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日蓮大聖人・池田大作

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第二総東京最高協議会 世界の文学を語る(3)――トルストイ『アンナ・カレーニナ』

2001.2.24 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

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2  破門されたトルストイを民衆は支持
 第二総東京の最高幹部の協議会、ご苦労さまです。フランス、アルゼンチンの代表の方々も、遠いところ、本当にようこそお越しくださった。
 「新しい世紀」である。心晴ればれと、自分自身の「新しい歴史」を築いていただきたい。「新しい人材」を育てながら、皆の「新しい力」を引き出していただきたい。
 皆さまの「和楽のスクラム」は、本当にすばらしい。
 「和楽」は幸福であり、楽しい。広宣流布へ拍車をかける。「不仲」は皆が苦しみ、地獄である。広宣流布を妨げる。仲良きことは美しい。仲良き前進が、喜びと勝利と栄光の道である。
3  ちょうど百年前のきょう、二月二十四日は何の日であったか。
 精神闘争の歴史に、特筆すべき出来事があった。すなわち、世界的文豪トルストイが、口シア正教会の宗務院から破門され、その決定が新聞に公表されたのが、一九〇一年の今日だったのである。
 トルストイ本人には、事前に何の話しあいもなく、通達さえない、突然の暴挙であった。この日の新聞を見て、トルストイは初めて、自分が破門されたことを知ったほどである。この年、トルストイは七十三歳。
 宗務院は、みずからが民衆に君臨する上で、邪魔でならないトルストイを、「あらゆる異端の元祖」「神を漬す大それた罰当たり」などと決めつけ、中傷誹謗した。破門状には、「教会葬の剥奪」についても記されていた。
 陰険な脅しであった。特別に厳しい破門にして呪いをかけ、教会葬もせず、その結果、魂は地獄に堕ちるぞと、ほのめかしたのである。
 正義の巨人は、正義なるがゆえに、巨人なるがゆえに、焼きもち焼きの権威・権力から迫害される。これが歴史の常である。
 しかし「途方もなく大きな人」トルストイは、歯牙にもかけなかった。この二月二十四日、新聞で自分の破門を知ったトルストイは、いつもと変わらず、悠然と散歩に出かけたという。
 悪事を働く権力が、「偽りの世論」を、どんなにあおり立てようとも、「真理の力を知る一人の人間の心のなかに湧く真理の自覚の前には物の数ではない」(『宗教論』下、中村融訳、『トルストイ全集』15、河出書房新社)――これがトルストイの確信であった。
 一方、不当な破門に、民衆は激怒した。真っ先に青年が立った。トルストイの破門が新聞に報じられたその日、多くの学生がそくざに集まり、断固たる抗議の声を上げた。賢明なる民衆は、トルストイを熱烈に支持した。理不尽な宗務院には、怒りをこめて抗議した。
 私は、かつてモスクフの「トルストイ資料館」を訪れた(八一年)。そのさい、民衆から寄せられた激励や共鳴の手紙の一部を目にしたことが懐かしい。
 宗務院に対して、ある人は叫んだ。
 「トルストイを侮辱することは不可能であるということが分からないのか!」
 トルストイを社会的に抹殺しようとした、邪悪なもくろみは、完全に、はずれた。それどころか、全世界の良識ある人々から、トルストイヘの擁護の声、感謝の声、賞讃の声がわき起こっていった。世界の物笑いとなったのは、破門した聖職者たちのほうであった。
4  トルストイは言う。
 「われわれは障害にぶつかったら、後退せずに力を倍加しなければならない」(『トルストイ伝』上、川崎浹訳、河出書房新社)
 「精神的活動は最も偉大な、また最も強力な力であります。それは世界を動かします」(ビリューコフ『大トルストイ』3、原久一郎訳、勁草書房)
 これが、トルストイの信念であった。
 わが創価学会も、小さな島国の日本で、宗門の弾圧・破門を勝ち越えるなか、世界からの信頼と共感は、飛躍的に拡大した。これこそ、学会が正しい一つの証左であり、「難」即「栄光」、「難」即「勝利」の実証といってよい。
