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日蓮大聖人・池田大作

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創立七十五周年記念本部・海外最高協議会… ともに元気に!大満足の人生を飾れ

2005.11.11 スピーチ(2005.8〜)(池田大作全集第99巻)

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2  プーシキンは今も深く民衆に愛されて
 今月二日、本部幹部会の席上、私は、八五同志とともに、「プーシキン金メダル」を拝受した。
 うれしいことに、ロシアをはじめ、国内外のプーシキンを愛する方々からも、祝福のお便りを多数いただいている。
 ロシアの国民的詩人であり、「近代文学の父」「詩歌の太陽」と讃えられるプーシキンは謳った。
 「この世を飾るのは、友情のみ。友情なくして、喜びはない」(А.С.Пушкин:Собрание счинений. том1, Худсжественная питература)
 私たちは、世界に真の友情を結んでいる。
 プーシキンは、こうも語っている。
 「当然、人には、家柄を超える尊厳がある。つまり、人格の尊厳である」(А.С.Пушкин:Собрание счинений. том6, Худсжественная питература)
 人間の「自由」と「尊厳」を高らかに語い上げたプーシキンの詩には、人格の光があり、温もりがある。それゆえに、今もなお、ロシアの民衆に深く愛されてやまないのであろう。
 文豪トルストイは、プーシキンを「われわれの教師」と讃えている。また、十九世紀ロシアの著名な文芸評論家ペリンスキーは、プーシキンを「何百万もの人々を潤すボルガ川」にたとえた。
 今回、来日されたプーシキン金メダル褒章委員会のシードロフ委員長も、このボルガ川の沿岸で生まれ育った方であった。プーシキンをこよなく愛する同委員長は、本部幹部会に集った創価の友の喜々とした姿にふれて、「太陽よ万歳! 闇よ消えよ!」とのプーシキンの言葉を贈ってくださった。そして、「偉大な詩人は、あたかも創価運動を予見していたかのようであった」とまで言ってくださったのである。
 さらに、同委員長とともに来日されたファトクーリン書記から、一通の書簡をいただいた。この書簡には、モスクワの「中央芸術家会館」において、私の「自然との対話」写真展を開催したいとの旨が記されていた。同会館は、ロシアの″心臓部″であるクレムリンに向かい合って立つ″芸術の宝城″である。同書記によれば、年間三百件以上の展示会を開催し、年間約百万人が鑑賞に訪れるという。素人である私の写真に対し、まことに、身にあまる要請をいただいた。(=同写真展は二〇〇六年十一月にモスクワの中央芸術家会館で開催された)
 私が写真を始めたのは、ある方からカメラをいただき、そのご厚情にお応えして、写真を撮ったことが、きっかけだった。
 また、学会の会館の中を飾るのに、絵は高くて、すべての会館に置くわけにはいかない。かといって壁に何もないのでは、あまりに殺風景であろう。それならば、写真を置いてはどうかと思い、寸暇を見つけては、目にした自然の光景などを撮影するようにしてきたのである。
 このようにして始めた私の写真が、海外の皆さんの目にふれて、相互理解や文化の親善につながるならば、これ以上の喜びはない。
3  さてプーシキンは、一七九九年六月、モスクワの貴族の家に誕生した。開設されたばかりの英才教育の学園に、一期生として学んだ。
 彼が、生涯、この母校を愛し、同窓の友情を大切にしたことは、よく知られている。
 若き日、プーシキンは圧政を批判する詩を発表したことで、都を追われる。その後、六年間にわたって追放生活を余儀なくされている。その追放先に、数人の同窓の友が危険を顧みず、はるばる駆けつけ、プーシキンを励ましたうるわしき友情の劇は、馥郁たる薫りを放っている。
 彼は、その深き友情に感謝を込めて、謳った。
 「おお友たちよ」「君のこえは ながい眠りのなかから 心の火をよびさました。わたしは喜びに胸をみたさ 運命をたたえた」(『プーシキン詩集』金子幸彦訳、岩波文庫)
 その後も、プーシキンは、権力による検閲や周囲の誹謗中傷などと戦い続けた。その闘争のなかで、世界文学に輝く不滅の傑作を残していったのである。
