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日蓮大聖人・池田大作

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創立七十五周年記念協議会(3) 広布の戦いは全員が幸福になる戦

2005.8.24 スピーチ(2005.8〜)(池田大作全集第99巻)

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2  何よりも″人のつながり″を大切に
 フランスの思想家ジュベールは言う。
 「すべて人間を人間に結びつけるきずなをふやすものは、人間をよりよいものより幸福なものとなす」(『随想録』大塚幸男訳、『世界人生議全集』9所収、筑摩書房)
 人間と人間を結べ! 未来まで続く友情の絆を、たくさんつくれ!
 それが創価の運動である。全部が自分の財産となるのである。
 何よりも″人のつながり″を大事にする。その模範が、心美しき沖縄の皆さまである。
 沖縄健児の大闘争が光る″宝物″――それは、赤褐色に変色した古い一冊のつづりである。
 そこには、沖縄広布の一粒種である方を第一番として、四千番までの同志の名前が並んでいる。彼が沖縄に渡った昭和二十九年(一九五四年)から三十五年(一九六〇年)二月までに入信された、懐かしい「蒲田支部沖縄地区」の方々である。
 たんなる「四千人」の名簿ではない。必死の「一人」が、あらゆる縁で、あの人、この人とつながり、広宣流布という新しき民衆の大行進を創造してきた証明なのである。
 草創の同志は、先駆者ゆえに、悪口され、迫害された。だが、「賢者はよろこび愚者は退く」と仰せのとおり、勇んで烈風に挑み、地涌の連帯を広げていったのだ。
 この「善の連帯」を、世界平和への潮流とするため、私は沖縄を初訪問した。第三代会長に就任して問もない昭和三十五年の七月十六日のことである。
 以来、激闘につぐ激闘の四十五年――わが沖縄は、私とともに、堂々と勝った。
 久米島、渡嘉敷島、座間味島、粟国島、渡名喜島、南大東島、北大東島など、尊き島の同志も、世界中の人が憧れる、最強の正義と幸福の大陣列を築き上げてこられた。
 私は、沖縄の初訪問を小説『新・人間革命』につづり、その一章を「先駆」と題した。
 先駆――それは、沖縄と異体同心で進む九州の精神である。
 沖縄も先駆だ! 大九州も先駆だ! 荒波を越えて、創価の勝利へ、一心不乱に走りぬけ!
 そう心から叫びたい。
3  劣勢をはね返したアレキサンダーの勇気
 九月十日から「大ナポレオン展」が横浜のそごう美術館で開幕する。(十月十五日まで)
 世界史の巨人ナポレオンのごとく、神奈川そして全国の同志よ、いかなる山も乗り越えよ! 栄光と勝利の歴史をつづりゆけ!――そう私は祈ってやまない。
 ナポレオンが憧れた英雄。それがアレキサンダー(アレクサンドロス)大王(前三五六年〜前三二三年)である。二十歳でマケドニアの王に即位し、二十二歳で東方への大遠征を開始する。そして、東西の世界を融合させ、新しい文化創造の原動力となっていった大王である。
 そのドラマは、数々の文学に結晶した。十二世紀のフランスの詩人ゴーチェによる叙事詩の傑作「アレキサンダー大王の歌」も、その一つである。(以下、ガルテールス・デ・カステリオーネ『中世ラテン叙事詩 アレクサンドロス大王の歌』〈瀬谷幸男訳、南雲堂フェニックス〉から引用・参照)
 若き王子アレキサンダー。その心には「獅子の気概」が燃えていた。「大胆不敵」であった。
 王子の師匠は哲学者のアリストテレス。師は王子に教えた。
 「真の気高さとは精神を品位ある行為で飾るものだ」
 「正義」を「行動の指針」とせよ――。
 祖国マケドニアから遠征に出発したアレキサンダー大王は、ペルシャの軍勢と戦った。
 勝敗には、さまざまな要因がある。相手は、自分の部隊の数を遥かに上回る大軍である。
 しかし、この若き大王とともに戦った軍勢は、「敵をさらに攻め立てることを止めなかった。燃えたぎる勇気こそが彼らの数の劣勢を補って余りあったのだ」とつづられている。人数ではない。
 勇気で決まる。攻めて攻めぬく攻撃精神で決まる。
 アレキサンダー大王は、いかなる指導者も、「自ら垂範して勇敢な人びとを動かし、勇者の証拠を示さねばならぬ」と信じていた。指導者は、皆に″先に行け″と言うより、″私とともに戦え″と言ってみずから先障を切るべきだ。そう確信していた。
 大王とともに戦った青年たちは、「同じひとつの心と願望をもって戦った」とされる。
 叙事詩にはつづられている。
 「(=青年たちは)彼らの指導者(=大王)自身とよく似ていた。余りにもよく似ているので、これらすべてのアレクサンドロスの戦友たちが激戦している姿を見たなら、大王はかくも多くのアレクサンドロスを持つことを大いに喜ぶことであろう」
 そこには″だれかがやるだろう″という無責任はなかった。皆が「アレキサンダー」となって戦ったというのである。
 ともあれ、広宣流布は、戦ったすべての人が、無上の幸福に輝く大法戦である。全員が、勇敢に勝利者となる戦いをやりぬこうではないか!
4  正義を叫べ!邪論には何倍もの反撃を
 文永八年(一二七一年)七月ごろ、行敏という邪悪な坊主が、日蓮大聖人を幕府に訴えた。じつは、その黒幕が極楽寺良観らであった。
 大聖人は、訴状を御覧になると、「行敏訴状御会通」(御書180㌻)を認められ、相手の愚劣な誹謗を一つ一つ破折された。
 明白な文証をあげて、相手の論拠を粉砕する。自語相違を突く。それこそ、一撃で敵の急所を突き、さらに二撃三撃と追撃し、白日のもとに誤りを暴き出されている。
 さらに、大聖人一門が不法行為を行っているとの事実無根の誹謗に対しては――
 「この件、確かな証人を出して物を言え!」
 たった一言で粉砕である。
 悪口中傷の類は、たいてい根拠のない噂、デッチ上げにすぎず、証拠を問われると、たちまち馬脚を現す。昔も、今も、下劣な嘘八百の連中は似たり寄ったりである。
 大聖人は、極楽寺良観らに対して、明白な証拠を出せないのならば、自分たちで捏造したデマだと断定された。そして、この大妄語以上の破戒はなく、無間地獄は必定であると、畳みかけるように呵責されている。
 ともあれ、正義は叫ばねばならない。決して沈黙してはならない。遠慮などいらない。一の邪論があったら、五倍十倍、否、二十倍の正義の反撃を返してやるのだ。
 最後は必ず、真実が勝利する。大阪事件では、昭和三十七年(一九六二年)一月二十五日に無罪判決を勝ち取った。
 忘れもしないその前夜。私は関西男子部と女子部の会合に出席した。常勝関西の心臓部、兵庫の尼崎で、私は後継の友に宣言した。
 「次の世代にバトンを渡すまで、なんで自分の生命が惜しいものか。善良な市民を苦しめている権力とは、断固、一生涯戦う!」
 この決意のままに、私は広布の大道を駆けた。そして、私とともに、民衆の大城を築いてくださったのが、わが愛する関西の皆さんである。
 「大阪の戦い」「関西の戦い」で何度も拝した御書の一節を、全同志に贈りたい。
 「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
 今こそ、猛然と祈り、大きく動き、歴史的な大勝利をつかもうではないか!

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