Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東北会・北陸会合同研修会 「生きるのが楽しい」世界を

2003.8.11 スピーチ(2003.7〜)(池田大作全集第95巻)

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  1  日々、価値を創造!
 東北会、北陸会の研修、ご苦労さま!
 私はいつも、大切な同志のことを思っている。広布へ進む同志ほど尊貴な人はいない。その一点が心からわかり、最高の知恵と行動を尽くせば、広宣流布の嵐ぽ勝てる。リーダーは、広宣流布のために一生懸命に戦ってくださる最前線の人々のことを、真っ先に考えるべきである。
 どうか皆さまは「広宣流布の名将軍」となって、慈悲と知性の名指揮をお願いしたい。
 会う人、会う人々を味方にしていくことだ。
 道を開き、勝ち戦が歴史を築くことは、人生最高の誉れである。
 日々、何かに挑む。何か価値を、歴史を残す。これが人間の証だ。創造的な人生の道である。
 「仏法は勝負」と前進する、学会活動こそ最高の幸福なのである。
2  幸せになれると確信できる時代
 私は今、世界的な大経済学者のガルブレイス博士と有意義な語らいを重ねている。
 (= 「人間主義の大世紀を―わが人生を飾れ」と題して総合月刊誌「潮」で連載。同題で二〇〇五年九月に潮出版社から発刊)
 その博士が、日本の中で格別に愛し、絶讃している方面はどこか。北陸である。わが師戸田城聖先生の故郷、北陸なのである。(博士は一九九〇年秋に金沢を訪問。「素晴らしい文化と学問・芸術から期せずして発散されている香気が、町全体に満ち満ちていた」〔『日本経済への最後の警告』角間隆訳、徳間書店〕と)
 博士との対話の大きな焦点は、「二十一世紀をどのような時代にすべきか」である。この点、博士のビジョンは簡潔にして明確だ。
 それは「人々が『この世界で生きていくのが発しい』と言える時代」(『人間主義の大世紀―わが人生を飾れ』潮出版)である。
 そして博士は、こう言われるのである。
 「″『今よりもっと、よりよい生活ができるのだ、幸せになれるのだ』という確信を皆が分かち合って、『殺』ということがなくなる時代″です」(同前)
 至言である。私たちのめざす「広宣流布」の理想にも通じる。
 とくに東北と北陸のわが友は、地域に信頼の根を張って、平和と繁栄の国土の建設へ、懸命に尽力してこられた。これが最も尊い、最も正しい道である。
 東北では、すべての町々、村々に「町村広布会議」を設置して、それぞれの男性議長、女性議長を中心に、すばらしい社会貢献の活動を進めておられる。
 北陸においても、日ごろの地道な友好の対話と、誠実な献身によって、多くの市町村で、創価の人間主義への共鳴が大きく広がり、深まっている。
 なかんずく、東北と北陸の婦人部・女子部の皆さま方の、すがすがしい模範のご活躍を、私は心から讃えたい。
3  戸田先生も、よく言われていた。
 「広宣流布に尽くす皆さま方は、やがて法華経に輝く女性のなかの一人として、歴史の上に名をとどめる一人であることを自覚して、戦っていただきたい」
 北陸に存機の日蓮大聖人醜Pに、ご榎じのとおりg従膨(曾往黎aがいる。ぼ雌に製蹴があつ
 たとされる。
 曾谷殿への有名な御聖証に「いまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」――(流罪や命にもおよぶ迫害を受けたが)私はいまだに懲りてはいない。法華経は種のようであり、仏は植え手のようであり、衆生は田のようである――と仰せである。
 広宣流布は、万人の心の大地に「生きていること、それ自体が楽しい」という、絶対的な幸福境涯の種を植え続けることである。
 どうか、粘り強き東北と北陸の同志は、「いまだこりず候」の御金言を深く拝し、あの友とも、この友とも朗らかに仏縁を結び、正義と人道の大連帯を築いていっていただきたい。
 一つ、勝利の国土が開かれれば、その波動は全方面へ、全国へと広がっていく。
 「北国の導師」と、大聖人は、阿仏房に信頼を寄せられた。ここにお集まりの皆さま方は、「二十一世紀の北国の広宣流布の導師」と言ってよい。
 頼もしいことに東北青年部は、過去最大の「百万対話運動」を展開するとも、うかがっている。
 どうか東北と北陸の皆さまは、新しい拡大と勝利の大光を、北から燦然と輝かせていっていただきたい。
4  トインビー対談から三十周年
 今月(八月)、「『二十一世紀への対話』――トインビー・池田大作展」が東北文化会館で開催される。準備を進めてこられた実行委員会をはじめ、関係者の方々の労に、心から感謝申し上げたい。(=八月二十二日に開幕、九月七日まで開催。東北青年部が企画・主催)
