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日蓮大聖人・池田大作

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第四回本部幹部会、第一回神奈川県・埼玉… 人生は強気で!

2001.3.27 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

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2  思い出の読書――チェーホフの『桜の園』
 ところで、私は青春時代、ここ巣鴨の東京戸田記念講堂の近くの霊園に、何度か来たことがある。当時、戸田先生の事務所が市谷にあり、時間を見つけて、そこに来た。新聞紙の上に座って、世界文学全集を、むさぼり読んだものだ。
 読書には、電車の中もいいが、読み始めて、いいところになると駅で止まる。込んでくる(笑い)。それに当時は、戸田先生の事業が行き詰まり、私も懸命に働いたが、お金がなく、コーヒー代も、もったいなかった。
 そこへいくと、霊園は静かだし、場所代もいらない(笑い)。読書には絶好の場所であった。
 きょうは、各地の桜も満開である。それにちなんで、思い出の一書である、ロシアの作家チェーホフの名作『桜の園』から話を始めたい。
 チェーホフといえば、ロシアを代表する作家の一人である。彼の最後の戯曲が『桜の園』である。
 完成したのは、一九〇三年。ちょうど、牧口先生が『人生地理学』を発刊された年であった。
 舞台は、農奴解放(一八六一年)の後のロシア。旧勢力が没落し、新勢力が台頭する、革命前の社会が背景になっている。タイトルの「桜の園」は、物語が繰り広げられる、美しき自然の地である。
 チェーホフは、この作品を通して「人間の生活も美しくあれ! そのために、たゆまず働いていけ!」と訴えているのである。
 『桜の園』は、こういう物語である。
 五月、口シアは、桜が満開の季節を迎える。斜陽の地主貴族ラネーフスカヤ夫人が、フランスのパリから、代々の領地である、故郷の「桜の園」に帰ってきた。かつて大金持ちだった夫人は、その時、莫大な借金をかかえていた。
 農奴階級から出て裕福な商人になったロパーヒンは、「桜の園」を別荘地として貸し出すよう勧めた。
 夫人は、これだけは絶対に手放したくなかった。にもかかわらず、夫人も、その兄も、時代の流れを理解できず、何の対策も考えようとしなかった。
 やがて、競売が行われ、「桜の園」は、ロパーヒンに買い取られる。
 小さいころから親しんできた、美しい桜の咲く″幸福の園″を失い、夫人は、悲痛な思いで、ふたたびパリに戻ることを決めた。
 夫人の娘は、古い世界との決別を、むしろ喜んだ。
 「あたしたちは新しい園をつくりましょう、これよりもっとすばらしいのを」(湯浅芳子訳、岩波文庫。以下、引用は同じ)
 そう母を心から励まし、若き青年と手を取りあって、新しい時代に向け、新しい希望に燃えて、新しい人生を出発していった。
3  先手で勝て! 忍耐で勝て!
