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日蓮大聖人・池田大作

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各部合同協議会 一生涯、大ロマンに生きよ

2005.7.16 スピーチ(2005.4〜)(池田大作全集第98巻)

前後
2  恩師が愛した″五丈原″の歌
 恩師戸田先生と私は二十八歳の開きがある。若い私のことを、先生は自分の生命以上に大事にしてくださった。こんな崇高な世界が、どこにあるだろうか。その大恩に何としても応えようと、私は心に誓った。
 ある正月に、戸田先生を囲んで懇親会が聞かれた。その席で、「星落秋風五丈原」を歌ったことも忘れられない。(昭和二十八年)
 作詞は土井晩翠。私は青春時代から詩が好きだった。晩翠の詩も、よく愛誦していた。
 詩人は詩人を知る。詩人を大事にしてこそ、真の文化国家である。指導者には「詩心」がなければならない――これが私の信条である。
 晩翠の詩集は、わが家の本棚にあった。「星落秋風五丈原」は、『三国志』の英雄・諸葛孔明を謳った、とても長い詩である。歌は、それを短くしたものだ。
 懇親会に先立ち、幾人かの青年部が、わが家に来た。そこで「星落秋風五丈原」の話になった。戸田先生の心に通じる内容であり、ぜひ先生に、お聞かせしようということになったのである。
 先王・劉備の理想を継いで戦う諸葛孔明。しかし大業いまだ成らずして倒れる。独り呻吟する胸の内をうたった詩――。戸田先生は、じっと聴き入ってくださった。
  祁山きざん悲秋の風更けて
  陣雲暗し五丈原
  …… ……
  丞相 病篤かりき
3  歌い終わると、「いい歌だ。もう一度、歌ってくれ!」。そしてまた、「もう一度!」と。何回も何回も歌った。
  成否をたれかあげつらふ
  一死尽くしし身の誠
  …… ……
  苦心孤忠の胸ひとつ
  其壮烈に感じては
  鬼神もかむ秋の風
 戸田先生は、涙を流しておられた。先生ご自身が、病と闘いながら広布の大業を一身に担う″孔明″だったのである。そして私に、「俺が死んだ時も、これを歌ってくれ」と言われた。私は、師の言葉を深く、重く受けとめた。
 (昭和三十三年四月二十日、戸田会長の創価学会葬は、″五丈原″の歌が葬送の曲となった)
 孔明その人は、偉大な知将であり、人間王者であった。しかし、自分が仕えた主君の跡継ぎは幼く、武将たちも不甲斐ない。味方は負け戦。民衆は苦しんでいる。そして、迎えた五丈原の戦場。使命を果たさずには、死ねない。先王との誓いを果たすまでは――。
 使命を自覚した者の責務とつらさを、戸田先生は教えてくださった。先生のことを思えば、私の胸には、限りない勇気がわいてくる。
4  功労の友を讃えよう
 さて、社会を改革する上で、孔明が実行したポイントは何であったか。
 その一つは、先日もお話ししたが、「悪事をなした者は必ず罰し、善事をなした者は必ず顕彰」するという点にあった。(陳寿『正史 三国志』5、井波律子訳、筑摩書房)
 これは、戸田先生の厳しき教えでもあった。
 戦って戦って戦いぬいた人は、必ず賞讃せよ! 一生涯、また一家も、子孫までも賞讃せよ!
 反対に、戦うべき立場にありながら、敵を前にして戦わない、ずるい人間は必ず罰せよ! 悪事をなした者にはみずからの行動の報いを受けさせよ!――と。
 先生は、「仏法のために働いた人間は、どこまでも賞讃すべきだ。しかし、難と戦わずに逃げた人間、ずるい人間は絶対に許すな!」と叫ばれた。正邪に関して厳格であられた。
 ゆえに私は、広宣流布のために尽くしぬいてこられた皆さま方を、最大に賞讃し、永遠に顕彰してさしあげたいのである。
5  歌といえば、戸田先生とご一緒して、人と会った時のことを思い出す。
 先生は、「大作、何かいい歌を歌ってさしあげなさい」と、よく言われた。歌が得意でない私は一生懸命に歌った。懐かしい思い出である。
 先生は、どこへ行くにも、私を連れていかれた。「大作は、私の片腕だ」とも言われた。飛行機に乗って地方へ行く時も、日本中、どこへ行くにも一緒だった。親子以上だった。
 世界にもご一緒したかった。だから私は、上着の内ポケットに恩師の写真を入れて、世界広布の第一歩を踏み出した。そして今も、恩師と心の中で語りあっている。戸田先生と私は、どこまでも一体である。戸田先生は、弟子を、本当に大事にしてくださった。徹底して薫陶してくださった。
 本物の弟子がいれば、師弟は「不二」となる。そうすれば、未来は安心である。
 反対に、本物の弟子がいなければ、その団体は滅びる。根幹の「師弟」の精神をないがしろにして、いくら勢力を増しでも、結局は崩れていく。
 ゆえに先生は、同志を苦しめ、裏切る反逆者には鉄槌を下した。その本質を鋭く見抜かれた。「悪い枝は切っておかないと、必ず乱される。悪人は、厳しく追放せよ」と訴えられた。
 ともあれ、広宣流布のために戦う人を、どこまでも大事にする――これが学会の伝統である。
 皆さまは、私とともに「平和の道」「民衆の勝利の道」を厳然と聞いてくださった。誇りある善の勝利者として、栄光の人生を、永遠に歩んでいく方々である。幸福の大道を真っすぐに進んでいっていただきたい。
6  ともに祈り、ともに前進を!
