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日蓮大聖人・池田大作

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各部代表協議会 万年の未来へ壮大な「平和革命」の基盤を

2005.9.12 スピーチ(2005.8〜)(池田大作全集第99巻)

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2  日本列島に″創価の旗″を堂々と
 仏法とは、仏と魔との闘争である。現実社会の上で、仏の陣列と魔の軍勢が「とられじ・うばはんと・あらそう」のが、広宣流布の実像である。だからこそ、激しい攻防戦のなかで、広布の地盤を少しでも広げていくことが一番大切なことだ。大変な環境で戦うからこそ、想像もできないような、大きな功徳を受けるのである。
 「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず
 この「報恩抄」の一節を、晴ればれと拝していきたい。
 大聖人は、この「報恩抄」に、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」と仰せである。
 広宣流布とは、この妙法の絶大な功力をもって、末法万年尽未来際にわたる民衆救済を目指しゆく、壮大な「平和革命」にほかならない。「御義口伝」にも、「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」と記されている。
 目先の勝利を超えて、さらに永遠性の次元から、今の何倍もの力をもった「正義の地盤」「幸福の地盤」「平和の地盤」を、深く広く築き上げていくのが、広宣流布である。これこそ、私たちの偉大な方針である。この最も確かなる、そして、最も崇高なる栄光勝利の道を邁進しているのが、皆さま方である。
 今また、日本列島の隅々に、偉大なる″創価の旗″が堂々と翻った。いかなる時にも、未来を見つめ、将来を見据えて、悠々と、また悠々と、現実社会の真っただ中で、勇気ある行動を貫き通していく。これが透徹した「立正安国」の哲学である。これが広々とした「広宣流布」の人生観である。これが恒久平和を目指す「令法久住」の信念なのである。
3  世界五十五カ国・地域から、二百五十人の若き求道のリーダーがはつらつと来日して、SGIの青年研修会が行われる。
 創価学会は、一閻浮提すなわち全世界に友情を広げ、末法万年すなわち遠大な未来へ向かって進んでいる。使命深き私たちは、健康で、そして朗らかに、また朗らかに、堂々たる人生を、同志との連帯を組みながら、前進してまいりたい。
 広布の活動を推進するにあたり、ご家族の皆さま方には、たいへんにお世話になっております。
 とくに、未入会のご家族の方々のご協力、ご理解に、深く深く感謝申し上げます。たいへんにありがとうございます。
 家庭こそ、一切の営みの基盤である。どれだけ民主主義を論じ、平和や教育を論じても、その議論が、人間の幸福とか家庭の繁栄に結びついていかなければ、結局は空理空論になってしまう。
 戸田先生は「一家和楽の信心」と言われた。
 うるわしい「一家和楽」の姿のなかにこそ「信心の勝利」があり、「仏法の智慧」が光ることを忘れないでいただきたい。
4  「地球平和への探究」――ロートブラット博士と対談
 私たちが心から敬愛してやまないロートブラット博士(パグウォツシユ会議名誉会長)が、八月三十一日にロンドンで逝去された。享年九十六歳。天寿を見事にまっとうされた生涯であった。
 核廃絶、戦争廃絶に戦いぬかれた不世出の大指導者に、私は懇ろに追善回向を捧げた。
 博士からお話をいただき、私たちは「ラッセル・アインシュタイン宣言」五十周年を記念して、月刊誌「潮」の七月号から対談を連載していた。
