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日蓮大聖人・池田大作

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「5・3」記念祝賀代表者会議 会って語れば道は開ける

2005.4.15 スピーチ(2005.4〜)(池田大作全集第98巻)

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2  名通訳ありて世界に対話の道
 今月十二日、私は南米コロンビア共和国のウリベ大統領と有意義な会見を行った。「太平洋の隣人」であるコロンビアと日本、さらに中南米とアジア地域を結びゆく、平和友好の対話を広げることができた。その折に、コロンビアの関係者の方々が、「SGI(創価学会インタナショナル)の通訳はすばらしい。完璧である」と絶賛されていた。
 以前も申し上げたが、若き日に語学を習得できなかったことが、私の一生の後悔である。
 戦争中、英語は敵国語であり、学ぶことも許されなかった。戦後は、肺病と闘いながら広布の拡大に走り、戸田先生の事業の再建に奮闘する日々で、多忙を極めた。私は万般の学問を戸田先生から教わったが、明治生まれの先生は、語学は得意ではなかった。そこで、英語を勉強していた先生の奥様が教えるようにしよう――そこまで先生は考えてくださった。
 結局、私は、別の人に英語の個人教授を受けた。だが、運悪く、月謝を取ることばかり考える人で(笑い)、まともに教えてくれなかったのである。
 本日はSGI公認通訳の代表の方々も出席されている。皆さまの尽力により、世界中に平和と人道の連帯を開くことができた。尊き使命の一人一人に、この席をお借りして、心から感謝申し上げたい。(拍手)
 私は皆さまとともに、数々の出会いの歴史を刻んできた。
 イギリスでは、アン王女、チャールズ皇太子への表敬も思い出深い。サッチャー元首相、メジャー前首相をはじめ各界の指導者とも対話した。(アン王女への表敬は一九八九年五月、バッキンガム宮殿で。チャールズ皇太子への表敬は九四年六月、皇太子の私邸で。サッチャー元首相との会談は八九年五月、九一年六月の二回。メジャー前首相とは九一年六月)
 さて、ウリベ大統領との会見場所は、品川区にある駐日コロンビア大使公邸であった。その行き帰りの道すがら、品川区と、お隣の目黒区、そして渋谷区、港区を車で回った。同志の健気なご活躍の様子をうかがいながら、車中から真剣に題目を送らせていただいた。
3  コロンビアとの縁は幾重にも
 コロンビアとの縁は、幾重にも深い。
 四十五年前の一九六〇年十月、初の海外訪問の時に、給油のため、首都ボゴタのエル・ドラド空港に降り立った。満天の星を仰ぎながら、大地に染みこませる思いで、題目を唱えたことが懐かしい。
 今回の大統領との会見に同席されていたバルコ外務大臣とは、十五年ぶりの再会となった。
 外務大臣は、かつて私が二度、忘れ得ぬ出会いを重ねた、故バルコ元大統領のご息女である。一九九〇年、東京富士美術館で開催された「コロンビア大黄金展」の開会式に、大統領夫人であるお母さまとともに出席してくださった。そして今回は、コロンビアの外交のリーダーとして来日されたのである。お母さまもご健在であるとうかがい、私はうれしかった。
 お父さまであるバルコ大統領との最初の語らいは、一九八九年、師走の東京であった。
 その直前に、首都ボゴタで起きた爆弾テロの一報が入り、緊迫した空気の中での会見となった。私は短時間のごあいさつだけで失礼させていただくつもりだった。大統領は、強靭な精神力を発揮して、勇敢に指揮を執っておられた。
 私は申し上げた。
 「指導者は『柱』です。柱が厳然としていれば、民衆の家は揺るがない。指導者は『橋』です。怒濤逆巻く社会にも、『希望の橋』があれば、人々は安心です」
 大統領は言われた。
 「平和、それは『人類共通の目的』です。この実現のために、手を携えて進んでいきたいのです」
 再会は二年後の六月、イギリスのロンドンであった。大統領職を離れ、駐イギリス大使として赴任されていたバルコ氏から、大使公邸にお招きいただいたのである。
 「私は友情と報恩を重んずる」――南米解放の英雄ボリバルの言葉を私は心に刻んだ。
4  一九九三年二月にコロンビアを訪問したことも思い出深い。
