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日蓮大聖人・池田大作

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第29回SGI総会、第43回本部幹部会… 世界一の同志と広布の人生を生きぬけ!

2004.11.11 スピーチ(2004.9〜)(池田大作全集第97巻)

前後
2  また新潟県中越地震の深刻な被害に対して、あらためて心からお見舞い申し上げたい。
 本当に大変だった。つらかったことでしょう。私も一日も早い復旧を祈り、毎日、お題目を送っています。新潟の皆さんの健康と無事安穏を祈っております。
 また、信越長、信越婦人部長を中心に、救援や復旧の活動に尽力してこられた尊き皆さま方の労苦を、心からねぎらい、讃えたい。本当にありがとうございます。
 さらに、みずから被災し、避難生活を強いられるなか、わが同志が厳然と立ち上がり、「聖教新聞」の配達に懸命に努力してくださったことも、詳細に報告を受けている。
 私は妻とともに、そのようすをうかがい、熱い涙があふれた。なんとすばらしき学会精神か。なんとありがたき同志か。私は、偉大なる「無冠の友」に「本当にありがとうございます」「毎朝の戦い、本当にご苦労さまです」と心から感謝申し上げたい。(拍手)
 山古志村や、川口町、小千谷市、長岡市、見附市、十日町市、栃尾市、魚沼市、越路町、小国町など、とくに大きな被害に遭われた地域の皆さま、どうか、風邪などひかれませんように。私も、妻も、真剣にお題目を送っております。
 「絶対に風邪をひかない」との祈りが根本です。
3  何があろうと必ず変毒為薬できる信心
 時間が経つとともに、被害の大きさが明らかになった。まだ余震も続いており、将来への不安や、復興へのご苦労も、並々、ならぬものがあるにちがいない。
 しかし、何があろうとも、必ず「変毒為薬」できる信心である。大変なことが起きた時こそ、「大善きたる」の大功徳を受けられるチャンスなのである。
 (「変毒為薬」とは「毒を変じて薬と為す」の意。日蓮大聖人は、この文を引いて「災来るとも変じて幸と為らん」と仰せである)
 皆で、新潟の同志に、「新潟、頑張れ!」「中越、負けるな!」と声援を送りたいと思うが、どうだろうか!(拍手)
 (=SGI会長の提案で、全国・世界から集った参加者が、「新潟、頑張れ!」「中越、負けるな!」「みんなで健康を祈っています!」と、大きな声で唱和。新潟の同志に届けとの、熱い思いをこめた声援に、参加していた新潟の代表が、「ありがとうございます!」と)
4  この本部幹部会の衛星中継は、被災地の各会館でも行われる。新潟の友は、今の声援を聞いて、きっと喜んでくださるだろうと思う。これが、「同志」なのである。
 きょうは、新潟、信越の代表も来てくださっている。地元に帰ったら、皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
 現在、私が対談を進めているイギリスのロートブラット博士からも、お見舞いの伝言が届いた。
 (=対談集『地球平和への探究』は二〇〇六年七月に潮出版社から発刊。同博士は〇五年八月逝去)
 つい先日、九十六歳になられた博士は、世界的な平和の指導者であり、大科学者である。(パグウォッシュ会議名誉会長。ノーベル平和賞受賞)
 その博士が、新潟の皆さまのことを深く心配され、ただちに、「心からお見舞い申し上げます」と、真心こもる言葉を贈ってくださった。深く感謝申し上げるとともに、皆さまに代わって、「新潟の同志は元気です!」と伝えさせていただきたい。
 戸田先生は、青年たちに厳しく言われた。
 「世間は評判。国法は賞罰。仏法は勝負」と。
 世間は評判である。評判が良いか悪いか。これに左右されるのが世間である。しかし所詮、評判など幻にすぎない。信用できない。それに、いちいち紛動されて、自分を見失っては、あまりにも愚かである。
 国法は賞罰である。その行為に応じて、ある人は賞を受け、ある人は罰せられる。これも一次元の評価であり、本当の幸不幸とは直結しない。
 仏法は勝負である。人生の勝負を決するために仏法はある。あらゆる困難に勝ち、試練に勝ち、宿命に勝つ。そのための仏法であり、幸福になるための信心である。
 仏法は、三世永遠にわたる法則である。だれ人も逃れられない。厳粛なる生命の勝敗を決する力なのである。私たちは、この日蓮大聖人の仏法に生きぬいて、断じて勝ちましょう!
