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日蓮大聖人・池田大作

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牧口先生生誕記念協議会 創価の師弟は教育で勝った!

2005.6.6 スピーチ(2005.4〜)(池田大作全集第98巻)

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2  しかし牧口先生は、権力の横暴に、一歩も引かなかった。それを証明する「訊問調書」が残っている。(旧内務省の資料『特高月報』の昭和十八年八月分に記載、『牧口常三郎全集』10所収)
 先生は刑事に堂々と答えられた。そして、当時の聖戦思想を真っ向から否定された。
 「(=立正安国論には)この法(=法華経)が国内から滅亡するのを見捨て置いたならば、やがて国には内乱・革命・飢僅・疫病等の災禍が起きて滅亡するに至るであろうと仰せられてあります」
 「現在の日支事変(=日中戦争)や大東亜戦争等にしても、その原因はやはり謗法国であるところから起きている」
 「この大法にもとる事は、人類としても、はたまた国家としても許されない事で、反すればただちに法罰を受ける」(句読点を適宜、補った。『牧口常三郎全集』からの引用は以下同じ)
 戦争でいちばん犠牲になり、苦しむのは、いつも民衆である。しかし、国は「神州不滅」などとあおって、国民を戦争に駆り立てた。それに、はっきりと異議を唱えたのである。正法を迫害する国は、滅亡するのが道理であると喝破されたのである。
 軍国主義の時代である。しかも獄中である。どれほどの信念であられたか。どれほどの壮絶な戦いであったか。先生は、創価学会の永遠の誇りである。その直系が私たちなのである。
3  牧口先生のことを語られる時、戸田先生は涙を流すのがつねであった。「仇は必ず討ってみせる」という怒りと決意が、燃え盛っておられた。
 牧口先生と戸田先生は、警視庁の取調室で一緒になった。(逮捕から二カ月後の昭和十八年九月)
 その時、牧口先生は、ご家族から差し入れられた愛用のカミソリを手に取り、懐かしそうに見つめておられたという。その時、刑事が大声で怒鳴った。「ここをどこと思う。刃物をいじるとはなにごとだ」
 戸田先生は、のちに、こう語っておられる。
 「先生は無念そうに、その刃物をおかれました。身は国法に従えども、心は国法に従わず。先生は創価学会の会長である。そのときの、わたくしのくやしさ」
 そして、牧口先生が東京拘置所に移される時が、師弟の最後の別れとなった。
 「『先生、お丈夫で』と申しあげるのが、わたくしのせいいっぱいでございました。あなたはご返事もなくうなずかれた、あのお姿、あのお目には、無限の慈愛と勇気を感じました」
 あまりにも崇高な師弟の歴史である。
 信念に生きる立派な人間、偉大な思想をもった人間は、かえって弾圧され、牢に入れられる。
 なかでも当時、韓・朝鮮半島の人々の場合、その処遇は苛烈を極めた。戸田先生は、それを振り返り、「どうして日本は、こんなにひどいのか!」と悔しがっておられた。その先生の血涙の叫びを、私は忘れることができない。
4  牧口先生の哲学と人生を宣揚
 牧口先生は獄死され、戸田先生は生きて獄を出られた。
 戸田先生は厳然と語り残された。
 「私は弟子として、この先生の残された大哲学を、世界に認めさせる」「私の代にできなければ、きみらがやっていただきたい。たのみます」
 私は、この戸田先生の意志を受け継いで、牧口先生の哲学と人生を宣揚してきた。創価学園をつくり、日本にもアメリカにも創価大学をつくった。師の構想を実現するのが、弟子の道である。
 今、アメリカやブラジルをはじめ世界の各国で、牧口先生の教育哲学が注目され、実践される時代に入った。また世界のどこに行っても、創価教育から巣立った人材が活躍している。
 牧口先生は勝ったのである。創価の師弟は勝ったのである。私は本当にうれしい。
5  牧口先生がつねに拝された御聖訓に、「観心本尊抄」の一節がある。
 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか
 先生は、この御文を通して指導された。
 「太陽が昇った瞬間から、大地はパッと明るくなる。同じように、信心すれば、生活のすべてが改善できるのです。
 大事なことは『天を晴らすこと』です。そういう信仰をしなくてはいけません」
 この牧口先生のご精神のままに、信心強き皆さまは、わが身、わが地域を妙法の大功徳で照らし、人間革命と社会貢献の輝く実証を示してこられた。今や「創価の太陽」は、日本と世界を赫々と照らし、希望の大光を送っている。
6  「悪と戦う強さが社会を明朗に」
 牧口先生は言われた。
 「言わねばならぬことをどしどし言うて折伏するのが、随自意の法華経であらせられると思う。
 ゆえに我々は、これで戦ってきたのが、今日の盛大をいたした所以であり、今後も、それで戦わねばならぬと思う。