 この折は「コロンビア大黄金展」の答礼の意義をこめて、東京富士美術館所蔵「日本美術の名宝」展を、首都ボゴタで開催する運びとなっていた。
 しかし当時、テロが激化しており、多くの人がコロンビア訪問を取りやめていた。
 コロンビアの大統領府から、私が本当に訪問するかどうか確認する連絡が入った。それに対し、私は伝えた。
 「私のことなら、心配いりません。予定どおり、貴国を訪問させていただきます。私は、もっとも勇敢なるコロンビア国民の一人として行動してまいります」
 コロンビアの方々は喜んで迎えてくださった。
 コロンビアにSGIの支部が誕生したのも、この時である。コロンビア支部の友は、麗しい和楽のスクラムで、良き市民、良き国民として、大いに社会貢献を続けておられる。コロンビアで活躍を開始したアメリカ創価大学大学院の出身者もいる。うれしい限りである。
 (=名誉会長は、これまでコロンビア共和国の四人の歴代大統領と会見。同国から名誉会長に授与された国家勲章は四つ。また文化庁から文化栄光勲章が贈られている)
5  心の壁を取り払う武器は「対話」
 日蓮大聖人は、「仏種は縁に従つて起る」と仰せである。
 私は「一人」との出会い、「一回」の語らいを大切にしてきた。
 その一つ一つが、友情を結び、信頼を広げゆく「種」となる。その種は、時とともに、計り知れない希望の花と咲き薫り、平和の結実をもたらしていくのである。
 また御聖訓には、「他人であっても心から語りあえば、命にも替わるほど大切な存在となるのである」(御書一一三二ページ、趣意)とある。
 誠心誠意の対話で結んだ絆というものは、それほど深く、強くなる。
 私が初めて旧ソ連を訪れたのは、一九七四年である。当時、日本には、「ソ連は、なんとなく怖い。冷たい」というイメージが広められていた。しかし、空港で出迎えてくださったモスクワ大学のホフロフ総長は、知性と人格の光る、すばらしい笑顔の方だった。
 人間である以上、立場が違っても、対話によって理解しあえることが必ずある――この信条で、私は語りに語ってきた。みずから足を運び、直接会って、交流を結ぶ。その積み重ねが、多くの人々のソ連観を一変させていったのである。
 私はロシアに、深い友情で結ばれた方々が、大勢いる。
 (=モスクワ大学のサドーヴニチィ総長は、名誉会長の平和行動が「露日の外交関係において突破口を開いた」と語っている)
 あいまいな情報をもとに、「思い込み」や「先入観」だけで判断することほど、危険なことはない。つくられた「イメージ」を悪用する、ずるい人間もいる。
 私たちが進める「対話」は、そうした心の壁を取り払うための武器なのである。
 この意味において、コロンビアを代表する女性詩人ドラ・カステヤーノスの詩の一節を、日々、広布に励むわが婦人部、女子部の皆さま方に贈りたい。
 「脈打った信念が私の推進力。
  断固とした信念が私の原動力。
  私は断じて負けない。
  私は常に勝利者となろう。
  私の圧倒的な信念は、(巨人ゴリアテを倒した青年ダビデの)強力な投石器のように、信じがたいもの、到達できないものにも届く」(″Fe″, Verdad de amor, Editorial Santafe)
6  コロンビアのウリベ大統領とお会いした日は、東京大学の入学式であった。
 東大に入学した学生部の若き友たちが、凛々しく報告に来てくれた。入学式の模様は、各紙でも報道された。新しく就任された小宮山宏総長の式辞は、まことに印象深かった。時代を鋭く見つめ、今の青年が取り組むべき問題や課題を、明快に提起された内容であった。
 総長は、今の若い世代について「ゲームや携帯音楽やコンピューターなど、ひとりの世界に閉じこもって、人と人とのかかわりあいが薄くなってきていることを憂慮している」(「読売新聞」二〇〇五年四月十二日付夕刊)と述べられた。そして「人は意外性に満ち、相互に影響を及ぼし合って変化していく魅力的な存在。だからこそ、人とのかかわり合いは人生を豊かにする」(「毎日新聞」同日付夕刊)と訴えられておられる。
 まったく同感である。「人間」を磨くものは「人間」である。
 さらに小宮山総長は、こうも指摘された。
 「二十世紀は膨張の世紀。知識、情報が増えすぎて全体が把握できなくなった。東大の一員としてその解決のための使命感を共有してほしい」(「日本経済新聞」同日付夕刊)