5  自分から願って同志になった!
 きょうはドイツからも、尊き同志が来てくださった。
 十六世紀――ルネサンスの花咲くドイツで、冶金学者、医師として活躍した人物に、アグリコラ(一四九四年〜一五五五年)がいる。
 とくに鉱物学者として有名であり、「鉱物学の父」とも呼ばれた。鉱業の全体を網羅した書『デ・レ・メタリカ』を著し、後世に大きな影響を与えた。市長を務めたことでも知られている。
 「優れた友人は、金と銀とにまさる」――これは、アグリコラの言葉と言われている。
 多くの哲学者や著名人も、そう述べている。
 いわんや、仏法の「同志」のつながりが、どれほど深いものか。
 私たちは、広宣流布の誓いを果たすために、みずから願って、「同志」になった。今いる国に、今いる地域に、それぞれが自分にしかない尊き広宣の使命を持って生まれてきたのである。
 わが同志の生命のつながりは、三世に永遠である。なによりも深い縁の絆なのである。
 イギリスの誉れの同志も元気に集ってくださった。本当に、ご苦労さま!
 十八世紀イギリスの代表的な作家であり、「文学界の大御所」と讃えられた詩人サミュエル・ジョンソン(一七〇九年〜八四年)を、ご存じだろうか。
 幼いころから病気を患い、貧困な生活を送った。しかし、困難に屈することなく、剛毅なる精神で真実を探求した人道主義者であったと評価されている。『英語辞典』の編纂や、洞察力に富んだエッセーでも有名である。彼もまた謳った。
 「人生には友情よりも気高い歓びはない」
 わが「創価の同志」の友情ほど、尊いものはない。強いものはない。偉大なものはない。
 ときには、組織の人間関係を窮屈に感じ、自分一人でやるほうが、気楽でいいと思うこともあるかもしれない。しかし、一人きりで仏道修行はできない。それでは、どうしても自分勝手な方向へと進み、正しい成仏の軌道から外れてしまう。だからこそ、仏法のため、正義のため、平和の実現のために、ともに進んでいく和合の組織が必要なのである。
 広布の同志とともに生きる人生こそ、最高の「善の道」であり、最極の「幸福の道」である。
6  ″トインビー対談″――語りあうほど生命が躍動
 私が、二十世紀の大歴史学者であるトインビー博士とお会いしたのは一九七二年の五月であった。
 博士のご自宅は、ロンドンのアパートの五階にあった。妻と一緒にエレベーターで上がると、博士ご夫妻が両手を広げて迎えてくださった。私どもの訪問を本当に喜んでくださり、「ようこそ!」「どうぞ、どうぞ」と家の中を隅から隅まで案内してくださったのである。
 当時、博士は八十三歳。私は四十四歳であった。しかし博士は、若い私に対して、最高の礼儀をもって接してくださった。今も忘れられない。
 対談は翌年の五月にも行われ、四十時間に及んだ。
 この対談は、博士から、人類の直面する基本的な諸問題について語りあいたいとの手紙が、私あてに寄せられたのが、始まりだった。しかし博士はすでに高齢で持病を患っており、日本へは行けないので、ぜひ私をロンドンへ招待したいとのことであった。
 実際にお会いし、語りあえば語りあうほど、博士はお元気になられるようであった。博士の頭脳が、生命が、躍動していくようであった。
 現在、トインビー博士との対談集(『二十一世紀への対話』。本全集第3巻収録)は世界二十四言語で出版されている。まもなくセルビア語版が発刊の予定である(=二〇〇五年八月発刊)。ロシア語版などの出版の準備も進められている。(=ロシア語版は二〇〇七年七月発刊)
7  世界の識者にお会いすると、″トインビー対談″への感銘を語ってくださる方が多い。
 本年、中国の大手書店(三聯書城さんれんしょじょう)が、「この二十年で、中国に最も大きな影響を与えた百冊」を選んだ。その中にも、この″トインビー対談″が入っていた。
 対談が終わった時、トインビー博士は私たちに食事を振る舞ってくださった。そして、こう言われた。