 つまり我々は、蓮華が泥中よりぬけ出でて清浄の身をたもつがごとく、小善・中善の謗法者の中に敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているようなものであれば、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるがゆえに行者と言われるのである」(『牧口常三郎全集』10)
 広宣流布は、永遠に、仏と魔との闘争である。先生の言われたとおり、学会は、「勇気の言論」で勝ってきた。三障四魔との戦いをやめないから勝ってきた。
 牧口先生は、こうも語られた。
 「(=嫉妬や迫害を受けても)今後とも、さらに『不自惜身命』の決心をもって、いよいよこれを力説するつもりである」「だれかが言わねば、社会は遂に改まるのはないことを思うからである」(同全集6)
 広布の指導者は、みずからが勇敢に、言うべきことを言わねばならない。皆が言うべきことを言えるよう、励ましていかねばならない。
 また、みずからが率先して行動しなければならない。そして、皆が行動できるよう励ましていかねばならない。要するに、みずからが断固として戦う。その必死の姿を通して、皆の「戦う心」に火をつけることである。
 牧口先生は教えられた。
 「大善人になるには、強くならねばならぬ。決然と悪に対峙たいじする山のごとき強さが、個人も社会も明朗にする」
 強くなければ、本当の意味で、善人にはなれない。学会は「正義の中の正義」である。ゆえに、強くならねばならない。強くあってこそ、朗らかに前進することができる。「強さ」と「明朗さ」は一体なのである。
7  いかなる権力も仏には勝てない
 思えば、宗祖日蓮大聖人の御生涯は、権力による迫害との熾烈な闘争の連続であられた。すべては、末法の一切衆生の幸福のためである。
 現在、鎌倉の「竜の口」には「SGI教学会館」がある。ご存じのとおり、この地は、日蓮大聖人が発迹顕本なされた「竜の口の法難」ゆかりの地である。会館には、海外からも多くのSGIメンバーが訪れ、大聖人の御足跡を偲びつつ、広宣流布への決意を新たにしている。
 大聖人が法戦の本舞台とされた鎌倉は、当時の政治の中枢であった。いわば、権力の魔性がうごめく真っただ中で、敢然と破邪顕正の戦いを起こされたのである。傲慢な権力者にも、仮面の聖職者にも、大聖人は容赦なく、″正法を尊ばなければ国は滅びる″ことを主張し、正義を叫びぬいていかれた。
 そして一方、女性の信徒や、若き青年門下には、限りない慈愛を注がれる大聖人であられた。
 正義の中の正義であられる大聖人に、権力は残酷に牙を剥いた。そのきっかけとなったのは、邪悪な聖職者らによる「讒言」――嘘で固めた、でっち上げであった。
 文永八年(一二七一年)九月十二日――。大聖人のおられた松葉ヶ谷の草庵に、幕府の実力者であった平左衛門尉頼綱が、数百人の武装兵士を率いて押し寄せた。
 大聖人が竜の口に向かい、頸の座にのぞんだのは、「子丑の時」――すなわち真夜中だった。「三世の諸仏の成道はうしのをわり・とらきざみの成道なり」とあるとおり、「子丑の時」から「寅の刻」にかけては、不可思議な時間帯なのである。
 兵士が大聖人を取り囲んだ。刀を手にした武士が、身構えた。途中から裸足でついてきた四条金吾が、「只今なり」と言って、泣いた。その金吾に大聖人は「これほどの悦びをば・わらへかし」と、悠然とたしなめられた。
 そのときである。月のごとく明るく輝く鞠のようなものが、南東から北西にかけて光りわたった。刀を持った武士は倒れ伏し、恐怖に駆られた兵士は「一町計り」も走って逃げた。
 大聖人は「どうして遠のくのか。近く打ちよれや。打ちよれや」と叫ばれたが、近づく者はいなかった。「頸を斬るならば、夜が明ける前に、早く斬れ!」とうながされたが、応える者はなかった。だれもが驚愕し、動揺し、おじけついていた。その中にあって、大聖人ただ御一人が、不動の大境界を示されていたのである。
 どれほど強大な権力も、どんなに卑劣な策略も、仏の境界を侵すことはできない。諸天善神の加護は絶対である。法華経の行者を不幸におとしいれることは、だれにもできないのである。
 (「光り物」の正体は、「おひつじ・おうし座」流星群に属するものではないかという説がある。東京天文台長で、東大名誉教授であった故・広瀬秀雄博士の研究による)
8  西洋においては、キリスト教の祖であるイエスも権力の迫害と戦い、受難した。イエスもまた、人々の幸福を願い、平和をめざした人物であることは間違いないであろう。
 あくまで想像上の仮定の話であるが、もしも日蓮大聖人とイエスが話しあったならば、決して口論などにはならず、民衆に尽くす生き方に対して、尊敬の念を抱いたのではないかと推察する。
 偉大な人はすぐに、より偉大なものがわかるものである。
 戸田先生はよく、″釈尊や、キリスト、マホメットなどの宗教の創始者が一堂に会して「会議」を開けば、話が早い″と言っておられた。
 創始者には、後世の宗派性はない。宗祖の原点の精神に帰ることで、宗教は、より普遍的で人間的な広がりを回復することができる。私どもが平和な世界の実現を願って、各国で推進している「宗教間の対話」「文明間の対話」のポイントも、ここにある。
9  絶対無事故で! 子どもたちの健康と幸福を第一に
