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日蓮大聖人・池田大作

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全国最高協議会 一人の行動から平和の波を!

2005.12.24 スピーチ(2005.8〜)(池田大作全集第99巻)

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1  「青年・躍進の年」へ生き生きと!
 創立七十五周年を大勝利した全同志に、三首の和歌を贈りたい。
  三世まで
    広宣流布の
      同志なり
    世界の創価の
      連帯尊く
  君もまた
    そして私も
      晴ればれと
    元初も同志が
      勝利の王者と
  広宣の
    仏の生命の
      君なれば
    断じて負けるな
      断じて勝ちゆけ
 一年間、本当にご苦労さまでした!
 本年の大健闘を全員で讃え合いながら、明年の「青年・躍進の年」へ、生き生きと出発してまいりたい。
2  雪国の友へ、苦労は無量の功徳に
 最初に、新潟をはじめ各地の大雪の被害に対して、心からお見舞い申し上げます。
 希望に燃えて、すべてを乗り越えて、偉大な勇気の勝利を飾っていかれますことを、心から祈っています。日本全国の同志が祈っています。一日も早く、笑顔で、朗らかな勝利の姿を示していかれることを待っています。真剣にお題目を送っています。
 弘安四年(一二八一年)の十二月二十七日。日蓮大聖人は、駿河国(現在の静岡県の一部)の窪尼御前に、次のような御手紙をしたためておられる。
 「今年の寒さは、生まれてからこのかた覚えのないものです。雪などの降り積もり方も大変なものです。ですから、志のある人でも訪ね難いことなのに、あなたのお訪ねは、並々ならぬ御志の表れにほかなりません」(御書1486㌻、通解)と。
 この年、大聖人がいらっしゃった身延は、経験されたことのないほど寒さが厳しく、雪も降り積もった。肌身を切られるような寒さのなかで、大聖人は、弟子の信心を心から賞讃しておられる。
 今、雪深き地域で、広宣流布のために戦われる方々を、大聖人が、どれほど讃えてくださっていることか。苦労された分だけ、無量無辺に功徳が積まれゆくことは、絶対に間違いない。
 社会は、ますます混迷の度を深めている。仕事のこと、家庭のことなど、思いもかけない出来事に襲われることもあるかもしれない。しかし、妙法に生きる人は、すべてを厳然と乗り越えていける。
 根本は「題目」である。一つ一つ目標を明確にして、しっかりと祈っていくことだ。南無妙法蓮華経と唱えることは、わが心に、大善根を育てているのである。
 厳しい試練に耐えてこそ、″信心の根″は、強く深く伸びていく。何があっても負けない強靭さが培われる。そして、妙法の陽光に照らされ、やがては芽を出し、大きく育ち、必ずや″福徳の大輪″を咲かせていくことができる。
 断じて幸福になる仏法である。それを確信していってください。
3  真心の賞讃があるところ歓喜も人材も倍加
 この一年も、全国、そして全世界の同志が真剣に戦い、すべてに堂々と勝ってくださった。
 どうか、全国最高協議会のリーダーの皆さま方は、一人一人を心から讃え、ねぎらつていただきたい。「すばらしいご活躍ですね」「毎日の闘争、ご苦労さまです」と、丁寧な言葉で感謝を伝えてもらいたい。大聖人は、「金はやけばいよいよ色まさり剣はとげばいよいよ利くなる・法華経の功徳はほむればいよいよ功徳まさる」と仰せである。この御聖訓を、広宣流布の指導者はつねに深く拝していくことだ。
 妙法のすばらしさを讃えれば、功徳も、いよいよ大きくなる。「真心からの賞讃」があるところには、福運も歓喜も倍加する。そこにこそ、人材が生き生きと威光勢力を増すのである。
 とともに、陰で戦っている方々の労苦を見逃さずに、こまやかに心を配り、すばやく手を打っていかねばならない。大聖人は、ある年の十二月の御手紙を、こう結ばれている。
 「書きたいことは、たくさんありますが、年の瀬も迫り、御使いの方も急いでおられるので、これで筆を留め置くことにしました」(御書1536㌻、通解)
 年末の慌ただしいなか、使いの人までも思いやられながらの御振る舞いである。
 リーダーから、変わらなければいけない。リーダーの言葉一つ、振る舞い一つが、皆のやりがいとなり、喜びとなる。遠くから来てくれた方がいれば、「大変ななか、ありがとうございます」と最敬礼して迎える。帰られるときには、「くれぐれも事故に気をつけてください」「風邪などひかないようにしてください」と、必ずひとことかけていただきたい。「気を配ること」「気を使うこと」が、慈悲の表れである。
4  試練のたびにより強く高く――ロモノーソフの生涯
 十八世紀のロシアを代表する大科学者であり、モスクワ大学の創立者でもあるロモノーソフ。今年は、ロモノーソフの没後二百四十年である。歴史家としても名高いロモノーソフは、「試練のたびに、以前にも勝る繁栄を築き、より高く立ち上がってきた」民衆を讃えてやまなかった。(М.В.Ломоносов:Сост.Е.Н. Лебедев, Современник.)
