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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部・女子部最高協議会 新しい時代――人材を見つけ、育てよう

2005.3.11 スピーチ(2004.9〜)(池田大作全集第97巻)

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1  平和をめざす女性の連帯が拡大
 婦人部、女子部の皆さん、毎日、本当にご苦労さま!
 広宣流布に奔走される創価の女性たちの活躍は、まことにすばらしい。
 東京、第二総東京の皆さまの懸命なる闘争に、全同志が喝采を贈っている。さらに、神奈川、埼玉、千葉、そして関東をはじめ、全国で、平和をめざす女性の連帯が拡大している。とくに婦人部の皆さまは、見事なる前進をしてこられた。友のため、広布のために、走りに走りぬいて、かってない歴史を築いてくださった。
 また女子部の活躍も光っている。これからは、ますます女子部に力を入れていきたい。
 青年の時代である。男子部、女子部、学生部、未来部に光をあてて、偉大なる人材を育成してまいりたい。
2  広布の本流をまっしぐらに!
 人材は、何もしないでいては、決して育たない。みずから苦労して、新しい人材を見つけ、真剣になって育てていくことである。今こそ、人材育成の大きなうねりを起こしてまいりたい。
 先輩の方々は、若い後輩たちと「一緒に」行動しよう!「一緒に」前進しよう!――その心意気をもつことだ。一緒に動けば楽しいし、計り知れない力が出る。
 もう新しい時代が始まっている。それを、上から眺めているだけでは、魂が老いている姿だ。
 自分から後輩たちのなかに飛び込んでいくことである。「本当にすばらしいね」と皆をほめ讃えていく。「何でもやらせてもらいますよ」と皆に尽くしていく。声をかけるだけでも、皆の力になり喜びになるものだ。一生涯、広宣流布の本流をまっしぐらに進む、すばらしい模範を残していただきたい。
 中国の「竜門の滝」の故事を引かれた御書がある。(「上野殿御返事」御書1560㌻)
 「登竜門」の語源となった滝である。
 滝のもとには多くの魚が集まって登ろうとする。しかし、激流やさまざまな障害があって登りきることができない。その困難を突き抜けて、登りきった魚は竜となる。
 この故事を通して、大聖人は、成仏がいかに困難かを教えておられる。
 言い換えれば、「信心しきった人」が「最後は勝つ」ことを宣言されているのである。途中、どんなに頑張ったとしても、貫かなければ成仏はないのである。行く手にどんな障害があろうと、執念をもって戦いぬくことだ。
 そして″大勝利の登竜門″を、ともに晴ればれと登りきってまいりたい。
 「一華を見て春を推せよ
 「開目抄」の一節である。
 たとえ一輪であっても、寒風のなかに、凛と咲き誇る花があれば、天下の春の到来を知ることができる。
 そして、けなげな女性が、一人、真剣に立ち上がるところ、そこには必ず、さわやかな「希望の春風」が吹き薫り、「歓喜の春」「勝利の春」が広がっていくのである。全国、全世界で、さっそうと活躍される婦人部・女子部の皆さま方を讃え、心からの感謝をとめて、きょうも少々、語り残したい。
3  謝冰心しゃしょうしん女史「人生は八十歳から始まる」
 私と妻は、「中国文学の母」謝冰心先生と深い交友を結んできた。中国を代表する女性作家の一人として、今も深く敬愛され、広く愛読されている。
 (=謝冰心女史と池田名誉会長夫妻は、一九八〇年四月、静岡、北京で会見。謝女史の生誕の地・福建省にある「冰心文学館」から二〇〇四年九月、名誉会長に「名誉館長」、香峯子夫人に「愛心大使」の称号が贈られた)
 謝先生は、戸田先生と同じ一九〇〇年の生まれである。九九年に亡くなるまで、まさしく激動の二十世紀を生きぬかれた。
 温かな人間愛に満ちあふれた方であった。「母の愛」を描き、「女性の幸福」を論じ、「庶民の気高さ」を高らかに謳い上げた。
 日本でも数年間、暮らしておられる。日本の民衆をこよなく愛された。それだけに、中国をはじめアジアの国々を侵略し、人々を苦しめぬいた日本の軍国主義に対しては、厳しかった。
 「人間が人間を圧えつけいじめることだけは、わたしには我慢できない」(『女のひとについて』竹内実訳、朝日新聞社、『訳者あとがき』から)とは、謝先生の生涯を貫いた信念であった。だからこそ、生命尊厳の哲学を掲げて、平和と教育と文化のスクラムを広げる、創価の婦人部・女子部に寄せる信頼は絶大であった。
 「いかなる星にも光ありいかなる花にも香りあり」(「繁星」、『冰心選集』上、人民文学出版社)
 これは、謝先生の詩にある言葉だが、先生の深き人生観を示していると思う。
 どの生命にも、無限の「価値」がある。どの人にも、かけがえのない「使命」がある。
 その「価値」を発揮し、その「使命」を果たしていくために大切なものは何か。
 それは、「活動」であり、「成長(生長)」であると、謝先生は強調されている。
 「生命の象徴は活動です。生長です。一滴一葉の活動と生長とが全宇宙の進化と運行とを作りあげるのです」(『謝冰心自選集 お冬さん』倉石武四郎訳、河出書房)
 川も、流れなければ、死んだ湖になってしまう。種も、成長しなければ、ただの殻で終わってしまう――そう謝先生は言われるのである。
 人間も、生き生きと動き、伸びゆくことだ。個人であれ、団体であれ、成長を止めれば、もはや激流の時代から取り残され、滅び去ってしまう。
 御聖訓には「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せである。厳しい時代であればあるほど、きょうも、一歩、前進! きょうも一つ、新しい創造を!