 「私は世界のいくつかの大学から名誉博士を贈られています。あなたは必ず私以上に、世界中から名誉博士号を贈られるようになるでしょう」
 励ましのお言葉と受けとめたが、それから三十余年、私はこれまでに、世界の大学・学術機関から百六十六の名誉博士等の栄誉を拝受した。小さな日本ではなく、世界から、これほどの評価をいただいた。すべて皆さまを代表しての栄誉である。
 トインビー博士の言葉に、こうある。
 「なにごとも、熱意をもたないかぎり、立派な仕事はできません」(トインビー・若泉敬『未来を生きるトインビー――との対話』毎日新聞社外信部訳、毎日新聞社)
 博士のモットーは「さあ、仕事を続けよう」であった。
 熱意がなければ、何事も成就することはできない。皆さんは、熱意をもって集ってこられた。熱意をもって、広宣流布のため、友のために進んでおられる。立派なことである。
 こうした皆さんの行動は、福運となり、功徳となって、わが身を飾っていく。すべて自分自身のためである。皆さんが人生の勝利者となりゆくことは、間違いない。
8  世界の友が「創立の日」を祝福
 きょうは、学会の創立記念日(十一月十八日)の祝賀の意義もこめた集いである。
 幾多の世界の友人たちも、″創立の日、おめでとう″と心から祝福してくださっている。
 その一人がゴルバチョフ元ソ連大統領である。ゴルバチョフ氏は、これまで創価大学で記念講演(一九九三年)をしてくださり、関西創価学園も訪問(九七年)してくださっている。ライサ夫人とも、私たち夫婦は親しくお付き合いさせていただいた。立派な方であった。
 五年前、夫人が亡くなられた時には、友人として最大の励ましを送らせていただいた。氏は、ご家族にも支えられ、世界を舞台に厳然と活躍されている。これ以上の喜びはない。
 ゴルバチョフ大統領との最初の出会いは、一九九〇年七月二十七日の朝の十時三十分。場所は、モスクワのクレムリンにある最高会議幹部会会館の会見場であった。
 この前年の八九年に、ゴルバチョフ大統領は米ソの冷戦を終結させた。(十二月、地中海のマルタ島でアメリカのブッシュ第四十一代大統領とともに、「冷戦終結」を宣言)
 当時は、ゴルバチョフ大統領の訪日が本当に実現するのか、また、実現するとすれば、それはいつなのかが、日本にとっても、国際的にも重要な問題となっていた。(ゴルバチョフ大統領が九一年に訪日する意向であることは日本側に伝えられていたが、その時期は明確になっていなかった)
 若い皆さんは、当時の状況は、よくわからないかもしれない。しかし、未来のために、ありのままに伝えておきたい。
 私との会談の席上、ゴルバチョフ大統領は、九一年春に日本を訪問する意向を明確に表明された。″ゴルバチョフ大統領、来春、訪日″――これは世界的なニュースとなり、日本の夜七時のNHKニュースも大きく報じた。各局のテレビも報道した。
 今でもゴルバチョフ氏とは深い友情で結ばれている。
 (=SGI会長とゴルバチョフ氏は、九度の出会いを重ねてきた。二人の語らいは対談集『二十世紀の精神の教訓』〈本全集第106巻収録〉に結実。世界の九言語で発刊されている)
9  対話は率直に、明快に
 ソ連のコスイギン首相との会見も、思い出深い(=一九七四年、SGI会長の初訪ソの最終日である九月十七日、クレムリンで)。この時の会見の内容については先月二十八日の各部代表者会議でもくわしく述べた。(本巻83ページ参照)
 当時、私は四十六歳。首相は七十歳であった。
 コスイギン首相は私に、「あなたの根本の思想は何ですか」と聞いてこられた。
 会見には、大勢の人が同席していた。私は、間髪を入れずに答えた。
 「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」
 仏法の思想を、仏法の言葉を使わずに申し上げたのである。
 首相は、″なるほど″と納得したようすであられた。
 (=コスイギン首相は、「この原則を高く評価します。この思想を私たちソ連も実現すべきです」と応じた。