 わが学会も、あらゆる試練を乗り越えながら、御聖訓どおりの「妙法独り繁昌せん時」を開いてきた。すべて「難来るを以て安楽」とする偉大な同志の勇気ある戦いのおかげである。あらためて、尊き皆さま方の雄渾の指揮に、私は心から感謝を捧げたい。
 ロモノーソフは達観していた。
 「善は、頑迷な無学の者と悪意に満ちた粗暴な者を除く、すべての人に親切である。善は、社会の悪人を除く、すべての人に有益である。善は、我らの幸福を妬む者を除く、すべての人に喜びを運ぶ」(М.В.Ломоносов:Полное собрние сочинений, Том.8, Издательство академии наук СССР)
 要するに、多くの人にとって好ましい善も、「愚昧」と「悪意」と「嫉妬」の人間には通じないというのである。
 学術と教育の光で、善を広げようとしたロモノーソフの生涯も、その″悪の勢力″との熾烈な戦いとなった。当時、科学アカデミーをはじめ、ロシアの学術界の要職は、外国人勢力に支配され、ロシア人は排除されていた。そのなかにあって、みずからの努力で、アカデミーの教授となったロモノーソフは、「民衆のための教育」「学生第一」の信念に立って、教育改革に奔走していった。
 ロモノーソフは、アカデミーの実質的な支配者であった外国人のシュマーへルから、目の敵にされた。狡猾なやり方で、徹底的に弾圧された。そこには、あまりにも万能なロモノーソフに対する、醜い「嫉妬」が渦巻いていたことは、いうまでもない。彼が、新たな業績を次々と打ち立てるたびに、嫉妬する敵が増え、圧迫は激しさを増していったのである。
5  ロモノーソフは、会議の出席も禁止された。アカデミーの印刷所で、著作を出版することも許されなかった。自宅監禁の処分も受けた。アカデミーからの追放を狙った、陰湿なデマや密告による攻撃も続いた。ロモノーソフに恩を受けながら、みずからの野心から裏切った、卑劣な輩も出た。
 しかし、獅子たる彼は″敵に加担し、手なずけられた「犬」のような連中は敵にさんざん利用されたあげく、最後はみじめに切り捨てられるであろう″と悠然と見おろしていたのである。(Михайло Ломосов:Избранная проза, Сост.В.А.Дмитриева, Советская россия)
 ロモノーソフは、敵からの攻撃に対して、休む間もなく、言論闘争を繰り広げていった。
 とくに、迫害の張本人シュマーへルに関しては、「アカデミー官房の行動に関する簡単な歴史」と題する一文を公表している。そこには、二十五年間にわたり、シュマーへルが「いつ」「どこで」「いかに多く」の「悪事と不正」を犯し続けてきたか、「だれと結託し、迫害を仕組んだか」について、「目撃者」や「文書」など、具体的な証拠を挙げながら、一つ一つ克明に書き連ねてあった。それは、じつに七十カ条以上にわたる、烈々たる糾弾であった。
 「シュマーへルは、傲慢さゆえに、立派な人々を軽蔑し、妬み、嫌がらせをした」「雑誌に不当な批判記事を掲載」「公金をみずからの娯楽のために使った」そして、「他の教授をそそのかし、ロモノーソフ攻撃に走らせた」等々――。(М.В.Ломоносов:Сочинения Сост.Е.Н.Дебедев, Современник.)
 「悪意の嫉妬で、私を誹謗する者に対しては、その誤った考えが白日のもとにさらされるよう(中略)、全力で戦っている」と。(同前)
 そしてまた、彼は、民衆を騙し、私利私欲に狂った聖職者とも戦い、その偽善と悪徳を容赦なく暴いていった。
6  ロモノーソフの弟子たちは、師匠を守るために勇敢に戦った。その一体の闘争のなかで、真正の弟子が育ち、逗しく鍛えられていった。その一人が、ポポフスキーである。
 ある時、敵の文学者が、ロモノーソフの書いた悲劇作品をもじって、笑いものにしようとした。
 ところが、弟子のポポフスキーは、すぐさま反撃の長編詩(「異議申し立てと伊達男」)を発表し、そのもくろみを痛烈に打ち砕いた。
 その後も、ポポフスキーは、幾多の障壁を打ち破りながら、ロモノーソフが創立したモスクワ大学の最初のロシア人教授となった。そして、悪徳の教授とは決然と戦いながら、師匠の教育理念を実現していったのである。弟子ポボフスキーは、師匠ロモノーソフを高らかに謳っている。
 「ロシアの英知を体現せしその人こそ、ロモノーソフなり!」と。(Жажда дознания, Век ХШ:Советов, Век )
 師も偉大であった。弟子もまた偉大であった。
 「われわれは勇気によって傲慢を粉砕した」
 「悪党の行く末には、深く暗い奈落が待ちかまえている」(М.В.Ломоносов:Сочинения Сост.Е.Н.Дебедев, Современник.)
