Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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方面代表協議会 勝利で飾れわが人生の劇

2001.3.28 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

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2  広布の巌窟王の誓い
 久方ぶりに、東京・巣鴨の東京戸田記念講堂を訪問させていただいた。(三月二十七日)
 万朶ばんだの桜に包まれて、戸田先生が逝去されたのは、四十三年前の四月二日。以来、私は、一日たりとも、先生のことを思わない日はない。
 戸田先生は昭和二十五年(一九五〇年)、牧口先生の七回忌の法要で、こう述懐されている。
 「(=警視庁から)巣鴨(=の東京拘置所)に移されるとき、(=牧口)先生と対面がゆるされました。
 わたくしは『先生、おからだをたいせつに』と申しました。
 わかれて車に乗るとき、先生は『戸田君は、戸田君は』と申されたそうです。
 わたくしは若い、先生はご老体である。先生が一日も早く(=牢獄から)出られますように。わたくしは(=獄中生活が)いつまで長くなってもよい。先生が、早く、早く出られますように、と唱えた題目も、わたくしの力のたりなさか、翌年(=昭和十九年)、先生は獄死されました。
 『牧口は死んだよ』と知らされたときの、わたくしの無念さ。一晩中、わたくしは獄舎に泣きあかしました」(『戸田城聖全集』第二巻)
 牧口先生は、七十三歳で亡くなられた。
 戸田先生お一人が「牢獄にまでお供できた」と感謝し、ただただ師匠の無事を祈られた。そのうえ、師匠である牧口先生の死を「自分の祈りがたりなかったのであろうか」と、みずからを責めておられた。
 他の弟子はといえば、学会が難にあうと、手のひらを返したように、牧口先生を恨み、ののしったのである。
3  牧口先生の葬儀は、学会から、わずか数人の同志が参列しただけであった。
 法要で、そのことにふれ、戸田先生は言われた。
 「しかも、巣鴨から、小林君(=牧口家の親族の関係者)が先生の死体を背負って帰ったとか。
 そのときの情けなさ、くやしさ。世が世でありとも、恩師の死を知って来ぬのか、知らないで来ないのか。
 『よし!! この身で、かならず、かならず、法要をしてみせるぞ!』と誓ったときからのわたくしは、心の底から生きがいを感じました」(同前)
 これが「広宣流布の巌窟王」の誓いであった。
 ここに、創価学会の師弟の真実がある。正義の勝利の魂がある。
4  ファシズムを倒したイタリアの民衆
 さる三月三日、イタリアのヴァラッロ市からの「名誉市民証」を、イタリアはじめ、世界の同志を代表して、お受けした。(百六十番目の名誉市民証)
 ヴァラッロ市は、フアシスト政権に対する民衆の解放運動「パルチザン」の発祥の地である。
 この史実は、本部幹部会でも紹介させていただいた。
 幹部会に参加した、イタリアのメンバーから声が寄せられた。大切な歴史の証言である。ご本人の了解を得て、そのまま紹介させていただく。
 お一人は、トリノの副本部長である。
 「池田先生のご指導をうかがっているうちに、深い感動とともに、私の祖母(父の母)のことを思い出しました。
 祖母は、一九〇〇年二月七日生まれです(戸田第二代会長の生誕の四日前)。ナチス・ファシズムによって、四四年九月十四日に殺されました(牧口初代会長の獄死の約二カ月前)」
 「第二次世界大戦の時、パルチザンの勝利にとって、女性が果たした役割は、決定的なものでした。
 私の祖母も、叔母や他の女性と同様、パルチザンの活動を真に支えた人でした。
 彼女たちは、自由の戦いに臨んでいる夫や息子たちに、食物や情報を運んでいたのです。そのために何キロもの道のりを、自転車で行ったり、歩いていったりしたのです」
 「ある日、祖母は、パルチザンに食物を運ぶ途中、捕まりました。二日間、拷問を受け、そして殺されたのです。
 自分の夫と息子、そして他の同志たちが隠れていた場所を、一言も漏らすことなく――。