 コスイギン首相の令嬢グビシャーニ女史は後年、こう振り返っている。「会見の日、父は『今日は非凡で、非常に興味深い日本人に会ってきた。複雑な問題にふれながらも、話がすっきりできてうれしかった』と語ってくれました」
 SGI会長は七四年十二月に中国を訪問し、周総理と会見。さらに翌七五年五月には、コスイギン首相と二度目の会見を行った)
 ともあれ、対話は、率直に、明快に語ることだ。
 どうか皆さまは、″対話の達人″となり、模範のリーダーとなっていただきたい。
 機転が利かない。知恵がわかない。愛情がない。話がおもしろくない。信用できない――そうしたリーダーでは、皆が、かわいそうである。
 いわんや学会のリーダーは、本来、最高の賢者であらねばならない。どんな人とも、立派に対話し、納得させ、喜んでもらう。理解と共感を広げていく。そうでなければ、真の指導者とは言えない。どうか、リーダーの皆さんは、打てば響くような反応と、人々の心をつかむ名指揮をお願いしたい。
10  きょうは、各地から花の女子部が集合された。あす十一月十二日は「女子部の日」。おめでとう!(拍手)
 女子部の皆さんは、本当によく戦っておられる。きょうも遠くから集ってこられた。折伏に、学会活動にと、懸命に走る皆さんの姿は、本当に尊く、けなげである。
 一家も社会も、国家も世界も、その将来は、女性で決まる。男性を聡明にリードし、次の世代を育んでいくのが女性であるからだ。この方程式は、学会もまったく同じである。
 女子部は「学会の宝」なのである。戸田先生は、徹底して女子部を大事にされた。私も、同じ心で女子部を励ましてきた。一人も残らず、絶対に幸福になってもらいたい。
 恋愛や結婚についても、落ち着いて自身を、相手を見つめ、両親や信頼できる先輩・友人と、よく相談していただきたいと思う。両親を悲しませ、自分自身も傷つけるような生き方であってはならない。自分で自分を守らなくてはいけない。女子部の皆さんは、どこまでも賢明に、自分を大切にしていっていただきたい。
 あす(十二日)はいよいよ、待望の新・創価女子会館の起工式である。
 皆が伸び伸びと、誇りに満ちて集い合える。だれを招いても、「どうです!」と胸を張れる。そういう立派な「幸福の王国の城」をつくりたい。
 完成は二〇〇六年春の予定である。それを楽しみに、元気に進んでください。(=二〇〇六年三月に完成)
 その時には、もう婦人部になっている人もいるかもしれないが(笑い)、きょう集われた代表の方は、ぜひ見学に来ていただきたい。
11  殉教六十年、厳然と輝く学会の栄光
 全国、全世界の尊い同志の皆さま!
 私たちの、勝利と栄光の「創立の日」は目前である。
 学会は、御聖訓のとおりに戦ってこられた皆さま方の「勇敢なる闘争」と「真剣なる努力」によって、今や世界一の団体となった。ありがとう!(拍手)
 きょうは世界六十五カ国・地域から、偉大なる広宣流布の指導者が集まり、たいへんに意義ある、祝賀の儀式となった。本当にうれしい。
 私が対話を重ねてきたアメリカの大経済学者レスター・サロー博士は、鋭くこう論じておられる。
 「偉大な変化の時代、つまり人類の歴史における過渡期は、多くの未知なる領域、そして、多くの新しいチャンスを提供する」
 「(=未知の航海に挑む時)最も重要な問題は、計り知れないほど獰猛な嵐にも耐える船を造ることである」(『経済探検 未来への指針』島津友美子訳、たちばな出版)
 嵐にも揺るがぬ船を!――私どもも、どんな人生の波浪にも耐え得る自分自身をつくることだ。
 たとえばスポーツの世界でも、厳しい訓練に耐えてこそ、一流の選手となれる。簡単なことではない。人生も、仏法も、同じである。ただ漫然と生きるだけでは、偉大な勝利者にはなれない。
 三障四魔、三類の強敵に耐えて戦ってこそ仏になれると、仏法では教えているのである。
 大事なことは、「異体同心」に徹することである。「体同異心なれば諸事成ぜん事かたし」と仰せのとおりである。
 今月は、牧口先生の殉教から満六十年。