 これは、二百四十年の歳月を超えて、今も語り継がれているロモノーソフの不滅の勝利の宣言である。
7  創価三代の「師弟の道」こそ成仏の軌道
 日蓮大聖人は、厳然と仰せになられた。
 「日蓮は、一日、片時もたゆむことなく、(仏法の正義を)叫んだがゆえに、このような大難にあったのである」
 「石は、その中に玉を含むゆえに砕かれる。鹿は、その皮や肉のゆえに殺される。魚は、おいしいゆえに捕らえられる。翡翠かわせみは、美しい羽があるゆえに殺される。女性は、容姿が美しければ、必ず妬まれる。(大難にあうことは)これらと同じ意であろうか。日蓮は、法華経の行者であるがゆえに、三類の強敵があって、種々の大難にあったのである。しかるに、このような者の弟子檀那となられたことは不思議なことである。きっと深い意味があるのであろう。よくよく信心を強盛にして霊山浄土にまいってください」(御書1226㌻、通解)
 正義だからこそ迫害される。正しき法を、正しく信じ、行じるがゆえに難が競い起こってくる。
 そう確信し、日蓮の弟子として、信心を貫きなさい――そう教えておられるのである。
 創価学会の三代の師弟は、大聖人と直結し、三類の強敵と戦い、あらゆる大難を受けながら、世界広宣流布を成し遂げてきた。無上の誇りである。この「師弟の道」にこそ、成仏の軌道がある。
8  戸田先生は言われた。一九四一年(昭和十六年)十一月、創価教育学会の総会での講演である。
 「日興上人は、日蓮大聖人様をしのごうなどとのお考えは、ごうもあらせられぬ。われわれも、ただ牧口先生の教えをすなおに守り、すなおに実行し、われわれの生活のなかに顕現しなければならない」
 「弟子は弟子の道をまもらねばならぬ。ことばも、実行も、先生の教えを、身に顕現しなければならない」(「弟子の道」、『戸田情勢全集』3所収)
 また、ある時は、こう叫ばれた。
 師と運命をともにする弟子たれ!
 師と苦楽をともにする弟子たれ! 師と目的をともにする弟子たれ! 師と勝利をともにする弟子たれ! 師と生死をともにする弟子たれ!」
 その教えは、そのまま、戸田先生ご自身の実践であられた。牧口先生とともに投獄された。獄死した師匠の仇を討って広宣流布を成し遂げるために、「創価の巌窟王」となって戦いぬかれた。
 この「創価の巌窟王」の心を、学会は、なかんずく青年部は、永遠に忘れてはならない。
 私は、戸田先生の弟子として、だれよりも先生をお守りし、先生の構想を実現してきた。その誇りがある。だれよりも学会のことを知り、心を砕き、手を打ってきた。その自負がある。
 戸田先生の事業が、莫大な借金を抱え、苦境におちいった時のことである。給料も出ない。冬でも開襟シャツ一枚でしのぐしかない。そういう時もあった。社員は次々と辞めていく。「戸田の馬鹿野郎」と罵る人間もいた。それでも私には、不満はなかった。ただ先生を、お守りしたい一心であった。私は、生命を賭け、すべてをなげうって戦った。二十代前半のころである。
 あの偉大な先生が、若輩の私に「大作、すまないな」「大作、頼むよ」と言ってくださった。それだけで、十分であった。
 「第三代は池田大作に譲る」。これは戸田先生の遺言である。
 三代の「師弟の道」がどれほど峻厳なものか。軽々に考えてはならない。その師弟不二の闘争ありて、創価学会の今日があることを、命に刻んでいただきたい。
9  英雄シーザーに学ぶ将軍学
 今年の五月、私はイタリアのトリノ市から「名誉市民」称号(=日本人として初めて)を拝受した。
 市民の一員として、明年二月に開幕する「トリノ冬季オリンピック」の大成功を祈っている。
 なお、私が忘れ得ぬ出会いを結んだ、南アフリカのマンデラ前大統領や、ポーランドのワレサ元大統領も、トリノの名誉市民であられる。
 トリノ市の起源は、二千年前の古代ローマ時代にまで遡る。現在も、当時からの伝統である、碁盤目状の整然たる町並みを有している。また近代には、イタリア統一運動の誉れある中心地となったことも知られている。
 これまでも何度か論じてきたが、きょうは、古代ローマの英雄シーザー(カエサル、前一〇〇年〜前四四年)の将軍学について、少々、語っておきたい。
 紀元前四八年八月、シーザーは、ローマの主導権をめぐって、敵将ボンぺイウスとの、天下分け目の決戦に挑んだ。ギリシャでの、有名な「ファルサロスの戦い」である。シーザー自身の記述に基づくと、シーザーの軍勢は二万三千。ボンベイウスの軍勢は五万四千。数の上では、敵勢が二倍以上を誇っていた。しかし結果は、シーザーの大勝利に終わる。なぜか。
