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日蓮大聖人・池田大作

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方面長協議会 深き同志愛こそ、学会の魂

2005.2.11 スピーチ(2004.9〜)(池田大作全集第97巻)

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1  師弟ありて学会は勝利
 寒いところ、本当にご苦労さま! 全国各方面の発展を、いつも心から祈っています。
 とくに婦人部の皆さま方は、洋々と大きく波を打って進んでいる。希望と勇気と歓喜を広げるすばらしき前進に、深く感謝申し上げたい。
 ともかく「健康第一」で、一日一日を有意義に、朗らかに、楽しく、皆を勝利の方向へ、幸福の方向へリードする名指揮を、お願いしたい。
 大事な方面長の集いである。広宣流布の未来を展望しながら、価値ある協議としていきたい。
2  きょう(十一日)は戸田先生の誕生日。創価学会にとっての、祝賀の日である。先生が亡くなる年(昭和三十三年)の最後の誕生日、私は、ご自宅にうかがい、お祝いを申し上げた。
 晩年、先生が、広宣流布のために「アジアへ行きたい」「メキシコへ行きたい」と言われていたことを思い出す。世界へ! 民衆のため、平和のために!――心には大いなる希望を燃やしておられた。
 厳しい先生であった。
 鋭い先生であった。
 そして、偉大な先生であった。
 先生は、物事の本質を瞬時につかみ、インチキは必ず見破った。あらゆる機会を通して、未来への重要な指針を残された。すべてが、私の心に焼きついている。
 この何十年間、私は一年三百六十五日、瞬時たりとも、戸田先生を忘れたことはない。朝も夜も、思索する時、だれかと話す時、つねに私の心には、先生がいる。
 「私の言ったことを皆、すぐに忘れてしまう。全部聞き逃さずに、覚えているのは大作だけだな」
 ある時、先生がそう言ってくださった。
 戦争中、牧口先生が投獄された時である。大恩ある師を、臆病な弟子たちは、次々と裏切っていった。そのなかで、戸田先生は、師匠とともに牢に入ることを、無上の誉れとされた。
 後年、戸田先生は、牧口先生を偲んで、こう語っておられる。
 「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」
 なんと崇高な心か。名聞名利の人間には、わかるはずがない。
 戸田先生は、それはそれは厳しく、私を薫陶してくださった。
 私は、わが身を捨てて先生をお守りした。言われたことは、すべて、絶対に実現してきた。
 まっすぐに師匠を信じて、師匠と心を合わせていく。広宣流布の大将軍たる師の戦いの焦点は、今、どこにあるのか――それを思索し、肉薄し、先頭に立って実行する。そうやって私は新しい舞台を切り開いてきた。
 その私を、先生も深く信頼してくださった。
 「大作はいるか」「大作は今、何をしているか」と、つねに命から離さなかった。
 この「師弟」ありて、創価学会は勝った。
 世界的な大発展のなかで、先生の誕生日を祝うことができ、本当にうれしい。(拍手)
 私は、青春時代、戸田先生から古今の一流の文学をはじめ、万般にわたる学問を教えていただいた。
 なかでも『三国志』は、先生が次代を担いゆく青年を鍛錬するため、よく使われた書物である。
 戸田先生は、さまざまな示唆に富んだ指導をしてくださった。「団結の大切さ」「敵を忘れるな」等、人間学、将軍学を教えていただいた。
 皆さんもご存じのように、三国志は、二世紀後半から三世紀後半の中国が舞台である。「魏」「呉」「蜀」の三国が鼎立ていりつした時代で、約百年間にわたった治乱興亡の模様が描かれている。まさに流動の世界、激動の時代である。
 きょうは、広宣流布の指揮を執りゆく「将の将」の皆さまが集っておられる。日蓮大聖人は「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」と仰せである。
 三国志の英雄のごとく、各地域で、広布のために、最高の智慧を結集し、心一つに、永遠の勝利の金字塔を築いていただきたい。
 戸田先生は、三国志の登場人物のなかでも、「蜀」の国の名丞相であった諸葛孔明をこよなく愛しておられた。その孔明が、ひときわ光彩を放つのが、主君である先帝の劉備が亡くなってからの攻防戦である。