 たゆまず、地道に、着実に挑戦を続けていく。そこにこそ、大宇宙の本源と連なりゆく、充実と満足の人生が開かれるのである。
 謝先生ご自身、その模範を示された。晩年、脳血栓で倒れ、右半身が麻痺してしまった。しかし、「人生は八十歳から始まる」と、震える手でペンをふるい続けていったのである。その前進の心は、九十歳を超えても変わらなかった。文化大革命の迫害の嵐も乗り越え、さらに病魔も勝ち越えた謝先生には、もはや恐れるものは何もなかったといってよい。
 これからの青年をとよなく愛された謝先生。文学界の新しい人材の成長を自分のこと以上に喜び、徹して励まし、宣揚していかれた。
 若い人を育てる人は、いつまでも若々しい。先生は、こう呼びかけている。
 「か弱き小さな草よ!
  誇りをもて
  あなたこそ
  全世界を美しく彩るものなのだ」
 「小さな岩よ
  もっと堅固になれ
  前から後ろから襲いかかる
  波浪に備えるのだ!」(前掲「繁星」)
4  友情と団結が世界の発展の力
 古今東西の歴史のうえで、世界に気高き理想が実現し、大事業が打ち立てられ、偉大な芸術が生まれた。その原動力はいったい何か。それは、志を同じくし、道をともにする人々が、団結し、切瑳琢磨したからだと、謝先生は洞察しておられた。
 要するに、深き友情と団結こそ、世界を発展させゆく力であるというのである。しかも、自分とは異なる性格の人とも積極的に交流することで、たがいの欠点を補いあい、たがいの魂を深めあっていけると、謝先生は語っている。
 「ちょうど琴の違った絃が一緒になって合奏されるようなもので、それでこそ天上の音楽のような楽しい共鳴をおこすものです」(前掲『謝冰心自選集 お冬さん』)
 まったくそのとおりである。ゆえに心広々と、友情を求め、深めていくことだ。
 青年部、なかんずく女子部の皆さまは、幸福と希望のスクラムを大きく広げていただきたい。それが、すべて、自分自身の人生を豊かにし、高めていく力となる。そして、社会を平和へ、安穏へと繁栄させていく力ともなっていくからである。
 「世界人権宣言」の起草に尽力した、アメリカの″人権の母″エレノア・ルーズベルトは言った。
 人の交友範囲が狭くなればそれだけ人間に対する経験も狭くなるし、物事への関心も狭くなってくる。できる限りの機会を利用して、知人の範囲を拡げようと決心することは、だから、人の選択の問題の中で大事な部分を占めるものと私は思う」(『生きる姿勢について』佐藤佐智子・伊藤ゆり子訳、大和書房)
 同感である。「聞かれた心」で、はつらつと対話に打って出てこそ、生命は光り輝くものだ。
 さらに、十八世紀のイギリスの作家サミュエル・ジョンソンは、こう語っている。
 「年を取るにつれて新しい知己を作って行かない人間は、必ず自分が取残された感じを味わうはずだ。君、人は自分の友情を絶えず補修せねば駄目だ」(J・ポズウェル『サミュエル・ジョンソン伝』1、中野好之訳、みすず書房)
 何歳になっても、新しい出会いを求め、友人をつくっていくことだ。
 友が増えれば、世界が広がる。未来が広がる。
 その意味において、古い友人を大事にしながら、新しい友情を結び広げていく創価の女性の行動が、いかにすばらしいことか!