 一九二三年(大正十二年)の六月六日、牧口先生は、ここ八王子市に足跡をとどめておられる。白金尋常小学校の校長であられた先生が、児童を引率して、高尾山まで足を運ばれたのである。(当時は南多摩郡)
 牧口先生は、遠足などの行事にさいして、そのたびごとに、児童の「絶対無事故」に心を砕かれていた。何事であれ、「安全」は最優先の課題である。「人命」にかかわることには、いささかたりとも油断があってはならない。
 青年時代に、牧口先生のもと、白金尋常小学校で教員を務められたある人物は、次のような思い出をつづっている。
 ――大正十四年(一九二五年)の春、遠足に出かけたところ、急に空に雲がかかり、今にも雨が降りそうになった。急いで帰り支度をさせ、皆を引率して学校に帰り着いたとたん、大粒の雨が降り出した。雨に濡れないで学校に戻ったのは、このクラスだけだった。
 牧口先生は「子供たちを雨に濡らさなかったのは君の大手柄だ」と言って、最大に賞讃してくれた――(窪田正隆さんの回想から)
 牧口先生は、つねに子どもたちの健康と幸福を第一に考えていた。そのための行動は、どんな小さなことでも、ほめ讃えた。反対に、子どもたちのことを考えない振る舞いに対しては、じつに厳しかった。
 私も、同じ心情である。私の創立した、世界の創価幼稚園、東西の創価学園、創価大学、創価女子短期大学、そして、アメリカ創価大学に学ぶ一人一人のことを考えない日はない。
 私の命よりも大切な宝の人材が、きょうも一日、一人ももれなく、無事故で、健康で、はつらつと成長していけるよう、私も妻も、朝な夕な、真剣に祈り続けている。
10  「名誉教授」の称号は先師に捧ぐ栄誉
 本日、アメリカ・ミネラルエリア大学のバーンズ学長ご一行が、わが創価大学を訪問してくださった。同大学は、一九二二年、ミズーリ州に創立された、伝統ある州立のコミュニティー・カレッジである。
 光栄にも、学長一行は、私の妻に対する人文学の「名誉教授」の称号を携えて来学してくださった。妻は、アメリカをはじめ、世界の婦人部・女子部の皆さま方の代表として、謹んで拝受させていただいた。
 (=授与式でバーンズ学長は、女性の人権を擁護し、世界の女性の模範となり、牧口初代会長の教育理念を体現してきたと、池田香峯子夫人の功績を賞讃。同大学は二〇〇四年二月、池田SGI会長に名誉教授の称号を授与している)
 妻は幼き日、牧口先生の手を引いて、駅から、座談会が行われる自宅(現在の大田区)まで案内した思い出を持っている。特高刑事の監視のもとでも、師子王のごとく、平和と正義の信念を主張されていた牧口先生の雄姿を、妻は生命に焼き付けている。
 牧口先生の誕生日にお受けした、最高峰の教育の栄誉である。この栄誉を、深い感謝をこめて、先師に捧げさせていただきたい。妻と私は、そういう思いでいっぱいである。
11  ところで、ミネラルエリア大学のバーンズ学長は、私どもと不思議な縁で結ばれている。
 今回の来日にあたり、学長は、その縁をあらためて語ってくださった。
 学長の父君は、かつてミズーリ州のボーイスカウトの責任者として、青少年の育成に取り組んでおられた。そして、一九七一年の八月、静岡・富士宮市の朝霧高原で開催されたボーイスカウトの「世界ジャンボリー」に、多くの少年たちを率いて参加されたのである。
 当時は折り悪しく、台風十九号が日本列島を襲い、東海地域は激しい暴風雨に見舞われた。多くの野営テントが水浸しになり、キャンプ地はたいへんに危険な状態となった。
 この時、私は、高等部の夏季講習会のため、近くの大石寺で指導・激励に当たっていた。
 世界ジャンボリーからの緊急避難の要請を聞いた私は、ただちに受け入れを決断し、約六千人のボーイスカウトのメンバーを迎え入れた。
 ″少年たちは、遠い異国の地で、嵐に遭い、心細い思いをしているにちがいない。皆に少しでも安心してもらい、休息をとれるように、できることはなんでもしよう″――私は、ときに激しい風雨にさらされながら、全身全霊で陣頭指揮を執った。
 七千人の高等部の英才たちも、私と一緒に、世界の少年たちを真心から歓迎し、忘れ得ぬ友情を結んだ。世界ジャンボリーの役員の方々も、心から安堵し、喜んでくださった。
 バーンズ学長は、きょうの式典で、しみじみと語っておられた。
 「父が、日本での世界ジャンボリーで台風の被害に遭った話をしていたことを、私は鮮明に覚えています。もしかすると、父は池田会長にお会いしていたかもしれません。世界は、なんと小さいのでしょうか!」
 (小説『新・人間革命』第十五巻「開拓」の章に、当時の模様が詳しく描かれている)
 まことに残念なことに、学長の父君は、その後、交通事故で急逝されてしまった。バーンズ学長は、尊敬する父の遺志を受け継ぎ、青少年の育成と教育の発展に尽くしてこられたのである。私は、父上に追善回向の題目を送らせていただいた。
 バーンズ学長は、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが、晴れの第一回卒業式を迎えたことも、心から祝福してくださった。
 さらに、「常識と、奉仕の精神を持ち合わせ、文化、芸術、平和、繁栄の真の価値を理解する、貴重な地球市民を世に輩出できることは、短期大学や総合大学で指導し、教える私たちにとって、たいへん、大きな励みであります」と語っておられた。
