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日蓮大聖人・池田大作

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SGI代表協議会 勇敢に行動を! 千里の道も一歩から

2005.1.9 スピーチ(2004.9〜)(池田大作全集第97巻)

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1  「求道の王者」を心から賞讃
 千里の道も一歩から始まる。人生の道、幸福の道、広宣流布の道もまた同じである。
 きょうも一歩! きょうも前へ!
 何があろうと、断じて歩みをとめない。そうすれば、勝利は最後に待っているものだ。
 途中には、いろいろなことがあるだろう。苦しい時もある。しかし、負けてはいけない。退いてはならない。朗らかに、希望の歌を歌って進みゆくのだ。
 悪逆な人間が出たならば、「あの愚か者よ!」と叫びながら、正義の言論で打ち砕けばよい。
 わが道を進みゆけ!
 所願満足の自分自身を堂々と築くのだ。
 そして最後に勝とう! すべてに! すべての戦いに! ともに楽しく進みましょう!
 遠路はるばる来日されたSGIの同志の皆さま、ようこそ!(拍手)
 地球の反対側から、お見えになったブラジルの皆さまをはじめ、アメリカの皆さま、カナダの皆さま、ドイツの皆さま、さらにスペイン、香港の皆さま、本当に、ご苦労さま!
 皆さんのお元気な姿を見て、私は涙が出るほどうれしい。
 偉大なる「求道の王者」を、私は心から賞讃したい。(拍手)
 通訳の皆さま方、また、役員の方々も、ありがとうございます。
2  わが忘れ得ぬブラジルの友
 一九八四年の二月、私は念願がかなって、十八年ぶりに、ブラジルを訪問した。今も、あの日のことが、鮮やかに思い出される。愛する、心から愛するわがブラジルの同志は、広大な全土から、サンパウロのブラジル文化会館をめざして駆けつけてくださった。
 なかでも、一番遠方のメンバーは、ブラジル北部、パラー州ベレン市の友であった。
 アマゾン川の河口の町であるベレン市からサンパウロまでは三千キロ以上。じつに、五十五時間もバスに揺られ続けての道のりである。
 あの日、ブラジル文化会館に晴ればれと集われた同志と記念撮影したことは、生涯、忘れ得ぬ思い出である。
 現在、この遠方のベレン市にもパラー文化会館が誕生し、創価の人間主義の広場として、共感と信頼を広げておられる。まさしく、″一波″は″万波″となったのである。
 ブラジルといえば、「ブラジル文学アカデミー」のアタイデ総裁と、お会いしたことも懐かしい。
 九三年二月のことである。当時、九十四歳の総裁が、空港で、私の到着を二時間も前から待っていてくださった。
 (総裁の体を気づかい、SGIの友が、別室で休んでくださいと言うと、総裁は、こう語った。
 「私はもう百年近くも生きているのです。九十四年間も池田会長を待っていたのです。一時間や二時間、なんでもありません」)
 総裁は、お会いするやいなや、私の手を取り、「池田会長、いっしょに戦いましょう。力を合わせて、人類の歴史を変えましょう!」と力強く語られた。あの烈々たる眼光は忘れられない。「人権と人道の巨人」であり、黄金の偉大な人生を歩まれた方であった。
 海外には、こういう本物の闘士がおられる。
 きょうはカナダSGIの議長も参加されている。
 私は一九六〇年十月、世界広布の第一歩の旅の途上、初めてカナダを訪れた。メンバーのいないはずのトロントの空港で、待っていてくれたのが、議長であった。当時、未入会であったが、日本のお母さんからの手紙で、私たちの来訪を知り、ただ一人、空港に駆けつけてくださった。
 やがて入会し、たった一人から、懸命に折伏に歩かれ、今日のカナダの大発展を築かれたのである。お母さんも、さぞかし、お喜びのことであろう。
 思えば、SGIが発足した七五年一月二十六日、アメリカ・グアムでの平和会議には、五十一カ国・地域から同志が集ってくださった。
 三十年前のことである。航空路も今ほど整っておらず、移動ひとつとっても大変であった。
 その時代に、アフリカからも、南米からも、地涌の友は勇み集ってくださったのである。
 遠路をものともせず、「法を求めよう」、そして「法を弘めよう」――との心こそ、SGI発足以来の伝統である。
 日蓮大聖人は、遠く険しい旅路を越えて訪ねてきた女性の門下を最大に讃嘆され、「釈尊の十大弟子の一人、目連尊者が全世界を瞬時に飛び回れるような大境涯になったのは、過去世に、仏法を求めて千里の道のりを通ったからなのですよ」(御書一二二二ページ、趣意)と励ましておられる。