 きょうは、牧口、戸田両先生のご家族も出席されている。牧口先生は、老齢の身でありながら、迫害に耐え、戦われた。厳然と創価学会を守ってくださった。
 (一九四三年七月六日、治安維持法違反、不敬罪の容疑で戸田第二代会長と同じ日に逮捕。特高刑事、思想検事の厳しい尋問に対しても、堂々と仏法の正義を主張し、看守をも折伏した。四四年十一月十八日午前六時過ぎ、東京拘置所の病監で逝去。享年七十三歳であった)
 そして、牧口先生、戸田先生が創立された学会は、今や、いかなる「獰猛な嵐」にも微動だにせぬ、金剛不壊の「人類の希望の大船」となった。
 創価学会は勝ったのである。(拍手)
 ともあれ日本は、順調な時代を過ぎ、乱世に入ってきた。かつて繁栄を誇りながら、衰亡していった組織・団体も多い。そうしたなか、創価学会は、厳然と発展し、前へ進んでいる。
 変化の時代にあって、大胆不敵に、勇気と智慧で、新しいチャンスをつかみ、幸福の道をつかみとっていく根本の力は何か。それが御本尊であり、福運を積みゆく信心であることを忘れてはならない。
12  世界をおおう″国家主義の毒″に対抗
 現在、″ガンジー・キング・イケダ展″が、世界各地で開催されている。
 同展は三年前、アメリカ公民権運動の指導者であるキング博士の母校、アメリカの名門モアハウス大学キング国際チャペルのカーター所長が企画されたものである。
 アメリカのカリフォルニア州では現在、約七十の公立の小・中学、高校で、″百万人のガンジー・キング・イケダ展″として巡回展示されている。
 これまでにも、展示を行った学校からは、「いじめや暴力が、半分に前りました」「子どもたちの平和への意識が、格段に向上しました」などと、喜びと感謝の報告が寄せられてきた。
 カーター所長は、私どもの進めている人間主義の運動に対して、次のように強い信頼を寄せてくださっている。
 「池田会長が進める運動は、人間の尊厳を尊び、平和と地域社会の価値を宣揚するものです。その地球規模の運動は今や、あらゆる社会のすみずみにまで広がっております。それは前代未聞の規模であり、まさに世界をおおう孤立主義・排他主義・国家主義の毒に対抗するために、人類が最も必要とする″解毒剤″といえましょう」と。
 創価の運動とそ、人類が求める″良薬″だと言うのである。
 さらにカーター所長は述べておられる。
 「(同展に対して)世界がこのように高い関心を払うのは、(ガンジー、キングという)二人の平和の巨人とともに、池田会長の思想を世界が求めている証左でありましょう。この高貴にして最も貴重なる″宝の思想″を、今後とも世界の民衆のために広めていきたいと、私は熱願しております」(二〇〇四年の5・3「創価学会の日」に寄せたメッセージ)
 過分な評価であるが、皆さまの励みになればとの思いで紹介させていただいた。
 これが″世界の眼″であり、″本物の良識の声″である。
13  難があるからこそ仏になれる
 きょう十一月十一日は、文永元年(一二六四年)、大聖人が「小松原の法難」に遭われた日である。七百四十年前の、この日の夕刻。安房の国、東条の郷の松原大路(現在の千葉県鴨川市)で、大聖人と十人ほどの弟子たちに対して、地頭の東条景信と、武装した暴徒たちが襲いかかった。その数は御書に「数百人」(1498㌻)と記されている。
 「あめごとし・たち太刀いなづまのごとし」という、すさまじい襲撃であった。
 弟子の一人がその場で殺され、さらに二人が重傷を負った。
 大聖人御自身も斬りつけられ、「もはや、これまで」(同ページ、趣意)と仰せの状態であった。左腕を骨折され、右の額に四寸(約十二センチ)の傷を負われたといわれている。
 しかし大聖人は、法難のわずか一カ月後に、病気で苦しんでいる、南条時光の父を励ますために、長文の御手紙を送られたのである。(南条兵衛七郎殿御書)