 ともに祈って、戦う。ともどもに祈りぬいて、勝つ。これが「法華経の兵法」である。
 学会はこれまで全国各地で、婦人部を中心に唱題の渦を起こしてきた。ともに心を合わせて真剣に祈り、戦ってきた。これほどすばらしい常勝のリズムはない。
 有名な「生死一大事血脈抄」には、こう仰せである。
 「総じて日蓮の弟子檀那等が、『自分と他人』『あちらとこちら』と隔てる心なく、水と魚のような一体の思いになって、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを、生死一大事の血脈と言うのである。しかも今、日蓮が弘めていることの肝要は、これなのである。
 もし、そうであるならば(弟子檀那等がこれを実行するならば)、広宣流布の大願も実現するであろう」(御書1337㌻、通解)
 要するに、広宣流布の同志が異体同心で題目を唱えゆくところにこそ、生死一大事の血脈が流れ通うと教えておられるのである。
 わが学会には、御本仏の仰せどおりの模範の実践がある。同志と心を合わせ、御本尊に合掌・冥合しゆく姿ほど、神々しく、荘厳な光景はないのである。
 日蓮大聖人は、「御義口伝」で、「合掌」について、その深義を展開しておられる。(御書722㌻)
 御本尊に向かって合掌し、唱題する時、私たち自身が妙法の当体となる。仏の生命がわき上がるのである。
 ともあれ、唱題は、わが生命を大宇宙の根源の法則に合致させ、「本有常住の仏界」を開き、あらわしていく、もっとも崇高な儀式である。白馬が大草原を駆けゆくがごとく、すがすがしく、さわやかな音律でありたい。
 また、唱題中に念珠を、せわしなく、もみ続けたりするのは、望ましい姿とはいえないであろう。念珠は「仏道修行を助けるためのもの」であると、日寛上人は記されている。(「当家三衣抄」)
 もちろん、念珠をもんではいけないというのではない。たまに軽くもむのは、むしろ自然な姿かもしれない。しかし、あまりに激しくもむことは、周囲の人に落ち着かない感じを与え、皆の祈りをさまたげてしまうことにもなろう。細かいことであるが、「小事が大事」であり、「諸法は実相」である。ゆえに、おたがいに心がけていきたい。
 ともあれ、「祈りとして叶わざるなし」の妙法である。祈りを具体的に明確に定めて、一つ一つ、祈りきり、祈りぬき、勝ち進んでまいりたい。
7  創価の師弟に勝るものなし!