 今回の研修で来日された皆さん一人一人にも、さまざまなご苦労が、おありであったろう。
 旅費や日程のやり繰りも大変である。そのなかを、真剣に仏法を求めて、足を運ばれる尊き一念。まさに「信心即行動」の模範のお姿である。その功徳は絶大である。
 海外から日本へ研修に来られることが、どんなに大変か。
 その真剣なる心は、七百年前、遠い佐渡の大聖人のもとへ、海や川を渡り、深い山々を越えて、危険に満ちた道を歩き通していかれた門下の方々の信心の志にも通ずると私は思う。
 皆さま方の強く深き、尊い心を、大聖人は、どれほど讃えておられるか。
 その功徳と福運は、広大無辺であり、生々世々、子孫末代をも包みゆくことは、間違いない。
 仏法は、三世を貫く絶対の生命の法則であるからだ。
3  「日本の平和運動を学会がリード」
 さて、SGIが発足した三十年前、世界のメディアは、どのように創価の前進を見ていたか。
 七五年一月十八日、SGI発足の一週間ほど前のことである。
 世界最大の通信社の「AP通信」が、創価学会と私を紹介する記事を、全世界に打電した。
 この記事では、私が、アメリカのキッシンジャー国務長官、ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理らと、相次いで会見したことなどにふれ、グアムでSGI発足の会議が行われることに言及している。
 (記事は、いちじるしい経済成長を遂げた日本のイメージを反映して、次のような書き出しで始まる。
 「かつてのトランジスタのセールスマンの国、日本が、世界で最も数少なく、最も貴重な商品の一つ――平和――を売るスーパー・セールスマンを生みだした。その人は日本に公称一千万人の会員を、また海外に四十一万四千人の会員を持つ仏教徒団体である創価学会会長、池田大作氏である」
 さらに、こうつづられている。
 「池田氏は、核廃絶および戦争反対の民衆運動を主唱しているが、より長期的には各国間の教育・文化交流に平和への望みを託している。同時に、池田氏は、外交政策の手段としての戦争を、憲法により禁止している唯一の国である日本が、平和運動に、より深く関与するよう主張している」
 「二万人もの会員による会合を、幾十となく主宰する一方、創価学会の運営や宗教・文化活動にもたずさわる池田氏は、見たところ、疲れを知らないようだ」)
 すでに三十年前、世界を代表するメディアが、創価学会の目的と歴史と行動を取材し、平和を築く民衆運動として深く注目していたのである。
 AP通信の記事は、歴史学者のトインビー博士が小説『人間革命』の英語版に寄せてくださった前書を引用して、こう結ばれていた。
 「絶望と幻滅の社会の中で、小さな組織であった創価学会は高い理念を掲げ、理念達成に強い確信を持っていた。
 これを裏づけるように、戦後三十年で、創価学会は現在の組織へと大きく発展したのである」
 SGIが発足した年は、第二次世界大戦の終結から三十年の節目にあたっていた。
 その日から、また三十年の時を刻んだ。
 この間、創価の平和と文化と教育の大連帯は、全世界に広がった。
 まさしく、トインビー博士が指摘されていたように、SGIが発展したのは、「高い理念」と、その理念の達成への「強い確信」があったからである。
 私たちSGIの同志は、世界広宣流布、そして世界平和実現への確信を、いやまして強め、深めつつ、今ふたたびの前進を威風も堂々と開始してまいりたい。(拍手)
4  日・米・中・露の指導者と対話
 SGIが誕生した一九七五年は、「東西冷戦」の真っただ中である。当時、日蓮大聖人の仏法を持ったメンバーがいるのは、いずれも「西側」と呼ばれた国々であった。
 しかし、当時のソ連や中国をはじめ、「東側」とされていた国々と友好を結んでいかなくては、どれほど平和を叫ぼうとも、たんなる「絵に描いた餅」に終わってしまう。私は、そう考えていた。とくに当時の東アジアの情勢を考えたとき、中国と日本の友好こそが、平和への試金石であった。だからこそ私は、日中の「国交正常化」はもとより、それよりも一歩進んだ「日中平和友好条約」の締結を、いち早く提言したのである。
 国交正常化を訴えた翌六九年には、小説『人間革命』(第五巻「戦争と講和」の章)の中で、″日本は、世界の国々と平和友好条約を結ぶべきだ。なかんずく、中国との平和友好条約を最優先すべきだ″と訴えた。戦争状態の終結を宣言するだけではない。未来へ友好を維持しゆくために、条約の締結が不可欠だったのである。
 その後、七四年五月に、私は初めて中国を訪れた。続いて九月にはソ連へ飛び、コスイギン首相と語りあった。
 そして、SGI発足の一カ月前である七四年十二月には、周恩来総理と会見した。
