Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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SGI代表協議会 皆を幸福にするのが指導者

2002.11.15 スピーチ(2002.8〜)(池田大作全集第94巻)

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2  遠い未来を見すえて生きよ
 トインビー博士と対談して、三十年になる。博士との対談集の英語版は、イギリスのオックスフォード大学出版局から発刊された。
 十年ほど前(一九九一年五月)だが、このオックスフォード大学出版局の統括責任者のロジャー・エリオット卿と語りあったことがあった。
 同出版局は、五百年の歴史を誇る世界最古の大学出版局として知られている。
 ロジャー卿が「私どもは、『永続的な価値』を創出しているのだという自負をもって仕事にたずさわっております」と述べていた言葉が忘れられない。
 トインビー博士の畢生の大著『歴史の研究』を出版したのも同出版局であった。ロジャー卿にそのいきさつを尋ねると、「そうです。わが出版局から発刊しました」と、力強く即答された。
 そして、こう述べられた。
 「私は、わが出版局が二十年後にも、百年後にも、たゆみなく活発に活動していると信じます。ともあれ、『遠い未来を考えて生きる』ことは、一つの組織にとってのみならず、個人の人生にとっても非常に重要なことです」
 遠い未来を考えて、今を生きる――そこにこそ、人間の真価が表れる。私ども創価学会、またSGIの前進も、百年、千年先を見すえての前進である。
 皆さま方の、毎日毎日の尊い行動は、すべて永遠に福徳となって、家族を守り、地域を栄えさせ、世界の平和の源泉となっていくことを、どうか確信していただきたい。
3  このロジャー卿の言葉は、トインビー博士の人生観であり、歴史観でもあった。
 博士は、人間は歴史の運命に、ただ翻弄されるだけの存在ではないと強調されていた。
 仏法の法理に強い関心を寄せられ、「仏教には宿業論があるが、過去世から続くという宿業を、人間は変えることができるのか」といった鋭い質問を受けた。
 私が、次のように語ると、博士は深くうなずいておられた。
 「日蓮大聖人の仏法では、因果倶時で、自身の宿命転換を果たしながら、社会を変えていくことができる。これが、二十一世紀の世界と人類を変革していけるかどうかの急所ではないかと思う」
 博士もまた、二十一世紀を「人間革命の世紀」にと志向しておられたのである。
4  二年越し、のべ四十時間にわたる対談の中で、ロンドン市内のレストランで食事をご一緒した時、博士がこう語られたことがあった。
 「私が若ければ、東洋の仏法の真髄を探求し、実践し、行動したかった」
 「私は、一応、歴史家、哲学者として名を成し、尊敬も受けている。しかし、仏法を持ち、実践するあなたのほうが、どれほど幸せであるか。私は、心ひそかに思っております」
 率直な言葉に、博士の人間性の深さを感じたことを思い出す。
 仏法は永遠の生命を説く。真実の信仰は、過去・現在・未来へとつながる「人間の幸福のための戦い」である――これが、私とトインビー博士の結論だった。
 その意味でも、私どもSGIの、人類史における使命が、どれほど大きいか。その「誇り」と「自信」をもって、二十一世紀の民衆の勝利のために、ともどもに行動してまいりたい。
5  SGIは「平和」と「人間共和」の世界を実現
 ハワイ大学教授で、戸田記念国際平和研究所所長のテヘラニアン博士は、私との対談集『二十一世紀への選択』(本全集第108巻収録)で、こう述べられていた。
 「現代は信仰もなく、真の共同体もなく、確たる指針もない無意味な世界が広がりつつあると言えるでしょう」「新しい『暗黒時代』に希望はあるのか。私はあると信じています。なぜなら、SGI(創価学会インタナショナル)のように『他者』をどこまでもつつみ込んでいこうとする宗教運動や、非宗教的な運動が厳然と存在するからです。それこそが、希望の存在です」
 こうした声に代表されるように、羅針盤を失った時代のなかで、「平和」と「人間共和」の世界を実現するために、友情の連帯の輪を着実に広げているのが、私たちSGIである。
 無気力と自己中心的な風潮が社会に広がりつつあるが、私たちの「新しい世紀」を、戦争と暴力の暗黒時代へと逆戻りさせては断じてならない。人間の心を変革しなければならない。
6  有名なオランダの歴史家のホイジンガは警告していた。