 博士と私との対談終了から三十周年を記念しての展示会である。
 思えば、博士との対話のきっかけとなったのは、今回展示される、一九六九年(昭和四十四年)九月に博士からいただいた書簡であった。そこには、こう、つづられている。
 「あなたの思想や著作に強い関心を持つようになり、英訳の著作や講演集を拝見しました。これは提案ですが、私個人としてあなたをロンドンに御招待し、我々二人で現在、人類の直面する基本的な諸問題について、対談をしたいと希望します」
 (=提案を受けて、池田会長が七二年五月、七三年五月にロンドンを訪問し、対談)
 博士は、四十歳も若い私を、抱きかかえるように迎えてくださった。
 幸い、この展示には東北の各界からも大きな期待が寄せられており、ありがたいかぎりである。
 二年越しで、のべ十日間、四十時間におよぶ対話では、「報道のあり方」も話題となった。
 博士は、マスコミは本来、「中立」であるべきだが、善悪・正邪が明確な問題に関してまで「中立」であるのは正しくないと、きっぱりと言われた。
 「自分が正とみなすことと、邪とみなすこととの中間で、中立の立場をとろうとするのは、結局、邪とみなすことの側にくみすることにほかなりません。なぜなら、すでにそれは、自分が正とみなすことを支持するという、道義上の義務に違背してしまっているからです」(『二十一世紀への対話』本全集大3巻収録)
 まことに、そのとおりである。博士のご一家も、人権蹂躙のマスコミに苦しめられたことがあった。ともあれ、邪悪とは断固、戦いぬくことだ。邪悪を倒しゆく炎の言論が渇仰されている。
 「正義の言論」である「聖教新聞」の拡大も、この七月、東北は過去最高の部数を成し遂げられた。北陸も、過去最高レベルの部数を達成されている。心から皆さま方に感謝申し上げたい。
5  真の知性は正義への情熱を烈々と
 透徹した知性の人、トインビー博士は、同時に、正義への情熱を、烈々と燃え上がらせておられた。
 博士は、かつて「王立国際問題研究所」で経験されたことも、私に率直に語られた。
 その研究所で、博士は国際事情に関する執筆を行った。その折の執筆委託の条件の一つは「公平無私でなければならない」ということであった。
 しかし、「それが不可能な場合」があったと博士は言う。どういう時だったのか。
 「ヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺といった問題になると話は別でした。これに関しては公平無私ということはありえない、と私には思えたのです。
 もし、このユダヤ人大量虐殺を、まるで天気予報でもやるような調子で、感情をまじえずに書いたとしたら、それはこの虐殺問題を公正に記録したことにはなりません。道義的な問題を無視して、ユダヤ人虐殺を黙認したことになってしまうからです」(同前)
 極悪に対しては、憤激をたぎらせて立ち向かってこそ、真の知性なのである。
6  この点は、トインビー博士と同時代を生きたアインシュタイン博士も同じであった。
 アインシュタイン博士は、東北の天地と人々を、こよなく愛した一人でもある。
 博士と、東北の生んだ大詩人・土井晩翠との交流も知られている。(博士は一九二二年、仙台の東北大学を訪問。感激した土井晩翠は、博士を讃える詩を贈った)
 私も、「詩心」の交流を現代に蘇らせたいと、行動してきたつもりである。
 アインシュタイン博士が、ある思想家にあてた手紙に、こうある。
 「迷信と聖職者支配は大いなる悪であり、あなたがそれに対して、このように決然として、また巧妙に闘争を行っておられるのは、喜ばしいことです」(O・ネーサン、H・ノーデン編『アインシュタイン平和書簡』3,金子俊男訳、みすず書房)。博士は、人間の本性にひそむ悪を知悉していた。そうした悪とは闘わねばならないと述べている。
 東北でも北陸でも、まさに、新たな宗教改革を勇敢に断行してきたことは、人権闘争の金字塔といってよい。とくに北陸青年部は、この夏も、北陸中で正義の対話を勇敢に貫いた。
 アインシュタイン博士は言った。
 「私についてずうずうしい嘘とまったくの作り話がすでにどっさり出版されています」(アリス・カラプリス編『アインシュタインは語る』林一訳、大月書店)
 偉大な正義の人間は、偉大ゆえ、正義であるゆえに、嫉妬され、憎悪され、事実無根の嘘によって中傷非難される。
 博士は平和のために獅子吼した。――大宇宙の中で、われらの声は小さい。しかし、その声が集まれば、地球上の平和を築いていける。そう呼びかけたのである。
7  勇気凛々と道を開け