 戦術の巧みさはもちろんだが、勝敗を分けた一つの要因は、それぞれの陣営の内部の状況が、あまりに違っていたことである。ボンぺイウス陣営の指導者たちは、自分たちが優勢であることに傲る、戦う前から、勝った後の地位や報酬をめぐって、仲間割れしていた。戦略会議でも、作戦を立てるどころか、お互いを非難しあっていたという。指揮官であるボンベイウスを侮り、揶揄する者までいた。こうした点を、シーザーは鋭く見抜いていた。
 「要するに彼らは一人残らず、おのれの栄達や金銭上の報酬、あるいは政敵への復讐をあげつらい、勝利をいかなる作戦で手に入れようかではなく、勝利をいかに食い物にしようかと、それだけを考えていた」(カエサル『内乱配』国原吉之助訳、講談社学術文庫)
 すなわち、戦わずして、敵陣営は内部から崩れ始めていたのである。重大な歴史の教訓といってよい。一方、シーザーの軍勢には、最高指揮官シーザーに対する絶大な信頼があった。一糸乱れぬ団結で、死に物狂いで戦った。
 大決戦を前にして、シーザーは、ある古参の小隊長に、きちんと名前を呼んで、語りかけた。
 「ガイウス=クラッシアヌスよ。見込みはどうかね。士気はどうだ」
 即座に、その勇者は大声で応えたという。
 「わが軍の大勝利ですよ。きょうは、私が生き残っても、また倒れても、あなたは私をおほめにならねばならないでしょう」(長谷川博隆『カエサル』講談社学術文庫)
 鉄の団結。同志愛。一度、戦いに立ったからには、中途半端な戦いはしない。なんとしても勝ってみせるという執念。学会も同じ精神で、広宣流布という幸福と平和への大闘争を、戦い、勝ってきた。
 インドの詩人バルトリハリもこう言っている。
 「劣った人は障害を恐れ何も企てない。普通の人は企てても障害にぶつかるとやめてしまう。最上の品性の人は幾度も障害にぶつかっても企てたことを決してやめない」(上村勝彦『インドの詩人 バルトリハリとビルハナ』春秋社)
10  そもそも、英雄シーザーに、悠々と勝利できた戦いは、ほとんどなかったという。困難きわまる戦の連続であった。では、なぜ、勝ちぬくことができたのか。
 さまざまな要因が挙げられるが、その一つは、シーザーの軍勢は「核」が強かった。これが、歴史に輝く「第十軍団」である。この軍団は、シーザーがみずから集めてつくった一団である。一貫してシーザーを護り、シーザーの手足となって戦った勇者たちであった。
 いかなる組織に、おいても、「核」を固めることが大切である。
 ガリアでの戦いで、強敵のゲルマン人を相手に、シーザーの軍勢が臆したことがあった。(ウエソンティオ〈現ブザンソン〉での戦闘。ガリアは今のフランス、ベルギー、北イタリアなど)
 シーザーは、断固として叫んだ。
 「誰一人ついて来なければ、それでも予は、第十軍団だけ率いて、出発するだろう」(『ガリア戦記』国原吉之助訳、講談社学術文庫)
 第十軍団の勇者たちは、「自分らに最高の評価を与えてくれた」(同前)と感激し、感涙した。
 シーザーの言葉を聞いて、全軍が一変した。全軍に勇気が伝わり、奮い立っていったのである。
 それでもこの戦いで、シーザーの軍団のいくつかが、一時、敵に圧倒され、窮地に追い込まれた。その時、シーザーは、わが身の危険を顧みず、その戦闘の最前線に駆けつけた。そして、小隊長一人一人の名前を呼び、兵士たちを激励し、勢いを盛り返していった。
 その様子を、シーザー自身が書き残している。
 「カエサルが側に来たため、兵士は希望を吹きこまれ、闘魂を新たにし、最高司令官の見ている前で、各自土壇場においですら、自己の最善を尽くそうと願った」(同前)
 シーザーの将軍学の結論とは何か。かのモンテーニュが、シーザーの言葉を紹介している。
 「機会を的確にとらえることと迅速であることは、大将たる者の最高の特質である」(『エセー』4、原二郎訳、岩波文庫)
 広宣流布の戦いも、リーダーが、最も大変な現場に飛び込み、最も苦労している友を励ましていく。これが勝利の鉄則である。御聖訓には「いくさには大将軍を魂とす」と仰せである。
 ともあれ、シーザーの戦いは、所詮は、多くの人々の生命を犠牲にしての、覇権のための戦いであった。われらは、妙法流布という最も偉大にして崇高な、無血の平和革命を戦っている。
 誇り高い広布の大将軍であられる皆さま方の名指揮を、明年も頼みます!