 主な作品に、韻文形式の小説『エヴゲーニー・オネーギン』、歴史小説『大尉の娘』、史劇『ボリス・ゴドゥノフ』などがある。詩作は八百編以上にのぼる。
 プーシキンの心は、毅然としていた。彼は、「よこしまの力のゆえにこの世に高い地位をたもつ悪者やうつけ者(=愚か者)の運命をうらやむことなく」(同前)ともつづっている。
 悪党どもの運命の行く末は、惨めな敗北に決まっているからだ。
 さらにプーシキンは言った。
 「思想がなければきらびやかな表現も何の役にも立たない」(「評論」川端香男里訳、『プーシキン全集』5所収、河出書房新社)
 同じように、思想のない、哲学のない、信念のない人間は、どんなにきらびやかに身を飾ろうともむなしいものだ。私たちは、妙法という最高の思想、最高の哲学に翫づいた、最高に尊い人生を歩んでいる。そのことを誇りとしてまいりたい。
4  ブラジル広布四十五周年は″民衆の勝利の大叙事詩″
 きょうは、遠くブラジルSGIの首脳も出席してくださっている。ブラジル広宣流布の栄光の四十五周年、まことに、おめでとう! 本当に、よく頑張ってくださった。ブラジルSGIは今、あらゆる面で大発展している。すべてはブラジルの同志のおかげである。
 サンパウロ近郊に広がるブラジルSGIの自然文化センターも、皆さまの真心ですばらしく整備されているとうかがっている。うれしいことである。
 また、アマゾン中流域のマナウス市近郊に開設されているアマゾン自然環境研究センターにも、各界から高い評価が寄せられている。(=二〇〇六年三月には、同センターの環境保全の取り組みなどを讃えて、マナウス市に、名誉会長の名前を冠した州立「池田大作博士学園」が開校した)
 アマゾン――世界の憧れの地である。私も、いつの日か訪問できることを、楽しみにしている。
 ブラジル文学界の巨星で、私たちSGIの深い理解者であられたジョルジェ・アマード氏は、誇り高く「民衆」を讃え、「人民」を謳い上げた。
 「海よりも強いもの、それは民衆である」
 「民衆は毎日詩の新しい奇跡を、英雄心の新しい奇跡をつくり出す」(『革命児プレステス』神代修訳、弘文堂、以下同じ)
 さらにアマード氏はつづっている。
 「われわれは人民がいつも真実を求め、真実を旗じるしにしようとするのを知っている。
 また人民の民の指導者や人民によって鍛えられた人たちは、圧制者の仮面にだまされはしない」
 「人民の叫び声はどんな叫び声よりも強力である」
 そのとおりである。ブラジルSGIの四十五年、そしてわが創価学会の七十五年の歴史は、最も気高く、最も強き民衆の勝利の大叙事詩であると宣言したい。
 偉大な存在――それはひとえに、広宣流布に邁進する学会員である。
 ブラジルにおいても、わが尊き同志の貢献に賞讃が絶えない。今月も、サンパウロ州など各地で、11・18「創価学会創立記念日」の意義を刻む「慶祝議会」が盛大に開催される予定である。
 また、このほどブラジルの名門パイア・カトリック経済大学から、光栄にも私に対して同大学の第一号となる「名誉博士号」の決定通知が届けられた。(=授与式は二〇〇六年九月に行われた)
 すべては、尊き社会貢献の活動を広げゆくブラジルの同志への絶大なる信頼の賜であり、賞讃の証にほかならない。貴国の皆さま方に重ねて心から感謝申し上げたい。
5  ブラジルの文豪アマード氏はまた、こうもつづっている。
 「いつわりの仮面をかぶった者たちは、苦しめられ、卑劣な甘言の手がさしのべられると、すぐに脱落してしまうことだろう」
 広宣流布の途上にあっても、仮面をかぶった卑劣な輩が、退転し、弓を引いていったことは、ご存じのとおりだ。
 そしてアマード氏は、「幸福とは正義を理解すること」であり、「(=幸福とは)勇気や品格のある生活のなかにある」と洞察している。
 まさに、たゆみなく学会活動に勇み舞いゆかれる皆さま方の人生の英姿であるといってよい。
 アマード氏が、ひときわ讃えたのは、苦悩にも毅然として立ち向かい、冷静に、そして妥協を許さず進んでいく″庶民の母″であった。
 ″この母の喜びこそが民衆の喜びである″――こうアマード氏は結論している。
 母は偉大である。母は勇敢である。母は聡明である。母は正義である。
 その母たちが幸福に輝いていってこそ、平和と希望の園が広がるのだ。
6  創価の女性に幸福あれ
 日蓮大聖人は、懸命に信心を貫く女性門下たちを、こよなく大切になされた。
 大聖人は、乙御前の母に対して、鎌倉からはるばる佐渡の大聖人のもとへ訪れたことについて、こう書き送られている。