12  アメリカ創価大学に賞讃の拍手
 アメリカ創価大学の第一回卒業式にさいしては、世界の各界から多数の祝福のメッセージが寄せられた。アメリカ・デューイ協会のヒックマン会長も、心温まるメッセージを贈ってくださった。
 そのなかで、こうつづっておられる。
 「偉大な教育者である牧口常三郎とジョン・デューイの両氏が、もしこの卒業式に参列していたなら、二人は私とともに、アメリカ創価大学の教育的価値に賞讃の拍手を惜しまなかっただろうと確信しています。二人は、″教育とは生きるための〈準備〉というより、むしろ、言葉のもっとも十全な意味における〈生きること〉それ自体なのだ″という点で一致していました」
 「価値の創造に必要不可欠ともいえる、二人の偉大な教育者の考え方は、アメリカ創価大学の使命と実践に明快に反映されているのです」
 まことに、ありがたいご理解である。
 アメリカ創価大学の大発展を展望して、私は今、さまざまな構想を練っている。この大学から、将来、ノーベル賞に輝くような、世界的な学者や指導者が輩出されることを、私は深く期待し、確信している。
 アメリカSGIの皆さまには、日ごろからアメリカ創価大学が、さまざまにお世話になっている。この席を、お借りし、あらためて、心から御礼申し上げたい。きょうは、本当によく来てくださいました。ありがとう! 元気な皆さんとお会いでき、私はうれしい。
 いよいよ、アメリカSGIの本門の時代である。理事長を中心に、仲良く、団結して、また健康・無事故で、生き生きと、世界の模範となる前進をお願いしたい。婦人部の皆さまの活躍も、よくうかがっている。
 アメリカの各地に、私は思い出がある。各地に、思い出深い同志がいる。
 明年で訪問十周年となるデンバーも、忘れられない地である。あのときは、多くの方々にお世話になった。今も感謝は尽きない。
 (=SGI会長はコロラド州の州都デンバーを一九九六年六月に訪問。この折、デンバー大学から名誉教育学博士号が贈られた)
 デンバーでは、地元のSGIメンバーがデンバー会館の近くにある「チェリー・クリーク(桜川)」の川岸や、市立公園などに桜の植樹・寄贈を行ってきた。
 ″桜は育たない″とされる気候にもかかわらず、メンバーの献身的な努力により、今や千本もの桜が咲き薫り、市民に愛されているとうかがった。すばらしい地域貢献の実践である。
 デンバーをはじめ、アメリカ全土の同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
13  新しい出会いを! 勇気をもって
 ミネラルエリア大学のバーンズ学長のお父さまが日本を訪問された年は、牧口先生の生誕百周年で、ちょうど創価大学が開学した年であった。以来、三十四年の時を経て、牧口先生の生誕の日に、ご子息が創価大学に来学してくださったのである。一つ一つの出会い、一回一回の生命の交流は、時とともに、私たちの想像を超えるほどの大きな広がりと実りをもたらすものだ。
 皆さんも、日々、意義深い「出会い」を重ね、尊く偉大な歴史をつくっておられる。
 新しい出会い、新しい交流――そのために大切なのは、打って出る「勇気」である。
 スイスの思想家ヒルティは論じている。
 「人生の重大な別れ目においては、つねにまず敢行することが大切である」(『眠られぬ夜のために 第一部』草間平作・大和邦太郎訳、岩波文庫)
 「敢行」とは、敢えて行うことである。思いきって、やってみることである。
 またヒルティは、「勇敢に事にあたる者は、決定的な勝利をおさめることができる。そしてこの勝利が、その後長い期間にわたって、その人の運命を決定する」(同前)と述べている。
 さらに、「あやふやな態度で戦いにのぞむ者は、降伏するか、退却するかであって、前に向って進むかわりに、人生のこの時期とその課題とを全部、初めからやり直さねばならない」(同前)とも記している。深くかみしめるべき言葉である。
 どんなことであれ、「あやふやな態度」で、勝利がつかめるはずがない。それでは、ヒルティの言うとおり、貴重な時間を浪費してしまうだけである。
 臆病ではいけない。勇敢な者のみが、自分自身の勝利、人生の勝利をつかめるのである。
14  大著『人生地理学』『創価教育学体系』
 牧口先生がいかに卓越した大教育者であり、大学者であったか。
 牧口先生が最初の著作『人生地理学』を刊行したのは、一九〇三年(明治三十六年)。先生が三十二歳の時。『人生地理学』は当初から好評を博し、たびたび版を重ねた。主要な新聞・雑誌の書評欄でも取り上げられている。
 先日、刊行された、牧口先生の生涯を紹介する映像評伝でも、著名な地質学者で地理学者の小川琢治氏(日本人最初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹氏の父)の書評が紹介されていた。
 (このほど、紀伊国屋書店が企画する映像評伝シリーズの第三十三巻として、『牧口常三郎「学問と情熱」こどもたちのしあわせのために』〈ビデオとDVD〉が刊行された。このシリーズは、日本の歴史に名前を残す思想家・教育者を取り上げ、「二十一世紀へ贈る人物伝」として紹介するもの。これまで、南方熊楠、伊能忠敬、新渡戸稲造、福沢諭吉、吉野作造、中江兆民らが取り上げられている)