 三国時代といっても、「蜀」の国は、「魏」や「呉」に比べて小さい。国力を比較すると、「魏が六、呉が三、蜀が一」という説もある。それほど格差があった。
 「衆寡敵せず」――ふつうに考えれば、多人数に少人数はかなわない。それをどう切り開くか。
 孔明が取った道は、味方をつくり、地盤を固め、そして打って出ることであった。
 孔明は、守勢に回らず、「戦い続けること」を選んだのである。
 劉備の喪が明けると、孔明は大国・魏への「北伐」を開始。それは孔明が五丈原で病没するまで、五度にわたった。孔明はその決意をこう述べている。
 「鞠躬きっきゅう尽力し、死して後己まん」(中林史朗『諸葛孔明語録』明徳出版社)――誠心誠意、真剣に努力し、死ぬまで戦いをやめない。
 たゆまざる前進に、未来への光がある。戦い続けた人生に、栄光が輝くことを忘れてはならない。
3  人材育成こそ常勝の道
 だが問題は、孔明亡き後である。こんな話が伝えられている。
 五丈原の陣中で、孔明が病に倒れた。ある人が、孔明の病状がただならぬことに不安をおぼえ、孔明のあとは、だれを頼りにすればいいのかと尋ねた。
 孔明は、二人の英傑の名を順に挙げた。だが、″そのあとを継ぐ者は?″と、さらに尋ねられると、孔明はすでに息絶えていたという。(羅貫中『三国志演義』下、立間詳介訳、平凡社、参照)
 事実、孔明が挙げた二人は、後に軍事や内政を統括するようになるのだが、彼らが亡くなった後、蜀の命運は尽きてしまったのである。
 戸田先生が、孔明の苦心孤忠の胸のうちに思いを馳せ、語っておられた言葉を思い出す。
 「人間おのおの長所があれば、短所もあるものだ。さすがの孔明とて、いかんともしがたいところがあろう。蜀の国に人材が集まらなかったのは、あまりにも孔明が才に長け、凡帳面すぎたからだ。しかも、彼には人材を一所懸命になって探す余裕もなかった。そこに後継者が育たなかった原因があると思う。
 しかし、ともあれ孔明の死後、蜀は三十年間も保ちえたのを見れば、まったく人材がいなかったわけでもない」
 万感迫る恩師の声が、今も耳朶から離れない。大事なのは「人材」である。人材の陣列が絶え間なく続いていかなければ、いつかは衰退の道をたどるしかない。
 私もまた恩師亡き後、ただひたすら、「人材」を育ててきた。「青年」を伸ばしてきた。
 「広宣流布」即「世界平和」の大願を継承しゅく人材が、幾重にも波となって続いてこそ、勝利はあり、発展はあるからだ。この一年、さらに男子部、女子部、学生部を鍛え、未来部を全力で育てながら、新たな五十年へ常勝の大道を開いてまいりたい。
 一切は後継者で決まる。未来は青年に託す以外にない。今、立派な、いい青年部が育ちつつある。人材をぐんぐん伸ばし、いよいよ本格的に青年部革命のうねりを起こしていただきたい。
 なかんずく女子部が大事だ。これからの使命の舞台は無限である。二十一世紀は「女性の時代」「婦人の時代」であるからだ。
 多くの企業等からも、女子部の皆さんのさわやかな活躍を讃嘆する声が寄せられている。
 どうか女子部の皆さまは、仲良きスクラムを大きく広げながら、新しい人材の流れを築いていただきたい。
4  「王道の指導者」「広布の孔明」たれ
 私は二十七歳の時、友と『三国志』をはじめ中国の英傑をめぐって語りあった夜、日記に次のように記した。
 「曹操の勇を思う。項羽の大勇を念う。関羽の人格。張飛の力。孔明の智。孫権の若さ。
 ・・・・・・
 王道の人たれ、覇道の人になる勿れ。
 民衆の王たれ、権力の将になること勿れ。
 大衆の友たれ、財力の奴隷になる勿れ。
 善の智者たれ、悪の智慧者になること勿れ」(『若き日の日記』上。本全集第36巻収録)
 王道とは、私たちでいえば、会員のため、仏法のため、広宣流布のために、生きぬく人生である。覇道とは「何のため」という根本の目的を忘れ、己の私利私欲で、堕落し、みずから腐りはてていく人生のことである。
 人生は、地に足をつけて、一歩一歩進んでいくことだ。一度に頂上には登れない。一歩一歩、忍耐強く歩む人が、最後に必ず勝つのである。最後の最後まで、自分が決めた使命の天地で、雄々しき広布の名将として、生きて生きて生きぬいていくことだ。
 どうか皆さまは、創価学会を万代に盤石ならしめる「王道の指導者」「広布の諸葛孔明」として、堂々たる指揮を執っていただきたい。
5  極寒の佐渡で慈愛の大闘争