 物語は、必ずしもハッピーエンドとは言えない。それぞれの未来は未知数である。
 しかし、私は思う。春になれば、またふたたび、桜が咲く。どこかに咲く。希望を忘れるな。忍耐強く春を待ち、必ず成功し、勝利して、人生を飾るのだ!――そんな励ましが胸に響いてくる。
 人生は波瀾万丈である。時代は変化の連続である。それに振りまわされず、逆に、どう先取りし、勝利していくか――ここに人生の究極があり、仏法の真髄がある。
 ロシアにも今、SGIの支部が結成されている。メンバーは皆、意気軒昂である。
4  青年時代、戸田先生にお会いするたび、「今、何の本を読んでいるか。何が書いてあったか」と、よく聞かれたものだ。「まさか、そこまで聞かないだろう」と思っているときにかぎって、パッと聞かれる。(爆笑)
 戸田先生は、それはそれは鋭かった。天才的であった。世界一であると私は今も思う。
 『桜の園』は、美しいドラマである。感激して、二回、三回と綴り返し読んだ思い出がある。
 この中で、チェーホフは、若き青年に、こう語らせている。作者の思いが凝縮された言葉であろう。
 「人類はこの地上で可能なかぎりの最高の真理に向って、最高の幸福に向って行く、そしてぼくはその最前列にいるんだ!」と。
 ソ連の最高指導者として初めて来日したゴルバチョフ大統領とお会いしたさい、私は、この一節を引いた。迎賓館の一室であった。(一九九一年四月)
 「大統領の戦いは、いわば、この青年と同じです」と言う私に、大統領が「ダー(そのとおりです)」「ダー」と繰り返しておられた姿が忘れられない。
5  「創価の園」を爛漫と
 チェーホフの作品には、味わい深い言葉が、たくさん、ちりばめられている。鋭い社会観、人間観がにじみ出ている。たとえば――。
 「なんのためかわからず存在している人間がどれほどいることか」
 ″何のため″という目的観を忘れた人生は、むなしい。情けない人生である。
 こんな言葉もある。
 「人間は労働しなければ、額に汗して働かねばなりません、それが誰であろうとも。そして結局この一点に、そのひとの生活の意味や目的や、そのひとの幸福、そのひとの有頂天な歓びがあるのよ」(『三人姉妹』湯浅芳子訳、岩波文庫)
 遊んでばかりいるのが幸福ではない。人間は努力すべきだ。そこに幸福がある。喜びがある。これこそ、学会の青年部である。
 私たちが築きゆく「桜花爛漫の園」――それは「創価の園」であり、「和楽の園」であり、「使命の園」である。「仏法の園」は、「全員が健康で長寿の人生を生きる花園」なのである。
 チェーホフは言う。
 「確信なさるがいい、よりよき時代はきますよ!」「新らしい生活の朝映けは輝きだすでしょう、一具理が勝櫛御するでしょう」(「六号病室」湯浅芳子訳、『退屈な話・六号病室』所収、岩波文庫)
 新しい時代は必ず来る!
 正義は必ず勝利する!
 この大確信をもって、意気揚々と進んでまいりたい。
6  神奈川の皆さま、千葉の皆さま、そして、埼玉の皆さま、晴れやかな二十一世紀の第一回総会、まことに、おめでとう!(拍手)
 神奈川の「聖教新聞」の偉大な拡大、本当にご苦労さま!(拍手)
 そして、いよいよ埼玉の時代である。千葉の世紀である。
 三つの県は、それぞれに偉大な力を満々とたたえ、前進している。
 遠くは、七百五十年前、日蓮大聖人の仏法の赫々たる旭日は、千葉の天地から昇った。
 近くは五十年前、わが「聖教新聞」の創刊号を飾ったのは、神奈川の目覚ましい拡大の息吹であった。その時の、「聖火鶴見に炎上」との見出しは、戸田先生がつけられたものである。
 (「含聖教新聞」は、昭和二十六年(一九五一年)四月二十日に創刊。創刊号の二面に、草創の鶴見支部が、勇んで折伏を前進する様子がつづられている)