 そして、これからの青年が持つべき重要なポイントとして、「本質をとらえる知」「他者を感じる力」「先頭に立つ勇気」の三つをあげられたのである。(同前)
 二十一世紀の新しいリーダー像を提示されている視点に、私は感銘を深くした。
 ″二十世紀のデカルト″といわれたイギリスの哲学者ホワイトヘッドは、学問に挑戦する若者を、こう励ましている。
 「何らかの理想――人間社会の向上への希望、他の人々を幸せにする喜び、進歩を阻む障碍しょうがいに立ち向かう勇気――を掲げなければ、君たちは自分のしていることに関心をもてないでしょう。そのような理想は、君たちの学習と本質的かかわりがあります」(「教育と自己教育――イギリスの少年たちに」村形明子訳、『ホワイトヘッド著作集』14所収、松籟社)
 英知を磨き、人の幸福のため、社会の向上のため、勇気を持って行動する知勇兼備の人間こそ、まさしく私たちが育成している青年群である。
 大いなる理想に向かって、日々、誠実に人々とかかわりながら、学び、語り、世界を変えていく人間革命の運動は、時代の先頭に立つ実践なのである。
7  ツヴァイク ″活字文化は精神の光源″
 光栄にも、私は、創業百二十四年で日本出版界をリードする三省堂書店から感謝状をいただいた。(四月十四日)
 私は青春時代、東京の水道橋にあった東洋商業の夜間部に通っていた。当時、風格のある神田の三省堂書店の前を、よく通ったものである。店に入って、数々の名作を手にすることが、私の憧れであり、喜びであった。今も忘れ得ぬ青春の思い出である。
 これまで私は、紀伊国屋書店(本社=東京)、有隣堂(本社=神奈川)などから感謝状、明屋はるや書店(本社=愛媛)から活字文化貢献賞をはじめ、全国の書店から多くの顕彰をいただいている。この席を、お借りし、あらためて心から御礼申し上げたい。
 これらすべての栄誉を、わが同志の皆さまと分かち合わせていただきたい。
 オーストリアの作家ツヴァイクは活字文化の意義を高らかに謳った。
 「何千年にわたって書物がなしとげてきたあの奇蹟を凌駕するような、いや、せめてそれに匹敵するようなことでも、かつて技術に成功したためしがあったろうか!」
 「どんな電気の光源も、多くのうすっぺらな本から発する精神の光明をつくりえなかったし、どんな人工的な動力電流も、印刷された言葉に触れたとき、われわれの魂をみたす、あの精神力の流れには、くらべようもないのである」(「書物による開眼」秋山英夫訳、『世界人生論全集』14所収、筑摩書房)
 ともあれ、良き活字文化・出版文化の発展のために、これまで以上に尽力していく決心である。
8  『創価教育学体系』に序文を寄せた新渡戸稲造博士は一九三二年、「英文大阪毎日」に書いている。
 「たぶんわが国以上に中傷者に行動の自由をゆるしている国はない。何千というそういう連中が、立派な市民の名誉を毀損し、またたしかに、暗殺やそれ以上の中傷をそそのかして、それで飯を食っている」(『編集余録』佐藤全弘訳、『新渡戸稲造全集』20所収、教文館)
 先哲の深い嘆きである。中傷者に活字が悪用され、人権侵害が蔓延するとき、社会が衰亡の坂を転がり落ちていくことは歴史に明白である。
 スイスの思想家ヒルティは「悪いものは絶対に読んではならない。悪いものを『研究』すると、人間の持っているよい精神がだんだん死滅してゆく」(「読書について」国松孝二訳、『ヒルティ著作集』8所収、白水社)と警鐘を鳴らした。
 そのとおりである。ゆえに、人間の尊厳を脅かす言論の暴力は、断じて許してはならない。ここに、健全な文化と社会を創造する根幹の生命線がある。
 「いい本をよむ喜びは
  生きるよろこび」
 「悪いものはよめないよ
  頭がくさるから」
 これは、有隣堂の月刊紙「有隣」の題字を認めた、作家の武者小路実篤の詩である。(『武者小路実篤詩集』所収、角川文庫)
9  トインビー博士は創価学会の倫理的努力に賛同
 四月十四日は、トインビー博士の誕生日であった。(博士は一八八九年生まれ)
 本日は、トインビー博士が一九七四年の七月九日に記された一通の手紙を紹介したい。
 博士と私は、一九七二年と七三年、のべ四十時間にわたる対話を行った。この手紙は、二年越しの対話を終えた一年後、逝去の前年に書かれたものである。