 「女性の身で、これまで足を運んでくださったあなたの姿にふれると、日蓮が流されたのは、わけあってのことですが、″あなたの厚い御志があらわれるためであったのか″と、ただありがたく思うばかりです」(御書1222㌻、通解)
 乙御前の母は、女手一つで娘を育てながら、勇気ある信心を貫いた。その健気な母の求道に対して、大聖人は、あなたの尊い信心が現れるために、私は流されたのだろうか、とまで一言われ、最大に讃えられたのである。
 わが創価学会が、この七十五年間、あらゆる「三障四魔」を勝ち越えて、大勝利の前進を重ねることができたのも、すべて、難に怯まず、真剣に戦いぬいた婦人部の皆さまのおかげである。
 崇高なる広宣流布の母たちに、あらためて心からの感謝を捧げたい。
 十一月十二日は「女子部の日しである。女子部の皆さんは、創価の希望の太陽である。
 女性が輝き、伸び伸びと進んでいる組織は強い。勢いがある。聡明に、楽しみながら、希望と幸福のスクラムを広げていっていただきたい。
 女子部の皆さん、いつも本当にご苦労さま。尊い青春の日々を、どうか健康で、無事故で! と申し上げたい。
 十三日には、わが先駆の九州青年部が、「青年・躍進の年」に先駆けて、アジア青年平和友情総会を行う。
 恩師戸田先生から「東洋広布」を託された全九州の誉れの友が、沖縄の青年部と手を携え、アジアの友と心を通わせて、ベートーヴェンの「歓喜の歌」を歌い上げる。
 晴れやかな大成功を、皆で祈りたい。(十三日、九州と沖縄の各中継会場を結んで、十万人による「歓喜の歌」が高らかに響きわたった)
 壮年、婦人の皆さんは、真剣に戦う青年をほめ讃えていただきたい。次の時代を担うのは青年である。
 また、会合の責任者には、ともかく「絶対無事故」をお願いしたい。全員で心を合わせて祈るとだ。「絶対無事故」が、当然である。事故を起こせば、だれも得をしない。同志も皆、悲しむ。とくに、大きな会合の場合は、細心にも細心の注意を重ねて、完壁な運営をお願いしたい。
7  納得の対話から新たな発展が
 どうしたら、理想の組織をつくり上げることができるか。その急所は何か。
 それは、リーダーが成長することだ。手を打つ人間が、人の何十倍も苦しみ、題目をあげて、考えぬくことである。会合でいい話をすることも大事だ。だが、それだけでは人は動かない。一対一で語り、心がつながってこそ、徐々に大回転が始まっていく。
 改革は必要である。しかし、安直に進めれば、かえって、混乱をもたらす場合もある。だからこそ、現場の声を聞くことだ。皆が納得して進んでいけるよう、よく打ち合わせ、対話を重ねることである。とくに、若くしてリーダーになったならば、皆の意見に謙虚に耳をかたむけねばならない。苦労しなければ、人の心はわからないものだ。
 また、挑戦の心を失えば、硬直した官僚主義におちいってしまう。格好はいいが、血が通わない。慈愛がない。思いやりがない――そういうリーダーであったならば、皆、がバラバラになってしまう。
 「皆、大変ななか、本当によく戦ってくださっている」――そう感謝する心があるか、ともに戦い、同苦する心があるかどうかである。
 どうしたら皆が安心して広布へ進み、勝利と幸福をつかんでいけるか――その一点を、私は祈り、全魂を注いできた。そこに呼吸を合わせなければ師弟は「不二」でなくなる。決して上から押しつけるのではなく、皆から「よくやってくれたしと言われる名指揮を、よろしくお願いしたい。
 何でも言える雰囲気が大事である。そういう組織が伸びる。立場が上であるほど、自分から皆の話を聞いて、一つ一つ応えていかねばならない。疲れるかもしれないが、それが指導者の責任であるからだ。何も言えないような雰囲気では、最低の組織である。そうならないために、まずリーダーが真剣に、一生懸命、戦う。たゆみなく人間革命していくのだ。これを心に刻んでいただきたい。
8  ドゥ・ウェイミン博士――宗教は「社会的使命」を果たせ
 私は現在、中国思想研究の第一人者であるハーバード大学教授のドゥ・ウェイミン博士と、連載対談を続けている(=『対話の文明――平和の希望哲学を語る』と題し、二〇〇七年一月に第三文明社から発刊)
 ドゥ・ウェイミン博士は、「儒教文明」を代表する知性として、世界を舞台に活躍されている。
 私との対談で博士は、地球社会の平和を築くうえで、宗教がきわめて重要な役割を担うと展望されている。