 戦後、戸田先生の事業が苦境におちいったときである。当時、戸田先生のもとでお世話になっていた人たちが、一人また一人と先生のもとを去っていった。なかには、「戸田の馬鹿野郎!」「インチキ野郎!」と捨てぜりふを残していった者もいたのである。その醜い豹変の姿は、今もって私の胸から消えることはない。
 戦時中、牧口先生が軍部権力に逮捕されたときもまた、態度を一変させて、「牧口の馬鹿野郎!」と罵り、退転していった人間がいた。第一に学会を守り、また会長を守るべき最高幹部が次々と退転していったのである。
 この嵐の真っただ中にあって、戸田先生お一人が、牧口先生とともに、不退転を貫いていかれた。しかも、戸田先生は、「あなた(=牧口先生)の慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」(『戸田城聖全集』3)と言われている。
 他の弟子たちが、師匠の悪口を言っているときに、戸田先生だけは、牧口先生に最大に感謝された。経文どおりの命におよぶ大難に遭ったことを最大の誇りとされた。
 これが、創価学会の師弟である。仏法の究極の師弟の姿である。
8  私も、「同じ心」で師匠である戸田先生にお仕えした。
 戦後の混乱のあおりを受けて、戸田先生の事業の挫折は、深刻を極めていた。事態を聞きつけた新聞記者が取材にきた。まかり間違えば、先生に法律的な制裁が科せられる恐れもあった。そのために先生は、学会の理事長も辞任されたのである。
 債権者は戸田先生の自宅にまで押しかけていた。まさに絶体絶命であった。
 このとき、戸田先生が、私におっしゃった言葉が忘れられない。
 「大作、頼んだぞ。命のあるかぎり、戦いきってくれ」と。
 戸田先生は、若き私を心の底から信頼してくださった。「大作がいれば、心配ない」と。
 私は、「先生、戦います」と心に誓い、御本尊を抱きしめるような思いで祈った。「戸田先生をお守りさせてください。私に力をください」と。
 そして、自分のすべてをなげうって、阿修羅のごとく、戦って戦って戦いぬいたのである。
 給料は、何カ月も遅配のまま。木枯らしが吹く季節になっても、オーバー一つ買えなかった。持病の肺病にも苦しめられた。他の青年のように、ゆっくりと外で食事をするような時間もなかった。
 しかし、偉大なる師匠とともに、二度とない青春を悔いなく戦える誇りと喜びで、わが心は王者のごとく輝いていた。
9  私は、望んでいた進学も断念し、三百六十五日、先生のおそばで働いた。
 「そのかわり、ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな」と、漢文、経済、政治、法律、化学、天文学など、ご自身の持てる万般の学識を、私に注ぎ込んでくださった。
 その薫陶があったればこそ、今の私がある。
 晩年、戸田先生が、しみじみとこう言われた。
 「大作、本当にすまなかったな。お前には、どれだけ助けてもらったかわからない。永遠にお前のことは忘れないよ」
 わが子以上に、弟子を愛してくださった、慈父のごとき師匠であった。まことにありがたき、会いがたき、不世出の師匠であった。この厳粛なる「師匠と弟子の結合の力」によって、今日の世界的な学会の土台が築かれたのである。「師弟不二」こそが学会の根本の道である。
 御書には厳然と仰せである。
 「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」と。
 広宣流布という大目的に向かって、師弟の呼吸を合致させていけば、必ず事は成就する。反対に、呼吸が合わなければ、何事も成し遂げることはできない。広布の戦いは勝てない。これが大聖人の御確信である。
10  広布のため、友の幸福のため、御本尊に祈りに祈り、大聖人の御心に連なっていくことである。
 大聖人と「同じ心」で勇敢に「三類の強敵」と戦っていくことである。そうすれば、おのずと、自身の内にある仏界の宇宙大の力を引き出すことができる。それが仏法の方程式である。
 だからこそ、牧口先生も、戸田先生も、仏法の師弟に生きよ、と繰り返し、教えられた。そして、模範の師弟の姿を、わが身をもって、後世の弟子に教え残してくださったのである。
 仏法の師弟に勝るものはない。いかなる三障四魔の嵐に襲われようとも、創価の師弟は断じて負けない。必ず勝っていける。
 私は、創価の師弟の偉大さを、現実のうえで宣揚してきた。あらゆる広布の戦に勝ちに勝って、その「現証」をもって、師弟の正義を証明してきた。峻厳な師弟の紳を自覚すれば、無限の力がわくのである。
11  全世界の友が集う「信濃町」の由来
 学会創立七十五周年の上半期、じつに多くのわが同志が、全国・全世界の各地から、遠いところ、東京に足を運ばれ、信濃町の学会本部を訪問してくださった。