 日蓮大聖人の御一生は、大難の連続であられた。
 とくに、竜の口の法難、佐渡流罪は、命にもかかわる大難の日々であった。佐渡に着かれたのは一一七一年(文永八年)の十月、大聖人五十歳の御時である。
 その年の冬から翌年の春まで、佐渡で住まわれた塚原三昧堂は「上はいたま板間あはず四壁はあばらに雪ふりつも降積りて消ゆる事なし」というありさまであった。
 そのうえ、佐渡では、念仏者等につねに命を狙われる状況であった。
 その真っただ中にあって、大聖人は、破邪顕正の言論戦を展開され、また「開目抄」「観心本尊抄」といった法門上、重要な御抄を次々としたためられていく。
 最悪の状況のなかでも、全民衆の幸福のために、戦い続けていかれたのである。
 佐渡に流罪中、大聖人の弟子になった一人に最蓮房がいる。
 大聖人が最蓮房に与えた御抄には、「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「祈祷抄」「祈祷経送状」「諸法実相抄」「当体義抄」などがある。
 一二七二年(文永九年)四月、大聖人が与えた「最蓮房御返事」と呼ばれる御手紙には、佐渡における大聖人の御心境がしたためられている。
 「お咎めをこうむり、遠国の島に流罪された人で、私たちのように喜びにあふれでいる者はまさかいないであろう。ゆえに私たちが住んで一仏乗である法華経を修行する所は、どこであっても常寂光の都となる」(御書一三四三ページ、通解)
 流罪の身になっても、苛酷な環境であっても、法華経を弘めるゆえに、大難に遭ったのである。成仏は疑いない。これほどの喜びがあろうか。私たちが妙法を修行する所は、常寂光土なのである――と。
 これが偉大な御本仏の大境涯である。
 創価学会も、広宣流布のために戦っているからこそ、難を受けてきた。そして勝ち越え、正義を打ち立ててきた。
 これこそ、大聖人の仰せどおりに戦う私たちの誉れである。
 そして御手紙では、続いて、こう述べられる。
 「あなたの流罪が早く許されて、都へ上られたならば、私(日蓮)も、鎌倉殿(北条時宗)が許さないと仰せになっても、諸天等に申して鎌倉に帰り、京都にお手紙を差し上げよう。
 また私が先に許されて鎌倉に帰ったならば、あなたのことをも諸天に申して、京都へ帰れるようにしよう」(同ページ、通解)と。
 遠く流されてきた最蓮房にとって、この慈愛の激励は、どれほど心にしみただろうか。
 わが身を差しおいても、苦境の友を励ます。これこそ、大聖人の御心であり、学会精神である。
 私はここで、今、震災を乗り越え、豪雪と戦っておられる、わが愛する新潟の同志の皆さま方に、あらためて心からのお見舞いを申し上げたい。
 信心は宿命転換の戦いである。皆さまの幸福と勝利を、私は真剣に祈っている。
6  「病の時こそ」大確信で
 同志の、なかには、病と闘っておられる方もいる。ご家族が病気の方もおられるにちがいない。
 御書を拝し、「病をどうとらえるべきか」、信心の根本姿勢をあらためて確認しておきたい。
 日蓮大聖人は、夫の病気について報告した妙心尼に、こう教えておられる。
 「この病は仏のお計らいだろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである」(御書一四八〇ページ、通解)
 病があるからこそ仏になれる。偉大な人間になれるのだ――まことに深い仏法の生命観である。
 また、ある時、大聖人は、富木常忍から、夫人の富木尼御前の病気について聞かれた。
 大聖人は、側でやさしく語りかけるかのような、慈愛あふれる励ましの御手紙を、富木常忍に託しておられる。
 「あなた(富木尼御前)もまた法華経の行者であり、ご信心は月が満ち、潮が満ちるように強盛であるから、どうして病が癒えず、寿命の延びないことがありましょうか。こう強く確信して、御身を大切にして、心の中で、あれこれ嘆かないことです」(御書九七五ページ、通解)
 そして、青年門下の南条時光が重病に倒れたと聞くや、御自身も重い病の身であられながら、厳愛の励ましをつづられた。
 「(あなたは)上下万人から諌められたり、脅されたりしながらも、ついに信仰を捨てる心がなく、もはや成仏しそうになったので、天魔・外道が病気にさせて脅そうとしているのであろう。命には限りがあるものだから、少しも驚いてはならない」(御書一五八七ページ、通解)
 妙法は、生老病死の「四苦」を根本的に克服しゆく、絶対の勝利の法則である。妙法に生きぬく人は、幸福の境涯を三世にわたって楽しんでいけるのである。