 謝先生の詩の一節を、婦人部・女子部の皆さまに贈りたい。
 「咲き誇る花に対して、人びとはただ、その鮮やかな姿に感嘆するだけだ。
 しかし、その花の芽は、奮闘の涙の泉に浸って育ったのだ。
 献身の血の雨によって成長したのだ」
 一つの花が咲くまでに、どれほどの労苦があったか。どれほどの戦いがあったか。
 美しき「勝利と幸福の花」は、「忍耐の大地」にこそ咲き薫る。
 婦人部・女子部の皆さまは、あの地でも、この地でも、広宣流布の花を咲かせゆくために、人知れぬ労苦を重ねておられる。その功労に、あらためて、最大の敬意を表したい。
5  逆境で光る「真金の人」たれ
 婦人部の先輩の皆さまは、いつまでも若々しく、新しい気持ちで、使命の大舞台で光っていっていただきたい。
 法華経を持つ人は「真金の人」であると、大聖人は仰せである。
 (御書に、「金は大火にも焼け・ないし、大水にも流されず、また朽ちない。鉄は水にも火にも、ともに耐えることはできない。賢人は金のようであり、愚人は鉄のようなものである。あなたは、まさに真金の人である。それは法華経の金を持つ故であろうか」〈一三三七ページ、通解〉と)
 金は錆びない。磨けば磨くほど、いちだんと輝きを増していく。逆境でこそ光る「真金の人」。これが仏法者の生き方である。皆さまは「黄金の心」で「黄金の人生」を勝ち飾っていただきたい。
 若い世代を、どんどん伸ばしていきたい。
 先輩も一歩も引てはいけない。むしろ、もう一歩、踏み出して、後輩を育てていくことだ。生涯、学会を守り、同志に尽くしていく「使命」と「信念」と「誇り」を忘れてはならない。
 そして、若い世代の皆さんは、あえて労苦を求めぬいていくことだ。
 信心の戦いにおいて、また生活のうえで、何の苦労もなければ、人間は鍛えられない。広宣流布の指導者にはなれない。みずから願って、濁悪の世界に妙法を弘めるのが、地涌の菩薩なのである。
 だれよりも祈り、だれよりも苦労し、希望と勝利の道を切り開く。それが、妙法のリーダーであることを深く心に刻んでいただきたい。
6  増上慢になるな 広布に生きぬけ
 新たな青年を育成するとともに、家庭にあっては、子どもにしっかりと「信心の宝」を継承させていくことが大切である。そこに広宣流布の前進があり、令法久住の確かな軌道がある。
 私たちは、学会の、おかげで、最高に価値ある人生を知ることができた。無量無辺の福運を積み、すばらしい同志にめぐりあうことができた。その大恩を深くかみしめ、子どもにきちんと伝えていくことだ。
 「恩を知る」のが人間の道である、仏法の道である。大幹部でありながら、恩を忘れ、退転した人間の末路が、いかに哀れか。皆さまがよくご存じのとおりである。
 御書に「恩をしらぬ人となりて後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ不便に候へ」「不知恩の人なれば無間地獄に堕ち給うべし」と仰せである。三世にわたる幸福の道を願われての、厳愛の御指導と拝せよう。
 創価学会の中で、広宣流布に生きぬくことが、どれほどありがたいことか。その仏意仏勅の学会を軽んじるようなことは、断じであってはならない。大恩ある学会を軽んじる人間は、「増上慢」である。それは、魔性との戦いに敗れた姿である。増上慢の人間は、人を見くだし、人を裏切り、自分さえよければいいという卑しい心になってしまう。そうなると、みじめな転落の人生を歩むしかない。
 人間の偉さを決めるのは、いったい何か。
 それは、財産でも、名声でも、社会的地位でもない。結論から言えば、最高の妙法を持って、学会の中で、広宣流布に戦う人が、最も偉いのである。慢心で心が狂ってしまった、増上慢の人間には、それがわからない。
 人生の目的は、幸福である。幸福とは、自分自身が、心から満足しきった境涯である。
 牢獄の中でも、正義のために生き、満足しきった境涯の人はいる。お金がなくとも、幸福を満喫している人はいる。表面的な、形式的な幸福は、幻にすぎない。だからこそ、子どもたちには、真実の幸福に直結する「信心」を、厳然と継承させることだ。学会への報恩の人生を教えていくことだ。そこに、子孫末代にわたって繁栄していく直道がある。
