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日蓮大聖人・池田大作

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第十一回本部幹部会、第一回関西総会、北… 師弟こそ創立の魂 君よ「使命の一人」に

2001.11.12 スピーチ(2001.8〜)(池田大作全集第93巻)

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1  世界一の音楽隊・鼓笛隊――陰の努力に栄冠
 きょうは、遠いところ、ご苦労さま!
 広宣流布の楽雄・音楽隊、いつもありがとう!(拍手)
 音楽隊は一九五四年(昭和二十九年)五月に結成された。以来、半世紀、勇壮な調べで、つねに全同志を鼓舞してくれた。
  嵐にも
    ああ 音楽隊
      仏天の曲
 と句を贈りたい。
 あの「大阪大会」の日(一九五七年〈昭和三十二年〉七月十七日)――。(無実の罪で大阪拘置所に勾留されていた)私に届けとばかり、朝から中之島の川岸で、学会歌を力の限り演奏してくれたのも、わが音楽隊であった。
 本当によく聞こえた。その勇ましい響きは、今も忘れない。
 「平和の天使」鼓笛隊も、本当にありがとう!(拍手)
  はつらつと
    乱世に光る
      鼓笛隊
 と讃えたい。
 鼓笛隊と聞くと、皆が聴きに行きたくなる。けなげにも「平和の光」を広げてきた功徳は大きい。
 思えば、四十五年前(一九五六年)、東京・大田区の小林町の小さなわが家――吹けば飛ぶような家で、妻とともに、女子部の代表と鼓笛隊の夢を語りあったことが、今日の鼓笛隊の淵源となった。
2  広布は音楽・芸術尊重の大文化運動
 法華経に登場する「妙音菩薩」は、その行くところ、向かうところ「百千の天の音楽」が鳴り響いたと説かれている。
 (妙音菩薩品には「〈妙音菩薩が〉経る所の諸国は、六種に震動して、皆悉な七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽は、鼓せざるに自ら鳴る」〈法華経六一〇ページ〉と)
 御書には「音の哀楽を以て国の盛衰を知る」との言葉が引かれている。
 世の中に満ちている「音」――その「音」で国の将来を知る。その国が栄えていくのか、滅んでいくのか――未来の姿が音に表れる。
 「音」とは、人間の声であり、広く見れば、音楽をはじめとする文化・芸術も含まれよう。
 広宣流布は、音楽や芸術を最大に尊重しゆく大文化運動である。音楽隊、鼓笛隊も、こうした仏法の本義のうえから創設された。
 戸田先生に、私が音楽隊と鼓笛隊の結成を願い出たとき、先生は一言、「大作がやるんだったら、やりたまえ!」とおっしゃってくださった。
 それから、私が正面し、いくつかの楽器を買ってさしあげ、音楽隊は十六人、鼓笛隊は三十三人で出発した。
 それが現在では、音楽隊、鼓笛隊ともに、二万人の陣容にまで発展した(拍手)。また、各種のコンクールで日本最高の栄冠に輝いていることは、皆さまも、ご存じのとおりである。
3  来年(二〇〇二年)の一月二十日、日本武道館で行われるマーチングバンドの全国大会には、東京の創価ルネサンスバンガード、関西ビューグルバンド、中部ビューグルバンド、鹿児島マーチングバンドの四団体が出場する。おめでとう!(拍手)。(=二〇〇二年一月二十日の全国大会で、創価ルネサンスバンガードがグランプリの「内閣総理大臣賞」を受賞)
 また、関西男声合唱団は、今月(十一月)二十四日の全国大会に、晴ればれと出場する。関西吹奏楽団は、全日本吹奏楽コンクール(十月二十一日)で金賞を受賞。さらに創価大学のパイオニア吹奏楽団も、同コンクール「大学の部」(十月二十日)で金賞を受けている。
 一方、鼓笛隊は、「首都圏マーチングバンド」が今月二十四日に行われる全国大会に、「首都圏トワリングチーム」が来年一月十三日の全国大会に出場する。
 すごいことである。この活躍自体が「大芸術運動」であり、「大文化運動」である。″妙音の連帯″は、今や世界の約三十力国・地域に広がった。
 世界の音楽隊・鼓笛隊は、国家の重要な式典にも何度も参加し、絶讃を博すなど、栄光の歴史をつづっている。
 名実ともに「世界一の鼓笛隊」「世界一の音楽隊」となったことを、私は最大に賞讃申し上げたい。(拍手)
4  青年は「訓練」で光れ!