 また、戸田先生が亡くなられた後、「われらの第三代会長を、早く推戴せよ!」と声をあげ、当時の学会首脳を突き動かしていったのは、埼玉の青年部であった。
 「新しい歴史」は、「新しい地盤」「新しい天地」から始まる。「新しい人材」の息吹から始まる。
 一人の人間の気力、迫力から始まる。自分自身から始まるのである。
 今、二十一世紀の新しい勝利の電源地は、神奈川、千葉、そして埼玉の三県であると、私は宣言しておきたい。(拍手)
 勝つことは楽しい。勝つことは幸福である。反対に、負ければ悲しい。皆がつらい思いをする。
 仏法は勝負である。ゆえに、断じて「勝利また勝利」の歴史を、堂々と、愉快に築きたい。
 以前、東京婦人部の代表から私ども夫婦に笛をいただいた。(名誉会長が吹くと、「ピーー」と勢いある笛の音が)
 この笛の音を、勝利への出発の合図として、進んでまいりたい。(拍手)
7  百六十の名誉市民は「偉大なる世界宗教」の証明
 きょうは、ルネサンスの都イタリアからも、わが愛する同志が来られている。遠いところ、ありがとう!(拍手)
 第二次世界大戦中、悪逆なファシズムは、イタリアの大地を、むごたらしく蹂躙した。そのと
 き、勇敢なる人々は、民衆の抵抗運動「パルチザン」を組織し、反転攻勢に打って出て、正義の勝利を決定づけていったのである。
 民衆が主役である。″人は頼らない。自分たちが戦うのだ″――これが彼らの決意であった。
 この解放運動の発祥の地となり、電源の地となったのが、ヴァラッロ市である。
 スイスとの国境に近く、周辺には美しい湖がある。歴史が光るこの地でも、わがSCIの同志は勇んで活躍している。
 光栄なことに、この英雄都市ヴァラッロ市から、先日(三月三日)、私は名誉市民の称号をいただいた。皆さまを代表しての受章である。
 また、本日(三月二十七日)午前、″太平洋の楽園″ミクロネシア連邦から、栄えある「名誉国民」の称号を、妻と私に授与していただいた。
 式典は、代理の方に参加をお願いした。大統領の出席のもと、大統領府で盛大に行われたと、連絡が入っている。
 (名誉会長に贈られた「名誉市民」「名誉国民」等の称号は、ヴアラッロ市で百六十。決定しているものを含めると百七十五になる)
 以前、日本の著名な学者は、「名誉市民の称号は、『わが市民の模範』とする人物に、それぞれの都市の威信をかけて授与するものである」と、その意義を論じながら、心からの祝福を寄せてくださった。それほど、一つ一つの受章に、深い意味がある。
 こうした世界からの顕彰も、すべて、わがSGIの同志のおかげである。皆さまは、模範の良き市民として、社会のため、未来のため、人々のために貢献しておられる。それが、世界からの賞讃となって結実したのである。心から感謝申し上げたい。(拍手)
8  「あの人はさすがだ」と言われる人に
 大聖人は神奈川の先人である四条金吾に、こう仰せである。有名な御聖訓である。
 「四条金吾は、主君の御ためにも、仏法の御ためにも、世間に対する心がけも立派であった、立派であった』と鎌倉の人々から言われるようになりなさい」(御書1173㌻、通解)
 社会人として自分がいる場所で、職場で、地域で、信心を根本に、「あの人は立派だ」「あの人は、さすがだ」と言われるような人になっていただきたい。皆に尊敬され、信頼される人になってもらいたい。それが広宣流布であるからだ。
 その反対に、人に迷惑をかけたり、インチキをしたりするのは、仏法を貶めるものであり、謗法である。
 さらに大聖人は、「強盛の大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人、さらには日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい」(御書1118㌻、通解)と励ましておられる。