 また、皆がその道を歩んでいけるよう教えていくのが、学会の指導主義の伝統である。皆さまには、真剣なる慈愛の励ましを、お願いしたい。
7  師子吼せよ! そこに勝利と福徳が
 きょう(三月十一日)は、あの「小樽問答」の大勝利から、五十周年である。
 正応元年(一二八八年)、日興上人は、身延離山を決意された心境を、「原殿御返事」の中で、こう仰せになっている。
 「この身延の沢を立ち退くことの、面目なさ、残念さは言葉で言い尽くせないが、いろいろ考えてみれば、いずれの地であっても、大聖人の法門を正しく受け継いで、この世に流布していくことがいちばん大切なことである」(編年体御書一七三三ページ、通解)
 師弟不二の道を歩みぬかれた日興上人は、大聖人の正法正義を厳護するために、師敵対の五老僧と戦いぬかれた。
 「小樽問答」では、大聖人と日興上人に直結する創価学会が、五老僧の末流を、完膚なきまでに打ち破った。それは、創価学会こそが、否、創価学会のみが、仏意仏勅の正統の団体であることを、満天下に示した歴史の劇であった。
 「日興遺誠置文」の二十六箇条の結びには、「難問答に巧みな仏道修行者に対しては、先師・大聖人がなされたように、ほめたたえ、尊重するべきである」(御書一六一九ページ、通解)と記されている。
 (「巧於難問答ぎょうおなんもんどうの行者に於ては先師の如く賞翫す可き事」)
 私どもは、小樽問答をはじめ、ありとあらゆる言論戦を、大勝利で飾りぬいてきた。大聖人、日興上人が、「巧於難問答」の創価の師弟を、どれほど賞讃してくださっていることか。
 どうか皆さんは、その誇りと確信を持っていただきたい。
8  ご存じのとおり、あの「小樽問答」の契機となったのも、傲慢な坊主を恐れなく破折していった婦人部の勇気であった。
 先日(六日)、行われた記念の北海道大会にも、五十年前、小樽公会堂に馳せ参じていた、懐かしき草創の同志が元気に出席しておられた。私は、本当にうれしい。また、わが北海道の青年部も、小樽問答の精神を厳然と受け継ぎ、烈々たる広宣流布の信心を燃え上がらせて、全道で主張大会を行い、共感を広げている。
 大聖人は悪を放置して責めない人間の末路を、釈を引かれて、こう仰せである。
 「もし仏法を行ずる人がいて、謗法の悪人を治罰しないで、観念や思惟を専ら修して、邪正・権実をも峻別せずに偽りの慈悲の姿を現す人は、諸の悪人とともに悪道に堕ちる」(御書四九七ページ、通解)
 戸田先生も、悪には徹して厳しかった。「追撃の手をゆるめるな」と。簡潔だが、たいへんに重要など指導である。
 さらに大聖人は「開目抄」で、涅槃経の次の文を引かれている。大事な戒めである。
 「(悪世に戒を持つなどして)さまざまに法を説いても、師子吼をなすことはできないし、非法の悪人を降伏させることもできない。このような仏法者は、自分を救うこともできなければ、衆生を救うこともできない」(御書二三五ページ、通解)
 破折の精神こそが、日蓮仏法の真髄である。このことを、断じて忘れてはならない。
9  心に「悪」を詰めこむな! 「善」を広げよ!
 パール・バックは、アメリカ人女性初のノーベル文学賞を受賞した作家である。『大地』や『母の肖像』などの名作で知られる。
 私が第三代会長に就任した一九六〇年に来日し、東京にも、関西等にも訪れている。
 重い知的障がいをもつお嬢さんを慈しみ、懸命に育てながら、数々の作品を書き残した。世の中にはびこる差別や偏見、暴力に対して、心の底から正義の怒りを燃やし、平和運動にも邁進した。
 彼女は、ある小説の登場人物に、こう語らせている。
 「恐れることが人間を弱くしてしまうんだ」(『大津波』佐藤亮一訳、『ノーベル賞文学賞全集』7所収、主婦の友社)
 そのとおりである。「臆病」であってはならない。強く強く生きぬかねばならない。
 日蓮大聖人は、「祈りが叶わないというのは、ちょうど弓が強いのに弦が弱く、太刀や剣があっても使う人が臆病であるようなものである」(御書一一三八ページ、通解)と仰せである。
 「勇気」こそ、幸福と勝利の人生を切り開く力の源なのである。
 パール・バックは強く、誇り高き正義の信条に生きた。それは、母から学び、譲り受けたものであった。母は、低俗な雑誌など絶対に読まなかった。なぜか?