 人間性を磨く薫陶が大事である。
 何の訓練も、鍛えもない人間は、いざという時に弱い。たとえ頭が良くても、人間として弱ければ、広宣流布の指揮は執れない。
 青春時代、鼓笛隊や音楽隊で、信心の訓練を受けきった人間は強い。
 今の婦人部のリーダーを見ても、鼓笛隊出身者の活躍はめざましい。
 また、きょう出席されているミクロネシアSGIの支部長も、鼓笛隊出身である。
 海外でも、鼓笛隊で薫陶を受けた学会っ子が、見事に活躍し、成長している。
 若き日から、全魂で、多くの人々を鼓舞し、希望を贈り、青春の尊き汗を流してきた皆さまである。それだけ人間が光っている。
 妙法は、全宇宙をつつみ、全宇宙を動かす根本の法則である。ゆえに、広宣流布のための行動は、全部、自分自身をつつむ大福徳となるのである。
 音楽隊出身者の健闘も頼もしい。副会長は十五人も出ている。
 このほかにも、音楽隊・鼓笛隊の出身者をはじめ、広布の庭で、青春時代に薫陶を受け、陰で戦いきってこられた方々は、皆、立派に成長し、輝き、勝利しておられる。
 きょうは「花の芸術部」の代表の方々も、創立記念日の祝賀に駆けつけてくださった。本当にありがとう!(拍手)
 広宣流布のために戦っておられる、偉大なる創価の芸術家の皆さまを、私たちは皆で応援してまいりたい。
5  大勝利のこの一年、全同志の皆さまに「本当に、ありがとうございます」と重ねて申し上げたい。
 今日の学会の大発展は、すべて、皆さまの「祈り」と「団結」と「執念」と「挑戦」の賜である。
 学会には、にぎやかな音楽と芸術が満ち満ちている。
 この、あまりにも楽しく、うるわしい創価の世界を、妬み、憎み、壊そうとしたのが、日顕であり、日顕宗である。
 ベートーヴェンの「歓喜の歌」を「謗法」と言った日顕宗である。あの偉大な人類の文化遺産をまっこうから否定する聖職者が、世界のどこにいようか。
 文豪シェークスピアの有名な言葉がある。
 「心に音楽を持たぬ人間、美しい音楽の調和にも、/たえて心を動かさぬ人間、きっとそれは、/謀叛、策謀、掠奪などをやりかねぬ人間なのだ」(『ヴェニスの商人』中野好夫訳、岩波文庫)
 最高峰の芸術家が、天上から人間界を見おろしたような達観である。
6  若き情熱が創った行進曲「旧友」
 (ここで、音楽隊の創価グロリア吹奏楽団がドイツの行進曲「旧友」を演奏。力強い旋律が、会場をつつんだ)
 この曲を作曲したのは、若き音楽隊員――当時の軍楽隊員であった。その名は、カール・タイケ。ご存じの方も、いらっしゃるであろう。(カール・タイケはドイツの作曲家〈一八六四年〜一九二二年〉)
 タイケ青年が、軍楽隊に入隊したのは、十九歳のとき。すでに十四歳から、打楽器やホルンなどの演奏法を学んでいた彼は、入隊後、楽隊長から、作曲の教育も受けたという。人間は、訓練を受けてこそ伸びるものである。
 こうして、二十代半ばのとき、若き情熱で創り上げたのが、「旧友」なのである。
7  幹部は同志への言葉を大切に
 ところで、なぜ、「旧友」という題名がつけられたのか。その有名なエピソードについて、簡単に、ご紹介しておきたい。
 軍楽隊員であったタイケ青年が、この行進曲を完成させたときのことである。
 彼に作曲を教えてくれた楽隊長は、すでに交代しており、別の楽隊長が着任していた。
 この新しい楽隊長に、彼は、自信満々に、完成した楽譜を見せた。
 しかし、ほめられるどころか、つっけんどんに突き返され、さんざんに罵倒されたのであった。
 ″こんな行進曲は、かまどへ行くのがふさわしい! 焼いてしまえ!″と――。
 残念ながら彼は、これを機に、軍楽隊から去ることになるのである。