 日蓮大聖人は、山河を越え、はるばる馳せ参じた弟子に対して、その信心を讃えられ、こう仰おおせである。
 「山河を越えるには苦労が多い。たとえ志はあっても、行動にあらわすことはむずかしい。そうであるのに、今、あなたが志をあらわされたのを見て、その信心が並大抵でないことがわかります。必ず法華経の十羅利女が守られるであろうと、頼もしく思っています」(御書1554㌻、通解)
 広宣流布の勝利のため、いかなる労も惜しまず、勇敢に行動を貫いた、わが学会の同志の深き信心を、大聖人がこよなく讃嘆されていることは間違いない。
 仏に等しい、尊く健気な同志の皆さま方に、私は妻とともに題目を送り続けている。
 感謝の思いを込めて、ここ信濃町にちなんだ歴史を、少々、語らせていただきたい。
12  JRの信濃町駅から学会本部を望む北側の一帯には、かつて、江戸幕府の重臣・永井信濃守(永井尚政)をはじめとする永井家の下屋敷(本邸以外に江戸近郊に設けた控えの屋敷)が広がっていた。
 「信濃町」の名称は、この永井信濃守の「信濃」に由来している。
 江戸時代の古地図と照合すると、現在、学会本部、聖教新聞本社、創価世界女性会館、民音文化センターなどが立つ場所は、この永井家の屋敷と、ほぼ重なっている。
 これまでも折にふれ、永井信濃守については語ってきたが、この永井家の祖は、永井直勝、すなわち尚政の父である。直勝は、徳川家康から絶大な信頼を寄せられ、一生涯、その信頼に応えて戦った人物である。直勝は、十代の時から家康に仕え、家康の命によって、家号を「永井」と称するようになった。
 若き直勝の初陣は、天正十二年(一五八四年)の「小牧・長久手の戦い」である。家康直属の若武者として、二十二歳の直勝は勇猛果敢に戦い、武勲をあげた。
 その後、直勝は家康の側近として、慶長五年(一六〇〇年)、天下分け目の決戦「関ケ原の戦い」に先立って、諸大名を味方につける重要な情報戦・外交戦においても、陰で活躍していった。
 慶長十九年(二三四年)の「大坂冬の陣」では、家康の目となり、耳となって、敵の状況などを詳細に偵察する「斥候」の役も果たしている。
 翌年の「大坂夏の陣」にさいし、家康の軍に騒動が持ち上がったときには、直勝が奔走して、それを鎮めた。
 混乱を好機に転じて、かえって士気を高め、団結を強めて、戦いに臨んだといわれる。まことに天晴れな名将として、勝利の歴史を残してきた。
 家康亡き後も、直勝は二代将軍・秀忠に仕えた。天下を取った徳川幕府の体制を盤石に固めるため、諸大名の改易(所領の没収等をすること)などむずかしい案件の対処を託され、各地に派遣されている。そして、その重責を厳然と果たしていった。
 この直勝のあとを立派に受け継いだのが、嫡男の尚政(信濃守)らである。尚政は、十四歳で、父・直勝とともに戦陣に参加し、十六歳から二代将軍・秀忠の近習(側近)となっている。家康、秀忠、家光、家綱と、四代にわたる将軍に仕え、草創期の徳川幕府を支えた。なかんずく、秀忠の時代には、老中の要職を務め上げ、徳川家の恩に報いていった。
 次男・直清(日向守)も、二代・秀忠に仕え、家光、家綱からも深く信用されている。政治的な手腕に秀で、幕府も、その手腕を頼みとした。寛永十九年(一六四二年)には、兄・尚政とともに、京都や大阪の貧しい人々を救済している。善政を行い、領民から非常に慕われたことでも知られる。
 永井家の領地は、関西創価中学・高校のある大阪府交野市、また関西創価小学校のある枚方市にもあった。さらに、隣の寝屋川市の池田村と呼ばれた地域も、永井家の領地であったという。
 三男・直貞(豊前守)は、幼いころから、三代・家光に仕え、本陣・江戸城の警備などに当たる小姓組のリーダーとなった。四男・直重(式部少輔)も、十五歳の時から秀忠に仕えている。
13  思えば、イギリスの歴史家トインビー博士は、私との語らいのなかで、歴史上の偉大な政治家として三人の名をあげておられた。
 中国の漢の高祖(劉邦)と、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス、そして、戦国の乱世を勝ちぬいて、天下太平の世を聞いた徳川家康であった。
 家康はその生涯の大半において、富士山が見える場所に城を構えて指揮を執った。(江戸、駿河、御殿場など)
 信濃町は、古来、富士を望む名所と謳われてきた。この地にゆかりの永井家は、父も、そして子も、誇り高き「信義の道」を貫き、徳川十五代の繁栄の礎を築き上げていった。その歴史の劇が偲ばれてならない。(永井信濃守などについては、『新・信濃原の郷土史』〈聖教新聞社〉、鈴木成元『永井直勝』〈一行院〉等を参照した)
14  後継の育成が未来を決する
 日蓮大聖人は、南条時光の父子を讃えられて、こう仰せである。