 会見当時、たしかに日中間の距離は、以前に比べると、大きく狭まっていた。
 すでに航空協定、貿易協定、海運協定が両国の聞で結ばれていた。大事なのは「その先」である。
 重病を押して、私との会見に臨んでくださった周総理も、「平和友好条約の早期締結を希望します」と言われた。
 条約の締結は、総理ご自身が、三十歳も若い私に託された遺言でもあったのである。
 年が明けた七五年一月十三日のアメリカ。
 小雪が舞うワシントンで、私は、国務長官であったキッシンジャー博士と会見した。
 場所は国務省の長官執務室。
 その語らいのなかで、博士も、日中平和友好条約の締結について、「賛成です。やったほうがいい」と断言された。
 そのことを、私は、同じ日にお会いした大平正芳元首相(当時、大蔵大臣)にもお伝えした。
 私が「社会主義の中国と資本主義の日本が『平和友好』を宣言することは、画期的なことです。人類は、いつまでも『冷戦』を続けている時代ではありません」と申し上げると、大平氏は「それは、そのとおりです。地球はひとつの時代です」と、はっきり言われた。氏は「友好条約は、必ずやります」と述べられたのである。
 さらに、この年の四月、私は、北京で鄧小平副首相と、お会いした折にも、友好条約について意見を交換した。そのさい、鄧小平副首相から、当時の三木武夫首相への伝言も託された。
 そして、その三年後の七八年八月、ついに日中平和友好条約は締結されたのである。
 日・米・中・露の指導者と、私は相次いでお会いした。
 その間断なき行動の連続のなかで、SGIは誕生したのである。
 口先ではない。理念だけでもない。
 平和を希求する一人の人間として、どう具体的に行動するのか。何ができるのか。
 「対話」こそ、SGIの魂――この信念のままに、私は戦ってきた。
5  「異体同心」の団結で勝った!
 第二次宗門事件で日顕宗が一番初めに魔の手を伸ばした場所は、いったい、どこであったか。
 それは、東京でもない。関西でもない。海外であった。
 一九九〇年の十二月二十八日。宗門が一方的に、私の法華講総講頭を「罷免」した翌日のことである。
 この日、日顕は、海外のSGIのリーダーに、現地の坊主を通じて″宗門につけ″と伝えてきた。広宣流布の陣列から脱落させようと、誘いかけたのである。
 御書には「大魔がとりついた者たちは、一人を教訓して退転させたときは、その一人をきっかけにして、多くの人を攻め落とすのである」(一五三九ページ、通解)と厳然と仰せになっている。
 まったく、そのとおりの陰湿きわまりない卑劣な謀略であった。
 しかし、この所業は、たちまち露見した。魔は、魔と見破れば、魔でなくなる。わがSGIの異体同心の団結は、微動だにしなかった。
 世界広布を破壊しようとする嫉妬の陰謀は、最初から完全に失敗したのである。
 そして今や、邪宗門は完全に衰亡し、わが学会は、当時の百十五カ国・地域から、百九十カ国・地域の大連帯へと、大発展した。学会は、完璧に勝利したのである。(拍手)
 「悪逆の邪宗門と決別したからこそ、SGIは大発展した」。これは各界の識者も認める事実である。
 アメリカの宗教ジャーナリストのクラーク・ストランド氏も、SGIの運動に着目し、共鳴された一人である。氏は、こう分析され、声を寄せてくださった。
 「私は、宗門による″破門″こそが、SGIの運動をより世界に広げていく転機になったとみています」
 「破門以来、SGIは聖地信仰をする必要がなくなったのです。そして、会館や個人の家庭で、御本尊に唱題することを通して、本仏の精神に直結できることを確認した。いわば、一つの大地に固定されていた巨木から種子が離れ、海を渡り、世界に広がっていったイメージを、私はもっています」
 さらにまた、アメリカ・タフツ大学元宗教学部長のハワード・ハンター博士も、宗門事件に打ち勝ったSGIの″魂の独立″に心から喝采してくださった。
 「宗門とそ、学会から離反したのみならず、信仰そのものから離れてしまったのです」
 「もう一つの実証は、破門によって学会が大きな発展を遂げたことです。破門によって何も失わなかったとも言えます。むしろ、破門は、学会員の一人一人に仏性という力が備わっていることを再確認する契機にもなったのではないでしょうか」
 SGIは団結で勝った。正義ゆえに勝った。
 「異体同心なればちぬ」との仰せどおりに、恐れなく団結して戦いぬいたからこそ、大勝利したのである。
6  勇気! 負けじ魂で勝て
 頼もしきアメリカ青年部の皆さんが、先ほど、今年の五月三日「創価学会の日」をめざして広宣流布の新たな前進を開始する決意を、力強く語られた。
 私は、皆さんの真心がうれしい。勇気を讃えたい。そして勝利を仰っています!