 小川氏は、『人生地理学』について、こう評価している。
 「この一千頁もの本を完成させた著者の真摯と勤勉とに驚かないではいられない。読み進むに従って、その読書量の広さ、着想の斬新さ、論旨の妥当性に驚く」(「地学雑誌」〈明治三十七年一月〉に掲載された氏の書評から。趣旨)と。
 さらに映像評伝では、牧口先生のもう一つの大著である『創価教育学体系』(一九三〇年刊)に寄せられた新渡戸稲造氏の序文から、次の一節も紹介していた。
 「君の創価教育学は、余の久しく期待したる我が日本人が生んだ日本人の教育学説であり、而も現代人が其の誕生を久しく待望せし名著であると信ずる」
 ご存じのとおり、新渡戸氏は、著名な教育者、農政学者であり、国際平和を唱え、国際連盟の事務次長を務めた人物であった。
 この『創価教育学体系』には、新渡戸氏の他、フランス社会学の研究家である田辺寿利氏、民俗学者の柳田国男氏という大学者が序文を寄せている。また、同書の発刊の翌年(一九三一年)に首相となる、政友会総裁の犬養毅氏が揮毫を寄せたのである。
15  戦争へと突き進んでいた日本にあって、「価値創造」の文化と教育の光を放っていかれた牧口先生。その生活は極めて質素であったという。
 今回の映像評伝では、牧口先生の三男・洋三さんの夫人であった金子貞子さんが、貴重な証言を寄せておられる。その中で、晩年の牧口先生の「書斎」について語っていた。書斎の広さは、わずか三畳ほど。そこに机と椅子、書棚が置かれていた。
 晩年になっても、牧口先生は、縁した人たちの幸福のために懸命に行動された。「一人」に会うために、老齢の身を押して、三等車で九州まで行かれたこともあった。行く先々で、悩みや相談にじっと耳をかたむけ、信頼と確信の対話を重ねていかれたのである。
 その一方で、自宅に帰ると、家族が寝静まった夜遅くまで、原稿を執筆しておられたという。使われた原稿用紙もまことに質素であった。戸田先生の私塾である「時習学館」から、試験に使った紙などをもらってきて、その裏を利用しておられた。
 たとえ部屋は簡素であっても、そこで、崇高なる哲学が育まれていた。たとえ紙は質素であっても、そこに、未来を照らす大思想がつづられていた。
 牧口先生は、貞子さんに、「この原稿は大事なものだから、貞子さん、いじらないで、大事にしておいてくれ」と言っておられたという。
 しかし、牧口先生が下田で逮捕された当日の朝六時ごろ、先生の自宅に五人くらいが押し入り、本も原稿も、すべて持っていってしまったのである。(牧口先生の逮捕は、一九四三年七月六日。同じ日に、戸田先生も逮捕された)
 軍国日本は、偉大なる牧口先生を、その思想ごと踏みにじった。
 それに憤激し、″巌窟王″となって立ち上がったのが、戸田先生であった。
 その魂を継承したのが私である。
 初代、二代、三代を貫く創価の大精神――それは「権力の魔性」と戦う不屈の闘争精神である。
 正しく生きる人間に内心は嫉妬し、あれこれと理由をつけて弾圧し、亡き者にしようとする傲慢な権力の輩を断じて許さない。断じて戦いぬく。この「戦う魂」の結晶こそが、創価学会なのである。
 学会は永遠に、民衆を守りぬく「平和」と「人権」と「正義」の砦であらねばならない。
16  「創価教育の学校」の発展は師弟勝利の証
 今回の映像評伝のなかで、金子貞子さんは「創価教育の学校」の構想が牧口先生から戸田先生に継承された時の様子についても、その場に居合わせた一人として、あらためて語り残している。
 それは、一九三九年(昭和十四年)三月に貞子さんが牧口家に嫁いだ後のことである。
 「(=牧口先生は)それこそ、『小学校から大学まで、自分が今、研究している創価教育というのを根本とした教育をするためには、その学校が、大学が欲しいと願ってるんだ』ということを言ってらして、『戸田君、ぼくの代ではできないけど、戸田君の代で、必ずできるんだよ』ということを言っていました」
 (さらに、貞子さんは次のように続けている。
 「戸田先生はご病気で、残念ながら亡くなられましたけれども、池田先生が――牧口先生とは一回も会っておられないのですが――牧口先生のご遺志を戸田先生から、もちろん、お聞きになって、池田先生がすべてを実践し、実行してくださった。
 現在、創価大学がそれを実施されているんですから、みなさん、どんなにかお喜びだろうと思いますよ。
 だからもう、お父さん〈牧口先生〉は、本当にどんなに喜ばれているかと思うと、なんか父の顔が見えるうです。お父さんは厳しい半面、とってもいい笑顔をなさいましたからね。思い出しますね」)
 創価教育を実践する学校をつくりたい――牧口先生から戸田先生に託された″創価の師弟の夢″は、今まさに現実のものとなった。創価の名を冠した、創価小学校、創価学園、創価大学、創価女子短期大学、札幌・香港・シンガポール・マレーシアの創価幼稚園、ブラジル創価学園、そしてアメリカ創価大学――いずれも堂々たる発展を遂げている。
 世界市民を育成する人間教育の園として、世界の一流の識者、教育関係者らから高い評価と期待をいただいていることは、皆さま方がご承知のとおりである。