 「我々は、非常に広汎に見られる、個人生活における目的設定の欠如、明確な方向性の不在という点にも眼を向ける必要がある」「我々の未来を築く人々は、甦った精神の新たな武器をもって、これと戦わなければなるまい」(『汚された世界』磯見昭太郎他訳、『ホイジンガ選集』5,河出出版書房)
 私たちSGIが進める、「平和」と「文化」と「教育」を基盤とする人間主義運動は、このホイジンガの言う「甦った精神の新たな武器」をもって、時代の暗雲を打ち払い、希望の大空を広げゆく、人類史を画する運動である。
 私たち一人一人は、そのために立ち上がった「地涌の菩薩」にほかならない。法華経では、その姿を、こう記している。「難問答に巧みにして 其の心に畏るる所無く 忍辱の心は決定し 端正にして威徳有り」(涌出品、法華経四七二㌻)と。
 二十一世紀の大舞台は開かれた。いよいよ、われらの「創価の世紀」の到来である。一人も遅れてはならない。一人も臆してはならない。「地涌の菩薩」の誇りに燃えて、「畏るる所無し!」と、世界広布の新しき地平を、どこまでも朗らかに、楽しく開いていこうではないか。
 そのための武器となるのが、「対話」である。
 大聖人は、「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と仰せである。
 語れば語っただけ、時代は変わる。動けば動いた分だけ、新しい舞台は開かれる。
 私たちは、世界の人々が希求してやまない「精神の光」を送りゆく「希望の太陽」である。その誇りをもって、「対話」の輪を広げながら、尊き使命を果たしぬくため、力強く進んでまいりたい。
7  リーダーはみずからが苦労せよ
 広宣流布は万年の長征である。少しもあせる必要はない。今は、一人また一人と、人材を育て、揺るぎない土台をつくることである。
 そのうえで、それぞれの国の広布の伸展を拝見して、一つ言えることがある。それは、大きく発展しているところは、中心幹部が和気あいあいと仲良く団結しているということである。
 御書には「異体同心であれば万事を成就できる」(1463㌻、通解)と仰せである。
 仏法は、一面からいえば「人間学」である。人間としての振る舞いが、いかにあるべきか。どう振る舞えば、どのような結果が示されるか――このことを透徹した人間観察から説いたのが仏法である。
 万事を成ずるためには、異体同心でなくてはならない。これこそ、広布推進の鉄則である。
 反対に、「異体異心」であれば「城にいる者が城を破るようなものである」(御書1337㌻、通解)とも大聖人は戒めておられる。
 「魚は頭から腐る」という言葉がある。幹部になればなるほど、心を一つにしていくことである。
 自分が苦労した人は、他人の苦労もわかってあげられる。自分が努力したからこそ、他人の努力の尊さがわかるのである。
8  現在、私はロシアの宇宙飛行士のセレブロフ氏と対談している。(=総合月刊誌「潮」で連載。二〇〇四年十一月『宇宙と地球と人間』と題して潮出版社から発刊)
 鍛え上げられた強靭な精神と体の持ち主である。そのセレプロフ氏が、こう語っておられた。
 ――他人を尊敬できない人は、自分も人から尊敬されない。皆が大変な困難に直面したとき、たがいに尊敬し、信じあえるかどうかに、危機脱出のカギがある――というのである。
 それは、自身の度量の深さ、人格の奥行きにかかっていよう。
 自分に厳しいからこそ、人に優しくできる。だれよりも苦労した人は、人に対して包容力をもてるのである。自分にだらしない人は、人に厳しく接するものだ。自分が苦労していない人は、他人に苦労を強要しがちである。
 仏法の人間学からすれば、中心者の成長ですべてが決まるといってよい。
9  今、SGIの組織活動を進めていくうえで、具体的に「合議の体制で和楽の組織」「青年を大切にし、後継者の育成」「女性の声を大切にし、壮年部、婦人部、青年部が団結」等の点を皆で心がけている。
 この流れを、ますます強め、深めてまいりたい。これこそ、大聖人の「異体同心」の仰せに合致した、理想的なあり方であるからだ。
 仏法の世界にあっては、全員が平等であり、尊厳である。皆に使命がある。皆が、等しく、日蓮大聖人の直弟子である。
 ゆえに、皆が意見を言える。また、皆の意見を聞く。そして、皆で協議するという組織の雰囲気がきわめて重要となる。現実に、学会本部も、そうなっている。
 グアムでのSGI結成のとき、私は申し上げた。
 「皆さん方はどうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に平和という妙法の種をまいて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」(「聖教新聞」一九七五年一月二十七日付)