 また、ブラジル青年部の皆さんは愛唱歌「希望の歌」を歌ってくださった。本当にありがとう!
 世界の青年部の皆さんに、万感の期待をこめて、フランスの文豪ユゴーの言葉を贈りたい。
 「勇気だ。諸君、勇気をもちたまえ! 諸君は、未来を担いゆく世代の一員だ。諸君は偉大なことを成し遂げるであろう」(The Letters of Vivtor Hugo, edited by Paul Meurice, University Press of the Pacific)
7  偉大な歴史をつくりあげる原動力。それは、まず第一に、「勇気」である。
 戸田先生は「私たち凡夫が慈悲を出そうとしても、なかなか出るものではない。その慈悲に代わるのは、勇気である」と、よく教えてくださった。
 そして、大事なのは、「忍耐」である。
 さらに「包容力」がなければならない。喜びの心で、人々をつつんでいこう!――そういう人格の大きさがなければ、多くの人をリードしていくことはできないからだ。
 愚痴や文句を言いたくなる時もあるだろう。
 しかし、「負けない。断じて負けない!」「必ず勝ってみせる!」。
 この「負けじ魂」こそが、一切の根本である。
 ある時には、負けたような姿になることもあるかもしれない。
 憤懣やるかたない現実に、じっと耐え、時が来るのを待つこともあるにちがいない。
 それでも、現実の社会の中で、聡明に調和をとりながら、味方をつくり、粘り強く、活路を開いていくことだ。社会即仏法である。社会での振る舞いに、仏法の真髄は光る。
 ともあれ、希望をもって進んでいくことだ。
 いかなる団体であれ、個人であれ、前へ進めば困難がある。攻撃にあうものだ。それを乗り越え、新たな価値を生みだしていく戦い、勝利する戦いが大事である。
 何があっても「絶対に負けない」という気持ちで、自の前の苦難を乗り越えたならば、今までの何倍もの喜びが待っている。何倍もの新たな勝ち戦の舞台が開ける。
 「仏法は勝負」だ。最後に勝つことだ。それが真の勝利者である。
 後継ぎの青年部の皆さん、よろしく頼みます!
8  「創価の人間主義」こそ二十一世紀の柱
 世界広宣流布の先頭――それがアメリカの使命である。
 どうか、楽しく、明るく、心広々と進んでいただきたい。
 楽しいところ、明るいところに、人は集まる。人類は皆、希望の哲学を求めているからだ。
 アメリカのワシントン初代大統領は語った。
 「国に繁栄をもたらすあらゆる資質や習性のなかで、宗教と倫理は、なくてはならない土台である」
 詩人ホイットマンは、社会を見渡して、「道徳的かつ良心的な筋金」が欠けていると嘆いた。
 そして、宗教こそ人に生命の息吹を吹き込むものであり、「民主主義の中核に、最後は、宗教的な要素がある」と述べている。(「民主主義の展望」鵜木奎治訳、『アメリカ古典文庫5 ウォルト・ホイットマン』所収、研究社出版)
 しかし、「良心の柱」であるべき宗教的な要素も、今や輝きを失ってしまった。金もうけの道具となり、人々を欺く諸宗教が、社会を混迷させている――そう憂える学者もいる。
 宗教に対して深い疑いの目を向ける人もいる。
 二十一世紀の柱となるべき宗教は、いったい、どこにあるのか。
 生命の絶対の尊厳。人間の真の平等。永遠の平和と幸福。
 それらを打ち立てる真実の宗教こそ、日蓮大聖人の仏法である。
 創価の人間主義とそ、時代をリードする「柱の中の柱」の哲学なのである。その誇りを胸に、晴ればれと進んでまいりたい。
9  最後の最後まで「立正安国」へ!