 信心が深まったからこそ、病魔をはじめ、三障四魔が競い起こる。病もむしろ「仏の境涯を開くチャンス」ととらえて、毅然と闘っていただきたい。そう御本仏は教えておられる。
 私は、全同志の健康と長寿と勝利を、来る日も来る日も、懸命に祈っている。
 最高の楽しき和合の世界をつくる。そのための信心であり、そのための組織である。この創価の「師弟の世界」、真実の「和合の世界」を永遠に崩してはならない。崩させてはならない。
 私は、どこまでも会員第一で進んできた。会員を大事にして、大事にして、大事にしぬいてきた。この一点は、御本尊に誓って断言できる。
 徹して一人を大切に――深き同志愛こそ学会の魂である。
 尊き仏子である同志に対して、いばったり、いやな思いをさせては絶対にならない。
 同志を苦しめる悪人は仏法上、「破和合僧」の大罪であるからだ。
 戸田先生は、「敵は内部だよ」と厳しく言われた。その言葉のとおり、私利私欲におぼれた不知恩の反逆者が出た。
 そして御書に「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食」と仰せのとおり、大聖人に違背した日顕宗が出たことは、皆さま、ご存じのとおりである。
 こうした広布破壊の大悪を、われわれは断固として許すことなく、永遠に、「異体同心の団結」で前進してまいりたい。
7  創立八十周年へ、勝利の陣列を
 本年は、創価学会の創立七十五周年である。
 この「七」「五」という数字には、仏法上、幾重にも深い意義がこめられている。
 日蓮大聖人は、一切衆生の成仏の因を、南無妙法蓮華経の「七字」「五字」としてあらわされた。すなわち南無妙法蓮華経の「七字」と妙法蓮華経の「五字」である。
 大聖人は、幸福の大道であるとの妙法を、末法の未来のために残してくださった。
 御聖訓には、次のように仰せである。
 「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり
 この妙法を弘め、全人類を不幸の流転から解き放ちたい――その願いのままに、大聖人は立宗宣言以来、日本そして世界への広布の道を聞かれた。
 また「日蓮もかくの如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり」とも記されている。
 大聖人御自身への迫害も大難も、すべて妙法を弘めてきたためである。しかし、それによって、仏となり、未来への広宣流布の道を開くと思えば、喜びは計り知れない――と仰せになっておられる。
8  仏意仏勅の団体である創価学会にも、「七字五字」に通ずる、輝く歴史がある。
 恩師戸田先生が第二代会長に就任された時に宣言されたのは、「七十五万世帯」の大折伏であった。一切の願業を果たされ、戸田先生が逝去された一カ月後、当時の日淳法主は、「七十五万世帯」の甚深の甚深の意義について、こう講演された。
 「その(=地涌の菩薩の)方々を会長先生が末法に先達になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」(昭和三十三年五月三日、創価学会第十八回総会)
 このように、日淳法主は戸田先生の偉業を最大に讃嘆しておられる。
 先生のご逝去直後、学会は一部のマスコミから″空中分解する″と中傷された。しかし私は、戸田先生の遺志を継ぎ、師子となって戦いぬいた。
 そして第三代会長就任から十年後には、学会の「地涌の陣列」は、恩師が築いた七十五万世帯から、十倍の七百五十万世帯へと拡大した。今や創価の人間主義は、世界百九十カ国・地域に、希望と幸福の大輪の花を、喜びいっぱいに薫らせている。
 意義深き創立七十五周年の本年は、いよいよ完勝への盤石なる基盤を築く時である。
 そして「八とは開く義なり」と言うとおり、絢爛たる学会創立八十周年へ、勝利の陣列を、ともどもに拡大してまいりたい。
 今や学会は、日本の思想界の柱となった。これからが大事だ。いよいよ、世界一の平和と文化の城を築きゆくのだ。この一年を勝利し、青年を伸ばして、いちだんと強固な布陣をつくりあげ、未来の勝利へ大きな決定打としていきたい。
 きょうは本当に、おめでとう。またお会いしましょう!
 (東京・信濃文化センター)

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