 とくに、鎌倉の皆さんは、「現代の四条金吾」の誇りを胸に、偉大なる自分自身を築いていただきたい。
 「強盛の大信力」とは、強力なエンジンのようなものだ。猛スピードで、力強く、人生の道を突き進んでいける。
 どうせ生きるなら、大目的に向かって、大確信をもって、自分自身の「栄光の山」を、悠然と、楽しみながら登りきることだ。
9  人生、弱くては、つまらない。「私は創価学会だ。だれが何と言おうが、偉大な創価学会の代表だ」。そのくらいの決心で、胸を張っていくべきだ。
 自分は自分である。自分の人生である。だれがどうとか、どう見られるとか、そんな臆病な、畜生根性は捨てて、堂々と生きて生きて生きぬいていくことだ。
 悪意の声には、厳然と、「信心して何が悪いんだ。憲法に書いてあるのか!」。(爆笑)
 また「創価学会は、これだけ大勢の人を救いました。あなたは、どれだけのことをしたのですか」と聞いてみればよい。
 強く、強く生きるべきである。人生、強くなければ損である。戸田先生も「強気でいけ」と、よくおっしゃられた。
 これが信心である。もうこれ以上、強いものはない――「最強の力」が、信心なのである。
 大聖人も迫害された。偉業を成し遂げようとする人間は皆、迫害されている。最初から、ちやほやされる人生は、もろく、はかない。
 正義の道、信念の道を生きぬく人が、究極的にはいちばん立派な人生なのである。
 ゆえに大聖人は、「難来るを以て安楽」、「これほどの悦びをば・わらへかし」、「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と。
 ――必ず難がある。難を喜ベ! 非難中傷を喜ベ! 臆病であっては絶対にならないと仰せなのである。
 今や創価学会は、厳然たる「日本の柱」となった。そして、百六十を超える「名誉市民」の称号は、世界からの絶大なる「信頼の証」である。「仏法即社会」「社会即仏法」の実証である。
 二十一世紀の世界宗教として、SGIの運動は深く期待されている。
 「創価学会は、全世界で勝った!」
 そう私は宣言したい。大いなる自信をもって進んでいただきたい。
 神奈川といえば、私が、会長を勇退した直後の昭和五十四年の五月、神奈川文化会館で、少人数の友と、横浜の「みなと祭」の大パレードを見た思い出も懐かしい。
 今年のパレードは、栄光の五月三日に行われる。わが平和の天使・鼓笛隊も、晴ればれと出場されると、うかがった。創価学会の凱旋の象徴である。
10  父から子ヘ「君よ正義の仇を討て!」
 さて、話はイタリアに戻る。
 英雄都市ヴァラッロ市では、第二次世界大戦中、当時の市長みずからが犠牲となって、ファシズムに抵抗した歴史を持つ。
 指導者が先頭に立つことである。そうでなければ、本当の戦いはできない。後に続く者は信用しない。
 また民衆の解放運動「パルチザン」の総司令官も、この地から躍り出た。そして、この地に生まれ育った無名の庶民の英雄たちが、一歩もひかずに勇猛果敢に戦闘して、世界的な歴史を残した。
 戦ったのは庶民であった。時代を創ったのは民衆であった。
 時は一九四四年(昭和十九年)の秋――。牧口先生が、ここ巣鴨の牢獄で日本のファシズムと戦いぬき、獄死されたのと、ほぼ同時期のことである。
 激しい闘争のなかで、極悪非道のナテスに捕らえられ、裁判もなく、同志と一緒に「銃殺」に処せられた一人の庶民がいた。この地に生まれた四十代の男性であった。
 彼が、死の前に家族にあてた遺書がある。現在まで、涙とともに読み継がれてきた手紙の一つである。
 その遺書には、妻と、まだ幼い娘たちに、こうつづられていた。