 私は、グアムでの言葉どおり、世界中を東奔西走してきた。皆さまも尊い地涌の使命に生きぬいてこられた。今、その種が、芽を出し、枝を伸ばし、葉を茂らせて、希望と幸福と平和の花を、世界中で、咲かせつつあるのである。
10  信仰は一切の勝利の源泉
 日蓮大聖人は、権力による民衆弾圧事件であった熱原法難の余儘がくすぶるなか、若き青年門下の南条時光に言われた。(弘安三年七月)
 「世の中は、上の人でも下の人でも、嘆き悲しむことが多いものである」(御書1565㌻、通解)
 世間を見れば、戦争の危機が迫っていた(翌年、第二次の蒙古襲来)。人々は不安にかられ、国内は、あげて物情騒然たる状態であった。
 そのなかにあって、大聖人は悠然として断言された。
 「われらは法華経を信じているから、浅い淵にすんでいる魚が、天が曇って雨が降ろうとするのを喜ぶようなものである」(同㌻、通解)
 今は難を受けて苦しんでいても、正しい信仰によって、必ず乗り越えていけると励ましておられるのである。
 信仰は一切の勝利の源泉である。
 水たまりのように浅い淵にすんでいる魚は、いつ水が枯れてしまうか、不安で不安で仕方がない。いな、そういう危険と隣り合わせであることも知らず、とりあえず、今を生きられればいいと思っているかもしれない。多くの場合、人間も同じである。
 御本尊を持ち、信心に巡り合えたことは、水が枯れて死ぬかもしれない不安のところへ、まさに天の恵みの雨が降らんとするのを魚が喜ぶようなものなのである。
 「しばらくの間、苦しいことがあっても、ついには、楽しくなるのである」(同㌻、通解)
 皆さまの人生の旅の途上に、いかなる苦しみ、悩みがあろうとも、それを全部、最後は「楽しみ」に変えていける。この極意が信心なのである。
 また、これは、社会にあふれるさまざまな問題に目をつぶり、人々の苦悩から遊離して、自分たちだけが幸福になるという利己主義的な生き方を教えているのではない。いかなる社会的な試練、外的な不幸の嵐が襲ってきても微動だにしない、金剛不壊なる自分自身を確立していくのが信心だということだ。
 「我が此の土は安穏」(寿量品、法華経四九一㌻)と説かれる仏の大境涯である。
 そして信心のリーダーは、自分の地域の友を、自分の国の同志を、民衆を、何があろうとも、断じて幸福にしていくのだと強い決心で立ち上がっていくことだ。
 広宣流布こそ平和の大道である。
11  友情の光彩を未来ヘ
 フランスの思想家ルソーは言った。
 「わたしはたえず原則にたちかえる。それはわたしのあらゆる困難にたいする解答を提供してくれる」(『エミール』今野一雄訳、岩波文庫)
 まったく、そのとおりだ。われわれには、信心という永遠の原点がある。
 本来、信心を貫く人生に行き詰まりはない。妙法に行き詰まりがないからだ。信仰とは、無限の希望であるからだ。
 しかし、揺れ動く人間の心のほうが、みずから行き詰まりをつくってしまう。「もう、だめだ」「もう、このへんでいい」と。その胸中の行き詰まりとの戦いそのものが、信仰ともいえる。
 大聖人は、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せである。
 惰性、停滞、あきらめ、油断、そうした「たゆむ心」「弱い心」と戦い、「つよる心」「強い心」を奮い起こしていくところに、勝利の人生がある。
 そのためにも、リーダーの皆さまは、「行き詰まったら原点に帰れ」という一点を絶対に忘れてはならない。
12  きょう(十五日)、お隣の中国で、若々しき国家のリーダーが誕生した。今回、江沢民こうたくみん氏の後を継がれた胡錦濤こきんとう総書記である。五十九歳の清新な指導者である。
 江沢民前総書記とは、私は中国と日本で四度お会いした。
 胡錦濤総書記とは、中国の青年代表団の団長として来日された一九八五年の二月六日に、初めてお会いした。当時、四十二歳であられた。
 私は東京を離れて、近県の地方の指導に赴いていたが、中国の二十一世紀を担う青年リーダーの来訪をうかがい、急遠、東京に戻ってお会いしたのである。
 そのことを、胡総書記もよく覚えていてくださり、国家副主席になられた後、一九九八年の四月二十二日に再会した折にも、鮮明な思い出として語ってくださった。
 ともあれ、私は、「真剣」と「誠実」で、世界に友情を広げてきた。平和への光は、それしかない。
 どうか皆さま方も、それぞれの地域、それぞれの国で、偉大なる友情の光彩を未来へ広げていただきたい。
 (東京・信濃文化センター)

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