 それでは、二十一世紀の「世界宗教」の要件とは、いったい何か。博士がその一つとして挙げられたのは、「地球共同体の幸福に対する責任を担っていく」努力の有無である。
 宗教者は、自身の教団をめぐる関心にとどまらず、文化的な見識を備え、社会のあり方に関心を持たねばならない。そして、社会に積極的に関わっていく「公的知識人」として行動することが求められる、というのである。
 この観点から博士は、私たちの「平和・文化・教育」の運動を高く評価してくださっている。
 学会は、「個人の幸福」を勝ち取るとともに、「社会的使命」を誠実に、そして厳然と果たしてきた。ゆえに、世界から信頼を勝ち得てきたのである。
 さらに博士は、これからの宗教のリーダーは、「二つの言葉」に通じていなければならないと指摘されている。この「二つの言葉」とは何か。
 一つは、「同じ信仰を持つ人々を結びつける言葉」である。つまり、内部の連帯と交流に必要な言葉であり、信仰上の指導や励ましなどが、これに当たると言えよう。
 幹部である皆さま方は、接する一人一人に安心と確信、そして希望を贈る「指導の達人」「激励の名人」であっていただきたい。
 御書を拝しても、日蓮大聖人は、どれほど門下を賛嘆しておられることか。真剣に戦う女性、年配者、青年を、それはそれは、こまやかに賞讃し、激励されている。
 たとえば、佐渡に流罪された大聖人のもとへ、危険を顧みず供養を届けられた千日尼に対しては、「いつの世にか忘れることができましょう。(日蓮の)母が佐渡の国に生まれ変わっておられるのでしょうか」(御書1313㌻、通解)と、感謝と讃嘆の心を伝えておられる。真心と誠意のこもる「ほめ言葉」をかけていくところに、喜びの波動が広がる。
 あの献格な戸田先生も、広宣流布に戦う最前線の同志を、最敬礼して讃えられた。
 「皆さまの信心のおかげです」「ことごとく皆さんのおかげだ」「あなたがたへのご褒美は、御本尊が、きちんとくださいますよ」等々、声を惜しむということがなかった。ある時には、教学部の友に「じつによくやってくれた。何よりも誇りに思います」と声をかけておられた。
 きょう一日、何人の人に温かな声をかけ、ほめることができるか。ここに、指導者の重要な使命がある、と強調しておきたい。
 さて、ドゥ博士が訴える、宗教指導者が持つべき「二つの言葉」のもう一つは何か。
 それは、「世界市民としての言葉」である。
 信仰の組織の内部に閉ざされるのではなく、開かれた心で、社会へ、世界へ、あらゆる人々と対話を交わしていくことである。外にどんどん打って出て、勇敢に対話を広げ、理解と共感を深めていくことだ。広宣流布は、外交戦であり、渉外戦である。
 この点でもドゥ博士は、創価学会の「開かれた対話」の精神を讃えてくださっている。一方日顕宗は「対話を閉ざした」ところに重大な誤りがあったとも分析されている。
 「創価学会が行われている、普遍性に根ざす宗教の実践と、人類の存続を脅かす諸問題への真剣な取り組みとの往復作業は、非常に貴重です」
 これが、博士の深く温かな理解である。
9  さらにドゥ博士は「地涌の菩薩」の生命観に深く共感され、こうも語られている。
 「『地涌』とは、自らの生きる大地を拒絶しようとしてはいけない、ということを教えているのではないでしょうか」
 「どのように社会が乱れようと、人間は自らに内在する仏性を信じ、努力することで、より良く生きることができることを示しているともいえましょう」
 さらに博士は述べている。
 「菩薩は、自ら悟ればそれでよしとするのではなく、自らの悟りや思想を人々と分かち合い、皆を救っていこうとするのです」「ここに、『自己実現』と『社会への奉仕』という、一見異なる生き方を融合した『中道』の生き方があります」
 私たちの「地涌の菩薩」の生き方に、断じて行き詰まりはない。見た目や格好ではない。わが内なる仏の生命を、燃え上がらせ、戦うことである。
 どうか、世界の最高峰の知性も讃えてやまない、この「地涌の菩薩」の誇りも高く、創価の世界から離れることなく、威風堂々と使命の連帯を拡大していっていただきたい。
 きょうはアメリカ創価大学の学長も同席されているが、ドゥ博士は、アメリカ創価大学に大きな期待を寄せてくださっている。私との対談の中でも、「学問の専門化や細分化が顕著な現代にあって、『全体性』と『専門性』を兼ね備えた教育を行うアメリカ創価大学の試みは、非常に意義深く、重要であると思います」と語っておられる。これからも私は、創価教育の総仕上げとして、アメリカ創価大学の発展に全魂を注いでいく決心である。