11  女性の力を地域へ、社会へ
 きょうは、全国の婦人部の代表も参加しておられる。
 この一年間、婦人部の皆さまは、本当によく戦ってくださった。広宣流布の大前進の歴史を築いてくださった。あらためて、深く感謝申し上げたい。本当にありがとうございました!
 明年、″世界一″の婦人部は、結成五十五周年の佳節を迎える。その開幕を飾る、全国各地での「婦人部総会」の大成功を、妻とともに心からお祈り申し上げたい。
 婦人部の活躍の陰には、皆さまを支えてくださっている、ご主人や、ご家族の存在がある。私は、こうした方々にも、最大の御礼を申し上げたい。どうか、よろしくお伝えください。
 来月には、「平和研究の母」エリース・ボールディング博士と私の対談集が、発刊される予定である。(=『「平和の文化」の輝く世紀へ!』と題し、二〇〇六年一月に潮出版社から発刊)
 博士は現在、八十五歳。明断な頭脳と若々しい精神で、はつらつと対談に取り組んでくださった。じつは、博士のお孫さんが日本に住んでおり、月刊誌「パンプキン」に連載された私たちの対談を、読んでくださっていた。そのことも、博士の大きな喜びとなったようである。
 博士は連載が終わる時に、「私たちは、とうとうやり遂げましたね!」と、とても喜んでおられた。
 博士は、長年にわたり、世界の多くの平和団体とも交流を深め、活動を行ってこられた。
 その博士が、わが婦人部をはじめ、SGIの運動を高く評価してくださっている。
 対談では、次のように語っておられた。
 「アメリカで、SGIのメンバーの方々とお会いしていて、いつも感じることですが、皆さんは信仰によって自らの人生を高めようとの決意に輝いています。まさに世界の希望の存在です」
 「私は、『個々の人間の行動から出発して平和の波を起こしていく』というSGIの信念に賛同します。私はかねてから、『共同体を構成する一人ひとりの成長に全力を傾注していく以外に、平和で健全な地球の未来は見えてこない』と考えてきたからです」
 また、こうも述べておられた。
 「人間は本来、もっと、お互いを知り、心を配り合い、助け合うことができるのです。そうした観点から見ても、SGIの皆さまの活動は、一人ひとりが『よき市民』として社会に重要な、素晴らしい貢献をされています」
 なかんずく、博士が婦人部、女子部の活躍に寄せる期待は大きい。
 「日本のみならず、これまで世界の多くの国々に、おいて、女性は社会に出る機会がほとんどなく、家庭に閉じ籠もらざるをえない時代が長らく続きました。ですから、SGIの皆さんのように、粘り強く平和活動に取り組み、自分たちの地域社会で活躍する女性たちが現れてきていることは、とても重要なことなのです」
 対談の中で、環境問題や平和への取り組みに、勇敢に立ち上がった女性のことが話題になった時も、博士は、こう述べておられた。
 「女性には、そうした強さと優しさが備わっています。大切なのは、それを地域へ社会へと大きく開いていくことではないでしょうか」
 友のため、地域のため、平和のために献身する創価の女性は、世界において、いちだんと大きな輝きを放っているのである。
 世界が見つめる婦人部総会の大成功を、皆で応援してまいりたい。
 女子部も明年、結成五十五周年を迎える。未来のために、盤石なる人材のスクラムを築いていってほしい。
 大切なのは、着実にメンバーを増やしていくことだ。活動が空転してはいけない。目標を明確にし、実質的な拡大を成し遂げていくことだ。女子部が発展すれば、学会も栄えていく。希望と幸福の花園が広がる。次の五十年へ、新たな飛躍となる明年の戦いを、お願いしたい。
 近代日本を代表する哲学者の内村鑑三は、記した。
 「唯吾人の最も恐れ最も憂うる所は青年の無気力なり、青年は此腐敗せる社会の改善者なり、此世の新勢力なり、清流の源なり」(『内村鑑三全集』3、岩波書店)
 青年の行動が社会を変える。青年の燃えるような熱と力が、新たな時代を開いていく。
 男女青年部の偉大なる「躍進」に、私は心から期待している。
12  広布のための組織、役職や立場でなく人間性で光れ
 私はかつて、イギリスのオックスフォード大学名誉教授であったブライアン・ウィルソン博士と対談集『社会と宗教』を発刊した。(本全集第6巻収録)
 博士は、国際宗教社会学会の初代会長を務めた方である。対談では、「組織」が宗教運動の発展に貢献を続けるためには、何が大切かについても語り合った。