 「くだらないことが書いてある」
 「心の中にクズを詰めこみたくはありませんからね。口の中にゴミを入れられないのと同じことですよ」(『娘たちに愛をこめて』木村治美訳、三笠書房)
 こう毅然と母は言い放ったのである。
 悪を鋭く見破る賢明な母の言葉は、子どもの心を、正しく、強く、育んでいく。
 パール・バックは訴えた。
 「私たちは全力を出して、悪の大波を善の力強い波で押しとどめなければなりません」(同前)
 そのとおりだ。
 彼女は「世の中には腐敗や堕落があるにもかかわらず、人の善意は広がっていくことができるし、またじじつ広がっている」(『母よ嘆くなかれ〈新訳版〉』伊藤隆二訳、法政大学出版会)と強く実感していた。
 悪人は保身や利害で、たやすく野合する。
 だからこそ、それを圧倒する善の連帯を広げゆくことだ。ここにのみ、未来の希望は聞かれる。
10  人々を不幸にし、社会を衰亡させる邪悪な思想に対して、大聖人は峻厳であられた。
 「責めても猶あまりありいましめても亦たらず」と徹底した言論闘争を叫ばれた。
 また、日蓮大聖人は、迫害の渦中にあった、武蔵国の門下、池上兄弟に、こう仰せである。
 「これから後も、どのようなことがあっても、少しも信心がたゆんではならない。いよいよ強く(仏の敵を)責めていきなさい。たとえ命に及ぶようなことがあっても、少しも恐れてはならない」(御書一〇九〇ページ、通解)
 この厳愛の御指導ありて、兄弟は、勝利の実証をつかんでいくのである。
 ともあれ、万物が躍動する弥生三月――。
 私たちは、「いよいよ」の生命の勢いで、幸福と平和のスクラムを、野に咲く花のように、明朗闊達に広げていきましょう!
11  「師とともに!」その心に栄冠
 叫ぶべきときに、堂々と正義を叫びきる。そこに人間の真価が永遠に光り輝く。いちばん苦しんできた民衆とともに立ち上がり、世界に友情の橋を架けてきたのが、誇り高き創価の前進である。
 最も正しい、最も賞讃すべき民衆運動を、かえって妬み、誹謗する。
 間違っているのは、妬むほうである。
 ″いかなる相手であろうと、私は断固として破折してみせる!″――との革命精神こそ、創価のリーダーの魂でなければならない。
 師弟の道は峻厳である。
 牧口先生、戸田先生は命を賭けて広宣流布のために戦いぬかれた。
 第三代の私もまた、あらゆる迫害の嵐を乗り越えて、広布のため、妙法流布のために生きぬいてきた。尊き同志とともに、今日の世界的な学会を築いてきた。初代、二代、三代の会長が、大聖人の御遺命のままに戦い、「師弟の道」に徹しぬいてきたからこそ、創価学会は大発展を遂げたのである。
12  この「師弟」の一点を忘れて、広宣流布はない。
 かりにも「自分が偉い」などと慢心を起こし、師弟の精神を忘れれば、そこから狂いが生じていく。信心の正しい軌道から外れていく。厳しいようだが、未来のために、あえて言い残しておきたい。
 戸田先生は、組織のなかで派閥をつくる者を絶対に許さなかった。
 自分を中心にして師匠を見くだし、会員を利用するような人間が出れば、学会が破壊されてしまう。清浄な信心の世界が壊されてしまうからだ。組織において、会員同士でも「気が合う」「合わない」といった相性の問題があるかもしれない。しかし、大切なことは、広布のため、学会のために「信心」で団結することである。
 大聖人は、池上兄弟の弟・宗長にあてた御手紙で、次のように仰せである。
 「こう言うと恐縮ですが、兄弟二人がともに日蓮のことを(師匠として)尊いと思って(心を合わせて)いきなさい。
 もし二人の仲が不和になられたならば、二人に対する(諸仏・諸天等の)加護がどうなってしまうかと考えていきなさい(仲が悪いと功徳を消してしまいます)」(御書一一〇八ページ、通解)
 団結がなければ最高の力を出しきることはできない。敵に打ち勝つこともできない。学会は、信心を根本とした異体同心の団結で、永遠に前進してまいりたい。(拍手)
13  ″無理だと言うより、まずやってみよう″
 二十世紀を代表するフランスの作家に、ノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミュがいる。
 先日、カミュの世界的な名作である『ペスト』の日本語訳の初版本を、創価学園の「学園優秀会」の代表が届けてくださった。学園出身の大学生等で、良き兄として、後輩の栄光寮生の育成に尽力してきたメンバーである。
 『ペスト』は、私も青春時代に愛読した懐かしい一書だ。