 これこそ、牧口先生、戸田先生の偉大なる勝利の証である。
 「創価の師弟は、教育で勝った!」と、私は声高らかに宣言したいのである。(拍手)
17  教育の真価は、社会貢献の人材をどれだけ出したかに
 教育の使命――。それは人間をつくることである。人に尽くす人間を育てることである。
 古代ギリシャの哲学者プラトン亡き後のことである。一人の知識人、エピクロス派のコロテスが、ソクラテス、プラトンの師弟をはじめ、名だたる大哲学者たちを批判する文章を著した。
 (この批判書の題名は『他の哲学者たちの教説に従つては、生きることは不可能であること』。ここでいう「他の哲学者たち」とは、古代ギリシャのデモクリトス、パルメニデス、そしてソクラテス、プラトンなどである。こうした哲学者たちをおとしめるものであったと思われる)
 後に、この批判書の存在を知った一人に、『英雄伝』で有名な作家プルタークがいる。プルタークは、プラトンに代わって、コロテスの主張に対する痛烈な反論(『コロテス論駁ろんぱく』)を公表し、青年たちにも教えていった。
 プルタークの反論の急所は、いったい何であったか。それは、プラトンの学園(アカデメイア)で学んだ弟子たちが、世界に貢献していった具体的な事実をあげたのである。
 プルタークは語る。
 「プラトンは、法律や国制についての優れた論を文字に残す一方、それ以上に優れた論を弟子たちの心の中に植え付け」たのであると。(「コロテス論駁」戸塚七郎訳、『モラリア』14所収、京都大学出版会。以下、同書を参照)
 プラトンの残した著作の数々――それは、「人類の至宝」ともいうべき知性の輝きを放っている。
 だが、プラトンは、その著作に注ぎ込んだ以上のものを、わが弟子の心の中に植え付けたというのである。
 その弟子たちが、いかなる活躍をしたのか。
 ある出身者は、祖国アテネを代表するような平和の指導者となったではないか。
 ある出身者たちは、圧政に苦しむ人々を救ったではないか。
 ある出身者たちは、他国に派遣されて、秩序ある国作りに貢献したではないか。
 ある出身者たちは、依頼を受けて、法律を作り上げたではないか。
 いずれも皆、プラトンの弟子ではないか!――というのである。
 つまり、プラトンの弟子たちが、ギリシャ世界で、衰亡していた都市国家を蘇らせ、新しい都市国家の建設に大きく貢献していったことは、明々白々ではないかと強調していったのである。
 そして逆に、中傷した知識人に対しては、君が信奉する思想を学ぶ者から、いったい、だれが、民衆のために働いたのか。だれが、社会に貢献していったのか――と反論していった。
 社会に貢献しゅく人材を、どれだけ出したか。ここに、教育の真価に対する歴史の審判の一つがあることを、この話からも知ることができる。
 さまざまな面で行き詰まりが指摘される現代である。
 それを打破する力はどこにあるのか。
 遠回りのように見えるかもしれないが、私は、教育こそ、未来を開く根本の方途であると確信してやまない。
 要は、人間が変わることだ。人材をつくることだ。そとから、社会は変わる。世界は変わる。
 社会に世界に寄与しうる実力と人格を備えた指導者を育成していく以外に、未来は開けないのである。そこに創価教育の大使命があることを忘れないでいただきたい。
18  イギリスの改革――「寮」を人間教育の場に
 教育の理想は、師匠から弟子へ、脈々と受け継がれてこそ、偉大な教育改革の大河となって広がっていく。
 イギリスの高名な大教育者に、トーマス・アーノルド(一七九五年〜一八四二年)がいる。オックスフォード大学の出身で、後に同大学で歴史学を教えた人物である。
 彼は、三十代でイギリスの伝統教育機関である「パブリック・スクール」のラグビー校校長に就任した。そして、宗教的精神を根幹として教育改革に尽力し、同校をイギリスを代表する名門校に発展させたのである。その実践は、イギリスのパブリック・スクール全体の改革にも大きな影響を与えた。彼は「近代パブリック・スクールの父」ともいわれている。
 アーノルドは記している。
 「余は年来、教育の事業をもって終生の任務と考えていた」(井村元道『英国パブリック・スクール物語』丸善ライブラリー。以下、同書から引用・参照)
 また、校長就任直後の書簡には、こうつづっている。
 「これからやろうとしていることに、実に厳粛な義務感をひしひしと感じております。私は教育改革の事業に猛進する考えです」
 偉業を成し遂げる力はなにか。それは、強き責任感である。「わが理想を断じて実現する」との強固な一念である。「一人立つ」深き決意から、無限の力が湧き出ずるのである。
 アーノルドの教育改革の特徴の一つは、教育の場として「寮」を重視したことである。
 彼が校長に就任する以前は、寮といっても、生徒はなかば放任状態で、大部屋に大勢が詰め込まれていた。要するに寮は、たんに生徒が寝泊まりするための施設にすぎなかったのである。これに対してアーノルドは、寮での生活が大切な教育の場になると考え、寮の改革に取り組んだ。「寮生活の中に教育的意義を見出した最初の人」ともいわれる。
 彼は、「独立した小さな寮」を多くつくった。そして少人数の生徒が、「寮の先生と共に家庭的雰囲気の中で共同生活ができるように」努力を重ねた。また、生徒一人一人の生活にも気を配り、悩みごとに耳をかたむけた。