 「地球平和への探求」と題しての語らいに、博士は、それはそれは真剣に取り組んでくださった。対談をすべて終え、この八月上句に博士の推敲も終了したところであった。まさに、この対談が、博士の″遺稿″となったのである。(=『地球平和への探究』と題し、二〇〇六年七月に潮出版社から発刊)
 人間の都・大阪で、そしてまた、平和の天地・沖縄で、博士と語り合ったことも、忘れ得ぬ歴史である。博士は語ってくださっていた。
 「私は仏教徒ではありませんが、池田会長と『世界平和』という同じ目的に向かって、同じ信条を共有しています。そして、深い友情で結ばれているのです。お話ししていると、私たちの波長がピッタリ合っていることに気づきます」
 上辺だけのつきあいではない。胸襟を聞き、心を通わせて、世界の平和のため、人類の未来のため、有意義な交流を広げ、具体的な行動を進める。これが、私たちの歩む「友情の道」であり、「連帯の道」である。
 ロートブラット博士は、みずからも製造にいったんはかかわった「核兵器」という巨大な凶器の根絶のために戦い続けた。
 その戦う″武器″は、何であったか。博士は述懐しておられた。
 「パグウォツシュ会議は……何か特別の手段をもっていたわけではありません。私たちの武器は、人間同士の理性に基づく討議によって導かれる『言葉』だけでした。その言葉をもって相手を説得する。それが、私たちが続けてきた平和運動の根幹だったのです」
 仏法でも、「声仏事を為す」と説かれる。「声」の力で、「言葉」の力で、「対話」の力で、正義と幸福を拡大していくのだ。
 博士は、九十歳を超えても、背筋をピンと伸ばし、さっそうと世界中を飛び回っておられた。広島・長崎の被爆六十年の今年も、「ぜひ訪日し、対話を続けたい」と強く希望されていた。
 博士は、すがすがしく言われていた。
 「私自身、自分が年寄りだと思ったことはありませんし、いつも青年の気持ちでいます。ただ、人間の体には限度があって、この頃は肉体的な老化を感じるようになりました。しかし、それは肉体だけであって、精神はそうではありません。私自身、まだ若々しい精神で生きています」
 わが学会においても、「多宝会」の皆さま方、「宝寿会」の皆さま方、「錦宝会」の皆さま方、さらに「太陽会」「敢闘会」などの皆さま方が、生き生きと、若々しく、広宣流布の勝利と前進のために戦ってくださっている。
 皆、広宣流布の大英雄であられる。また最高無二の総仕上げを生きぬかれる模範であられる。さらに、「不老不死」の妙法を持つ人生の長者であられる。そして、「常楽我浄」の生命を光り輝かせゆく大勝利者であられる。どうか、お元気で! いつまでも、お元気で!――とお祈り申し上げたい。
5  ロートブラット博士は、四年前の「9・11」の同時多発テロの直後、ロンドンからアメリカ創価大学を訪問し、一期生に講演をしてくださった。本年、その一期生たちが立派に成長して卒業していったことも、心から喜んでくださっていた。
 博士は、アメリカ創大生をはじめ、創価の青年たちへの期待を、こう語り残されている。
 「いつも、世界のために尽くす美しい青年であれ!」「自分の行動に責任を持て!」「いつでも、だれにでも、私は人類のために全力を尽くしていると心から言えるように生きぬけ!」
 博士は、創価の人間主義の連帯に全幅の信頼を寄せてくださっていた。
 (=博士は、逝去の直前に完了した、名誉会長との対談で、遺言のごとく語っている。「五年前に、沖縄でお会いした時に申し上げことを、今もう一度、繰り返したい。私たち人類は、現在、非常に厳しい『閉塞状況』に置かれています。この状況から、なんとか抜け出さなければなりません。池田会長に、ぜひ、そのためのリーダーシップをとってもらいたい。それができる指導者に、未来を託す以外にないと、私は考えているのです」)