 カミュは、鋭い言論でナチスと戦ったレジスタンスの闘士である。その彼が、第二次世界大戦が終結して間もない一九四七年に発表したのが、この小説であった。題名に掲げられた「ペスト」は、急性伝染性の病気である。死亡率が高く、史上、数々の大惨事をもたらしてきた。しかし作者カミュは、この「ペスト」をたんなる疫病としてだけでなく、人間を虐げ、蝕み、滅ぼしていく「不正や悪」の象徴としてつづったのである。
 物語では、ペストに見舞われた都市で、犠牲者が広がっていく様相と、その惨事に立ち向かって勇敢に戦う人々の姿が描かれている。
 若き英才の諸君に心から感謝し、この名作を通して語っておきたい。(以下、届けられた創元社刊の『ペスト』〈宮崎嶺雄訳〉から引用・参照)
 小説の舞台は、北アフリカのアルジェリアの都市オラン。
 ある日、悪疫ペストの発生を示す兆候が現れた。やがて少しずつ、犠牲者が出始める。しかし、本来なら、いち早く正確な情報を集め、都市を挙げて対策を行うべき責任を持つ人々が、なかなか徹底的な対策を講じようとしなかった。そのようすを、物語では鋭く、綿密に描いている。
 この都市の医師組合の幹事は、″自分には対策を講ずる資格がない。権力もない″と、即座に手を打たなかった。県知事もまた、″社会に騒ぎを起こしたくない。総督府にも命令を仰がないといけない″と、迅速な行動を怠った。新聞は、事態を軽く見て、真実を広く知らせようとしなかった。
 多くの人々は、自分は大丈夫だろうと行動を起こさなかった。また、皆、不安を感じながらも、真実から逃げようとした――。
 カミュは、「みんな自分のことを考えていた」と描写している。その「自己保身」と「無責任」と「無関心」の蔓延が、悪疫ペストの拡大を許してしまったのだ。
 小説の中で、ある人物が「決して明日に延ばすな」との格言を語る場面がある。
 悪は絶対に放置してはならない。電光石火で手を打つことが、皆を守ることになる。
 ぺストの拡大によって、ついに都市は外部から遮断される。患者の増大に、当局の対応は追いつかなくなった。
 そのとき、タルーという青年が、医師のリウーとともに、有志で保健隊を結成。悪疫ペストとの戦いを開始した。それは、人々の心に巣食う″あきらめ″との戦いでもあった。
 保健隊の結成について「そんなことはなんの役にも立ちませんよ。ぺストなんて、とても手に負えるしろものじゃないですからね」と言う人に、青年タルーは毅然と答える。
 「それはわからないでしょうね、あらゆることをやってみた上でないと」
 あきらめることは簡単である。むしろ、何も行動しない人間が、いちばん、早くあきらめる。
 しかし真の勇者は、最後まで執念をもって戦い、行動するものだ。″あらゆることをやってみる″ものだ。
14  同苦と誠実で困難と闘う
 ぺストの蔓延。それは、いつ終わるともしれない、死と悲惨の極限の状況であった。
 そのなかを懸命に戦い続けた中心者の医師リウーについて、小説では、こうつづられている。
 「公明な心の掟に従って、彼は断乎として犠牲者の側に与し、人々や市民たちと一緒になって、彼等が共通にもっている唯一の確実なもの、即ち愛と苦痛と追放とを味おうとした。
 従って、市民たちの苦悶の一つとして、彼が共にしなかったものはなく、いかなる情況も、同時に彼自身の情況でなかったものはないのである」
 仏法の「同苦」の精神にも通じる行動といえよう。
 また、青年タルーは、「心の平和に到達するためにとるべき道」について聞かれ、それは「共感ということだ」と語っている。彼らは、″自分さえよければいい″という利己主義を振り捨てた。
 人の苦しみに同苦し、人のために行動する。その「共感」と「連帯」に生きるなかにこそ、自分自身の「心の平和」もあることを知っていたのである。わが学会の尊き同志の姿をほうふつさせる。
 さらにまた、リウーは訴えた。
 「ペストと闘う唯一の方法は、誠実さということです」「僕の場合には、つまり自分の職務を果すことだと心得ています」
 真の誠実とは、人々のために、なし得る限りのことをなすことである。みずからの使命に生ききることだ。
 物語には、若い新聞記者も登場する。
 この青年は、当初、ぺストに侵された都市から脱出し、愛する人に再会するという、わが身の幸福ばかりを考えていた。しかし、医師リウーたちの献身の姿に心打たれ、同志に加わる。そして、ようやく得た脱出のチャンスもなげうって、行動を続けた。
 青年は言った。
 「自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかも知れないんです」
 この青年の心の革命が、物語の重要なテーマの一つでもある。
15  根気強く、粘り強く進もう!