 「泣かないで、おまえたちの夫を、父親を、誇りに思うのだ。十八歳のとき、わたしは十八カ月を監獄で暮らし、四十一歳のいま、理想と祖国の自由のために命を捧げる」(P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編『イタリア抵抗運動の遺書』冨山房百科文庫。この部分は坂斉新治訳)
 「泣かないで!」――。自分は今、死んでいく。しかし、誇りに思いなさい。私は理想と自由のために死んでいくのだから!――と。
 さらに、この男性は、わが子に、こう書き残している。
 「父さんはおまえに永遠の別れを告げる。けれどもあの世からもおまえを守ってあげるよ」「いつものように元気を出して、卑劣なナチ=ファシストのため父さんにはかなわなかった大義を、守りなさい」(同前)と。
 自分にはできなかったが、あなたは、私の分まで生きてくれ。正義の仇を討ってくれ!」――と。
 あまりに崇高な「生命の絆」である。
 こうした無冠の勇者たちの、人生をかけ、生命をかけた闘争また闘争。それによって、イタリアの「正義と人権の勝利」は勝ち取られてきたのである。
11  「悪」と戦わなければ「善」ではない。
 広宣流布の闘争も、方程式は同じである。
 悪を倒さなければ、広宣流布はできない。
 悪人とは結託し、善人をいじめる。これが日本である。畜生根性、島国根性で、最高に正しい大聖人をいじめ、また、大恩ある中国や韓国をいじめぬいた。この日本の醜き国家悪とまっこうから戦ってきたのが創価学会なのである。
 学会の歴史は、無名の庶民が切り開いてきた歴史である。皆さまこそ「民衆の英雄」である。
 ゆえに私は、毎日、皆さまの無事故、ご健康、ご長寿を祈っている。亡くなられた同志の方々にも追善の題目を送らせていただいている。
 私は、一緒に広宣流布に戦ってくださった同志を絶対に忘れない。たとえ名前を忘れても、生命の波動はつながっている。生命の絆は三世永遠なのである。
 また、お子さんがいるご家庭は、広布の精神をしっかりと、わが子に伝えていっていただきたい。親から子へ尊き精神が継承されてこそ広宣流布である。後世のために、あえて強く申し上げておきたい。
12  かつて対談したローマ・クラブ創始者のA・ペッチェイ博士も、ファシスト政権と戦い、投獄され、拷問された。
 これまで世界の多くの識者と語りあってきたが、さすがと思う人物は、だいたいが正義のために弾圧され、投獄されている。それほどの闘争なくしては、歴史は創れないのである。
 ペッチェイ博士とは、パリで、フィレンツェで、また東京・渋谷の国際友好会館でも、お会いして語りあった。ファシズムとの壮絶な闘争を詳しく打ち明けてくださったこともあった。何時間も語られ、これで正しい歴史を残すことができたと、ホッとした表情をされたのが印象的であった。
 (語らいは対談集『二十一世紀への警鐘』に結実し、世界十七カ国語で出版されている。本全集第4巻収録)
 博士が逝去された後、ご子息のロベルト・ペッチェイ博士とも、リカルド・ペッチェイ博士とも、お会いし、お父さまのことを語りあったことも懐かしい思い出である。
13  イタリアといえば、かつて、世界最古のボローニャ大学で講演した。(一九九四年六月一日)
 このボローニャの市庁舎の壁には、パルチザンの戦いに殉じた人々の顔写真と名前が飾られていた。今なお、大勢の市民が訪れ、献花もされていた。私は感動した。
 ともあれ、「人生は戦い」である。いざという時に勇気を奮い起こして、正義のために戦いきった人生は、不滅の「生命の栄冠」が輝いていく。
 わが学会の尊き最前線には、広宣流布の魂を炎と燃え上がらせた「真の革命児」が勇み立っている。だから強い。だから負けない。