 私は「大切なことは(=人々が、宗教の)組織を自らの権力欲や権威保持の手段としないことであり、組織上の立場を目的としないことです」と訴えた。
 これに対して、博士はこう指摘しておられた。
 「宗教的献身をどう維持するかということは、あらゆる信仰に常につきまとう問題です。これは特に、ある種の人々、そういってよければ信心慣れしている人々の間に生じる、独善的な態度にはっきりと見られます」
 また、「(=信仰上の)教師が自己満足に陥ったり、優越感に囚われたりする」ことによって、新しい世代の信仰者の育成ができなくなってしまうとも創立七十五周年幹部特別研修会(6)、述べておられた。
 幹部といっても、特別な存在ではない。学会においては、役職による上下の差別は一切ない。「幹部だから偉い」などと思うのは、大間違いだ。広布の使命は全部、平等である。
 今や、学会は世界的な団体になった。各国には、独自の風習や文化がある。さまざまな人がいる。欧米のように個人主義が強く、「組織」に対する抵抗感が強い国々もある。
 こうしたところでは、私はとくに、メンバーの方々と「友情を結ぼう」との思いで接してきた。
 「友だちになりましょう!」「仲良くしていきましょう!」「一生涯、ともに語り合っていきましよう!」――そういう気持ちで、メンバーとの出会いを重ねてきた。
 上下の関係ではない。親以上、家族以上の「友人」になろう、と決めてきた。地位や肩書をかさに着て威張れば、皆、逃げていってしまうからだ。
 そして私は、皆が仲間となり、広宣流布のために和合していけるよう、真剣に祈ってきた。
 また、海外においてとくに心がけてきたのは、自分の思いを明確に伝えることである。しゃべることである。もちろん、相手の話を聞くことは必要だ。しかし、黙ってムスッとしていては、皆から嫌われてしまう。思いがあっても、言葉にしなければ相手に伝わらない。自分の言いたいことは、はっきり言う。これが大切である。
 その上で、「自分は個人主義だから、組織は苦手だ」という人がいるかもしれない。そういう人には、真心を尽くし、智慧を尽くして、時にはユーモアを交えながら、組織の大切さを、わかりやすく話していくことだ。少しでも、学会の組織に近づき、ともに幸福の道を歩んでいけるように、工夫して語っていくことだ。
 智慧は信心から生まれる。そこに究極の″話術″が光っていく。日蓮大聖人の御手紙を拝しても、仏典はもとより、故事を通し、箴言を引き、子どもでもわかるようなたとえ話をされながら、相手の心を鼓舞しておられる。たとえ、すぐには芽が出なくても、一年先、数年先には、きっと信頼の花が咲く。それくらいの大きな心で、長い目で見ながら、進んでいくことだ。
 大切なのは、リーダーの「一念」である。同じ話をするにしても、信心の「息吹」があるかどうかで違ってくる。リーダー自身の成長が、組織の発展と会員の成長に直結していく。
 学会は、戸田先生が「戸田の命より大切」と言われた広宣流布の組織である。仏意仏勅の和合僧団である。この妙法にのっとった仏の組織を、私利私欲のために利用したり、自分の権威の手段とするような人間を、絶対に許してはならない。こうした人間を野放しにすれば、広宣流布の未来は破壊されてしまう。
 大事なことは、リーダー一人一人が、つねに「師弟」という原点に立ち返り、信行学の基本に徹しぬいていくことである。わが心を「広宣流布ひとすじ」に、固めぬいていくことである。
 学会のために行動すれば、その功徳は大きい。自身はもとより、子孫末代まで、その功徳に包まれていく。何ものにも負けない人格ができる。永遠に崩れない幸福の骨格を、固めていけるのである。
13  日興上人は「師の仰せ通り」に邪義を破折
 日蓮大聖人が御入滅された後、六人の高弟のうち、日興上人を除く五老僧は、ことごとく師の教えに違背した。身延の地顕であった波木井実長も、五老僧の一人である日向にたぶらかされて、神社への参詣や念仏への供養など、数々の謗法を犯すようになった。
 日興上人は、身延離山への心境をつづった「原殿御返事」の中で、日向の邪義を厳しく破折しておられる。
 そして、釈迦仏像の造立を行おうとする実長の誤りを指摘したことにふれ、こう仰せである。
 「このことは、大聖人の御弟子として、その後を継がせていただいている立場から申し上げているのである。これを誉れある行為だったと自負していることは、大聖人が我が身に入り替わっておられるのであろう」(編年体御書一七三三ページ、趣意)