 日蓮大聖人は「闘争に次ぐ闘争」の御一生であられた。
 晩年は身延(山梨県南巨摩郡)で、諸御抄の御述作と弟子の育成・教化にあたられた。万年の未来のために、完壁な総仕上げをしていかれたのである。
 大聖人は、すでに弘安二年(一二七九年)に、出世の本懐である大御本尊を建立されている。日興上人をはじめ後継の弟子も育ってきていた。
 御入滅を前に、大聖人は身延を動かれた。弘安五年(一二八二年)の九月。御入滅の一カ月余り前である。めざされたのは「ひたちのゆ」(御書1376㌻)。弟子たちの勧めもあり、病気療養(湯治)のためとされている。
 しかし、向かう天地は、はるか遠い。山河を越えゆく道のりは、病の身には険しい。
 そこを、あえて旅立たれたのは、なぜであろうか。
 日寛上人は、大聖人が身延を出られて池上邸で御入滅されたことは、釈尊の入滅にいたる相と同じであり、深い意義があると述べられている。
 また、大聖人は、大難と一歩も引かずに戦われ、「今に至るまで軍やむ事なし」、「然どもいまだこりず候」と宣言なされた。最後の最後まで、世界の平和を築きゆく「立正安国」の戦いを、弟子一同に、身をもって示されたのではないだろうか。
 事実、弟子たちが集まりやすい武蔵国の池上邸(今の東京・大田区)にとどまり、御みずから「立正安国論」の講義をされている。また、池上邸へ向かう途中でのこと。幕府要人の息子で、天台僧の伊勢法印が、数十人の仲間や家来を率いて、大聖人に法論を挑んできた。
 大聖人は、多くの年配の門弟もいるなかで、若き日目上人を抜擢されて、「問答せよ」と命じられた。二十三歳(数え年)当時の日目上人は、堂々たる論陣を張り、完膚なきまでに相手を破折し、勝利した。有名な「池上問答」である。
 こうした御振る舞いを持するとき、大聖人は、あえて身延から旅立たれることで、末法万年へ、烈々たる「死身弘法」の大闘争の魂を、とどめ残そうとされたのではないか。そのように拝察されてならない。
 大聖人は、若き後継の弟子たちを、現実の言論戦のなかで鍛えに鍛え、薫育された。この一点に最後まで力をそそがれた。そして、弟子の晴れやかな勝利の姿に、盤石なる未来を確信されたにちがいない。
 ともあれ、一生涯、「軍やむ事なし」「然どもいまだとりず候」――これが大聖人門下の魂である。真実の学会精神である。
10  「生も歓喜」「死も歓喜」の絶対的幸福の軌道を
 妙法の力が、どれほど偉大か。広布に生きる人生が、どれほどすばらしいか。
 「妙心尼御前御返事」こう仰せである。
 「もしも今、霊山にまいられたならば、太陽が昇って、十方の世界を見晴らすように、うれしく、『早く死んでよかった』と、お喜びになられることでしょう」(御書一四八〇ページ、通解)
 霊山とは、釈尊が法華経を説いた場所とされるインドの霊鷲山のことである。そこから、仏国土を意味するようになった。
 信心を貫いて亡くなった人は、霊山へ行く。一般に、死といえば、真っ暗閣の荒涼たるイメージがあるが、そこは、すべてが燦然と輝いている。
 「こんなに美しい、すばらしいところがあったのか! 早く来られてよかった」――必ずそのようになるから、心配ないですよ、と大聖人が御約束なのである。
 そして、いちばん充実した人生を送れるところへ、最高に幸福なところへ、また生まれてくる。そう仏法は教えている。まさに、「生も歓喜」「死も歓喜」の絶対的幸福の軌道を歩んでいけるのである。
 このことは、ハーバード大学での二度目の講演(「二十一世紀文明と大乗仏教」。本全集第2巻収録)でも言及した。仏法の卓越した生命観に、多くの学者から感銘の声が寄せられた。
 また、霊山について、「御義口伝」には、「霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」と仰せである。末法において私たちが妙法を唱え、仏界をあらわす場所もまた霊山なのである。
11  「勇気ある信心」で大功徳の人生に!