 「学会っ子」として生き通した人は、生々世々、永遠の大福徳に包まれる。その誉れの名は、大宇宙にも、轟ていく。御聖訓に明確である。これが大聖人のお紺束なのである。
14  女性の声と言葉が社会を変える
 ところで、このイタリアの「パルチザン」の淵源は、いったい、どこにあったのか。その大いなる原動力の一つが、母たち、女性たちの勇気であった。
 ヴァラッロ市があるヴェルチェッリ県は、欧州最大の稲作の中心地として知られている。稲作に従事する女性労働者が数多くいた。
 彼女たちは「田植えをする女性たち」――「モンディーネ」と呼ばれていた。
 この「モンディーネ」は過酷きわまる労働条件の改善を求めて、弾圧も恐れず、敢然と、忍耐強く、人権闘争を続けてきた歴史があった。
 一九〇六年、「一日八時間の労働」を明文化した契約が結ばれたのも、彼女たちの努力によると言われている。そして、「モンディーネ」は、ファシズムの圧制下にあっても、決して闘争の炎を絶やさなかったのである。
 彼女たちは、力強く、歌を歌いながら、前進を続けた。
 ♪私たちは女だけれども、恐れるものはない。私たちには、美しい良い舌がある……(歌「私たちは女だけれども」から)
 「美しい良い舌」とは、声と言葉の力である。声と言葉で、女性たちは戦ったのである。
 こんな歌もあった。
 ♪牢獄も暴力も、何も私を止めることはできない(中略)。だれかが戦争をしたがったら、私たちはみんなで一緒になって、そいつを止めるだろう。私たちは、大地の上に平和を求める。私たちは、大砲よりも強くなる……(歌「私は田植えをする女」から)
 この女性たちの勇気は、容赦ない弾圧の下でも、地下水脈のように、心から心へ、魂から魂ヘと、ほとばしり、歴史変革の大河のうねりを起こしていったとされている。
 私は何も恐れない! 何ものにも負けない! その強さを持った人が、勝利者である。
 イタリアの勇気ある女性たちの姿は、そのまま、学会婦人部の姿と重なる。
 私たちには「信心」がある。「信心」こそ究極の勇気の源泉である。
 この「勇気の太陽」を胸中に昇らせながら、わが地域を、わが家庭を、わが同志を燦然と照らしていっていただきたい。
15  学会こそ「新世紀の希望」
 さて今月(三月)三日、ヴァラッロ市のシンボルである「ダッダ宮殿」で行われた「名誉市民証」の授与式――。その席上、高名なピット市長は、こう語ってくださった。
 「現代人は、精神が衰弱し、平和や人権の問題を、国家や政府などの他人に預けてしまいがちです。それではいけない! 平和も人権も、私たち一人一人が日々、主体的に努力すべき問題なのです。この意味から、私は、池田会長ならびにSGIが進めている平和と人権の運動を、心から尊敬しています」
 皆さま方の日々の真剣な行動に対する、世界の識者の共感の声として、ご紹介させていただいた。
 多くの人たちが、自分のことばかり考えて、苦悩する人々のことを忘れ去ってしまった現代社会である。そのなかにあって、皆さまは、来る日も来る日も、人間のために戦っている。社会のために行動している。
 だから、世界は学会を信用しているのである。だから、世界は学会に「新世紀の希望」を見いだしているのである。
 そして今、世界からの連帯の波動は、日本の社会の認識をも揺り動かし、変えようとしている。
 日蓮大聖人は、「梵天や帝釈のおはからいとして、日本国の人々が一度に(正法を)信じることがあるであろう。その時、『私も、もとから信じていた』『私も信じていた』という人が大勢、出てくるであろう」(御書1539㌻、通解)と仰せである。
 時代は大きく変化し、正法正義を必ず求めぬいてくるであろう。
 今こそ、チャンス到来である。いよいよ、二十一世紀の模範の世界市民として、新たな「七つの鐘」を打ち鳴らしながら、連戦連勝の大行進を、開始してまいりたい!