 さらに、寮の運営もできるだけ最上級生にまかせ、主体性を育もうとした。生徒を信頼することで、その自立心と責任感を養い、ジェントルマンとしての人間性を培おうとしたのである。
 今、創価大学、創価学園の寮でも、いよいよ、学問と人格を磨く深き伝統ができてきた。数多くの逸材が、寮から全世界に羽ばたいている。私は本当にうれしく思う。
 さて、今でこそ世界的に有名なアーノルドも、存命中は一部の人に知られる存在でしかなかった。しかし、アーノルドの薫陶を受けた教え子たちが、次々と教育界に雄飛して、見事な教育成果をあげていった。
 その活躍によって、師アーノルドの理念と実践は、他校の模範とされるようになっていったのである。
19  今、人間教育の理想を掲げた多くの教育本部の友が、教育現場の第一線で活躍している。教育改革の偉大な旗手として、「教育の世紀」を切り開いておられる。
 創価学会は、創価教育学会として出発した。ともに卓越した教育者であった牧口先生、戸田先生のお喜びは、いかばかりであろうか。
 私は、不戦と軍縮をめざすパグウオツシュ会議会長のスワミナサン博士と対談を続けてきた。その中で、博士は、「よき教育者は梯子はしごのようなもの」とのインドの格言を紹介しておられた。
 教え子を、自分より高いところへ押し上げていこう。有為な人材に育てていこう――これが真の教育者の信念でなければならない。
 ここ牧口記念庭園の木々も、開園以来、大きく枝を伸ばし、青々と葉を茂らせ、見違えるような大樹となった。生あるものは皆、伸びていく。人間もまた、勢いよく成長していくことだ。
 なかんずく若き世代には無限の可能性がある。二十一世紀の天空へ、創価の前進を担う新たな人材を育て、大きく伸ばしてまいりたい。
20  意義深き六月六日
 きょう六月六日は、幾重にも意義深き日である。
 ブラジルのクリチバ市には世界初の「牧口常三郎公園」がある。その建設地が決定し、SGIに通知されたのは、一九九四年の六月六日であった。ブラジルでは、二〇〇一年の六月六日に、ブラジル創価幼稚園が開園した。現在は、「ブラジル創価学園」に発展し、教育界から大きな期待を集めている。
 また、六月六日は、南米のボリビア共和国では「ボリビア教育者の日」とされている。この国でも、わが同志は、地域からの深い信頼を勝ち得ながら、意気軒昂に前進されている。
 この六月六日は、SGIの「ヨーロッパの日」でもある。そして、「関東婦人部の日」であり、看護に携わり、″生命の世紀″をリードする女子部の「白樺グループ」の結成の日でもある。
 さらにこの日は一九六八年(昭和四十三年)、懐かしい東京の町田会館(現・町田婦人会館)の開館式が行われた日である。
 一九七八年(昭和五十三年)には、落成まもない荒川文化会館で牧口先生の生誕記念の会合が行われた。私も、共戦の同志とともに出席させていただいた。本当に思い出深い。
 そしてきょう、九州の記念墓地公園の竣工引渡式が行われた。学会の創立七十五周年を記念しての建設である。
 同墓地公園は、大分県の日田市天瀬町にある。「阿蘇くじゅう国立公園」「耶馬やば日田英彦山ひこさん国定公園」に囲まれ、九重連山を一望できる景勝の地である。二十八万坪の広大な敷地に、四万二千基の墓石を擁している。
 九州は、牧口先生がこよなく愛された天地である。大分にも、幾たびとなく足を運ばれている。明治四十四年(一九一一年)の八月二十日には、農商務省山林局の嘱託で、山村生活の実態調査のため、日田を訪れておられる。さらに、昭和十五年(一九四〇年)、十六年(一九四一年)の秋にも、広布開拓のために、大分の別府を訪問されている。
 この墓園には、「世界広布先駆之碑」が建てられ、基底部に全九州の誉れの同志と家族の氏名を留めたCD(コンパクトディスク)が納められる。そのお名前は、墓圏内に設置された液晶パネルで、閲覧することができるとうかがった。
 尊き同志の奮闘で、今、九州には堂々たる創価の大連帯が構築された。牧口先生も、心から讃え、喜んでくださっていると確信する。
 大聖人は夫を亡くした南条時光の母に対して、こう仰せである。
 「(亡くなられたど主人は)生きておられたときは生の仏、今は死の仏、生死ともに仏です。即身成仏という大事な法門は、これなのです」(御書1504㌻、通解)
 仏法では「生死不二」と説く。広宣流布に生きぬいた人の生命は、今世はもちろん、亡くなってからも、偉大な仏の境涯と輝いていく。ゆえに「生も歓喜」「死も歓喜」なのである。
 生々世々、健康で、裕福で、使命の分野で第一人者になって、最高の幸福境涯を楽しんでいけることは、絶対に間違いない。
 誇り高き″先駆の九州″の同志の皆さまは、三世永遠の「常楽我浄の道」を、晴ればれと歩みぬいていただきたい。
21  学会は異体同心のうるわしい和合の世界
 ここで、大東京の先達というべき池上兄弟への御聖訓を拝したい。
 池上宗仲・宗長兄弟は二人、力を合わせて信心を貫いた。そして、悪侶にだまされて信心に反対していた父・康光を、ついに正法に帰依させた。大聖人は、兄弟二人の仲良き団結の姿を「本当に不思議である」と賞讃され、こう述べておられる。