 「亡くなられた兵衛七郎殿(南条時光の父)こそ情けに厚い男だと人は言いましたが、あなた(時光)はその御子息であるから、父上の優れた素質を、よりいっそう、受け継がれたのでしょう。
 青は(藍からとり出すが、その青さは)藍より青い。氷は(水からできるが、その冷たさは)水よりも冷たい。(と同じように、あなたが父を超えるほど立派に成長されていることは)ありがたいことです。ありがたいことです」(御書1554㌻、通解)
 青は藍より出でて藍より青し――まさに「出藍の誉れ」である。
 何事であれ、先人の心を継ぎ、発展させゆく青年ありて、永遠の向上の道は開ける。創価学会の万代の興隆、そして、広宣流布の万年の勝利を決定づけることができるかどうかは、ひとえに後継の育成にかかっている。
 この七月二十三日から、いよいよ「未来部躍進月間」が始まる。青年部の二十一世紀使命会、壮年・婦人部の未来部育成部長、そして学生部の進学推進部長の真剣など健闘に、あらためて感謝申し上げます。次の五十年を見つめながら、若き友の成長をともどもに祈り、「宝の未来部」の育成にいちだんと力を入れてまいりたい。
15  青年は攻めて勝て
 「強敵を伏して始て力士をしる
 有名な「佐渡御書」の一節である。
 強敵との激戦また激戦を勝ち越えて、みずからを第一級の「広宣流布の力士(力ある士)」と鍛え上げていくのが、学会青年部の伝統である。
 古来、大相撲では、「押さば押せ。引かば押せ。押して勝つのが相撲の極意」と言われる。相手がどう出てこようとも、押して押して押しまくること、攻めて攻めて攻めぬくことが、相撲の基本だというのである。
 「昭和の名横綱」と謳われた第三十二代の玉錦、第三十五代の双葉山の二人の横綱も、「攻めの相撲」で有名である。ともに「常勝将軍」と呼ばれた。
 玉錦は、「怒濤の寄り」といわれる速攻が身上だった。双葉山は、いまだに破られぬ六十九連勝の大記録を打ち立てた。その連勝における決まり手(勝負が決まった時の技)は、「上手投げ」や「寄り切り」や「寄り倒し」が多かった。攻めぬいて勝ったのである。
 ともあれ、御書には、「法華経の行者を、第六天の魔王が必ずさまたげる」「魔の習癖は、善事をさまたげて悪事をさせるのを悦ぶことである」(981㌻、通解)と仰せである。
 ゆえに、魔にスキを見せてはならない。魔を魔と見破り、打ち破っていくことだ。
 きょう七月十六日は、日蓮大聖人が「立正安国論」をもって、時の最高権力者を諌暁された日である。
 大聖人は「凶を捨てて善に帰し源をふさぎ根をたつべし」と仰せである。
 邪悪の根を断て! 不幸の源をふさげ!――この厳命のとおりに、学会は、強くまた強く、攻めて攻めて攻めぬいていくのである。
 戸田先生は、厳然とひとこと、「追撃の手をゆるめるな!」と遺言された。
 私は申し上げたい。
 わが青年部よ、正義の執念で勝ち進め!
 わが創価の同志よ、「立正安国」の勝利のために、痛快に真実を語りまくれ!――と。
 ナチスと戦ったドイツの劇作家ブレヒト。彼は戦後、ある平和会議に寄せて訴えている。
 「語り足りなかったなどということがないように、いく千回となく語りつがれたことを、ぼくらはさらにくり返し語りつづけよう!」(「諸国民平和会識によせて」石黒英男訳、『ブレヒトの政治・社会論』所収、河出書房新社)
 邪悪には、断じて破折の声を上げることである。切れ味鋭く、正義を叫ぶことだ。
 「一」言われたら「三」言い返す。「三」言われたら「十」言い返す――この不屈の反撃精神こそ言論戦の方程式である。
 言うべきときに言わなければ、自分が損をする。また、悪が増長するだけである。
 語らなければ、心は伝わらない。心で思っていても、それだけでは、相手にはわからない。
 真実を叫ぶのだ。そうすれば、敵をも味方に変えることができる。
 「声仏事を為す」である。わが信念を叫びぬく声の力こそ、広宣流布の原動力である。
 勝利の要諦――それはまず、御本尊にしっかり祈りぬくことだ。そして智慧を出し、「最高の作戦」を立て、積極果敢に打って出ることである。
 われらはどこまでも、この偉大なる「法華経の兵法」で勝ち進んでまいりたい。
16  滝のごとく清冽に生きよ
 夏になると思い出す。ほとばしる清流。透き通る緑。かつて訪れた、青森の東北研修道場である。(一九九四年八月)
 あれから十一年。わが東北の同志は、天を突く大樹のように、幸福と勝利の枝を大きく茂らせている。研修道場の近くには、広大な十和田湖。そして美しき奥入瀬の渓谷。その光景を私はカメラに収めた。最高峰の宝の自然を、世界の友と分かちあうために。
 研修道場には、私の詩が碑に刻まれていた。
 それは――
  滝の如く 激しく
  滝の如く たゆまず
  滝の如く 恐れず
  滝の如く 朗らかに
  滝の如く 堂々と
  男は
  王者の風格を持て
 われらもまた、滝のごとく、清冽に生きたい。あらゆる苦難を打ち砕きながら!