 ともあれ、人類の最高の知性と良識が、私たちに期待している。勝利を祝福してくれている。
 「創価の勝利」こそ、「平和と人道の前進」なのである。
6  苦悩する人々を救う忍辱の人たれ
 ことで御書を拝したい。大聖人は「南部六郎殿御書」で、天台大師の師匠である南岳大師の次の言葉を引いておられる。
 「もし菩薩がいて、悪人をかばって、その罪を罰することができないで、そのために悪を増長させ、善人を悩乱させて、正法を破壊させるならば、この人は実は菩薩ではない」(御書1374㌻、通解)
 仏法は「行動」が魂である。いくら立派な菩薩といわれる人であっても、現実に謗法と戦わず、見て見ぬふりをして、正法が破られるのを許すのであれば、その人は菩薩ではない。それどころか、「その人は死後、諸の悪人とともに地獄に堕ちるであろう」(御書1374㌻、通解)と結論しているのである。
 悪と戦わなければ、悪を増長させ、結果的に悪と同じ罪を背負うことになってしまう。ゆえに徹して悪を責ぬけ!――これが、牧口初代会長の正義の叫びであった。
 悪を滅してこそ、善の世界は広がる。ゆえに、強い「破折の心」で祈りに祈り、わが正義を語りきっていくことである。
 大聖人は仰せである。
 「おのおの日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆する心を起こしてはならない」(御書910㌻、通解)
 大聖人は「師子」であられた。弟子の私たちもまた「師子」である。何ものも恐れない「勇気の信心」で進んでいくことだ。
 さらに「御義口伝」には、「忍辱は寂光土なり此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり」と仰せである。現実の社会の中に飛び込んで、苦しむ人々を救うために、いわれなき批判や悪口にあえながら、生き生きと、妙法を弘め続ける――この″忍辱の心″こそが仏であるとの御断言である。この心を心として、意気揚々と前進している勇者こそ、わが誉れの同志なのである。
 また「生死一大事血脈抄」には、次のように仰せである。
 「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し
 広宣流布の組織は、決して「外」からは壊されない。怖いのは「師子身中の虫」である。
 学会のおかげで偉くしてもらいながら、その恩を忘れ、学会員をばかにし、私利私欲のために学会を利用する。こうした悪い人間は、絶対に広宣流布の″本陣″の中に入れてはならない。悪い人間は、断固、叩き出だすことだ――このように戸田先生は厳命された。広宣流布の指導者は、どこまで「一騎当千」にして、「異体同心」の精鋭であらねばならない。
7  広布の行動は永遠に輝く!
 創価学会は、戸田先生がつねづね、″私の命より大切な広宣流布の組織″と言われた、仏意仏勅の団体である。その学会を守り、同志を守るため、新しい発展の道を開くために、私はどんどん人に会った。正義を語りぬいた。大胆に! 誠実に! いかなる権威も恐れずに!
 その実践がなければ、戸田門下生ではない。大聖人の仏法を奉じた広宣流布の闘士とはいえない。「広宣」とは、「広く宣べる」と書く。ゆえに私は、世界の指導者と、平和への対話を幾重にも広げてきた。語るのだ。人間の王者として、痛快なる劇を残していくのだ。そして、ひとたび結んだ友情を大事にし、広げながら、一生涯の宝としていっていただきたい。
 真剣に戦った思い出は永遠に輝く。広布のための行動こそ尊い。私はやりぬいた! きょうも前進した! その積み重ねが、勝利の人生を開く。幸福の宮殿をつくる。後世に誉れの名が残っていく。それを強く確信していただきたい。どうか、価値ある一日一日を! わが黄金の日記帳を晴ればれとつづっていただきたい。
8  最後には正義が必ず勝利する!