 「かりそめにも、へつらい曲げることなく、ただ経文のとおり、大聖人が仰せられたとおりに、違背の弟子を諌めることができたものだと、みずからを誉めてこそいるのである」(同㌻、通解)
 大聖人の弟子である以上、大聖人の仰せのとおりに実践する。それが弟子の誇りであると述べておられるのである。
 また、日向の邪義を破折することについて、こう仰せである。
 「ともに同じ修行をしてきた者だからといって、遠慮して、どうして大聖人の正義を隠してよいであろうか」(編年体御書1734㌻、通解)
 ともに修行してきた者であっても、決して遠慮してはならない。断じて正義を言いきっていかねばならない――正法正義のため、広宣流布のため、日興上人は、どこまでも厳格であられた。
 ともあれ、「心こそ大切」である。
 どこまでも、「広宣流布のため」「学会のため」「同志のため」「後輩のため」、そして「青年のため」!――この心を燃え上がらせながら、学会の万年の発展の道を開いていただきたい。
14  人生の安全のために、正義を行い、真実を語れ
 ここで、世界の知性の箴言を、いくつかお贈りしたい。
 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、洞察した。
 人生の安全の方途は何か――それは「魂の奥底から正義を行ない、真実を語ることである」(『自省録』水地宗明訳、京都大学学術出版会)
 また、内村鑑三は述べている。
 「忘恩と叛逆とは悪魔の特性である」(『内村鑑三著作集』6、岩波書店)
 これまでも、学会の同志のお世話になりながら、その恩を仇で返し、反逆していった輩がいた。人間として、最低の所業である。
 ロシアの文豪トルストイは、戯曲の中で登場人物に語らせている。
 「悪魔って奴は威張り屋の法螺吹きだ」(『闇の力』米川正夫訳、『トルストイ全集』13所収、岩波書店)
 「傲慢」と「嘘つき」――これが悪人の一つの特徴である。こうした人間を、絶対に信用してはならない。だまされてはならない。
15  ″友人が悩みや困惑を打ち明けてくれた時、彼らを勇気づけることのできるものは何か?″
 フランスの女性作家ジヨルジュ・サンドは、″それは自分自身の経験から引き出した話である″とつづっている。(『我が生涯の記』加藤節子訳、水声社)
 「『私も同じ苦痛を味わった、私も同じ暗礁に乗り上げた、そして私はそこから脱出できた。だからあなたも治り、打ち勝つことができるでしょう』。これが友人が友人に語ることであり、人が人に教えることである」(同前)
 「他人に最も働きかける力があるのは、最も試練にあった人である」(同前)
 リーダーである皆さま方が、自分自身の人生の試練と勇敢に戦い、勝ち越えていく姿が、どれほど多くの人々を励まし、支え、勇気づけていくか。
 またジヨルジュ・サンドは、ある小説の登場人物に語らせている。
 「人の役に立つ仕事、真剣な献身がわしを鍛え直してくれたのだ」(『スピリディオン』大野一道訳、藤原書店)
 イギリスの女性詩人アン・ブロンテは、「富も幸福を与えはしない」(『アン・ブロンテ全詩集』藤木直子訳、大阪教育図書)と謳った。
 学会活動は、他人のために動いた分、必ず自身の、また一家の福徳としてあらわれる。いわば、″自他共の生命を富ませる仕事″だ。
 人生には、悲しいこと、苦しいこと、さまざまな出来事がある。そのすべてを、信心の力によって「変毒為薬」できるのである。
16  広布の拡大は対話の戦い、外交戦
 組織にせよ、人間関係にせよ、一対一の直接の対話によってはじめて、生き生きと血が通うものだ。二年前の三月、ゴルバチョフ元ソ連大統領と再会を喜び合った。その折、私はドイツの詩人シラーの言葉を贈った。
 「友情というものは、誠実で大胆なものです」
 「もうなにひとつ、恐ろしいものはない――君と手をとりあったからには、全世界を相手にしてでも戦ってみせる」(『ドン・カルロス』北通文訳、『世界文学大系』18所収、筑摩書房)
 ひとたび結んだ信義は守りぬく。この決心と行動が、信頼を深め、連帯を広げる。これが世界に通じる法則である
 そのうえで広布の拡大は、一面からいえば「対話の戦い」であり、「外交戦」である。
 これからの時代は、「洗練された強さ」がいよいよ求められる。
 十七世紀から十八世紀にかけて活躍したフランスの外交官カリエールは、外交を行う者の資質について、「度胸がすわっているということ」「勇気」が必要であると強調した。(『外交談判法』坂野正高訳、岩波文庫。以下同書より引用・参照)