17  大いなる夢へ! つねに挑戦者だったウォルト・ディズニー
 七月十七日は、アメリカの「ディズニーランド」が開園して五十周年の佳節に当たる。アメリカ創価大学と同じオレンジ郡にあり、世界的な″夢の広場″として愛されている。
 五十年前の開園は、どんな様子であったか。
 その日、映画人であり起業家であるウォルト・ディズニーは語った。
 「この場所が、世界中の人々にとって喜びと感動の源となれますよう、願いを込めて」(グリーン夫妻『魔法の仕掛人 ウォルト・ディズニー』山口和代訳、ほるぷ出版)
 だが、彼が思い描いたような順調な滑り出しではなかった。(以下、能登路雅子『ディズニーランドという聖地』〈岩波新書〉、有馬哲夫『ディズニーランド物語』〈日本経済新聞社〉、ボブ・トマス『ウォルト・ディズニー』〈玉置悦子・能登路雅子訳、講談社〉を参照)
 開園日は日曜日。ニセの招待券が出回り、予定の三倍近くの人が殺到。準備も万全ではなく、乗り物は故障や停電に見舞われた。水飲み場やトイレが足りず、長蛇の列に。大混乱におちいった。
 「ブラック・サンデー(暗黒の日曜日)」と呼ばれるほどの惨憺たる出発であった。
 多くのマスコ、批評家から酷評された。
 「ウォルトの夢は悪夢」「ディズニーランドのオープニングほどの大失態は前例がない」(前掲『ディズニーランドという聖地』」
 いっせいに叩かれた。しかし、障害があるほど強くなるウォルト・ディズニーであった。
 「僕たちの目標は高いんだ。だからこそ、いろんなことをやり遂げられるんだ」(『ウォルト・ディズニー』)
 開園すると、彼はよくディズニーランドに泊まり込んだ。現場の話を聞き、陣頭指揮を執った。大失敗の初日であったが、開園から数カ月で入場者数は百万人を突破。事前の予想をはるかに上回ったのである。
 ディズニーランドは、不断の改良を続けた。当初、二十二だったアトラクションは、十年後には倍以上に増えた。事業は拡大し、大成功を収めた。
 なぜ成功したのか。その要因の一つは、当時、全盛期を迎えた白黒テレビを宣伝の武器に使ったことにあったといわれる。
 また、従業員に対して″ディズニー大学″で継続的な研修を行った。十分な訓練を受けた従業員たちは、ディズニーランドの理念や姿勢を身につけ、すばらしい応対で来園者を迎えた。
 それが、当時、遊園地にあった「とげとげしい係員」「汚い」というイメージを払拭させた。一度来園した人が、何度も訪れるようになった。
 開園から十周年を迎えた時、ウォルト・ディズニーは、仕事に携わってきた一人一人に感謝しつつ、こう語っている。
 「これだけは言っておきたい。これまでのところは、まあ、言ってみれば、リハーサルみたいなもので、これからが本番なんです。ですから、みなさんの中で過去の栄光の上にどっかり座って楽をしようという人がおられれば、えー、もう用はないんです、そういう方には」(同前)
 彼は皆の心を奮い立たせたかったのだろう。前へ! 前へ! 新しい舞台へ!
