Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

全国総県長会議 「勇気の声」を「勝利の劇」を

2001.2.28 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

前後
2  昨日(二月二十七日)はアメリカやブラジルなどの「婦人部の日」。この日を中心に、世界の各地で、祝賀の会合が楽しく開催されたと、うかがった。
 アメリカの首都ワシントンでは、総合方面の婦人部の皆さんが「女性平和会議」を開催した。世界銀行ビルを会場に、約三千人の方々が集った。
 私たち夫婦の大切な友人である女性の未来学者ヘンダーソン博士、カナダの環境運動の活動家の方々など、多くの識者が駆けつけてくださったようである。
 なぜSGIが、深い精神性を堅持しながら、しかも、それを現実の社会と世界に広げ、開花させているのか。その姿に、心ある世界の知性は、最大の関心と期待を寄せている。
 中国の妙楽大師の言葉に「一身一念法界に遍し」(「止観輔行伝弘決」大正四十六巻)とある。
 私たちの生命は、本来、宇宙生命そのものと一体である。「一人の人」の中に全宇宙の宝がある。最高に尊貴な存在なのである。
 ゆえに、わが信心の一念は、自身を変革し、一家を変革し、さらには地域、国土、全世界までも、希望の方向へ、幸福の方向へ、平和の方向へと変革していける。ここに、「一念三千」という仏法の極理の実践がある。
 人類の境涯を高める戦いである。
 たとえば、地獄界や餓鬼界、畜生界、修羅界の生命ばかりでは、争いの絶えない嫉妬社会、欲望社会になってしまう。妙法を唱え、一人また一人、菩薩界、仏界ヘと生命を変革していってこそ、平和と文化と教育の花が咲く理想社会が実現できる。たゆみなき「人間革命」への挑戦、そして壮大なる「世界平和」への挑戦こそが、広宣流布なのである。
3  勇気ある女性が世界を変える
 先日、ある方がベートーヴェンのCD(コンパクトディスク)を届けてくださった。それは、ベートーヴェンが作曲した唯一の歌劇「フィデリオ」。信念に生きぬく勇気ある女性を描く。そして、いかに悪人が策謀をめぐらそうとも、正義は最後に必ず勝つ、と高らかにうたい上げている。
 ――舞台は、十八世紀のスペイン。歴史と文化が薫るセビリアの街。
 正義に燃える青年フロレスタンは、横暴な刑務所長ピツァロの罪悪を容赦なく暴いた。しかし、無実の罪をでっち上げられ、フロレスタンは、恐ろしい監獄に囚われる。まさに、闇から闇へ葬り去られようとしていた。
 彼の救出に、勇んで立ち上がったのが、妻のレオノーレであった。彼女は男性に変装して、看守の見習いとなり、監獄の中へ潜入する。「フィデリオ」とは、男装した彼女が名乗った名前である。
 夫が地下牢についに、いると突き止める。最愛の夫は、食事も与えられず、餓死寸前。しかもピツァロは、自分の悪行を暴いたフロレスタンの殺害をもくろんだ。
 夫の絶体絶命の危機に、妻は飛び出して叫ぶ。
 「先に彼の妻を殺せ!」
 「彼の妻?」――驚くピツアロ。
 「私は彼の妻です。彼を救うことを神に誓ったのです。そしてお前を滅ぼすことを!」
 ますます、いきり立つピツアロは、剣で夫婦もろとも刺し殺そうとする。
 毅然と立ちはだかる妻。まさにその時、フロレスタンの友人で、すべての真実を知る大臣フェルナンドが駆けつけ、間一髪で、二人は救い出される。
 極悪のビツァロは逮捕され、哀れな姿をさらして連れ去られていく。
 最後に、合唱が繰り返される。「夫の命を助けた妻をたたえる声は、高すぎるということはない」――と。
 (「フィデリオ」については、『ベートーヴェン全集』講談社などを参照)
4  十年前、アメリカの″知性の都″ボストンを訪問したさい、わが同志の混声合唱団(「ボストン・ルネサンス・コーラス」)が、この歌劇の一曲を熱唱してくださった。
 有志で創作した歌詞には「断固、極悪と戦いぬく」決意が託されていた。
 (当時、極悪の宗門による迫害の最中であった)
 歌詞には、こうあった。
 「われらは誓った。われらは使命を担った。長く苦しんできた皆を助けることを。真実の姿を探し求めることを。疑念と不正の暗雲を払って。
 何人も、ひれ伏すことはない。長い暴政の日々に終わりを告げよう! たがいに同胞を求めあおう! そして友に手を差しのべあおう!」と。
 世界中の勇気ある気高き創価の女性たちを、私たちは心から賛嘆したい。
 そして婦人部、女子部の結成五十周年を、最大に祝福申し上げたい。
5  日蓮大聖人は、けなげに戦う女性の門下を称えて、こう仰せである。