 私は、歴史上の人物から、人間学を学び、人生の糧としてきた。戸田先生のもとで学んだ青春時代を懐かしく振り返りながら、私の好きな言葉を申し上げさせていただきたい。
 十八世紀に活躍したドイツの思想家リヒテンベルクは語っている。
 「おもうに、誹謗文を書かれなかったひとが、多少なりと価値のあるひとだったためしはかってない」(『わが箴言』国松孝二訳、『世界人生論全集』12所収、筑摩書房)
 価値ある人だから、嫉妬され、誹謗される。それが歴史の常である。
 アメリカのグラハム・ベルといえば、電話の発明で知られている。彼にも、「中傷家の一群」が襲いかかった。陰湿な攻撃が続いた。そのなかで、彼は家族に、こう書き送った。
 「結局は、正義と真実が勝つことになるのです」(ロバート・V・・ブルース『孤独の克服――グラハム・ベルの生涯』唐津一監訳、NTT出版)
 多くの先駆者は、いわれなき中傷を受けてきた。しかし、最後は正義と真実が勝つ。否、断じて勝たねばならない。わが信念を敢然と語りぬくのだ。
 ドイツの哲学者カントは喝破した。
 「高慢なひとは常に心の底では卑劣である」(『カント全集』11、樽井正義・池尾恭一訳、岩波書店)
 高慢とは醜い名誉欲である。優れた人間を、不当におとしめようとする。人間性を侮辱する。愚かで卑劣な心である。そんな人間は、だれも尊敬しない。最後は、だれからも相手にされず、敗北の坂を転げ落ちていく。昔も、今も、変わらない方程式といえよう。
9  大聖人の大慈大悲こそ学会精神の真髄
 きょう九月十二日は「竜の口の法難」の日である。この時、大聖人は御年五十歳。乱れた世を救うには、正しい思想を打ち立てよ!――そう厳然と叫ばれた。そして、狂った権力者である平左衛門尉頼綱らの理不尽な弾圧によって、死罪に処せられようとしたのである。背後には邪悪な坊主の謀略があった。
 文永八年(一二七一年)九月十二日の午後、頼綱は、武装した多くの兵を率いて、大聖人の草庵に襲いかかった。大聖人御一人を捕らえるのに、数百人もの兵士を引き連れて、狼藉を加えたのである。さらに、大聖人に暴力を加え、罪人として連行した。そして、権力者たちは、正当な取り調べもなく、夜半、竜の口へ連れ出し、闇に乗じて命を奪おうとしたのである。
 しかし、いかなる凶暴な権力をもってしでも、いかなる邪悪な陰謀をもってしても、御本仏を傷つけることができなかったことは、厳然たる歴史の事実である。
 戸田先生はつねづね、言われた。
 「『大聖人は、あれだけの大難を忍ばれたから偉い方である』と言う人がいる。そうかもしれないけれども、もっと偉大なことは、ありとあらゆる大難を忍ばれながら、一切衆生を救おうとされた大慈大悲の戦いをなされたことである」
 「御本仏が、こういう御苦労をされたのだ。門下であるわれわれも、何があっても辛抱していかなければならない。大聖人の大慈大悲を世界に宣揚しなければならない」
 これこそ、学会精神の真髄である。
 ともあれ、大聖人は、この竜の口の法難にあって、お供して殉じようとした誉れの弟子・四条金吾に対して、悠然と言い放たれた。
 「これほどの喜びを笑っていきなさい」(御書914㌻、通解)
 この大境涯にまっすぐ連なっているのが、わが創価学会である。あらゆる難を不惜身命で勝ち越えてきた。一番、大事なのは、広宣流布のために戦う学会員である。
 大聖人は仰せである。
 「法華経を持つ人は、男性ならば、どんな身分の低い者であっても、三界の主である大梵天王、帝釈天王、四大天王、転輪聖王、また中国、日本の国主などよりも勝れている。ましてや、日本国の大臣や公卿、源氏や平家の侍、人民などに勝れていることは、いうにおよばない。女性ならば憍尸迦女(帝釈天の妃)、吉祥天女(インドの女性神)、あるいは漢の李夫人(武帝の夫人)、楊貴妃などの無量無辺の一切の女性に勝れている」(御書1378㌻、通解)
 まさに、妙法を弘めゆく学会員の皆さまのことである。いかなる権力の人間も、学会員の尊貴さにはかなわない。同志が功徳を受け、希望と自信と喜びに満ちあふれで前進していく。それこそが、何よりも大事である。幸福の連帯を拡大する――これがわれらの勝利であるからだ。
 最後に、次の御文を拝したい。
 「がうじやう強盛はがみ切歯をしてたゆむ心なかれ、例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい振舞・いゐしがごとく・すこしも・をづる心なかれ
 たゆむ心なかれ! 恐るる心なかれ! この御聖訓を深く拝しながら、さらに勇敢に、正義と勝利の大前進をしゆくことを、ともどもに朗らかに決意しあって、私のスピーチとさせていただく。
 重ねて、広宣流布のための全国の同志の皆さまの奮闘と労苦に、心から感謝し、最大に讃嘆申し上げたい。どうかお元気で! くれぐれもお体を大切に! ありがとう!
 (東京牧口記念会館)

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