 同時に「十分に検討をした上で一度決心してきめたことは、ねばり強く貫き通す」という「確固不動の精神」が不可欠であると説いた。そうした勇気がなければ、公の場で侮辱されても、自国の君主の名誉を守れない。また、「堂々とかつ豪胆にやり返す」こともできない。
 また彼は、「相手の対応の仕方は、しばしばその問題の如何ばかりでなく、こちらの話し方の如何によっても、左右される」と指摘している。
 話し方が複雑で暖昧だと、余計な問題が生じてしまう。
 ゆえに、「常に心がけるべきことは、自分の考えを適切でしっかりした道理で裏付けながら、慎み深い態度で述べて、他人のいう理屈にもよく耳を傾けるということである」と戒めている
 私たちも、来客を迎える時など、ダラダラと話をしないことだ。相手も忙しい。短時間で簡潔に、礼儀正しく、堂々とした声で語ることだ。人と会い、仏縁を結ぶことが広宣流布である。どうか明年もまた、見事なる外交の歴史を残していただきたい。
17  重ねて、箴言を贈りたい。
 「君がたとい誰であれ、ぜひとも自分を思う存分発揮したまえ」(『草の葉』中、酒本雅之訳、岩波文庫)
 アメリカの民衆詩人ホイットマンの一節だ。
 自身の可能性を開く。そのための信心である。
 「自分は褒められて当然の人間だと考えるところから数え切れないほどの過ちは生じる。評判に躍らされた人間は不名誉な笑いものとなり、この上なく大きな誤りに陥るのである」(『義務について』高橋宏幸訳、『キケロー選集』9所収、岩波書店)
 古代ローマの哲学者キケロの言である。
 他人の目ばかりを気にして生きる人生の、なんと窮屈なことか。
 また、中国の文豪・魯迅は、同胞に対して力強く訴えた。
 「他人に同情されること、他人にほめられることを求めずに、自分で自分を変えていく。それによって、いったい中国人とは何であるかが自己証明されるのだ」(『魯迅文集』6、竹内好訳、筑摩書房)
 自分で自分を変えていく――いい言葉だ。
 この「人間革命」の挑戦が、「生きた証」として、わが生命に厳然と刻まれるのである。
18  今から七百三十年前の建治元年(一二七五年)十二月二十六日、日蓮大聖人のもとに、強仁ごうにんという僧から論難の書状が届いた。大聖人は、その日のうちに、彼の大慢を痛烈に打ち破る返書を認められた。まさに電光石火である。その中で、こう仰せである。
 「(日蓮は)わが身命を仏神の宝前に捧げて、刀剣をもって斬られることも、幕府から罰せられることも恐れず、昼は国主に訴え、夜は弟子たちに語り聞かせたのである」(御書184㌻、通解)
 思えば、日顕宗が学会に支離滅裂な論難を送りつけてきたのは、十五年前の年末のことであった。チリの哲人指導者エイルウイン元大統領は、私との対談集で「権力というものは、必然的におごりや堕落、権威主義をもたらすものなのです」(『太平洋の旭日』本全集108巻収録)と述べておられた。
 学会は、大聖人の御心のままに、恐れなく社会に正義を訴え、後継の人材を育ててきた。そして権威主義の悪を見破り、すべてに勝った。
 イギリスの哲学者ミルは、「正しき側に組しないものはすべて悪の側に結局は荷担することになる」(『ミルの大学教育論』竹内一誠訳、お茶の水書房)と喝破した。
 衰亡の一途をたどる日顕宗を見おろしながら、明年も、日本一、世界一の新年勤行会で、晴ればれと出発してまいりたい。
19  来年も広布の陣頭に立て
 終わりに、二首の和歌を贈りたい。
 一首は、昭和二十七年(一九五二年)五月三日、戸田先生の会長就任から一周年、私と妻の結婚の日に詠んだ和歌である。
  天も晴れ
    師弟の心は
      躍るらむ
    今世の誓いと
      三世の誇りを
 そして、昭和三十五年(一九六〇年)五月三日、第三代会長就任の、その日に詠んだ和歌である。
  全生命
    賭して 指揮執る
      時 来り
    広宣流布の
      陣頭 我なり
 いずれも、私の執務室に今も留め置いてある。
 「今世の誓い」と「三世の誇り」を胸に、来年も、「広宣流布の陣頭」に立って、共に戦い、そして勝ちましょう!
 一年間、本当にありがとうございました。来年も力を合わせて、皆が「私は悔いなくやりきった!」と言える希望の前進を、お願いします。
 各方面・各地の同志に、どうか、くれぐれもよろしくお伝えください。
 風邪をひかないように。どうか、よいお年をお迎えください。
 (信濃文化センター)

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