 この祖母の話は、当時のイタリアの、多くの勇気ある女性の歴史の一部です。そこには、『臆病』という言葉はありません。
 池田先生は、ヴアラッロの話をされるなかで、自由のために生命を捧げた、ヴアラッロのシンポルであるパルチザンの勇者たちを、女性たちの歴史を、よみがえらせてくださいました。
 私は、私の祖母が、自由のために命がけで戦った、他の同志と一緒に、きょうの幹部会に、幸せいっぱいに参加していたような気がします」
5  続いて、本部長の声を紹介したい。
 「池田先生のパルチザンについてのスピーチをうかがい、両親に対する深い尊敬の念がわいてきました。私の両親も、フアシストから圧迫されました。
 母が生前、よく話してくれたのですが、母の父がファシズムに反対していたために、母と、母の妹は、何回も頭を丸坊主にされ、そこに赤のベンキを塗られ、そのまま(見せしめとして)外を歩かされたそうです。
 その出来事は、いつも、母の父親が死ぬほど殴られたあとに起こりました。
 ほかにも、どれだけの家族が苦しんだことでしょう」
 「私を池田先生に近づけてくれたのは母でした。一九九二年、先生がイタリアを訪問された折、母は重病にもかかわらず、私を(先生のいる)フィレンツェに行かせてくれました。
 不思議なことに、母は、その間、元気になり、私も晴れやかに役員の任務を果たすことができました」
 「母は、先生がイタリアを出発されて四日後、安らかに息を引き取りました。とても穏やかな顔でした。『お題目をあげると、ライオンみたいに力が出る』と、毎日一時間の唱題を欠かさない母でした。きょうは、イタリアの多くの家族の歴史であるレジスタンス(抵抗運動)、パルチザンの話をしていただき、本当にありがとうございました」
 私は、イタリアの自由の戦士たちに、心からの追善のお題目を送らせていただいた。
 古代ローマの哲学者セネカいわく。
 「勇敢な者は皆不幸ではない」(「狂えるヘルクレス」小川正廣訳、『セネカ悲劇集』1所収、京都大学学術出版会)
 「母の気概に恐れの入り込む余地はない」(「トロイアの女たち」高橋宏幸訳、同集)
 最大の敬意をこめて、この言葉を捧げたい。
6  「人類のための戦い」を共に
 いよいよ「アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパス」が、五月三日に開学する。世界の学術界・教育界からも大きな期待が寄せられている。
 私が深く交流を結んでいるロートブラット博士も、アメリカ創価大学に期待する一人である。
 博士は、ノーベル平和賞に輝く大科学者である。これまで二度、大阪と沖縄で対話を重ねてきた。「続きは、ぜひアメリカ創価大学で」と約束しあった。その実現を、たいへんに楽しみにされている。
 ロートブラット博士は、二度の世界大戦を経験された。最愛の夫人も、ナテスのホロコースト(大量虐殺)によって奪われた。″この悲劇を二度と繰り返してはならない!″。博士は、烈々たる気迫で、あらゆる圧迫や中傷にも屈せず、平和のため、人道のために戦ってこられた。
 その博士を「二十一世紀の平和の指導者」を育成するアメリカ創価大学に、お迎えする意義は大きい。本当に楽しみである。
7  このロートブラット博士、同じく私の親友であるポーリング博士(ノーベル化学賞・平和賞受賞)と崇高な歴史を刻んでこられたのが、湯川秀樹博士である。
 一九五五年(昭和三十年)、冷戦の危機的な状況のなかで、「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表された。二十世紀を代表する科学者と哲学者が、全面的な核兵器の廃絶を訴えた、歴史的宣言である。
 この宣言には、アインシュタイン博士をはじめ、十一人の知性と良心の人が署名した。そのなかには、湯川博士、ロートブラット博士、ポーリング博士もおられた。
 さらに、この二人の博士たちは、宣言の精神を引き継いだ「パグウォッシュ会議」を通して、平和への共闘を続けていかれたのである。
 パグウォッシュ会議が、初めて日本で開催されたのは、一九七五年(昭和五十年)の八月。会場は、湯川博士のお住まいのある京都。それは、湯川博士の出席を切望する、会議全体としての声を受けた決定であった。