 博士は私との対話のなかで、仏法への共感を強く示された。その博士に対して、周囲から、さまざまな反応があった。なかには、博士の発言を戒める、忠告の声などもあったようである。そうした声に応えて、博士は、簡潔に、こうつづられたのである。
 「私は、宗教とは人生でもっとも重要なものであると考えております。
 この根本的な点と、宗教と不可分の重要な倫理的努力という点において、池田会長が代表される創価学会に、私は賛同しているのです。
 それは、たとえば、軍国主義と戦争に反対し、政治の腐敗に反対し、麻薬の使用に反対し、その一方で、前向きな目標を持って、人類全体を効果的に協力させようとする点です」
 博士は、深く、強い信念をもって、創価学会を理解し、支持してくださったのである。
 平和の厳護のため、政治の改革のため、青年の育成のため、人類の連帯のために、倫理的な努力を続けているからこそ、博士は、私たちに絶大な信頼を寄せてくださった。
 この博士の心に、断固たる行動をもってお応えしてきたのが、この三十星霜であった。
 トインビー博士との語らいの中で、忘れられないやりとりがある。
 それは、「もし博士が、ふたたびとの世に生を受けるとすれば、何に生まれ変わりたいと思われますか」と、うかがった時のことである。
 博士は、こう答えてくださった。
 「私は、もしこの世にふたたび生を受けるとすれば、鳥として生まれてきたいと思います。鳥類は、人類とともにありながら、かつて人類によって滅ぼされることのなかった生物です。
 そして、もし鳥として生まれてくるものなら、私はインドの鳥になりたいと願うことでしょう。インドの人々は、人間以外の生物にも、すべて人間的な権利があることを、心から信じています」
 ″精神の大国″にして″万物共生の天地″であるインドに寄せる博士の思いは、じつに深かった。私もまた、インドの豊かな精神に、平和と非暴力を生みだす希望の水脈を見いだしてきた一人である。
10  「仏法西還」は学会が実現
 思えば、四十四年前(一九六一年)の一月二十八日、私は、初訪問となるインドへと旅立った。
 その日は、諸天も寿ぐかのような、見事な青空が広がっていた。
 日蓮大聖人は、「諌暁八幡抄」に、こう仰せである。
 「日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」と。
 太陽は、東から昇る。これは、大聖人の仏法が、仏教発祥の地であるインドへと必ず還っていく瑞相なのである――こう大聖人は「仏法西還」を明快に予言された。
 この御聖訓を断じて、虚妄にしてはならない。――それが、恩師戸田先生の遺言であった。その心をわが心として、私は、インドへの第一歩を踏み出したのである。
11  インドを訪れた私たちは、釈尊が成道したブッダガヤの地に立った。そこで、朗々と題目を唱えた。難の連続であった釈尊の生涯を偲びながら。さらにまた、東洋の民衆の平和と幸福を、強く強く祈った。そして、日本からもってきた「東洋広布」の石碑などを地中深く埋収したのである。
 石碑の表を、北東の霊鷲山に向けて埋めた。それはまた、日本の方角でもあった。
 埋納の儀式が終わった、そのときである。周りで見ていた一人の老人が、私たちの前にゆっくりと歩み出た。身には、チベットの民族衣装をまとい、手のひらには、きれいな花びらを捧げ持っている。そして、頭が深く垂れたかと思うと、花びらを大地に散らして、手を合わせた。真心こもる散華の儀式であった。
 「ああ、この人たちも、仏法西還の第一歩を喜んでくれているのか」――そう思うと感慨深かった。今も脳裏から離れない光景である。
 以来四十四星霜――。
 このインドの大地にも、数多くの地涌の同志が、縦横無尽に活躍している。さらに太陽の仏法は、世界百九十カ国・地域に広がり、世界の民衆を慈悲の光で照らしている。大聖人が予言された「仏法西還」を実現したのは、わが創価学会なのである。
 この地球上で、現実の上で世界広布を行っているのは、創価学会しかない。
 皆さま方の使命がどれほど尊いか。また、その功徳は、生々世々、子孫末代までも続いていくことは間違いない。
 「創価の師弟は厳然と勝った!」と、私は、声高らかに宣言したい。(拍手)
12  退転・反逆の方程式はいつの時代も同じ
 インドの詩聖タゴールの小説に、次のような言葉がある。
 「地位が上がれば上がるほど精神的には堕落する一方だ」(『ゴーラ』我妻和男訳、『タゴール著作集』3所収、第三文明社)
