は
  富貴においては
  蓮の花のように柔和である。
  逆境においては
  大山の岩石のように堅固だ」(上村勝彦『インドの詩人』春秋社)
 それでは、どうかお元気で! 健康第一で、生き生きと、朗らかな前進をお願いします。
 全同志の皆さまによろしく、お伝えください。
 きょうは、本当にありがとう! また、お会いしましょう!
 (神奈川文化会館)

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