 「世が末になれば、聖人や賢人も、皆、いなくなり、ただ『讒言で人をおとしいれようとする人間』や『言葉巧みにへつらう人間』『表面は和やかだが、陰にまわって人をおとしいれる人間』『道理を曲げて我意を通す人間』ばかりが、国中に充満するようになると経文に書かれています」(御書1095㌻、通解)
 正義の人がおとしいれられ、邪な人間が幅をきかせる――この傾向は、現代に、おいていちだんと深刻である。
 大聖人は、続けて、末法の様相を、次のように記されている。
 「たとえば、水が少なくなれば池が騒がしく、風が吹くと大海の面が静かではないようなものです。こうした末法の代になると、干ばつや疫病が起こり、大雨大風が吹き重なり、そのため、心の広い人も狭くなり、真実の道を求める心のある人も邪見の者となってしまうのだと書かれています。
 それゆえに、他人とのことはさておいて、父母、夫婦、兄弟までが相争い、その姿は、猟師と鹿と、猫と鼠と、鷹と雉とが争うようなものであると経文に見えます」(同㌻、通解)
 不信や争いが渦巻く。時代が乱れ、人間らしい心が失われていく――今の社会も、そうである。
 こうしたなかにあって、わが創価学会の異体同心のうるわしい和合の世界は、不思議の中の不思議といってよい。
 だからこそ学会は妬まれる。だからこそ魔は、この崇高な同志愛、師弟愛を破壊しようとする。
 しかし、この尊き和合を崩して、善良な人間を苦しめ、広宣流布を破壊しようとすることは、仏法上の重罪に当たる。「破和合僧」の罪である。
 この罪を犯せば、無間地獄を免れない。その苦しみは「詳しく説けば、聞いた人は血を吐いて死んでしまう」(御書447㌻、通解)ほどである。すさまじい大苦を、間断なく生命に受ける。まさに、その厳しき仰せのとおりに、広布破壊の反逆者が皆、哀れな末路をたどっていることは、ぞんご存じのとおりである。
22  広布の友を「仏として」大切に
 牧口先生は、出会った一人一人を、心から大切にされた。地方から上京してきた同志も、慈父のように迎えておられた。そして、東京の座談会にその方を連れて行かれると、自分の横に招いて、皆に紹介された。
 「この方は、○○の地で、たいへんに頑張っておられる方です」
 その遠来の友は、どれほどうれしく、誇らしかったであろう。
 必ず言葉をかける。何か思い出をつくる。広布の指導者は、そうした心の広さがなければならない。
 牧口先生が朱線を引かれた御書の一節がある。
 「法華経を持つ者は必ず皆仏なり
 まさに会員同志を、「仏として」最大に大切にしておられた。
 とともに、同志を悩まし苦しめる悪に対しては、まことに峻厳であられた。先生は、「悪を排除した潔癖者の団体」が、どれほど強いかを、こう記しておられる。
 「少しの分解力も働かず、親密なる関係に結合するが故に、その団結は極めて強固であり、内部に於ても外部に対しても(中略)極めて強大なる勢力を持つこととなる」(「善悪観と大小観との混迷」、『牧口常三郎全集』9所収)
 この言葉どおりに、金剛不壊の破邪顕正の団結で、わが創価学会は勝ち進んでいくのである。
 大聖人は「御義口伝」に仰せである。
 「南無妙法蓮華経と唱える日蓮の一門は、一同に『皆、共に宝処に至る』のである。この『共』の一字は、日蓮と『共』に進む時は必ず宝処に至る。『共』に進まないならば阿鼻大城(無間地獄)に堕ちるということである」(御書734㌻、通解)
 何があろうとも、大聖人と共に進むのだ。仏意仏勅の学会と共に、広宣流布に生きて生きぬくのだ。その人は、三世永遠の生命の宝処へ、仏界の宝処へと前進しているのである。
23  御書には、一人の人間の中に、自然や宇宙との連関性を見いだす妙楽大師の釈が引かれている。(御書567㌻)
 両目は「太陽」と「月」になぞらえる。目の開閉は「昼と夜」。頭が丸いのは「天球」。髪は「星」。抜けた髪の毛は、さしずめ″流星″か。(笑い)
 仏法は、人間を「一個の小宇宙」と、とらえるのである。
 天文学者によると、この宇宙には数千億の銀河があるといわれる。それぞれの銀河には、数多くの恒星があり、さらに多くの惑星がある。地球のように生命が存在する惑星も、幾千万もあるであろう。
 法華経には壮大なスケールの時空が描かれている。科学が進めば進むほど、仏法の宇宙観に近づいているといえよう。
 妙法は宇宙を貫く根本の法則である。この妙法に生きぬくならば、星々が正確な軌道を進んでいくように、寸分の狂いもなく、幸福な人生を歩むことができる。これが信心の功徳である。だから大聖人は、信心だけは断じて貫けといわれるのである。
24  牧口先生が、獄中での苛酷な取り調べのなか、厳然と残された信念を、おたがいに銘記して、記念のスピーチとしたい。
 ″大敵にも負けずに生きぬいて、人間の達しうる最高の理想を示しきっていくのが「仏」である″
 アメリカの尊き同志の皆さま、すばらしき発展を祈っています。
 そして、わが愛する大東京の同志の皆さまにも、くれぐれもよろしく、お伝えください。
 どうか楽しき勝利の前進を! ありがとう!
 (東京牧口記念会館)

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