10  会館は「幸福の城」「人間性のオアシス」
 創立七十五周年民加世間し、全国の同志が、連日のように信濃町の学会本部を訪れてくださっている。私は本当にうれしい。
 「遠いところ、たいへんにご苦労さま!」「いつもありがとう!」と、最大に感謝申し上げます。
 この七十五周年を一つの節目として、学会本部周辺をはじめ、各地の会館の整備を順次、進めていく予定である。すべて、未来のためである。
 待望の創価女子会館も明年、完成する。(=二〇〇六年五月に開館)
 学会の会館は「幸福の城」であり、「人間性のオアシス」である。
 ここに来ると、ほっとする。希望がわく。勇気がみなぎる――皆さまに、そう思っていただけるような、立派な「創価の宝城」としてまいりたい。
 また、学会本部をはじめ、各地の会館等では、多くの方々が、昼夜を分かたず、運営や警備に尽力してくださっている。この席をお借りして、最大の敬意と感謝を、お伝えしたい。これから、ますます寒くなってくる。どうか風邪などをひかれないように、十分に注意していただきたい。
11  世界最高の教学が学会の誇り
 今月の二十日には「教学部任用試験」が行われる予定である。
 「求道の心」輝く受験者の皆さまには、「真剣な教学への取り組み、本当にご苦労さま!」と申し上げたい。また、ともに学び合い、受験者の激励に当たってくださっている先輩の方々にも、心から感謝いたします。
 日蓮大聖人は「法華行者逢難事」で、弟子たちに、こう仰せである。
 「おのおの互いに、(この法門について)読み、聞いていきなさい。このような末法の濁った世にあっては、互いにつねに語り合って、いつも後世を願っていきなさい」(御書965㌻、通解)
 この御聖訓のとおりの実践が、学会の教学運動である。
 戸田先生は、高らかに叫ばれた。
 「創価学会の一つの誇りとするところは、世界最高の教学を持っていることだ」
 「学会がここまできたのも、真剣な御書講義と研鑽があったからだ。教学が広布の根源である。だからこそ、全魂を教学にかたむけてきたのだ」
 「創価学会の使命は、広宣流布の推進にある。そのためには、教学の振興が大事である」
 先生は、幹部にもつねづね、こう語られていた。
 「疲れきった時にこそ、御書を拝読していけ! たとえ一行でも、二行でもよい。御書を拝して、みずからの境涯を、もう一歩、開くのだ」
 私は、創立七十五周年の意義深き任用試験の無事故と大成功を、真剣に祈っている。どうか、今回の任用試験を契機として、全リーダーが「行学の二道」に、いよいよ励んでいただきたい。
12  生命におよんだ「小松原の法難」
 きょう十一月十一日は、日蓮大聖人が「四度の大難」の一つである「小松原の法難」に遭われた日である。文永元年(一二六四年)のこの日、大聖人は、十人ほどの弟子たちとともに、安房・天津の領主であった門下の工藤吉隆の屋敷に向かっておられた。
 夕刻、大聖人の一行が東条郷の松原大路(現在の千葉県鴨川市内)にさしかかった時のことである。地頭の東条景信が率いる、武装した多数の暴徒が襲いかかってきた。その数は、御書に「数百人」(1498㌻)と記されている。
 当時、念仏の強信者であった東条景信は、念仏を徹底して破折する大聖人に対して、深い怨嫉を抱いていた。また景信は、この地の荘園の領主の妻である大尼と領地を巡って争ったさい、大聖人が大尼に味方をしたことで、敗北を喫したことがあった。景信は、このことでも大聖人を恨んでいたのである。
 この襲撃で、大聖人は、左手を骨折され、額に大きな刀傷を負われた。弟子の鏡忍房は打ち殺され、駆けつけた工藤吉隆も重傷を負って殉難したといわれている。壮絶な大難であった。
 「小松原の法難」から一カ月後、大聖人は、門下の南条兵衛七郎(南条時光の父)に、こう書き送っておられる。
 「(敵が)射る矢は降る雨のようであり、打つ太刀は稲妻のようであった。弟子一人は即座に討ち取られ、二人は深手を負った。私も斬られ、打たれ、もはやこれまでというありさまであったが、どうしたことであろうか、討ちもらされて、今まで生きている。いよいよ法華経の信心を増すばかりである。法華経第四の巻には『しかもこの経は仏の在世でさえ、なお怨嫉が多い。ましてや仏の滅度の後においては、なおさらである』とあり、第五の巻には『一切世聞に怨嫉が多くて信じがたい』と説かれている」