 ドイツの大詩人シラーの戯曲には、こうある。
 「地位が高ければ墜落も大きい」(『ヴレンシュタイン』鼓常良訳、岩波文庫)
 「魚は頭から腐る」ともいう。
 高い地位にある人間ほど、堕落しやすい、また危険も大きいとの警鐘にほかならない。自分は偉い、自分は特別だと思う心の隙に、「魔」がつけいってくるのである。
 歴史を振り返れば、大聖人の御在世にも、日興上人の時代にも、退転し、反逆していった人間がいた。そのなかには、坊主や社会的に上層の立場の者もいた。
 戸田先生は、その歴史を通しながら、つねづね、最高幹部を厳しく戒めておられた。
 戦時中、創価教育学会に対する軍部権力の弾圧によって、二十一人の大幹部が逮捕された。このうち、牧口先生、戸田先生以外は、次々と退転していったのである。その後も、戸田先生のもとで理事長まで務めた人物が、学会に弓を引いて去っていった。
 近年もまた、学会の同志の、おかげで偉くなりながら、″権力の魔酒″に溺れ、傲慢になり、恩を忘れ、最後は学会を裏切り、反逆していった人間たちがいた。皆さんがど承知のとおりである。
 ここに、退転・反逆の一つの方程式がある。
13  御書には、後々の教訓のために、退転・反逆した人間の名前が、厳然と刻印されている。
 それは、「三位房」「少輔房」「能登房」「名越の尼」らである。大聖人から薫陶をいただいた弟子であり、また、お世話になった者たちである。
 その本性を、大聖人は、「欲深く、心は臆病で、愚かでありながら、しかも自分では智者と名乗っていた連中だったので、ことが起こった時に、その機会に便乗して、多くの人を退転させたのである」(御書1539㌻、通解)と書き残しておられる。
 「自分では智者と名乗る」と見破られているように、そういう人間の本質は、慢心であり、虚栄であり、見栄っ張りであった。
 また大聖人は、京都に上って、貴族社会に出入りを始めた門下が、総じて、「はじめは(初志を)忘れないようであるが、後には天魔がついて正気を失ってしまう」(御書1268㌻、通解)ことも、厳重に訓戒なされていた。
 虚飾の世界に流され、信心を見失い、初志を忘れてしまってはならない。
 これらの退転者は、ひとたび難が起こると、大恩ある大聖人に対し、「我賢し」と傲り高ぶって、教訓しようとさえした。
 大聖人の門下でありながら、後に退転した人間に、武士の長崎時綱や大田親昌がいた。熱原の法難のさいに、その立場を悪用して、門下迫害の急先鋒に立ったことは、現代にも当てはまる歴史の教訓である。
 しかし、この輩が厳しい「現罰」「別罰」を受け、滅び去っていったことも、これまた御書に記されているとおりだ。(「聖人御難事」1190㌻)
 だからこそ、大聖人は、「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」と厳命されているのである。
14  日興上人は「今は背き了ぬ」と明確に断罪
 大聖人の御入滅後、六老僧といわれた六人のうち、日興上人を除く五人の高弟すべてが、師に背き、日興上人から離れていった。
 日興上人が残された「弟子分本尊目録」(弟子分帳)には、日蓮大聖人が認められた御本尊を授与された、六十人余の日興上人の門下の名前が記されている。そのなかに、僧侶もいれば、在家もいる。社会的地位のある人間もいれば、無名の庶民もいる。しかし、日興上人は僧俗ともに分け隔てなく「弟子」と記しておられるのである。
 ご存じのように、この「弟子分帳」では、その人間が、信心を全うしたのか、退転したのかが、一人一人、明確に記録されている。大聖人の御真筆の御本尊を受持した、最高に誉れある弟子である。当然、全員が、後継の日興上人のもと、心を一つに、御遺命たる広宣流布に逼進していくべき立場であった。
 しかし、六十人余りの中で十二人が「但し今は背き了ぬ」「但し聖人(=大聖人)御滅後に背き了ぬ」等と断罪されている。その退転の十二人は、坊主や社会的に地位の高い者等であった。要するに、増上慢であり、無責任であり、保身であり、また嫉妬であった。
 反対に、殉教した「熱原の三烈士」をはじめ、無名の庶民の門下たちは、勇気ある信心を貫き通して、三世永遠の栄光と福徳に包まれている。