 大聖人の門下の新田殿(新田信綱)は、東北ゆかりの人であった。本領が、陸奥国登米郡(官城県登米市)にあった。
 南条時光へのお手紙に新田殿のことが出てくる。
 「新田殿のことは本当であろうか。沖津のことは聞いている。殿(時光)も機会があれば、その道理を貫きなさい」(御書1540㌻、通解)
 「新田殿のこと」「沖津のこと」の具体的な内容は明らかではないが、お手紙の前後から見て、新田殿は難に負けずに信心を貫き通したと推察される。時光に、その勇敢なる戦いを手本にするよう述べられている。そして強敵から圧迫を加えられたならば、むしろ喜び勇んで「したたかに言い返しなさい!」と教えておられる。
 東北の皆さまも、傲慢な権力の圧迫と戦い、厳然と勝利する、誇り高き歴史を刻んでこられた。
 戸田先生は言われた。
 「なすべき時に、なすべきことを、率先して、着々と、勇敢に、実践するのが、広布の途でなければならない」
 「先手、先手と攻めることだ」
 「守備に回らないで、逆に攻撃に回って、攻めることが肝心なのだ」
 戸田先生は折伏精神を教えてくださった。
 「勇気凛々だ! それが折伏精神ではないか!」
 「日蓮大聖人の弟子は折伏の座については、決して臆してはならない。
 大法を信ずる者には大利益あり、またこれを謗ずる者には法力厳然として仏罰があるのである」
 青年部は、この確信と勇気を忘れてはならない。
8  今年(二〇〇三年)は、周恩来総理の悲願であった「日中平和条約」が締結されて二十五周年。北京での記念の行事に、学会の代表が出席した。
 北陸といえば、日中友好に生涯を賭けて尽くされた富山県出身の政治家、松村謙三氏が偲ばれる。若い私を信頼して、両国友好の未来を託してくださった。周恩来総理に私を会わせたい、とも言ってくださった。
 (=松村氏は、名誉会長の日中国交正常化提言〈一九六八年〉に「百万の味方を得た」と。七〇年二月の会見で「池田さん、あなたは中国へ行くべきだ。いや、あなたのような方に行ってもらいたい。私と一継に行きましょう」「周恩来総理に紹介したい」と語った)
 松村氏は四十年前、こう語っておられた。
 「今日、政治に一番必要なことは青年の前途に火を燃えあがらせることでありましょう。これ以外に政治の大眼目はありません」
 「アジアとともに、アジアの繁栄を目指して、世界の平和を求めることにこそ、青年たちが立ちあがれるエネルギーとでも申せましょうか、力が生れるのです」(『花好月圓』青林書院新社)
 真に責任ある指導者は、次の世代、青年のことを真剣に考え、そのための手を打っていくものである。
9  勇猛精進! 青年ならば
 ともあれ、政治であれ、経済であれ、文化であれ、青年が立ち上がる以外にない。
 戸田先生は言われた。
 「民衆の幸福を願うの心ある青年であるならば、まず自らが、この高邁な人間革命の真髄を求めて、いかなる三類の強敵・三障四魔とも戦い抜き、勝ち抜いて、勇猛精進すべきではなかろうか」
 「青年が青年の責任で、理想の創価学会を建設していけ。それを私は期待しているのだ」
 私は、青年部の皆さんに、新たなる「東北の世紀」「北陸の世紀」の建設を期待し、託したい。
 「君よ、東北の誇り高き英雄たれ!」「君よ、北陸の名誉ある英雄たれ!」と申し上げたい。
 わが同志がお元気で、幸福で、長寿であられるよう、私は真剣にお題目を送っている。
 日蓮大聖人は、蒙古襲来という激動の時代に身を置く門下の曾谷殿に対して、こう仰せである。
 「思えば、あなたと日蓮とは、師弟の関係である。しかしながら、煩悩ある凡夫の肉身は、国主に従うものであるがゆえに、この蒙古襲来の難に、遭おうとしているのであろうか。感涙を抑えることができない」
 「たとえ、身は、この難に遭ったとしても、心は、仏心と同じである。今世では修羅道に交わったとしても、来世は必ず、仏国に住むことであろう」(御書1069㌻、通解)
 いかなる時代の波瀾があろうが、広宣流布の師弟に生きゆく人生に、恐れるものなど何もない。
10  結びに、東北、北陸の大発展を祈って和歌を贈りたい。
  偉大なる
    東北会の
      研修に
    広布の歴史は
      さらに勝利と
  
  厳然と 
    大北陸の
      栄光を
    君ら戦い
      三世に残せや
 東北創価学会、万歳!
 北陸創価学会、万歳!1
 皆さま方のご多幸を祈ります。
 お帰りになったら、各地の全同志に、どうか、くれぐれもよろしくお伝えください。
 お体を大切に。お元気で!
 (長野研修道場)

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