 「(日本国に)法華経のために傷つけられる人は一人もいない。だから日本国の持経者は、いまだこの経文には符合していない。ただ日蓮一人こそ、この経文を身で読んだのである。『我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ』とは、このことである。ゆえに、日蓮は日本第一の法華経の行者である」(御書1498㌻、通解)
 生命に及ぶ大難を乗り越えられた大聖人の大宣言であられた。
13  私は、若き日に、大聖人の「不惜身命」「忍難弘通」の大闘争を学び、わが生命に刻みつけた。
 そして、広宣流布の大願に生涯を捧げ、師匠である戸田先生を守りぬくことを、心に誓ったのである。
 「一切の魔の働きから、どうすれば師匠を守ることができるか」「どうすれば学会を守れるか」。そして、「どうすれば広宣流布を進めることができるか」――私は、ここに一念を定めた。そして真剣に、具体的に祈った。祈りは具体的でなければならない。現実をどう変えるかという「具体性」がなければ、祈りは空転してしまうからだ。
14  すべてをなげうって師を守った
 戸田先生の事業が苦境におちいった時も、私は先生を厳然とお守りした。これは、私の永遠の誇りである。
 あの時、先生のもとでお世話になっていた多くの人が「戸田の馬鹿野郎!」「タヌキ野郎!」などと、口汚く罵って去っていった。借金は膨大な額だった。剛毅な先生も、さすがに憔悴しておられる時があった。
 私は、その先生を支えに支え、阿修羅のごとく働いた。事業の再建のために、昼夜の別なく奔走した。だれに対しても、誠実の行動を貫いた。
 私は当時、肺病を患っていた。体もつらかった。しかし、すべてをなげうって師のために戦いぬいた。師匠である先生を守ることが、学会を守ることであり、会員を守ることであると深く自覚していたからだ。そうしたなか、事業の交渉相手のなかから「あなたはすばらしい人だ」「あなたのためなら協力しよう」と言ってくれる人も現れた。言葉では言い尽くせない深いドラマがあった。
 また、あの「大阪事件」のさいも、私は先生を徹して守りぬいた。
 事実無根の容疑で逮捕された私に、検事は″おまえが罪を認めなければ、戸田を逮捕するぞ″と卑劣きわまる恫喝を加えてきた。
 当時、戸田先生は、かなり衰弱しておられた。万が一、逮捕されたなら命にもかかわる。私は、先生だけは絶対にお守りしなければならないと決意していた。そのために、いったんは自分が無実の罪を被ることを決めたのである。苦渋の決断であった。(=後に、裁判で名誉会長の無罪が確定した)
 戸田先生は、そうした私を深く深く信頼してくださった。″だれよりも信頼できるのは大作である″――これが先生の思いであった。
15  私は、先生が構想し、言い残されたことは、すべて実現してきた。先生は勝った。先生は幸福であった。弟子の戦いを心から喜んでおられる先生の姿が目に浮かぶ。
 師弟というものが、どれほど深く、尊い、永遠の人間の道であるか。私は、戸田先生のもとで苦労しぬいた。「師弟不二」で戦いぬいた。だからこそ、今の私がある。
 当時の状況に比べれば、今は本当に恵まれている。もちろん、時代や環境は大きく違うかもしれない。しかし、みずから求めて苦労をしていかなければ、本当の指導者になることはできない。
 私は第三代の会長に就任してからも、あらゆる誹謗や中傷を一身に浴び、全同志の盾となり、学会の屋根となってきた。それこそ全身に槍傷、刀傷を負うような時もあった。ふつうでは耐えられないほどの迫害、また迫害の連続であった。それでも一歩も引かずに戦いぬいてきた。勝ちぬいてきた。だからこそ、今日の世界的な学会の発展がある。
 学会の一切を担い立つ人間には、あらゆる苦難や迫害に耐えぬく覚悟がなければならない。決して簡単に考えてはならない。厳しいようであるが、学会の永遠の発展のために、あえて言い残しておきたい。
16  広布の人生に「勝利の宝冠」
 私は現在、「ヨーロッパ科学芸術アカデミー」の会長であり、著名な心臓外科医であるウンガー博士と対談を進めている。(=『人間主義の旗を――寛容・慈悲・対話』と題し、二〇〇七年八月に東洋哲学研究所から発刊)
 博士との語らいでは、十九世紀のオーストリアを代表する劇作家グリルパルツァーのことも話題になった。楽聖ベートーヴェンとも親交のあった人物である。
 グリルパルツァーは、戯曲のなかで、こうつづっている。
 「わたしは一つの罪を知っている。その罪の黒さにくらべれば、ほかの罪なぞはすべて百合の花のように白く見えるほどだ。忘恩というのがその名だ」(『ザッフォオ』実吉捷郎訳、岩波文庫)