 この楽隊長は、無名の青年の光る才能を認めようとしなかった。新しく台頭する「若き力」を育てようという、先輩らしい気持ちもなかった。
 せっかく、後輩が頑張ったのである。先輩として、きちんと評価し、その努力に、誠実に応えてあげるべきではなかったか。
 諸君は、そういう心の狭い先輩に、絶対になってはいけない。また、そういう意地悪な先輩に、後輩は負けてはいけない。
 言葉というのは、本当に大事である。とくに幹部は、言葉を大切にしなければいけない。
 言葉で決まる。「声仏事を為す」である。
 言葉には、その人の「人格」と「知恵」と「生きる姿勢」のすべてが表れるといってもいい。
 たとえば、結果がどうであれ、広宣流布のために頑張った人を、「立派ですね」と、ほめ讃えていける幹部なのか。それとも「なんだ、これっぼっちか」という、心ない幹部なのか。
 人材の育成も、組織の発展も、こうした幹部の言葉いかんで決まることを知っていただきたい。
 そして、万が一、言葉の悪い幹部がいたならば、遠慮なく指摘していくべきである。また、気づいた人が、自分から変えていっていただきたい。
8  生命の旧友とともに広布の大行進を!
 さて、先輩の無慈悲な仕打ちにあい、軍楽隊をやめたタイケ青年。このとき、苦楽をともにしてきた軍楽隊の旧き良き仲間たちが、激励の送別会を催してくれた。″ぼくたちは、仲間じゃないか、同志じゃないか、一緒に立ち上がろうよ″と。
 そして、その場で、彼の楽譜を、仲間たちが皆で演奏してくれた。
 この曲が、初めて演奏された劇的な瞬間であった。
 なんとすばらしい同志愛ではないか。この同志愛こそ学会の根本の心である。学会が大発展してきたのも、この同志愛があったからである。
 タイケ青年は、うれしかったであろう。″だれが、わかってくれなくとも、自分には真実の友がいる! 自分の人生の行進は、どこに行っても、いつも、心通う旧友と一緒だ″と。
 感激したタイケ青年は、この行進曲に万感の思いをこめて、「旧友」と名づけたといわれている。
 これが、先ほど、音楽隊の諸君が演奏してくださった「旧友」の心なのである。ありがとう!(拍手)
 タイケ青年は、軍楽隊をやめた後も、音楽の道から離れなかった。
 彼は、町の警察官を務めながら、自分らしく、執念をもって、作曲を続けた。
 だれが聴こうが聴くまいが、かまわない。これが自分の決めた道だ――こういう決心であったのだろう。
 私たちの信心の姿勢も、こうあるべきである。だれになんと言われようが、また、たとえ、嫌な人間がいたとしても、断じて創価学会から離れてはいけない。学会の中にしか真実の広宣流布の実践はないからである。
 なお、タイケ青年の「旧友」の楽譜は、二十五マルクというたいへんに安い値段で出版社に売られた。当時の庶民の月収の一割くらいの金額といわれる。
 だが、出版とともに注目されるようになり、やがて世界中で演奏されるようになった。
 偉大なものというのは、後になってから、真価がわかる。芸術部の方も、どうか、その一点を忘れないでいただきたい。
 タイケ青年は、その後も「作曲する警察官」として約百曲もの行進曲を残し、音楽史上に名を刻んでいる。
9  人生においても、芸術においても、目先の人気や評判や名声などは、小さい問題である。
 もちろん、努力するのは当然のことだけれども、それで結果が出なくても、がっかりしないことである。大事なのは、自分自身が強くなることだ。自分自身が成長することだ。
 時代の動きは早く、人の心は移ろいやすい。ましてや嫉妬の渦巻く日本である。他人の評価など、あてにならない。
 ゆえに自分自身が、揺るぎない実力を持った「本物」になることが、真実の勝利ではないだろうか!