16  イタリア・ルネサンスの輝ける詩人にペトラルカがいる。彼は、祖国に対する裏切り者を、こう糾弾した。
 「この種の人間、あるいはむしろ畜生にたいしては、およそ峻厳は人間的であり、およそあわれみは非人間的です」(『ルネサンス書簡集』近藤恒一編訳、岩波文庫)
 裏切り者を断じて許すな! 彼らは畜生なのだ! 厳しく戦っていけ!――これが桂冠詩人の叫びだったのである。
 また、ペトラルカは語る。
 「われわれは名誉ある労苦のために生まれたのです。なんで無為安逸を望みましょうや。のみならず、はじめて挑戦したときは困難と思われたことも、進むにつれてますます容易となることが、しばしばあります」(同前)
 何事も挑戦しなければ始まらない。はじめは大変だが、前進また前進すれば、道は開ける。
 さらにアメリカ・ルネサンスの哲人エマーソンは言う。
 「友人と共にあるとき、私たちは容易に偉大な人間になれる」「生の扉をひろく明け放ってくれるのは友人なのだ」(『エマソン選集』3、小泉一郎訳、日本教文社)
 友と出会い、友と語り、友と心を通わせるとき、みずからの心も、広々と開かれていく。
17  隣人と仲良く
 先日、日本初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士の夫人である湯川スミ先生から、一枚の貴重な写真を頂戴した。
 アインシュタイン博士が湯川博士らと語りあう情景が収められている。ご一家の大切な宝であり、世界の宝である。(「聖教新聞」三月二十七日付で紹介)
 そのアインシュタイン博士は、国家主義に警鐘を鳴らし、「ともかくも、悪を取り除けば善が強くなるという期待が、われわれには残っています」(O・ネーサン、H・ノーデン編『アイインュタイン平和書簡』2、金子敏男訳、みすず書房)と書きき残している。
 悪と戦ってこそ、善が広がる。平和が広がる。悪との戦いを避けるのは、臆病であり、卑怯である。
 湯川スミ先生は現在、九十歳。今なお平和のために、若々しく、生き生きと活動を続けておられる。世界的な平和組織「世界連邦運動」の名誉会長、「世界連邦全国婦人協議会」の会長を務められている。
 スミ先生は「大きな希望を持つことこそ元気の秘訣なんです」(「朝日新聞」一九九四年五月七日付)と話しておられる。
 「世界平和」ほど「大きな希望」はない。
 こうも言われる。
 「世界平和はどこか遠いところでの話ではないのです。私たち一人ひとりが隣人と仲良くする気持ち、自分のためだけでなく人のために生きることを考える気持ち、それが平和につながるのです。そのために女性の使命は大きいと思います。『奥さん』という言葉のように、奥に座っているだけではなく、外へ出て広く世界のことを考えていかなければならないでしょう」(「パンプキン」二〇〇〇年九月号)
 まさに今、女性の時代の到来である。
18  夫の湯川博士は、語っておられたという。
 「人間はほっておくとケンカするものだ。仲良くするには努力がいる」(「産経新聞」一九九六年七月十三日付)
 不断の努力がなければ、平和は生まれない。連帯は生まれない。
 また、博士は述べておられる。
 「この世の中には自分一人だけが生きているのではなく 自分とよく似た しかしまた違った所もある人間が大勢 一緒に暮しているのだということを いつも忘れずにいてほしい どうすれば 自分一人だけでなく皆が仕合せになれるか 人生の一大事とはこの事であると私は思う」(福井市進明中学校に贈った言葉)
 自分一人でなく、皆を幸福に――これこそ「人生の一大事」であると博士は言うのである。
 湯川博士の座右の銘は「一日生きることは、一歩進むことでありたい」。(『湯川秀樹著作集』6、岩波書店)
 私どもでいえば、「進まざるは退転」である。
 その言葉のとおり、博士は日々前進、日々成長の人生を歩みぬかれた。
 心からの感謝をこめて、紹介させていただきたい。
 (湯川スミ氏は二〇〇〇年、池田会長就任四十周年に寄せて語っている。〈「聖教新聞」二〇〇〇年五月一日付〉
 「学会の皆さんは、戸田第二代会長が『地球民族主義』を提唱され、池田名誉会長も、世界の識者と会われて、心をかよわす対話を通し、次の代に安全な地球を受け渡すために力を注いでおられます」「大きな仕事をされるには、本人が立派なだけではなく、そばで助ける人もいなくてはいけません。その意味で、香峯子夫人の内助の功にも、同じ女性として、感動を覚えます」と)
19  季節の変わり目なので風邪などひかれませんように。どうか、お元気で。お体を大切にしていただきたい。
 全員が健康で、ご長寿で、最高の人生を生きぬいていただきたい! と申し上げ、記念のスピーチとしたい。
 きょうは本当にありがとう! 遠いところ、ご苦労さま!
 (東京戸田記念講堂)

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