 その直前の五月、湯川博士は緊急入院された。ガンであった。しかし、スミ夫人の励ましと献身の看病のかいもあって、博士は闘病生活を乗り越えて、会議に出席されたのである。
 病み上がりとは思えない、毅然たる口調で、博士は、こうあいさつされた。
 「二十年前のラッセル、アインシュタイン宣言の精神にかえることが必要だ。核兵器は人類共通の敵であり、これを地球上からなくすのがわれわれの最終目的である」
 続いて登壇したのはロートブラット博士であった。
 「病気をおしてこの式に臨んでくださった湯川博士の不屈の勇気を尊敬します。あなたの精神を必ずこの会(。ハグウォッシュ会議)に生かします」と。
 一幅の名画のような、劇のごとき、信念の歴史である。
 (京都でのパグウォッシュ会議については、湯川スミ『苦楽の国』講談社を参照)
8  パグウォッシュ会議が発足した一九五七年、ロートブラット博士は日本を初訪問された。ちょうど戸田先生が、横浜の三ツ沢競技場で「原水爆禁止宣言」を発表された年である。
 不思議な「時の符合」を振り返り、博士は述べられた。
 「戸田城聖氏と個人的にお会いできなかったことは残念でした。しかし、『核兵器なき世界』『戦争なき世界』へ向け、戸田氏が始められ、池田会長と創価学会が続けてきたお仕事と共通の歩みを、わがパグウォッシュ会議は進めてきたのです」
 戸田先生が掲げられた理念、すなわち「人間革命」「地球民族主義」「人類の生存権」などの主張は今、二十一世紀をリードしゆく「平和の哲学」として、ますます輝きを増している。
9  ポーリング博士の確信「″平和の探求″をSGIが未来に継承」
 ポーリング博士のご長男で、著名な精神医学者であるポーリング・ジュニア博士もまた、私の敬愛する友人である。
 ポーリング家との友情の結実である「ライナス・ポーリングと二十世紀」展は、これまで全米五会場で開催され、約四十万人もの方が見に来られた。
 ポーリング博士は、平和への信念の行動ゆえに、山のような非難や悪口にさらされた。議会の証人喚間など、陰険な権力の迫害もあった。そうした苦難に、エバ夫人とともに敢然と立ち向かい、反戦の闘争を貫き通された。
 その「平和に捧げた生涯の軌跡」に今、新たな感動が広がっている。
 今年の二月二十八日、ポーリング博士の生誕百周年を記念する式典が、博士の母校、オレゴン州立大学で盛大に行われた。
 (ポーリング博士は一九〇一年の生まれ。九四年に逝去)
 式典の席上、ポーリング・ジュニア博士は、こうスピーチされた。
 「父は確信していました。『もしも自分の人生が終わったとしても、妻とめざした″平和への探求″が、池田氏とSGIの手によって、未来へと継承されていくだろう』と」
 大切な歴史的証言として残させていただきたい。
 二十世紀は「戦争と暴力の世紀」であった。そのなかで、世界平和の闘士たちが尊い命を燃え上がらせ、掲げてきた「正義の松明」――それは今、SGIの「世界市民の運動」に厳然と託されているのである。
 (ポーリング・ジュニア博士は「父の生涯の最大のハイライトは、世界千三百万人の仏教団体の指導者・池田氏との出会いだったと思います」「父は、池田氏との出会いを通して、SCIのめざす平和が、母とともに半生を捧げてきた平和への願望と完全に一致するものであると、強く感銘を受けたのです」とも語っている)
10  「平和とは多数の人間が絶えず協力して建設してゆかねばならぬものである。破壊が少数者によって行われ得るのに対して建設には多数者の協力が必要である所に、人類の前途の不安があるのである」(『湯川秀樹著作集』5、岩波書店)
 博士が憂慮した「人類の前途の不安」は、いまだに、ぬぐい去られていない。
 それどころか、日本は嫉妬社会となり、偏狭な国家主義が台頭し、言論の暴力、人権の蹂躙、さらに「精神の自由」や「信教の自由」への弾圧など、危険な兆候がふえていると警告する識者は多い。
 私どもは、グローバルな(地球規模の)「人類の知性」との交流を深めつつ、揺るぎない「平和と人道の連帯」を断固、拡大してまいりたい。
11  「断固行なえば 成功がある」――ゲーテ
 私が、若き日から親しんできた、ドイツの文豪ゲーテは、そびえ立つ連峰のような、数多くの傑作を残した。
 彼は″わが存在のピラミッドを、できる限り、高く築き上げるのだ!″と挑戦しぬいた。最後までペンをふるい、働き続けた。戦いをやめなかった。