 本年は、「青年・拡大の年」である。
 創価の青年による「人間革命」の大運動は、地域をうるおし、社会を照らす、人生の勝利と幸福のための最先端の活動だ。その連帯の拡大こそ、二十一世紀の大いなる希望である。
 私は皆さまに、この小説の「根気強さは結局あらゆるものに打ち克つ」との一節を贈りたい。
 あらゆる波浪を越えて、根気強く、粘り強く進むことだ。
 絶えざる前進こそが、一切の困難を打ち破る。新たな歴史を築きゆく原動力なのである。
 皆さまが、どれほどの苦労をされながら、学会のリーダーとして、友のため、広布のために活動しておられるか。私はよく存じあげているつもりである。
 尊き同志が、どうしたら元気に、幸福に、生き生きと前進していけるか。けなげな友に、どう励ましの光を贈っていくか。そのことを、私はだれよりも真剣に考えている。行動している。
 皆さまも、家庭や仕事、子どもの問題など、現実の生活においては、さまざまな悩みがあると思う。しかし、どんな問題や困難も、妙法を根本としていくならば、必ず乗り越えていくことができる。いちばん、いい形で解決していくことができる。それが仏法である。
 世間の眼ではわからなくても、信心の眼で見るならば、すべてに意味がある。また、すべてがいい方向へと生かされていくのである。
16  広宣流布の祈りに心を合わせて
 私が創価学会の会長に就住して、まず祈ったのは、「豊作であるように。飢鐘がないように」「大地震がないように」ということであった。
 学会員の友が、また国民が、苦しむことがないようにと祈ってきた。
 さらに、学会員が、一人も残らず、裕福になるように、無事故で安穏な生活であるように、健康長寿で大満足の幸福な人生でありますようにと、一貫して祈ってきた。
 今も毎日、一生懸命、祈っている。あらゆる手を尽くしている。
 同志のために私はいる。それが私の人生だと決めているからだ。
 日蓮大聖人の大願は、広宣流布、すなわち全世界の平和であった。
 御聖訓には、こう仰せである。
 「日蓮は、生まれたときから今にいたるまで、一日片時も心の休まることはない。ただ、この法華経の題目を弘めようと思うばかりである」(御書一五五八ページ、通解)
 真剣勝負の一日一日であられた。国主を厳しく諌暁されるときも、家族を亡くした婦人を温かく励まされるときも、その御心は「全民衆の幸福」という一点にそそがれていたのである。
 私たちも「さあ広宣流布しよう!」「民衆を苦しめる邪悪と戦おう!」「創価学会を大発展させよう!」と祈りに祈り、心を合わせて進みたい。
 自分の我見や、高慢な心で、決して道を誤つてはいけない。
 大聖人は「日蓮の弟子たちのなかで、法門をよく知っているかのような人たちが、かえって間違を犯しているようである」(御書一五四六ページ、通解)と戒めておられる。
 どうか、あの「熱原の三烈士」のごとく、「広布の鑑」と讃えられる偉大なる人生の劇を、見事に飾っていただきたい。勇敢なる先駆者として、生きて生きて生きぬいていただきたい。
17  ここで、法華経を拝したい。
 「普賢菩薩勧発品」で、釈尊が普賢菩薩に呼びかける一節である。
 「普賢よ、もし如来の入滅の後、後の五百歳に、もしある人が法華経を受持し、読誦している者を見たならば、まさにこのように思うべきである。
 『この人は、久しからずして、まさに道場にいたり、多くの魔を打ち破り、無上の悟りを得、法輪を転じ(教えを説き)、法の鼓を打ち鳴らし、法の法螺貝を吹き、法の雨を降らせるであろう。まさに天・人の大衆の中の師子の法座の上に坐るであろう』と」(法華経六七五ページ、通解)
 これは、重要な一節である。
 「普賢」の「普」には「普し」の義がある。「賢」は「賢い」と読むとおり、「智慧」を表している。本日はくわしい意義は略すが、わかりやすく言えば、仏の偉大な智慧が、全宇宙にあまねく及んで尽きないことを象徴しているといえよう。
 広布の指導者もまた、「普く、賢く」なければいけない。
 仏法と社会の一切に通じ、人々を指導し、悪を破折していける智慧を磨いていくことである。それを怠つては、本当の信心ではない。
 「如来の入滅」の「如来」とは、ご存じのとおり、仏のことである。仏の尊称(十号)の一つであり、「真如より到来せし者」等の意がある。
 この宇宙は、一瞬の停滞も、なく動いている。森羅万象、あらゆる存在が、変化、変化を続けている。「如来」とは、如如として来る、瞬間瞬間の躍動する生命を表しているともいえよう。その偉大なる生命力の当体とそ、仏なのである。
 妙法は、大宇宙を貫く至高の法則である。
 南無妙法蓮華経を唱えながら、広布に生きぬいていけば、最も正しく、最も価値ある「安穏と勝利の道」を、三世永遠に歩んでいくことができる。また、一切衆生には本来、仏の生命が備わっている。ゆえに仏法では、あらゆる生命を尊貴なものとして敬っていくことを教えている。