 同書の中で大聖人は、この法難が、「猶多怨嫉 況減度後」(仏の滅後に法華経を弘めると、在世よりもさらに多くの怨嫉が起こる、という意味)との法華経の経文に符合していることを示され、さらに、「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」と高らかに宣言された。
 広宣流布の途上に、おいて罵詈・罵倒される人が、仏になれるのである。
 広布の戦に徹しぬく人は、永遠に福徳豊かで、健康な、仏と同じ生命で生きていくことができる。そのための信仰である。いかなる迫害も恐れず、生きて、生きぬくための信仰である。
 リーダーである皆さんは、大勢の人を励まし、ながら、勇敢に広布の指揮を執って、最高の幸福の道を生きぬく人生であっていただきたい。
 また大聖人は、迫害を加えた者たちについて、次のように仰せである。
 「釈迦如来のためには、提婆達多こそ第一の善知識であった。今の世間を見ると、人を良くするものは、味方よりも強敵が人をよく成長させるのである」
 「日蓮が仏になるための第一の味方は、(大聖人を憎み、命をねらった)東条景信であり、僧侶では(権力と結託し、大聖人をおとしいれようとした)極楽寺良観、建長寺道隆、道阿弥陀仏であり、また(権力を発動して大聖人を迫害した)平左衛門尉、北条時宗殿である。
 彼らがおられなかったならば、日蓮はどうして法華経の行者になれたであろうかと悦んでいる」(御書九一七ページ、通解)
 迫害を加える者がいるから、信心に磨きがかかる。難に勝ってこそ、成仏できる。この大聖人が身命を賭して体現してくださった、厳粛な仏法の道理を、心に深く刻んでいただきたい。
 「悪口罵詈」「猶多怨嫉」。これは、法華経の行者の証明である。
 広宣流布に邁進しゆくわれらは、この方程式に則っているわけなのである。
 御聖訓どおりに前進するなかにあって、難は仏になりゆく瑞相であると、勇気をもって受けとめていただきたい。
 大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」と教えられた。永遠の勝利の生命である「仏」という大境涯を勝ち取るために、「悪口罵詈」「猶多怨嫉」の難との戦いがあるのだ。
14  一つの戦いに「勝利の歴史」を
 明年は、SGIが発足して三十周年である。このほど、海外の功労者の代表のお名前を、広島の中国平和記念墓地公園にある「世界顕彰之碑」に永久に留めていくことになった。
 SGIの特別委員会で選考され、お名前とともに、生年と没年が銘板に刻まれる子定である。
 こうした方々の不惜の激闘によって、広布の大河は世界に広がった。そして今や、いずこの国にも、後継の人材が陸続と育っている。世界広宣流布の、道なき道を開いてこられた先駆の皆さまの功績は、あまりにも大きい。
 どうか皆さまも、それぞれの国、それぞれの地域にあって、最高に名誉ある広宣流布の指導者として、一つ一つの戦いを断じて勝ち抜いてほしい。そして、「勝利の歴史」と「栄光の名前」を残し、輝かせていただきたい。これ以上のすばらしい人生は、どとにもないからである。
15  芸術部の皆さん、きょうは、本当にありがとう!(拍手)
 元気そうな皆さんに、お会いでき、私は、本当にうれしい。
 芸術部の人気は、すごい。芸術部の皆さんの姿、皆さんの活躍は、大勢の人に喜びを与え、希望を与え、感動を広げている。芸術部の発展は、学会の発展である。私どもは、芸術部を大事にしたい。高らかに「芸術部、万歳!」と申し上げたい。(拍手)
 ともあれ、くれぐれも、風邪をひかないように。帰ったら、同志の皆さんに、よろしく、お伝えください。
 先輩も、後輩も、おたがいに守りあい、尊敬しあいながら、仲の良い団結で進んでまいりたい。
 私たちには、日本中、世界中にすばらしい同志がいる。それだけでも、世界一幸せなのである。
 元気に、健康で、ねばり強く、楽しく、朗らかに、一生を送りましょう!
 きょうは、本当にありがとう!
 (東京牧口記念会館)

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