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日蓮大聖人・池田大作

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創立75周年幹部特別研修会(3) いざ出陣! 正義の底力を満天下に示せ

2005.8.12 スピーチ(2005.8〜)(池田大作全集第99巻)

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1  わが胸中には「師とともに戦える」うれしさ!
 戸田先生は、何かあるたびに、いつも、私を呼ばれた。
 「大作はいるか!」「大作、ここへ行ってこい!」
 必ず、一番大変なところへ派遣された。そして勝ってきた。先生が第二代会長に就任された翌年(昭和二十七年)のことである。全国に十数の支部しかなかった。一カ月の弘教が、多い支部で百世帯前後。こんな調子では広宣流布はできない。当時、私は二十代。先輩幹部も多かった。しかし、戸田先生は言われた。
 「大作、立ち上がれ!」
 「わかりました!」と私はひとこと。にぎやかな勝利のマーチが始まった。
 私は走った。先駆した。疾風のごとく。学会全体が、うなりをあげて動き出した。東京・蒲田支部の支部幹事として戦い、一カ月の弘教で二百世帯を突破したのである。
 そして今度は文京支部へ。各支部が、強烈なライバル意識で、競い合っていた時代である。他の支部は″敵同士″(笑い)。じつに激しかったが、それでこそ偉大な建設はできるものだ。
 文京支部は低迷していた。皆の心がバラバラだった。思い余った支部長は、戸田先生に窮状を訴えた。そして私が支部長代理に任命された。仕事では営業部長、学会では男子第一部隊長であった。多忙を極めたが、私は一歩も引かずに、やりきった。文京は全国トップクラスの大支部になった。皆が驚き、唖然とした。
 日本全体の広宣流布を考えるとき、次は、どこに手を打つべきか。急所はどこか。
 それは「大阪」――師弟の心は一致していた。絶対に負けると思われた大阪の戦い。支部で一カ月に「一万一千百十一世帯」という不滅の大折伏の金字塔を築き上げた。そして、「まさが実現」と言わしめる、痛快なる勝利を打ち立てたのである。
 劣勢をはね返しての勝利。信心でつかんだ勝利だった。これが学会の大きな飛躍台となった。魔性の権力と戦い、わが魂をとどめた関西。関西こそが、今も、そして永遠に「世界広布の心臓部」であると、私は強く信じてやまない。
 私は、戸田先生の命を受け、使命の舞台で戦った。行くところ行くところで、新たな勝利の歴史をつくってきた。すべて、わかってくれる師匠がいる。師匠とともに戦える。人生、これ以上の喜びはない。生きがいはないものだ。
 ともあれ、一つの地域が立ち上がれば、日本中を燃え立たせていける。
 「関西に続け!」「沖縄を見よ!」「首都圏を見よ!」
 そう言われる先駆の戦いを! 今こそ、列島に″勝利の渦″を巻き起こしていただきたい。
 いかなる戦いも、戦う以上、勝つことだ。
 いざ出陣しよう! 正義の民衆の底力を、満天下に示すために!
2  歴史に学ぶ将軍学
 二十世紀最大の歴史家トインビー博士。博士との語らいのなかで、私は尋ねた。
 「歴史上、政治家としてはだれが最も偉大だったとお考えでしょうかしょうか」
 すると博士は、こう答えられた。
 「私は日本の徳川家康、中国の劉邦、ローマ帝国のアウグストゥスを、ほぼ同様に評価しております。この三人には、ある共通点がありました。それはいずれも帝国を創設したのではなく、再建したということです。家康は豊臣秀吉の事業を、劉邦は始皇帝の事業を、そしてアウグストゥスは大伯父のジュリアス・シーザーの事業を、それぞれ再建しました。いずれの場合も、前統治者が横暴で反発をかっていただけに、事業のやり直しが必要だったのです。家康、劉邦、アウグストゥスは、いずれも如才ない人物でしたから、永続性ある体制を築くのに成功したわけです」