 「釈迦仏が、また(英知の力をもつ)普賢菩薩が、(病気を治す力をもち、法華弘通を誓った)薬王菩薩が、(神通力で法華経を守護する)宿王華菩薩等が、あなた方の生命の中に入られたのだろうか(そうでなければ考えられない不思議なお姿です)。法華経の経文に『世界で人々がこの経を信ずるとき、それは普賢菩薩のお力である』とあるのは、このことでしょう」(御書1115㌻、通解)
 広布に戦う皆さまの生命の中に釈迦仏がおられる。普賢菩薩の力も、薬王菩薩の力も、宿王華菩薩の働きも、全部ある。ゆえに、智慧がわかないわけがない。病魔に負けるわけがない。偉大な生命力がわかないわけがないのである。
 世界の広宣流布は、「普賢」菩薩の力用によると大聖人は仰せである。
 (「御義口伝」に「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり」と)
 広げて言えば、「普く」「賢い」知性の力で広宣流布は進んでいく。
 この二月で、私は世界の大学・学術機関から「百」の名誉博士・名誉教授等の栄誉をいただいた。すべて牧口先生、戸田先生の直弟子として、全同志の代表としての栄冠である。普遍的な知性が、われら創価の人間主義を支持し、信頼し、強く期待している。これこそ、法華経の法理のまま普賢菩薩の英知の力をSGIが発揮している証明であると信ずる。
6  信仰者は迫害こそ誉れ
 人間を深く探究したゲーテは言う。
 「なにごとによらず、嘘や作り話で地固めをするほど、世の中でさもしいことはない!」(「ヴイルヘルム・マイスターの修業時代」前田敬作・今村孝訳、『ゲーテ全集』7所収、潮出版社)
 大聖人が、国中から「犯僧」と罵られたのも、まったくウソの作り話によるものであった。大聖人御自身は、妻子ももたず、肉食すらされない「聖僧」であられた。真実とは正反対の中傷を加えられた。妻をもち、魚鳥を食べる破戒の僧であると非難されたのである。
 大聖人は、真心あふれる励ましを女性の門下に送り、その方たちが大聖人の御教導を喜々として求めていたのであろう。あるいは、それを逆手にとって、邪推したのであろうか。とんでもないことである。
 また、御書には「国主に讒言して伊豆の国へながせし上・又佐渡の国へながされぬ」と仰せである。
 要するに、悪心をいだいた人間の、嫉妬ゆえの攻撃であった。何の科もないのに、策略によって勝手に罪を押しつけられ、流罪されたと推察されている。
 ウソと作り話で、正義の人をおとしいれる――ここに、現代にも共通する迫害の方程式があることを、私たちは厳しく、賢く、見破っていかねばならない。
 さらに、「佐渡御書」には、こうも仰せである。
 「日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのような大難(佐渡流罪)にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分のほうが賢いと思っている。このような、よこしまな者どもが、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちたままになることは、不便としか言いようがない」(御書960㌻、通解)
7  信仰者の魂は「殉教の精神」である。みずからが正しいと信ずるものは、たとえ命にかえても貫いていく――。多くの宗教が世界的に発展したのは、この精神があったからである。そうした歴史を、概括的に見ておきたい。
 まず、キリスト教は、どうであったか。
 イエスは、弟子の一人、ユダに裏切られ、十字架にかけられた。
 ローマ帝国では、暴君ネロの時代に、ローマの大火がキリスト教徒のせいにされて、数多くの教徒が処刑された。別の時代には、市民が見物するなか猛獣の餌にされたり、生きながら火あぶりにされるなど、残虐きわまる仕打ちを受けた。
 しかし、激しい迫害にも屈せず、いやまして信仰の炎を燃え上がらせた。勇気ある殉教は人々の心を動かした。皇帝が公認し、やがてローマは、キリスト教の国となった。
 東洋にも布教を進めるなか、中国、韓・朝鮮半島でも弾圧された。日本では、とくに豊臣秀吉の時代、徳川幕府の時代、キリシタンヘの弾圧は苛烈を極めた。
8  では、ユダヤ教はどうか。
 ユダヤの人々は、紀元前六世紀のユダ王国の滅亡とバビロン捕囚以来、迫害と苦難の連続であった。ローマ帝国時代には、圧政に立ち上がったユダヤ人たちが、激しい弾圧を受けた。居住地は破壊され、多くが流浪の民となった。
 十一世紀以降のヨーロッパでは、十字軍の手によって、多くのユダヤ人が、たびたび迫害された。ヨーロッパ各地で、根も葉もないうわさで憎悪があおられた。そのため多くのユダヤ人が弾圧され、虐殺された。
 十五世紀の終わりごろ、スペインでは、ユダヤ教徒に対する異端審間と大規模な国外追放が行われた。