 ともかく、わが創価の同志は、久遠からのもっとも大切な「生命の旧友」である。「三世永遠の旧友」である。この信頼と友情と同志愛の世界を、私たちは大切にしてきた。
 それを裏切り、離れていくことが、人間として、どれほど、わびしく、みじめであるか。退転者の末路は、大敗北の人生である。
 われらは、どこまでも「旧友」とともに、軽快に、また、さっそうと、広宣流布という究極の平和と正義の大道を、これからも闊歩してまいりたい!
10  太陽の女子部に栄光あれ! 勝利あれ! 幸福あれ!
 きょう十一月十二日は「女子部の日」である。女子部の皆さん、おめでとう!(拍手)
 女性の時代である。私は現在、女性の未来学者で、世界的に有名な、アメリカのヘンダーソン博士と対談を進めている。それが、総合月刊誌「潮」で二〇〇二年一月号から連載される運びとなった。(=『地球対談 輝く女性の世紀へ』と題し、二〇〇三年一月、主婦の友社から発刊)
 二十一世紀の″希望の太陽″こそ、女性である。なかんずく女子部である。太陽の女子部に「栄光あれ! 勝利あれ! 幸福あれ!」と皆で祈りたい。(拍手)
11  また、一週間前の十一月五日は、「男子部の日」であった。
 この日は、歴史を見れば、吉田松陰が、八畳一間の塾舎で「松下村塾」を始めた日にあたる。塾の建物が完成したのを機に、松陰は、みずからが指導する「松下村塾」を正式に開いたのである。
 それは一八五七年(安政四年)、鎖国から開国へと、日本中が混乱しているさなかであった。
 (一八五三年〈嘉永六年〉、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、江戸幕府に開国を要求。五八年〈安政五年〉には、大老・井伊直弼による反対派への大弾圧「安政の大獄」が始まる)
 松陰はその時、満二十七歳。学会で言えば、男子部の世代である。この二十七歳の青年指導者が、明治維新という、日本の「革命」の原動力となった人々を育てた。
 未来をつくるのは青年である。青年が大事である。
 戸田先生もよく、吉田松陰の話を青年部にしてくださった。
 「塾の建物」といっても、決して贅沢なものではなかった。物置小屋を改造して造った質素なもので、八畳の講義室が一間あるだけであった。
 松陰は、この八畳間で、門下生たちと寝食をともにしながら、彼らを薫陶していった。
12  大人材を育てた松下村塾の心意気――今いる場所で「華」と咲け!
 偉らぶるのではない。彼は、いつも弟子と一緒、同志と一緒であった。
 門下生にとっては″頭がじんじんする″ような、真剣勝負の教育であり、鍛錬であった。魂に叩きこんでいくような訓練であった。
 松陰は、信念に殉じた勇者のことを語るときは、みずから感動で声を震わせた。皆もかくあれ、かく生きよ!――と。
 情熱みなぎる草創の学会の幹部の姿をほうふつさせる。リーダーは、それでこそ、友を立ち上がらせていける。
 また松陰は、卑劣な裏切り者の話になると、目をむき、声を張り上げ、髪の毛を逆立てた。
 こういう人間とは徹して戦えと、「人間の根本の道」を教えていった。これが、松陰の松下村塾であった。
 さて、松陰が「松下村塾」での教育の根底に置いた理念は、何であったか。
 さまざまに論じられるだろうが、本日は時間の都合もあるので、一点だけ申し上げたい。
 それは、簡単に言えば、″華やかな「中央」から遠く離れた、田舎の小さな村にいることに、断じて劣等感を抱いてはならない。自分が今いるところで真剣に努力していくならば、そこが最高の場所――「華」となる″との考えであった。
 (松下村塾のあった松本村は、本州のもっとも西の山口にあり、江戸から遠く離れていた。しかし松陰は、″ここから、必ず天下の人材が輩出する″と確信していた)
 仏法は「本有常住」「常寂光土」と説く。
 多くの偉人は、仏法に近づき、仏法の片鱗を説いているものである。
 どうか皆さまも、「自分がいるところを、最高に輝かせてみせる!」「自分の組織から、偉大なリーダーを、必ずや育ててみせる!」と深く一念を定め、雄々しく進んでいただきたい。