 彼が築いた″夢の城″は、フロリダ、東京、パリと、世界に広がり、本年九月には新たに香港にも開園するという。大いなる夢に向かって彼は突き進んだ。つねに挑戦者だった。心には「開拓精神」――「フロンティア・スピリット」が燃えていた。
 ここに、新たな時代を切り開く原動力があったと私は思う。
 創価学会は、この秋、創立七十五周年を迎える。いよいよこれからが「本番」である。
 希望はつねに前にある。栄光は前進し続けるなかにある。ともどもに悔いなく、最高の勝利の人生を飾ってまいりたい。
 (=二〇〇五年六月二十六日、フィリピンの「東南アジア子どもテレビ基金会」が、名誉会長に、子ども向け番組に貢献した人物に贈る最高の栄誉「アナック・テレビ放送賞」を授与した。そのさい、同基金会のローセス会長は、名誉会長を「想像を超えた世界に子どもたちを連れて行き、楽しさと喜びを与える″アジアのウォルト・ディズニー″です」と賞讃している)
 この地上から「悲惨」の二字をなくしたい――これが戸田先生の夢であった。そして私の夢である。
 夢を実現する武器は何か。それは「対話」である。
 日本と世界の指導者、さらに各界の識者と、私は、胸襟を開いて対話してきた。
 イギリスでは、バッキンガム宮殿で、アン王女を表敬し、難民問題等について意見を交換した。チャールズ皇太子からは私邸に招かれ、青少年の教育について話が弾んだ。
 冷戦終結の立役者、ロシアのゴルバチョフ元ソ連大統領とも、これまで八度にわたって親しく語りあった。
 一九九六年には、アメリカとキューバの関係が悪化するなか、両国を相次ぎ訪問した。キューバの革命宮殿で、背広姿のカストロ議長とお会いしたことも、思い出が深い。議長とは、「核兵器は絶対に無用」との信条で一致した。
 また私は、世界の″知性の府″から招聘を受けて、講演を行ってきた。
 アメリカのハーバード大学では二度、スピーチした。フランス学士院でも、厳粛な雰囲気のなかで講演を行った。温かい賛同の拍手を送っていただいたことも懐かしい。
 アジアにも、南米にも、アフリカにも、オセアニアにも、創価の人間主義に共感してくださる友人が数多くいる。
 われらの「友情の太陽」で世界を照らしたい。一生涯、大いなるロマンに生きぬきたい。そこに平和の緑野が広がっていくのである。
18  団結は勝利の源、団結を破壊する破和合僧は大罪
 歴史を変えゆく運動を成就させるために、もっとも大事なことは何か。
 アメリカ公民権運動の大指導者キング博士は、「運動に参加する人たちを団結させておくことだ」(『自由への大いなる歩み』雪山慶正訳、岩波新書)と述べている。
 モンゴルの格言にも、「団結した人々は壊されない」「団結は勝利の源」とある。団結こそ力である。
 御聖訓には、「異体同心なれば万事を成し」仰せである。広宣流布の前進においても、同志の「異体同心の団結」が極めて重要となる。
19  仏法を行じ、弘めゆく人々の団結を破壊せんとする「破和合僧」の罪は、仏法上、たいへんに重いとされる。「破和合僧」は「五逆罪」の一つとして説かれている。(五逆罪の内容は、仏典等により諸説ある)
 御聖訓には仰せである。
 「大阿鼻地獄(無間地獄)の業因をいえば、五逆罪をつくる人が、この地獄に堕ちるのである。
 五逆罪とは、一に父を殺すこと、二に母を殺すこと、三に阿羅漢(小乗の悟りを得た聖者)を殺すこと、四に仏の身を傷つけて血を出させること、五に破和合僧である」(御書447㌻、通解)
 また、「佐渡御書」で中国の不惜身命の僧として言及されている慧遠は、『大乗義章』で論じている
 ″破和合僧は、正法に違背し、人々を悩ませ、成仏への道を閉ざしてしまう。ゆえに、五逆罪の中でもっとも罪が重い″
 さらに、こう断じている。
 ″破和合僧は、貧嫉の心から起こる。貧りの心、名聞を求める心、嫉妬心のゆえに和合僧を破壊するのである″
 遠くは、日蓮大聖人、日興上人の御在世においても、近くは、牧口先生、戸田先生の時代においても、破和合僧の反逆者たちの性根は皆、同じであった。その本質は、今も変わらない。
 「和合僧」を破壊することは、正しき仏法を断絶させることに通じる。
 ゆえに、破和合僧の悪人を、絶対に許してはならない。あいまいな態度で妥協してはならない。こうした人間を放置すれば、仏法の命脈が絶たれてしまうからだ。
 また、悪行を徹して責めぬいてこそ、その人を目覚めさせ、救うこともできる。
 「破和合僧」の輩と戦いゆく学会の「破邪顕正」の言論闘争は、仏法の法理の上から見て、正しい行動なのである。
 釈尊の在世において、提婆達多は教団の乗っ取りと分裂を画策した。提婆達多の邪悪な本性を見破った釈尊は、厳しく言った。