 どんな罪よりも重い罪――それが「忘恩」だというのである。
 戸田先生も、「恩知らずが、組織の中にのさばると、妙法の功徳は、毒に汚される。功徳が消えるだけでなくして、魔物が動き始める」と厳しく言われていた。
 グリルパルツァーは別の戯曲で、登場人物に語らせている。
 「高慢ちきというものは、ばったり落ちてしまうのじゃ」(『オットーカール王の幸福と最後』中島清訳、『世界戯曲全集』20所収、近代社)
 学会の、お世話になりながら、同志を見下し、反逆した「高慢ちき」な連中――そうした輩が皆、「ばったり落ちて」悲惨な末路を遂げていることは、皆さまもよくご存じであろう。
 グリルパルツァーは、戯曲でつづった。
 「この世では犯した罪が屹度きっと報いられる」
 「この世の中で、悪事が罰をうけずに済むものか!」(『三部劇詩 金羊皮』相良守峯訳、岩波書店)
 いわんや仏法においては、因果の理法は厳然である。
 ギリシャの著名な教育者であり、弁論家であったイソクラテスは、こう断じている。
 「死はすべてのものに運命の定めるところのものであるが、美しい死は高貴な人にのみ与えられる」(『弁論集』1、小池澄夫訳、京都大学学術出版会)
 ともあれ、高貴な魂をもって、偉大な使命に生きぬいた人は、すばらしい死を迎えることができる。広宣流布という大願に生き、人類の幸福と平和に尽くしゆく学会員の皆さまこそ、生命の永遠の「勝利の宝冠」を勝ち取る方々なのである。
 大聖人は、流罪された佐渡の地で、厳然と仰せになられた。
 「法華経の行者は、信心において退転することなく、身において詐り親しむことなく、一切、法華経にその身を任せて、仏の金言のとおりに修行するならば、たしかに、来世はいうまでもなく、今世においても無事で寿命を延ばし、最高に勝れた大果報を得て、広宣流布の大願をも成就できるであろう」(御書1357㌻、通解)
 信心に退転なく――学会は、この御聖訓のとおりに戦いきってきた。だからこそ、これほどの大果報を得、世界広宣流布の大願を成就してこられたのである。
17  マルロー氏「変革を成し遂げよ希望と不屈の意志で」
 世界の識者も、学会の創立七十五周年を祝賀してくださっている。
 私が、ともに対談集を発刊した一人に、フランスの「行動する文化人」アンドレ・マルロー氏がいる。(『人間革命と人間の条件』〈本全集第4巻収録〉)
 その良き伴侶であり、同志であられたマドレーヌ・マルロー夫人から、学会の創立の日を記念して、氏の直筆である貴重な手稿をいただいた。珠玉の文化の至宝である。
 これは、フランスの歴史に残る雄弁家であったマルロー氏が、第二次世界大戦後の激動の時代に行った演説のためのメモである。
 当時、氏は、ド・ゴールが結成した「フランス国民連合」の広報責任者として活躍していた。その氏が″フランスのより良き未来を開こう″と、烈々たる雄弁で、精神(エスプリ)の結合を訴えたのが、この不滅の演説である。一九四八年の四月二十六日、パリの庶民の公会堂として有名なジャピー講堂で行ったものと推定される。
 この手稿には、マルロー氏の叫びが凝縮されている。
 「いかなる偉大な業績も、ごくわずかな不撓の人々によって打ち立てられるものである。他の者たちは、なんとかなるだろうと考えている」
 胸を揺さぶらずにはおかない師子吼である。さらに、氏は、こう続ける。
 「われわれは、変革を成し遂げなければならない。希望と不屈の意志によって。民衆の連合には、多くの人々を結合せねばならぬ。成功するためには、なおさらである」
 そして、氏は、同志たちに感謝を込めて、次のように呼びかける。
 「あなた方は、大変なときに、母国の正義を守りぬいた」
 「フランスの再建が実現した暁には、きょう、この場――ジャピー講堂に集った、あなた方のおかげであると讃えられるであろう。雪の中でも、(われわれの主張を訴える)新聞を売っていった、あなた方のおかげであると」
 この氏の言々句々は、そのまま、平和と正義と人道の「精神(エスプリ)の戦い」を貫く創価の同志を絶讃する言葉となって、私の胸に響いてならない。
 とりわけ、「聖教新聞」の拡大に尽力してくださっている皆さま方、そして毎日また毎朝、「聖教新聞」を配達してくださっている「無冠の友」の皆さま方に、重ねて御礼を申し上げたい。
 北海道も、東北も、雪が降り始めた。どうか、体に気をつけて、「健康第一」「無事故第一」の使命の完走を、お願いします!