 学会においても、権力を笠に着て、同志を苦しめ、裏切った反逆の輩については、一人一人、明快に断罪し、その名を後世に厳然と残しておきたい。同じ轍を踏む人間を絶対に出さないために。また、こうした問題で次の世代が困ることのないよう、厳しく戒めてまいりたい。
15  御金言に、このように仰せである。
 「(釈尊の弟子の)須利槃特は、三年かかっても十四文字を暗唱できなかったけれども、仏になった。提婆達多は、六万蔵という膨大な聖典を暗記していながら、無間地獄に堕ちた。このことは、ひとえに末法の今の世のことを表しているのである。決して他人のことと思つてはならない」(御書1472㌻、通解)と。
 増上慢の人間は最後は敗北する。仏法の世界は、真面目に、地道に、誠実に戦いぬいた人が、必ず勝つのである。
 戸田先生も、よく言われた。
 「いわゆる″偉い人間″なんか信用できない。いざというときに、臆病で、逃げる。卑怯な、インチキの人間が多いものだ。いちばん信用できるのは、庶民だ。健気な婦人部をはじめ、無名の庶民なんだよ」
 本当に、そのとおりである。
 私と対談集『二十一世紀への警鐘』(本全集第4巻収録)を発刊したローマ・クラブの創設者。ペッチェイ博士も、ファシズムと戦い、投獄を耐えぬいた日々を振り返って、述べられた。
 「牢獄では、頼れるものは自分の信念と人間性だけです。ふだん、皆に号令をかけているような人間ほど、もろかった」「私は、変節漢がいちばん、きらいです」
 一人の人間として、わが信念と人間性を最高に光り輝かせながら、生きぬく人生が、もっとも強く、もっとも尊いのである。
16  「日本一の歴史をつくる」との心で前進
 きょうは、東京二十三区の代表の皆さん方も参加されている。本当に若々しい、力のある方々ばかりである。
 私が、わが故郷・大田の地で、拡大の指揮を執ったのは、二十四歳の時であった。
 当時、戸田先生の思いに反し、折伏は、全国的に遅々として進んでいなかった。そうした状況に業を煮やした先生が、「そろそろ大作を出すか」と言われ、私を蒲田の支部幹事に任命されたのであった。
 それはもう、死にものぐるいであった。″この地で日本一の歴史をつくろう″と猛然と決起した。大いなる目標から、大いなる前進が生まれるのである。
 わが大田は、大聖人が御入滅された仏法有縁の天地である。広宣流布の理想郷として輝いていく使命があり、宿命がある。そう私は、心に決めていた。
 そして、支部長をはじめ他の支部幹部と心を合わせ、力のかぎり走り回った。「一人が百歩前進するよりも、百人が一歩前進を!」との思いで、新しい人材を育て、ともに戦う同志を精いっぱい励ましていった。
 この異体同心の前進があったからこそ、一カ月で二百一世帯という日本一の弘教を成し遂げることができたのである。
 戦いは、リーダーの一念で決まる。指導者の勇気と地道な行動こそが、拡大の突破口を開くのである。大東京のリーダーの皆さま方は、それぞれの使命の天地で、勇敢に、また朗らかに、大勝利の指揮を執っていっていただきたい。
17  大聖人は、若き南条時光に、次のように御指導された。
 「身分や地位などの高い人が、(信心に圧迫を加えようとして)言い出してきたときには、『ああ、法華経のよい敵よ! (三千年に一度咲く)優曇華の花にあい、一眼の亀が浮木に奇跡的に巡りあったようなものである』と、お考えになって、したたかに(強く)ご返事をなされるがよい」(御書540㌻、通解)と。
 強敵こそが、自分自身を強く、大きく、鍛えてくれる。困難こそが、人間革命のチャンスなのである。
 広布の途上に、難があるのは当然である。ゆえに、「あいがたい敵にあうことができた!」と喜び、すべてを前向きにとらえ、強い心で、嵐を乗り越え、勝ち越えていく。それが仏法者の生き方である。
 さらに大聖人は仰せになっている。
 「さも味方のように見せかけて退転させ、自分もあざ笑い、人にも笑わせようとする奇怪な者たちには、十分に言わせておいたうえで、『多くの人が聞いているところで人を教訓するよりも、まず自分の身を教訓しなさい』と言って、勢いよく、その場を立たれるがよい」(同㌻、通解)と。
 虚勢の輩などを、恐れてはならない。
 邪智の言などに、だまされてはならない。
 傲慢の徒などを、増長させてはならない。
 どうか、婦人部、女子部、そして青年部の皆さんが、がっちりとスクラムを組み、いちだんと強く、賢くなって、仏意仏勅の創価学会を、永遠に護り、勝ち栄えさせていっていただきたい。よろしく頼みます!
