Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

全国最高協議会(2) 民衆のために闘う「本物の一人」を育てよ

2004.7.27 スピーチ(2004.1〜)(池田大作全集第96巻)

前後
2  戸田先生は烈々たる口調で言われた。
 「『嘘つき』と『増上慢』を、真の和合僧からたたき出していくことが、より広宣流布を早め、より真実のスクラムと団結を勝ち取ることになる。これこそが、皆が納得と満足をして、前進することができる世界なのだ」
 学会のリーダーは、この闘争精神を断じて忘れてはならない。
 また、陰で苦労している青年に対して、こう励まされたこともある。
 「やりにくいところで、うんと苦労してこそ、人間も偉大な人になれるのだ」
 どこまでも、慈愛深き先生であった。
 敗戦後の日本は、今とは比べものにならないほど、社会も経済も混乱していた。そのなかで、先生は強く叫ばれた。
 「さまざまな世情に、一言一憂して紛動されては断じてならない。そんな心弱い、惰弱なことでは、広宣流布の大業を遂行することは、決してできない」
 いかなる環境にあっても、御本尊を持った人は必ず、「我此土安穏」(法華経四九一㌻)の境涯を開いていくことができる。そのための仏法であり、信心である。
3  青年よ理想の学会をつくれ
 次に戸田先生の女子部への指導である。
 「哲学を基礎としていること、これが学会の強みである」
 さらに、組織の発展の急所をたずねられて、ひと言、こう答えられた。
 「青年を育てよ」と。
 青年の成長いかんで、組織は決まる。学会の発展は決まる。ゆえに先生は、青年に厳しかった。
 「青年が青年の責任で、理想の創価学会を建設していけ。それを私は期待しているのだ」
 「問題は人だ。全部、人で決まる。一人の人間で決まる」
 「広宣流布の大業というものは、魔との闘いである。たじろぐことは許されない。負ければ、人類は、永遠に闇に包まれてしまう」
 日蓮大聖人が、そして牧口先生、戸田先生がそうであったように、広宣流布の人生とは、永遠に魔との闘争である。
 敵と戦わないのは、仏法ではない。戦わなければ「仏法の中の怨」となってしまう。この「戦う魂」を受け継ぐのが、青年の使命である。
4  「民衆は主人」「為政者は奉仕者」
 戸田先生の政治に関する指針にふれておきたい。
 「今の政治家は、指導理念がないし、指導者でもない。よき指導者が出なければならない」
 政治とは、民衆の幸福のためにある。それが戸田先生のゆるぎない信念であった。
 さらに、次のようにも指導された。
 「ことに政治家は、生命力が旺盛でなければならない。しかし、生命力が旺盛ということが、国家を思い、正義のうえに立ったところのものでなければならない」
 「のんびりした政治をしていては大衆が、かわいそうである。会社も、団体も同じことだ」
 大聖人は断言されている。
 民衆が「親」であり、「主人」である。そして、為政者は「民衆に奉仕する立場」であると。
 (「王は民衆を親のごとく大切にするものである」〈御書1554ページ、通解〉と仰せである。また鎌倉幕府の実力者に対して、「あなたは『万人の手足』である」〈御書171㌻、通解〉と諫めておられる)
 その関係が逆転し、「民衆本位」ではなく、民衆が「手段」となったところから、政治の堕落が始まる。だからこそ先生は「心して政治を監視せよ」と訴えられたのである。
5  戸田先生は、政治の腐敗、堕落を心から憂えておられた。
 「国民の幸福を願っているような顔をしている政治家などのなかに、その地位を利用して、一身の繁栄と私財の蓄積のみに汲々としている者のなんと多いことか」
 「議員の立場を利用して、皆に迷惑をかけるのはよくない」
 先生は、「国家百年の大計」を考える政治家の出現を願っておられた。
 そして、政治家を志す同志に向かって、先生は厳粛に、こう言われたのである。
 「民衆のなかに生き、民衆のために闘い、民衆のなかに死んでいってほしいと私は願う。
 名聞名利を捨て去った真の政治家の出現を、現代の人類社会の民衆は、渇望しているのだ」
 責任ある立場の人間に対する戸田先生の目は厳しかった。その本質を鋭く見抜かれた。
 「心の卑しき人間、自己の利害だけに生きる人間、虚栄で自分を飾る人間。それらは、大事な時に、そのメッキが必ず剥がれる」