 ともあれ、われわれも、停滞してはいけない。回転し、律動し、変化し続ける大宇宙とともに、妙法を唱えながら、広布のために動くことである。戦い続けることである。そうしていくなかで、わが生命に、何ものにも負けることのない、最も力強く清浄な「如来」の生命を湧現していけるのである。
18  行動!歴史に名を残せ
 普賢品に説かれる「この人」とは、別しては、末法の法華経の行者である日蓮大聖人のことであられる。総じては、大聖人の御遺命のままに、広宣流布に遵進する、われわれ門下一同のことと拝せよう。
 普賢品では、先の文に続いて、仏の滅後の末法に、おいて、法華経を受持する人を、最大に敬っていくべきことを教えている。
 経文に、「もしこの経典を受持する者を見たならば、まさに起って遠く迎えるべきことは、まさに仏を敬うがごとくすべきである」(法華経六七七ページ、通解)と説かれている。
 大聖人は、「御義口伝」の中で、これこそ「最上第一の相伝」であると明言されている。日夜、懸命に広布に励む人を、″仏のごとく″敬え――これこそ、仏法の根本の思想なのである。普賢品の短い一節には、甚深の意義がこめられている。
 法華経は、末法の広宣流布を明かした、重要な″予言書″でもある。
 生涯、広布に尽くしぬいた人は、生々世々、みずからが願った国や地域に生まれ、それぞれの地で、福徳にあふれた勝利者となり、歴史に名を残す指導者となっていくことは間違いない。
 普賢品の経文を拝し、そのように確信して、誇らかに前進してまいりたい。
19  先日、アメリカの哲学者ルー・マリノフ博士からど連絡をいただいた。アメリカ実践哲学協会の会長であり、世界的なベストセラーの著者としても知られる方である。
 博士は今、世界の対立を克服するための哲学として、「中道」思想の研究に力をそそいでいる。
 ギリシャのアリストテレスの哲学や、儒教など世界の思想、宗教を探究。そのなかで博士が高く評価し、期待を寄せているのが、仏教、なかんずく、日蓮大聖人の中道の思想である。
 「中道」とは、「人間主義」ともいえよう。
 マリノフ博士は語っておられる。
 「世界の対立を克服するために、私たちは共通の基盤を持たねばなりません。根底に、人間としての共通の基盤を持たねばならないのです。
 そして、その基盤は、仏法によってこそ築けると私は考えております。なぜなら、仏法こそが、すべての人間は自身の内に悟りを秘めた存在であると、力強く宣言した思想であるからです」
 現代の社会は、人間をたんなる「手段」にしてしまった。「人間を人間として見られない」世界になってしまった――そのように憂える多くの知性は、創価の哲学運動こそ「精神の復興」に不可欠であり、人々を「真実の人生の目的」に目覚めさせていく力があると、大きな期待を寄せているのである。
20  マータイ博士「困難が人間を強くする」
 終わりに、御聖訓を拝したい。大聖人が、池上兄弟に贈られた「兄弟抄」の一節である。
 とくに最後の部分で、難と戦う兄弟の夫人が、強き信心で夫を支え、力を合わせて進むよう激励されている。
 「ご夫人がたが力を合わせて夫の信心を諌めるならば、竜女の跡を継ぎ、末代悪世の女人の成仏の手本となられることでしょう。
 このように信心強盛であるならば、たとえ、どのようなことがあろうとも、日蓮が二聖・二天・十羅利女・釈迦・多宝に申し上げ、次の世には、必ず成仏させましょう。
 『心の師とはなっても、自分の心を師としてはならない』とは六波羅蜜経の文です。たとえ、どんな煩わしいことがあっても、夢だと思って、ただ法華経のことだけを考えていきなさい」(御書一〇八八ページ、通解)
 苦難のときとそ、宿命転換を成し遂げ、一生成仏を決定づけることができる。
 大変なときに、一歩も引かずに勇気ある信心を貫き通した人が、仏の大境涯を聞き、永遠の大福運を積むことができる。だからこそ、労苦を惜しまず、歯を食いしばり、思いきり戦いぬくことだ。すべてが自身の三世にわたる生命の勝利、一家眷属の万代の栄光となって輝いていく。
 どうか、「末代悪世の女人の成仏の手本」と、大聖人から讃えられる名誉と功徳の歴史を、朗らかに、晴ればれと残していっていただきたい。
 大聖人は仰せである。
 「このような者(日本第一の法華経の行者である日蓮大聖人)の弟子檀那となる人々は、宿縁が深いと思って、日蓮と同じく法華経を弘めるべきである」(御書九〇三ページ、通解)
 偉大な使命を持った皆さまである。深き「宿縁」を最高の誇りとして、広布の大道を歩みぬいていただきたい。
 私は全婦人部、全女子部の皆さま方が、ますます健康で、幸福であられることを、妻とともに、真剣に祈っています。
 最後に、先日、お会いした、「アフリカの環境の母」マータイ博士の「困難が人間を強くする」との言葉を贈り、私のスピーチを結びたい。
 お元気で! きょうは本当にありがとう!
 (東京・信濃文化センター)

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