18  人格と慈愛の光る名医たれ
 きょうは、ドクター部の皆さまも出席されている。人々の健康のため、長寿のために尽くしている尊い方々である。学会の同志も、さまざまな形で、お世話になっている。日ごろの献身の活動を讃え、心から感謝申し上げたい。
 一般に、医者にも、いろいろな人がいる。権威的な感じの人。真面目な人。温かい人……。
 もちろん、医者としての技術は重要である。しかし、それだけでなく、医者の「振る舞い」や「心」が患者にとって大切な場合がある。
 お医者さんが、自分のことを本当に心配してくれた。一生懸命、治療に手を尽くしてくれた。「薬」とともに、お医者さんの「真心」で病気が良くなった――そういうこともある。
 だからこそ、学会活動のなかで、自身の心を磨いていくことだ。「あの人はすばらしい」と言われるような、人格と慈愛の光る一流の医者として輝いていくことだ。
 歴史家のトインビー博士は、私との対談で語っておられた。
 「人間の生命に対して、また人類の生存の場であるこの宇宙に対して、何らかの宗教的ないしは哲学的な見解、態度をもたないかぎり、いかなる人も精神的、倫理的に十分適格な医師にはとてもなれないだろう」(『二十一世紀への対話』。本全集第3巻収録)
 生命や宇宙についての確固たる哲学、宗教を持っていること――それが良き医師の重要な条件だというのである。
 この点については、「ヨーロッパ科学芸術アカデミー」のウンガー会長との対談でも話題になった。会長は著名な心臓外科医である。
 ドクター部の皆さまは、大宇宙の根本の法則である妙法を持ち、実践しておられる。最高の生命哲学を学んでおられる。本当に偉大な先駆の存在なのである。
 トインビー博士が、私に会見を勧めてくださった一人に、世界的な医学・微生物学者のルネ・デュボス博士がおられる。デュボス博士とは、一九七三年の十一月に、東京の聖教新聞社でお会いした。懐かしい思い出である。博士との語らいは、人類の歴史と未来、さらには人間の生死の問題にもおよび、非常に有意義なものであった。
 デュボス博士は述べておられる。
 「善と悪は永遠に争い、人生という喜劇の舞台の上でぶつかりあう」(『生命の灯』長野敬・新村朋美訳、思索社)
 善と悪、希望と絶望の闘争は間断なく続いている。その戦いに敗れれば、衰退が待っている。
 デュボス博士は、こうも記している。
 「地球は憩いの場所ではない。人間は、必ずしも自分のためではなく、永遠に進んでいく情緒的、知能的、倫理的発展のために、戦ように選ばれているのだ。危険のまっただなかで伸びていくことこそ、魂の法則であるから、戦うように選ばれているのだ。
 何の苦労もストレスもないのは、楽しそうに思えるが、それでは退屈であり、進歩もない。大変ななかで、努力を重ねる。創造的精神を燃え上がらせて前進する。壁を破っていく。そうであってこそ、個人も、団体も、新たな力を発揮し、成長していくことができる。充実と勝利、そして幸福の道を歩んでいくことができるのである。
 わがドクター部の皆さまも、日々、新たな挑戦を続け、堂々たる勝利の人生を歩みぬいていただきたい。最高の充実と幸福の人生を飾っていただきたい。
19  偉大なる「創価の母」に感謝!
 五月三日は「創価学会母の日」でもある。
 学会の大発展を支えてくださっているのは、婦人部の皆さんである。
 婦人部の友は、来る日も来る日も、友のため、地域のため、地道に勇気の行動を貫いておられる。黙々と勝利のために歩みぬいておられる。「太陽の婦人部」のおかげで、全同志は朗らかに前進できるのである。
 私は全国、全世界の尊き″創価の母″に、心からの感謝を申し上げたい。いつも、本当にありがとう!