18  ナポレオン「私は仕事の限界を知らない」
 今年は、私がマルロー氏と最後に対談を行ってから三十年になる。
 氏は、ナポレオンに魅了されていた。私との対談でも、ナポレオンの話題になると、あの鋭い眼光をひときわ輝かせておられたのを思い出す。
 現在、八王子の東京富士美術館で行われている「栄光の大ナポレオン展」では、氏が編纂した『ナポレオン自伝』(小宮正弘訳、朝日新聞社)の中の言葉が、いくつも紹介されている。
 文化の業績に焦点を当てた、この展示の模様を知られたら、今は亡き氏が、どれほど喜んでくさることであろうか。
 ナポレオンは言う。
 「仕事こそ私の本領とするところだ。私は仕事をするように生まれついているのだ。私は自分の足の限界は知っていた。眼の限界も知っていた。しかし仕事となるとその限界はまるで知らなかった」
 この言葉を、私は、広宣流布の英雄の皆さまに謹んで捧げたい。あわせて、ナポレオンが、数々のの誹謗に対して昂然と言い放った言葉を、わが青年部に贈りたい。
 「真実は雲を貫き、太陽のように輝く。太陽のように、真実は不滅なのだ!」(ラス・カーズ編『セント・へレナ日記抄』小宮正弘訳、潮出版社)
19  御書には「日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それはたとえば、城の内部の者が城を破るょうなものである」(1337㌻、通解)と厳しく戒められている。
 広布の城を永遠ならしめるため、戸田先生は、昭和三十三年(一九五八年)のご逝去の直前――「3・16」の記念式典を終えられた直後に、肺腑をえぐるように強く言われた。
 「今後の学会は、くさった幹部を切らねばならない」
 正義のために戦わない。それどころか、私欲に狂い、尊き同志を苦しめる。こうした増上慢の人間が出たことは、皆さんがご存じのとおりである。広宣流布を破壊する「師子身中の虫」は、将来のために断じて打ち破らねばならない。仏法は勝負であるからだ。仏と魔との間断なき戦いである。また、先生は、よく、こう言われていた。
 「滅びるか、それとも伸びゆくか。人間も、団体も、二通りに分かれている。滅びゆく人生には絶対になるな! 伸びゆく人生であれ!」
 信心は、無限に向上していくエンジンである。どこまでも「伸びゆく人生」のドラマを、晴ればれとつづってまいりたい。
20  若きナポレオンが世界史の表舞台に彗星のごとく登場した時、彼の行くところ、「前進、また前進!」の、みずみずしい息吹があった。戦いが窮地におちいると、みずから先頭に立って、皆を鼓舞し、勝利を切り開いた。「私とともに進め! 私の後に続け!」と。
 戦いを終えると、彼は陣地を回って兵士たちをねぎらい、負傷兵をいたわり、皆と一緒に休んだ。皆と食事も一緒に分かち合った。兵士たちは、そんな彼を「小伍長」のあだ名で呼び親しんだ。
 そこには上下という意識はなかった。古い権威や、虚栄とも、無縁だった。愛する祖国を守り、フランス革命の理想を確立しよう。そういう思いに、皆が燃えていた。第一次イタリア遠征では、兵士たちの「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)の晴れやかな歌声が、アルプスの山々に響きわたったという。
 しかし、やがて、ナポレオンの隊列から、こうしたみずみずしい息吹も、一体感も、失われていく。ナポレオン自身が戦場を駆けめぐり、すべてを自分で判断して、細かく指令を出していた時は、まだよかったが、軍隊の規模が大きくなると、ナポレオンの目も全軍に行き届かない。
 だからこそ、「ナポレオンなら、どうするか」「ナポレオンの考えは、こうである」と自分の頭で考え、行動する「不二」の人間が必要だったのである。
 しかし、ナポレオンの命令どおりに動けば勝利が手に入った将軍たちは、いつしか″自分で判断することができない″という官僚主義におちいってしまった。組織が硬直化していった。これが、ナポレオンの行き詰まりの大きな要因となった。
21  次の五十年を担う人材の陣列を
 ナポレオンの栄光は、わずか二十年であった。
 百年、二百年と栄えていく組織をつくることが、いかに至難の事業であるか。いわんや、「末法万年尽未来際」の広宣流布に挑んでいるのが、創価学会である。
 戸田先生は強く訴えられた。
 「組織を陳腐化させてはならない。官僚主義で機械的に上がっていくような、また、そつなくやっていればいいというような、退嬰的、保守的な組織になってはいけない。人材が、どんどん抜擢されるような、生き生きとした組織でなければならぬ。
 学会は、人材で築かれた城なのだ。広宣流布を唯一の目的とする一つの生命体だ。そして日進月歩、つねに生々発展する生命そのものなのだ」
 今、各地で新しい人材が躍り出できた。私は、本当にうれしい。次の世代がどうなるか――これは、今のリーダーの責住である。その決心の深さで決まる。絶対に、若い人を、上から抑えつけてはいけない。それでは、人は伸びない。この一点を、間違えたら怖い。「抑える」のではなく「育てる」のだ。後輩たちが「本当にお世話になった」「厳しかったけど、楽しかった」――そう思えるような良き先輩であっていただきたい。皆が「張り合い」をもって進めるよう、励まして励ましぬいていただきたい。
 今、人材を育てておかなければ、間に合わない。「次の五十年」を担う青年の陣列を築き上げたい。どうか、よろしく頼みます!
 ともあれ、年配になっても、心まで老いてはならない。牧口先生、戸田先生がそうであられたように、心は生涯、青年でなければいけない。いくら年を重ねても、「さあ、やろう!」と気迫をもって進むのだ。命ある限り、「月月・日日」に、″広宣流布の生命体″である学会とともに、同志とともに、前進、また前進し続けていくことである。
 明年の「青年・躍進の年」とは、年配者も青年も一体になって、皆が青年の息吹で躍進していく一年であることを、朗らかに決議しあって、記念のスピーチとしたい。
 どうか、各方面、そして各国の偉大な同志に、創立七十五周年の大勝利の祝賀と感謝の心を、くれぐれも、よろしくお伝えください。きょうは、本当にありがとう!
 (信濃文化センター)

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