 そのとき、人間は大きく花開いていく。そうやって進んできたから、今日の創価学会がある。
 環境ではない。一念で決まる。
 「学歴が何だ! 財産が何だ! 名声が何だ! 社会的地位が何だ! そんなものに、とらわれるな! 人生、何があろうと『信心』で進め!」。これが仏法者の魂である。
13  広宣流布は必ずできる。命をかけた青年がいれば
 正義の生命で、敵と戦え! それで日本を革命するのだ!――これが松陰の叫びであった。
 さらに松陰は次のように記していた。とくに男子部の諸君のために紹介しておきたい。
 ″この松下村塾から、一人か二人か、志を起こす人間が、必ず出るであろう。それが五人となり八人となっていけば、一人が十人に教え、十人が百人に教え、千人、万人というように拡大していくことは自然の勢いである″″やがて、万人、億人と広がっていくだろう″
 私どもの折伏のあり方と同じである。
 松陰が処刑されたのは、八畳一間の塾舎で教え始めてから、わずか二年足らずのことだった。
 (実際に、ここで教えたのは一年余)
 しかし、松陰には本物の弟子がいた。使命の弟子がいた。高杉晋作、久坂玄瑞ら、そうそうたる弟子たちが師匠の「仇討ち」に総決起し、明治維新へと時代を大きく動かし、新しい日本をつくりあげていったのである。
 広宣流布の前進にあっても、″本物の弟子″がいるかどうかが問題なのである。
 私は、牧口先生、戸田先生の師弟の姿に、「人間の究極」「仏法の究極」「歴史の究極」を見る思いがする。戸田先生が「水滸会」の会合の折、こう言われたことが忘れられない。
 「八畳一間から始まった松下村塾の松陰門下の手で明治維新は達成された。学会も、中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる」と。
 その「一人」とは、だれであったか。だれが戸田先生の教えのごとく、命がけで、世界にこの仏法を弘めてきたか。私は、″その一人こそ自分であった″との誇りと自負を持っている。(拍手)
 ゆえに、本物の弟子である私に続く人間こそ「本物」なのである。
 後世のために、あえて明確に言い残しておきたい。
 どうか、青年部の諸君は、峻厳なる「創価の三代の師弟の魂」を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、「最終の勝利者」である。またそれこそが、創価学会が二十一世紀を勝ちぬいていく「根本の道」なのである。(拍手)
14  「創立の日」を祝う、きょうの集いを、創立の崇高な師弟であられた、牧口、戸田両先生の肖像が、微笑み、見守っておられる。(会場の東京戸田記念講堂には、両会長の大きな肖像画が掲げられている)
 本日は、牧口家、戸田家、ゆかりの方々も、お忙しいなか、お越しくださり、心から感謝申し上げたい。
 また、三代城・北海道の総会、おめでとう!(拍手)
 常勝・大関西の総会、おめでとう!(拍手)
 男子部、女子部の幹部会、おめでとう!(拍手)
 そして、韓国の皆さま方! インドネシアの皆さま方! ようこそ、研修においでくださいました。さらに、海外二十三カ国・地域の尊い同志の方々を、心から歓迎いたします。(拍手)
 もう少し、お話しさせていただきたいと思ったが、時間の都合もあり、遠くに帰る方もおられるので、ここでスピーチを終わりたい。この続きはまた、次の会合でさせていただきたい。どうか、ご了承ください。
 今は、気候の変わり目である。こういうときは、いちばん、体調を崩しやすいので、十分、気をつけていただきたい。これから寒さも厳しくなる。とくに、朝や夜は要注意である。
 大切なのは、よく休むことである。また、夜遅くにあまり食べ過ぎないように。(笑い)
 会合は早めに終え、しっかり睡眠を取り、疲れを残さないよう、賢明に、価値的に、リズム正しい生活を送っていただきたい。長時間、本当にご苦労さま! ありがとう!
 (東京戸田記念講堂)

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