 「提婆達多がなすところの事は、もはや仏法僧の事ではない。ただ提婆達多の所作なのである」(「四分律」、『国訳一切経』〈大東出版社〉を参照)
 もはや提婆達多の言動は、仏法者のものではない、と言明したのである。
 提婆の人生は破綻した。頼りにしていた権力者の阿闍世王からも、見放された。その悪行も世間の知るところとなり、人々から憎まれた。最後は大地が割れ、生きながら無間地獄に真っ逆さまに堕ちていったとも、経典には記されている。
20  インドのアショーカ大王が残した法勅には、″僧伽そうぎゃ(仏道修行をする人々の集団)を破壊する者は、追放されねばならない。なぜならば、私が願うのは、和合した僧伽を永続させることだからである″と刻まれている。(塚本啓梓『アショーカ王碑文』第三文明社、参照)
 このアショーカ大王の法勅については、現代インドを代表する大哲学者であるロケッシュ・チヤンドラ博士との対談でも、話題になった。博士は、現代の「和合僧」というべきSGIの人間主義運動に、大きな期待を寄せてくださっている。
 インドだけではない。今や全世界の心ある知性が、創価の和合の前進に、「共生と平和の未来」への希望を見いだしているのである。
 大聖人は仰せである。
 「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり
 生命の悪、生命の無明の消滅が即、功徳である。「悪を砕く」大闘争にこそ、その大功徳が輝く。大発展の道がある。
 邪悪な「破和合僧」の輩を断固として打ち破るたびに、学会は、いよいよ威光勢力を増していく。その闘争があったからこそ、百九十カ国・地域に広がる創価の和合の大連帯が築かれたのである。
21  師弟の大道に勝利の栄冠
 若き日、私は戸田先生から御書を学んだ。「当体義抄」など数々の重書を、直接、講義していただいた。最高の師匠のもとで、最高の哲学を学んだ。それを無上の誇りとしてきた。先生からいただいた記念の品も、私は、ずっと大切にしている。
 今、SGIの平和・文化・教育の貢献に対て、世界の各地から多くの顕彰が贈られている。皆さまを代表して私が拝受した栄誉も数多い。
 仏法の眼から見るならば、こうした栄誉の数々も、師弟の大道を生きぬいた勝利の栄冠である。
 わが同志の大福徳の証である。私は、そう深く確信している。
 「心こそ大切」である。
 学会のため、広宣流布のために一心に尽くしていくならば、必ず最高の幸福境涯となっていく。偉大な人生を歩んでいくことは、絶対に間違いないのである。
22  健康第一で、人間革命の夏を
 私と妻の祈りは、ただひたすらに、わが同志が一人ももれなく、健康で、裕福で、ご長寿であってほしい、所願満足の人生を飾ってほしいということである。
 健康は智慧が大事である。これから、暑さもさらに厳しくなってくる。ドクター部の皆さんと相談し、夏の健康管理のポイントを、具体的に七点にわたってあげていただいた。
 (1)規則正しい生活をすること。とくに疲れをためないよう、十分に睡眠をとること。
 (2)栄養のバランスのとれた食事をすること。
 (3)水分をこまめに補給すること。
 (4)適度に体を動かすこと。
 (5)熱中症に気をつけること。
 とくに外出の時は、日傘や帽子を利用し、長時間、直射日光を浴びないよう、工夫したほうがいいと、ドクターは強調していた。
 (6)冷房病に注意すること。
 (7)食中毒にも十分注意すること。
 ともあれ、自分の健康は自分で守ら、なければならない。「健康第一」で進んでいきたい。
 マハトマ・ガンジーは語っている。
 「真の健康の主旨も真理と正義の理想を不撰不屈で追求してゆくことなのです」(丸山博監修『ガンジーの健康論』岡芙三子訳、編集工房ノア)
 題目を朗々と唱え、偉大な生命力をわき上がらせて、広宣流布のために戦いゆく学会活動。ここにこそ「真の健康」の実像があるといえよう。
 どうか、生き生きと、そして聡明に、次の勝利の因を深く刻みゆく「充実の夏」「成長の夏」「人間革命の夏」としていただきたい。
 終わりに、戸田先生のど指導をお伝えして、スピーチを結びたい。
 「臆し去った者は、みじめな敗北の姿をさらす。
 正しき信心を貫いた人は、必ずや勝利の姿を示す」
 きょうは本当にありがとう! 各地の同志の皆さん、また、ご家族の皆さん方に、くれぐれもよろしくお伝えください。
 皆さんのご多幸を心から祈っています。また、お会いしましょう!
 (東京・新宿区内)

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