 いくら口では立派そうなことを言っても、少しも「実行」がともなわない。それどころか、心では、真面目な人間を小バカにする。いざという時に、同志を裏切る。そういう卑劣な人間を、「信用するな」「絶対に許すな」――これが戸田先生の厳たる指導であった。
6  「実力」を磨け! 真剣勝負で
 広宣流布を進める同志ほど、尊い人はいない。戸田先生は幹部に言われた。
 「自分の組織の会員を、わが子のごとく愛し、威厳をもって面倒をみよ。信心で面倒をみよ」
 本当に大事な点である。世法のことで面倒をみるのではなく、どこまでも信心根本に、ともに祈り、ともに立ち上がることだ。
 女子部に対して、戸田先生は呼びかけられた。
 「学会は、宗教学、すなわち世界最高の哲学を基礎として、民衆に幸福を与えるのであります」
 最高の宗教学が、「教学」であり「御書」である。女子部の皆さんは、世界最高のすばらしい哲学をもっている。それを友に伝えゆく使命がある。誇りも高く、青春の幸福のスクラムを広げていっていただきたい。
7  青年の力とは、何か。それは、権威でもない。肩書でもない。格好でもない。
 戸田先生は語られた。
 「青年は、実力である。真剣勝負になって、自分を鍛えることだ。死に物狂いになって、勝ち抜く力をつくりあげることだ」
 ゆえに私は戦った。一切をなげうって、朝から晩まで、師を守りぬいた。夜中、一人、しんしんと祈った。
 師弟の心は崇高であった。その青春の歴史は、言葉ではとうてい、言い尽くすことはできない。
 青年は、格好主義など、かなぐり捨てることだ。「人にやらせよう」とする心は、「信心利用」である。自分がまず模範の行動を示すのだ。
 今、激戦を勝ち越えて、実力光る青年の新たな陣列が生まれつつある。それが私はうれしい。あらゆる広布の戦いで、悔いなき自分自身の勝利の歴史をつくってもらいたい。
 先生は、眼光鋭く、青年に語られた。
 「投獄されようが、追放されようが、そこで戦っていける人間が一人いれば、広宣流布は進む。その本物の一人を育てるのだ」
 その「一人」になろう、と私は決めた。その誓いを貫いた。
 「本物の一人」をつくる――ここに今、学会の焦点がある。そこに私は全精魂を打ち込んでいる。
 「後生畏るべし」。この中国の名言を通して戸田先生は言われた。
 「弟子は偉くなっていかねばならぬ。師匠が偉いと言われることは、後生すなわち弟子が偉くなったことが師匠が偉くなったことに通ずるのである」
 つねづね、青年部に語られた言葉である。
 師弟は「不二」である。牧口先生の偉大さは、弟子である戸田先生が証明された。そして、私は、戸田先生の偉大さを、全世界に宣揚してきた。
 自分自身の力を開花させるには、どうしたらいいのか。
 戸田先生は、自身の小説『人間革命』で、主人公の″巌さん″に、こう語らせている。
 「死物狂いで頑張っていると、次々に、自分になかった力が出てくる。いや、持っているのに出さなかった力が湧いてくるんだな」
 本当に、そのとおりである。
 「自分には無理だ」などと決めつけては絶対にいけない。生命には宇宙大の力がある。それを引き出すのが妙法である。「必ずできる!」と固く心に決めるのだ。「一心不乱の祈りと行動」が、限界の壁をつき破るのである。
 ある時、戸田先生は、女子部の友に、こう語られた。
 「もっと御書をよく拝するのだ。何でも御書に、ちゃんと書かれている」
 御書を読まないのは、これほどもったいないことはない。
 立ちはだかる人生と社会の難問。それを解決するカギは、御書の中にあるからだ。
 御書には、海のごとき慈悲がある。限りない智慧があり、確信があり、戦う心が燃えている。宇
 宙と生命を貫く根本の法則が、御書に明快に示されている。
8  一つの報告もゆるがせにするな
 また別の時、先生は静かな声で、こうおっしゃられた。
 「報告が足りない。いろいろのことがあるではないか。それを、なぜ言わない」
 一つの報告が、一人の人生を救うこともある。逆に、一つの報告が遅れたために、多くの人が迷惑する場合もある。最高幹部の皆さんは心していただきたい。
 私も、大切な同志からの報告、また世界の識者からの連絡等に、毎日、真剣に目を通している。一つも、ゆるがせにすることなく、電光石火で、手を打っている。万年の勝利のために。
 「どんな戦いでも、団結の強いほうが勝つ」との先生の言葉も、忘れることができない。
 戸田先生は全同志に呼びかけた。
 「凡夫にほめられるのではなくて、仏さまにほめられる境涯になろうではありませんか!」
 この気概で、断固として、広宣流布の新しい舞台を開いてまいりたい。
 (長野研修道場)

1
2