 さらに、「松野殿御返事」こう仰せである。
 「退転することなく仏道修行をして、最後の臨終の時を待ってごらんなさい。『妙覚の山』に走り登って、目を見開いて四方を見るならば、なんとすぼらしいことであろうか。法界は寂光土で、瑠璃をもって地面とし、金の縄をもって八つの道の境界をつくり、天より四種の花が降ってきて、空に音楽が聞とえてくる。諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられる。われらも、その数のなかに連なって、遊戯し楽しむべきことは、もう間近である」(御書一三八六ページ、通解)
 妙法を唱え、退転することなく、一生懸命に広布に生きぬき、人生の最後を迎えたならば、どうなるか。最高の幸福の世界、平和の世界、満足の世界を楽しむ大境涯になると大聖人は断言されている。これが仏法の功徳である。
 死後のことはわからないと思うかもしれない。しかし、御本仏の言葉に絶対に嘘はない。そこには、貧富や民族の差別は一切ない。
 すばらしき生命の宝に包まれる。虚栄の富など必要ないのである。
 ともあれ、だれ人たりとも、死を免れることはできない。
 だからこそ、広宣流布の使命を全うして、子孫末代まで大功徳を与えゆく「勇気ある信心」を貫いていきなさいと教えられているのである。
12  「報恩の道」が仏法の道
 大聖人は、同僚らによる嫉妬の迫害が続いていた四条金吾に対して、強く仰せである。
 「世間が過ごしにくいというようなことを、嘆いて、人に聞かせてはなりません。もし、そのようなことをするならば、賢人から、はずれたことになります」(御書一一七三ページ、通解)
 嘆いてばかりいても、何の得もない。愚かである。それでは偉大な人間にはなれない。
 指導者は、広宣流布のために「為すべきことを為す」ことである。
 また、大聖人は、「恩を知らない人間となって、後生に悪道に堕ちられることがかわいそうでならない」(御書八九五ページ、通解)と述べられている。
 これは、大聖人が大難にあわれた時に退転した「領家の尼御前」に対する一節である。
 領主の妻であるから、立派な家や財産もあったかもしれない。しかし、不知恩となり、悪道に堕ちるのは、なんと哀れな者であるか――。
 大聖人は、堕地獄から救おうと思われればこそ厳しく仰せである。
 「報恩抄」には、「畜生すら恩を知る。いわんや、人間に恩に報いる心がなくてよいだろうか」「仏教を学ぶ者が、どうして父母・師匠・国家社会の恩を忘れることがあってよいだろうか」(御書二九三ページ、通解)と教えられている。
 報恩とそ「人間の道」「仏法の道」である。
13  真実の楽しみは、どこにあるのか。
 有名な「持妙法華問答抄」の結びには、「どこまでも一心に、南無妙法蓮華経と自分も唱え、人にも勧めていく。まさにそれだけが、人間界に生まれてきた今世の思い出となるのである」(御書四六七ページ、通解)と仰せである。
 人生、さまざまな思い出がある。何かを手に入れた、何かで脚光をあびた、それが思い出という人もいるかもしれない。そういうなかでも、あとになればなるほど輝いていく思い出。永遠に消えない幸福の思い出――それが唱題である。折伏である。広宣流布である。
 広宣流布へ勇んで行動する人こそ、実像の幸福者である。人間として最高に尊い。伝教大師が述べたように、「国の宝」の人なのである。(「山家学生式」)
 「青年は人類の希望」とは、私が敬愛してやまない中国の文豪・巴金ぱきん先生の言葉である。
 本年は「青年・拡大の年」。それぞれの使命の天地においても、いちだんと青年を大事にし、総力をあげて青年を育てながら、新たな前進の歴史を築いていただきたい。帰られたら、大切な同志の皆さまに、くれぐれも、よろしくお伝えください。
 どうかお元気で! ありがとう! また、お会いしましょう!
 サンキュー・ソー・マッチ! オブリガード!
 ダンケ! グラシアス!
 シー・ユー・アゲイン!
 (東京・信濃文化センター)

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