 十九世紀後半のロシアでは、「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤの集団暴動によって、大規模な破壊と殺戮が繰り返された。第二次世界大戦では、ナチス・ドイツによるホロコースト(大量虐殺)によつて、六百万人ものユダヤ人が尊い命を奪われている。
 さらに、イスラム教はどうか。
 開祖ムハンマド(マホメット)は唯一神の信仰を説いた。しかし、当時、一般のアラブ人は多神教であったため、先祖伝来の神を冒漬する者として迫害された。激烈で妥協を許さないムハンマドの言葉は、青年の心をつかんだ。それだけに支配者層は妬み、恐れて、弾圧した。
 ムハンマドは、布教をしては石を投げられ、故郷を追われ、命を狙われた。攻撃は一族や弟子たちにも及んだのである。
9  仏教についてもふれておきたい。
 釈尊は、「九横の大難」を受けた。自分の一族が波瑠璃王によって攻め滅ぼされ、「御身したしき人数百人切りころす」惨劇があった。一切の外道から「大悪人」と罵られた。弟子の提婆達多に裏切られ、殺されかけた。デマの醜聞を流され、悪口を投げつけられた。
 釈尊滅後の弟子も、師子尊者は正法のゆえに首をはねられた。
 天台大師も、当時、勢力を誇った「南三北七」の十派にうらまれ、悪口中傷された。坊主たちがカラスのように群れをなして悪口を言い、罵り騒いだという。
 伝教大師も、南都六宗から憎まれ、悪口雑言をあびせられた。
 日蓮大聖人が命に及ぶ大難を厳然と乗り越えられたことは言うまでもない。門下も讒言のために囚われ、追放され、殺された。熱原の法難では、農民信徒二十人が不当に逮捕され、拷問され、神四郎・弥五郎・弥六郎が斬首された。
 そして創価学会は、軍国主義と戦い、戸田先生は投獄、牧口先生は獄死した。
10  これらは、ごく一例にすぎない。無数の人々が信仰ゆえに迫害された。その歴史的事実を、ゆめゆめ忘れてはならない。
 これらに比べれば、われわれの受ける非難、中傷など微々たるものである。小さな波のようなものだ。ゆえに、いかなる迫害も恐れてはならない。断じて打ち破っていくことだ。
 もちろん、殉教といっても、尊極な生命を粗末にすることは絶対にいけない。時間を惜しんで、どこまでも「広宣流布のために」戦いぬくことが、殉教に通じていくのである。
 何が正義か。何が邪悪か。それを峻別する目をもたねばならない。
 フランスの思想家ルソーは言う。
 「真に寛容な人間はけっして犯罪を許しはしません。彼は人間を邪悪にするいかなる教義も許しはしません」(「山からの手紙」川合清隆訳、『ルソー全集』8所収、白水社)
 アメリカの民主主義の父ジェファソンは呼びかけた。
 「もし、きみが人民を啓蒙するならば、かれらの心身をくるしめている圧迫は、あかつきの悪魔のごとく退散するであろう」(S・K・パドーバー『トマス・ジェファソンの思想』ミヤザキ・ヒロシ訳、民主教育協会)
11  青年よ、広宣の全責任を担い立て
 忘れ得ぬ三・一六「広宣流布記念の日」。その日を前に、戸田先生は青年につづり残された。
 「どうしたならば、混乱せる世界の政治情勢、経済情勢に平和を与えることができ、日本民衆も、自他ともに安定した世界を創造できるかと、揣摩探査(=思索し探求)するときに、自然に中年層も、老年層も、これ(=青年)に追随して、りっぱな代議士を選出できるのである」(『戸田城聖全集』第一巻)
 「とまれ、青年は心して政治を監視せよ」(同前)
 これは、戸田先生の遺言である。私は、そのまま、青年部に贈りたい。若き哲人が正義を叫ばなければ、日本の未来の希望は開けないからである。
 青年部の世紀である。広宣流布の全責任を担い立ち、死にもの狂いで、自分自身の勝利の金字塔を打ち立ててもらいたい。
 今がチャンスである。何でもいい、何かで歴史をつくることだ。やれば自分が得をする。やらないで損するのも自分である。諸君の戦いを、だれが見ていなくとも、御本尊が御照覧である。私は見守っている。
 今の十倍、いな百倍の勢いで、頭脳を回転させ、猛然と動き、正義を語りぬいていくことだ。あえて苦労を求め、みずからを鍛え、速度を増して成長していってほしい。それ以外にない。諸君の成長いかんで、学会の命運が決まるからである。
 ヘレン・ケラーは言っている。
 「私たちは、私たちの力に相応した仕事を与えてください、ということを祈るのではなくして、私たちの仕事に相応し、大望心に燃え、はるかな目的に向かって、おおしく進みうる力を与えてください、ということを祈るのでなければなりません」(『わたしの生涯』岩橋武夫訳、角川文庫)
 本年上半期の大勝利を誓いあい、朗らかに、楽しく戦って、またふたたび、お会いしましょう。
 (創価文化会館)

1
2