 ゲーテは「マンネリ」が大嫌いだった。
 「マンネリズムは(中略)いつでも仕上げることばかり考えて、仕事そのものに喜びがすこしもないものだ」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)と。
 何の挑戦もない、目標もない、ただ「やらされている」だけの人には、自分自身の歴史は築けない。
 人生は、毎日が「新しい一日」であり、「かけがえのない一日」である。
 真剣勝負の人には、満足と充実と喜びが光る。みずみずしい日々のなかにこそ、偉大なる勝利が開かれていく。
 ゲーテは、うたった。
 「断固行なえば 成功がある/仕事はなかば成就したのだ、/きらめく星は ぼくには太陽、/臆病なものにだけは夜なのだ」(「詩 九十六篇」小塩節訳、『世界文学全集』18所収、講談社)
 要するに、やるのか、やらないのか。断固、始めれば、もう半分はできたのと同じである。
 ″勇気の人″には、きらめく星さえ太陽の輝き。
 臆病者には、まつ暗な闇夜。
 だからこそ、一歩、踏み出す勇気をもて!――と。
 心の大空に太陽を昇らせたゲーテのごとく、私たちも、「行動」即「勝利」の人生を生きぬきたい。
12  リーダーは明快に語ることだ。勇気と希望を皆に贈ることだ。その模範を哲人たちが教えてくれている。
 南米チリの民衆詩人、パブロ・ネルーダ。
 「いま闘わぬものは臆病者なのだ。過去の遺物をふりかえることや、夢の迷宮を踏査することは、われわれの時代にふさわしいものではない」(北民彦訳)
 ネルーダは叫ぶ。
  「いまこそいっしょにうたおうではないか、
  ありとあらゆる苦しみからたちあがったものを、
  おもいしずけさと、おごそかな勝利のなかから、
  あらわれてきたものを」(『ネルーダ詩集』羽出庭果訳、飯塚書店)
13  フランスの思想家、ルソー。
 「人類のために君の命を用いなければならない」(『新エロイーズ』安士正夫訳、岩波文庫)
 そして、私がご一緒に対談集『文明・西と東』を発刊した″ヨーロッパ統合の父″クーデンホーフ=カレルギー伯の言葉である。
 「向上のない所には、刺激はない。刺激のない所には、業績は生まれない」(『人生の戒律』鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会)
14  世界に慈愛を! 光明を!
 それは五十年前の昭和二十六年(一九五一年)の二月二十八日、水曜日のことであった。
 戸田先生が会長に就任される一カ月ほど前である。当時、朝鮮戦争の渦中にあった。三月度の支部長会で、戸田先生は、こう宣言された。
 「あすの日を知らず迷う東洋民族の、いな世界人類に、光明をあたえる力はなにか。日蓮大聖人様のご慈悲をこうむらせる以外に、なにものもないではないか。すなわち、広宣流布以外に、手はないのである。
 しからば、この聖業は、だれびとの手によるか。仏意はかりがたきことなれども、創価学会を除いてほかになし。(=東洋広布、世界広布は)恩師牧口先生以来の因縁であり、宿命である」(『戸田城聖全集』第二巻)
 「いまはただ前進あるのみ。闘争あるのみ」(同前)
 戸田先生の師子吼のままに、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を成し遂げてきたのは、創価学会である。皆さまである。
 仏法は勝負である。正義なるがゆえに、断じて勝たねばならない。
 勇気ある信心を奮い起こし、粘り強く、悪を責めて責めぬくならば、必ず明確な結果た現れる。
 いぎ、広宣流布へ、前進また前進! 闘争また闘争! これが、創価学会の永遠の誓願である。
 そこに民衆の平和勢力は堂々と築かれる。
 いかに社会の混迷が深まろうと、民衆が立ち上がれば、希望は開ける。永遠の平和の基盤を築くチャンスは「今」である。心を合わせ、一歩もひかずに前進していきたい。
 結びに、「君よ、強く、また強く、わが人生の劇を勝利で飾れ!」と申し上げ、記念のスピーチとさせていただく。
 (東京・信濃文化センター)

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