 トインビー博士が高く評価しておられた中国の劉邦(前二四七年〜前一九五年)。始皇帝が没して、あっけなく秦が滅びた後、項羽との壮絶な戦いに打ち勝って、漢の国を建てた名将である。
 劉邦といえば、戸田先生がよく語ってくださった中国の歴史書『十八史略』を思い出す。
 先生が亡くなられる一カ月前のとと。「きょうは何を読んだのか」と私に尋ねられた。その折、先生は「指導者になる人間は、何があっても読書を忘れてはいけない。私は『十八史略』を第三巻まで読んだよ」と言われた。寸暇を惜しんで、本を読み、思索を続けておられた。そして先生は、逝去の二週間ほど前、『十八史略』の劉邦の話を、私にしてくださった。
 劉邦が天下を取った時、第一の功労者として光を当てたのは、だれか。それは蕭何しょうかであった。華々しく戦った武将たちではなく、陰で食糧や武器の確保などに努めてきた人物であった――そういう逸話である。戸田先生は、遺言のごとく言われた。
 「敢然と敵に向かって突き進むことは当然だ。しかし、それだけでは勝利は得られない。勇ましいだけでなく、全体観に立って、陰で万全を尽くして手を打つことができる人間が、学会には必要なのだ」
 広宣流布の将の将たる皆さまは、堂々たる勝利の指揮をお願いしたい。陰で尽くしてくださっている方々を、最大に讃え、励ましていく、知恵と慈愛の名リーダーであっていただきたい。
3  中国の名将・劉邦――人の心をつかみ、人材を生かす
 『十八史略』に描かれる劉邦の人物像は、まことに魅力に富んでいる。(以下、藤堂明保監修『中国の古典15 十八史略』上〈今西凱夫訳、学習研究社〉から引用)
 劉邦は「人の心をつかむ」名人であった。秦の軍を破り、その都に入ったとき、劉邦は、秦の国の人々に対して、こう宣言した。
 「あなたたちは、ずいぶんと長く秦の苛酷な法律に苦しめられてきた」
 「わたしはあなたたちに約束しよう。法律は三か条だけ」
 そして劉邦は、「人を殺した者」「人を傷つけた者」「盗みをはたらいた者」を処罰するとし、「それ以外はすべて秦の苛酷な法律は取りやめる」と発表した。有名な「法三章」である。これには、秦の人々も大いに喜び、劉邦を大歓迎したという。劉邦は、あらゆる知恵で、敵を次々と味方にしていった。そして、ひとたび味方になるや、誠意を示して、がっちりと心をつかんでいったのである。
 劉邦は「人材を生かす」名将であった。劉邦が、将軍たちに、なぜ自分が天下を統一できたかを話す、有名な場面がある。劉邦は語った。
 「陣営の中で謀をめぐらせ、千里の外で勝利を決める(=千里の遠方にいながら勝利を決する)ことにかけては、わしは(=参謀の)張良には及ばぬ」
 この個所は、日蓮大聖人が「一昨日御書」(御書183㌻)でふれられた一文である。
 さらに、こう続く。
 「国家を安定させ、人民をいつくしみ、糧食を確保し、補給を絶やさぬことにかけては、わしは蕭何には及ぼぬ。百万の大軍を指揮し、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る(=成果を出す)ことにかけては、わしは韓信には及ばぬ。この三人はいずれも人として傑出した者たちだ。わしはそれを使いこなすことができた。これがわしが天下を取ったゆえんだ」
 まさに「将に将たる」と讃えられた劉邦の面白躍如たる言葉である。
 ともあれ、人材は、必ずいるものだ。広宣流布の戦いは、「地涌の菩薩」でなければ、なしえない。すべての同志が、かけがえのない使命の人である。その一人一人の力を見いだし、最大に発揮させていくのが、指導者の責務といえよう。
 大聖人は「開目抄」で劉邦(沛公)について記されている。中国の歴史を画する、劉邦と項羽の天下分け目の激しい戦いも、広宣流布の大法戦の厳しさを超えるものではないと教えておられる。(御書218㌻)
 広宣流布の勝利こそ、世界の平和と幸福の大道である。この道を、われらは果敢に前進したい。勝利の歌を高らかに歌いながら!

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