 戸田先生は、婦人部の友を最大に大切にしておられた。私もまったく同じ思いである。
 「創価学会母の日」に寄せて、十九世紀のドイツの詩人メーリケの詩を、皆さまに贈りたい。
 「歌は数あれど 母上 あなたにふさわしい歌は一つもない!
 あなたを讃えるのに心は溢れ 言葉は貧しすぎます」(「わが母に」森孝明訳、『メーリケ詩集〈改訂版〉』所収、三修社)
 「どんなに愛情深くあなたは世間に接し皆に尽くしたことでしょう!
 だのにあなたの良さがわからないとは世間はなんと愚かなどじなのでしょう!」(「同じ人に」同詩集所収)
 母の偉大さは、言葉ではとうてい言い尽くせない。母の慈愛と献身もまた、限りなく深いものである。しかし、その偉大さを世間の人々は理解しない――詩人は、そう訴えているのである。
 どうか壮年部、青年部の皆さんは、尊き″創価の母″を最大に大切にし、感謝していただきたい。そして、仲良き団結で、楽しく、勝利の歴史をつづってまいりたい。
20  師弟不二の人生こそ「幸福の中の幸福」
 日蓮大聖人は「御義口伝」で教えておられる。
 「師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり
 「師」とは師匠(大聖人)、「子」とは弟子である。師匠と弟子が、ともに妙法を唱え、弘めゆくことが「師子吼」の意義であるとの仰せである。
 弟子が師匠に心を合わせれば、無限の力が生まれる。師と「不二の心」で貫く実践のなかにこそ、広宣流布の金字塔は輝く。
 たとえ、いい格好をして、人から、もてはやされても、「師弟の精神」を忘れた人間は皆、哀れな迷走飛行の人生となっている。これは皆さんがよくご存じのとおりだ。自分勝手な「師弟の道」などありえない。「広宣流布の道」、正しい「信心の道」を誤ってはならない。
 戸田先生は、天才的な指導者であられた。鋭き眼を持つ人であられた。先生の洞察力、人物を見抜く眼力は、すごかった。そして、あまりにも慈悲深く、同時に、あまりにも厳しき師匠であられた。
 その戸田先生から、私はすべてを学んだ。その戸田先生に、私はただ一人、仕えきった。不可思議な、妙なる師弟の絆であった。
 戸田先生の事業が失敗し、それまで先生にお世話になった人間までが、罵り去っていくような状況のなかで、私は、ただ一人、すべてをなげうって、先生を守りきった。苦労の連続で、不幸中の不幸のように見えたかもしれない。しかし、まさに、その苦闘の日々こそが、栄光輝く「幸福中の幸福」の人生を開く不滅の原点となった。これが信心の力である。これが師弟不二である。
21  「陰徳」は必ず「陽報」
 大聖人は、四条金吾にあてた御手紙で仰せである。
 「主君から度々いただいた所領を返上して、今また所領を給わったということは、これほど不思議なことはない。まったく陰徳あれば陽報ありとはこのことである」(御書1180㌻、通解)
 金吾は法華経の信心ゆえに、領地の没収や追放の危機にさらされた。大聖人を憎む悪僧の良観や、金吾を妬む同僚が、主君である江間氏に讒言し、金吾をおとしいれようとしたからである。そうした一切の迫害をはね返して、金吾は主君から、いっそう深い信頼を勝ち取った。そして、新たな領地を授かるまでになったのである。
 どれほど嘘をつかれ、悪口を浴びせられようとも、最後は必ず勝つ。堂々たる「勝利の実証」を示す。これが偉大な妙法の功徳である。
 広布のために尽くし、戦った功徳は絶大である。「陰徳」があれば、必ず「陽報」となって現れる。学会は、この因果の理法に完壁に則っているがゆえに、一切を勝ち越えてきたのである。
 ともあれ、わが同志の皆さまは、広宣流布のため、立正安国のために、尊き陰徳の活動に徹しておられる。人々のため、社会のため、未来のために活動しておられる。皆さまが、絶対に負けるわけがない。必ず、勝利の陽報に包まれていくことは、間違いない。
 私は、全同志の健康と幸福と勝利を、毎日、一生懸命、祈っている。ともどもに、いちだんと勇敢に、忍耐強く、緻密に勝ち進んでいくことを決意しあい、スピーチを結びたい。
 大切な、各地域の同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください。
 どうか、ますますお元気で! 創立七十五周年の五月三日を、晴ればれと迎えましょう!
 (東京・信濃文化センター)

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