 (世界の大学。学術機関から名誉会長に贈られた、百の「名誉博士」「名誉教授」等の栄誉も、多くは会長勇退後、なかんずく宗門から破門された後である)
 日蓮大聖人は仰せである。
 「法華経の第五の巻(の観持品)には、『(釈尊の仏法の)末世・末法に入って、必ず法華経の行者が現れるであろう。その時、その国に、戒を持った僧、戒を破った僧など、無量無辺の僧らが集まり、国主(権力者)に讒言をして、法華経の行者を流罪し、なき者にしようとする』と説かれています。ところが、こうした経文がことごとく(私=大聖人に)符合しました。ゆえに未来に仏になることも疑いないと確信しております」(御書1389㌻、通解)
 創価学会の三代にわたる会長の法難も、学会に対する迫害も、その構図は、御聖訓に、ぴたりと符合している。だからこそ、創価の未来の栄光は、絶対に間違いないのである。
5  『アンナ・カレーニナ』――人生の愛と死の探求
 戸田先生は、世界の名作を通して、人生の生きゆく道を、信仰者の魂を、よく教えてくださった。
 きょうは、私が青春時代から愛読してきたトルストイの作品から、『アンナ・カレーニナ』に少々、ふれておきたい。
 アンナ・カレーニナは、主人公の女性の名前。世界中の人が、心を熱くし、人生の愛と死、光と闇を見つめてきた名作である。かのドイツの文豪トーマス・マンは「世界文学におけるもっとも偉大な社会小説」と絶賛した。
 私は現在、世界的な大数学者、モスクワ大学のサドーヴニチィ総長と対談を進めているが、その第一回でも話題になった。(「二十一世紀を見つめて――大学と社会」。総合月刊誌「潮」二〇〇一年五月号から連載を開始〈=単行本『新しき人類を 新しき世界を』として潮出版社から二〇〇二年五月に発刊〉。名誉会長は、九四年のモスクフ大学での講演、「SGIの日」記念提言等でも『アンナ・カレーニナ』に論及している。『戦争と平和』『復活』とともに、トルストイの三大傑作と言われる)
6  この長編に、トルストイが着手したのは、一八七三年。完成は、七七年。彼が四十代の後半の時である。牧口先生は、そのころ、生まれている。(一八七一年〈明治四年〉)
 これに先立つ作品『戦争と平和』を、トルストイは「民族」や「歴史」という巨視眼をもって描いた。
 『アンナ・カレーニナ』は、研ぎ澄まされた筆致で、「家庭」や「生活」に焦点を当て、心のひだを、精妙にとらえていく。
 冒頭が、味わい深い。
 「幸福な家庭はどれもみな似たりよったりだが、不幸な家庭は不幸のさまがひとつひとつ違っている」(木村彰一訳、『トルストイ集』4〈『世界文学全集』37〉、筑摩書房)
 一つ一つの家庭――文豪は、登場させた家庭がもつ人間関係、激しく翻弄されゆく心の世界を凝視しながら、「愛」とは? 「夫婦」とは? 「家族」とは? 「世間」とは? 「生きる」とは? 「死」とは? 「幸福」とは何なのか?――その真実を鋭く探求していく。
7  物語の舞台の一つは、上流階級が出入りする社交界。華やかな世界である。輝くばかりの美貌のアンナは、社交界の花であった。快活で、魅力的で、豊かな教養は人を飽きさせない。しかも、いつくしみ深い、優しく、感じやすい心をもっていた。
 年の離れた政府高官の夫と、最愛の小さな一人息子がいた。アンナの生活は外見上は安定していた。しかし――夫は世間体しか念頭になく、「妻の心の中をのぞいてみようとはしない」人間だった。妻の内面に無関心であった。
 青年将校ウロンスキイとの運命的な出会い。彼の情熱的な求愛。アンナは、道ならぬ恋に落ちる。しかし、そこにも幸福はなかった。虚勢を張りつつも、嫉妬に身を焦がす夫の嫌がらせ。わが子と引き裂かれる苦しみ。冷酷な世間の仕打ち。
 かつての精彩を失っていくアンナ。「心を満たす愛」を、求めても、求めても、手に入れられない――絶望し、彼女は列車に身を投げる。残されたウロンスキイは、死に場所を求めて戦場へと向かう――あまりにも痛ましい悲劇である。
 もちろん、トルストイは、アンナを道徳的に裁くために、この小説を書いたのでは絶対にない。そんなことは、心ない「世間」や「教会」の仕事であった。当時の貴族社会を覆っていた虚偽と欺瞞を告発し続けていたトルストイは、むしろアンナに温かい目を注いでいるようにさえ感じられる。
 その反面、ふだんからアンナに嫉妬していた人たちが、スキャンダルを喜び、ここぞとばかりに、アンナに侮辱の「泥」を投げつけて得意になる姿を″最低のあさましい人々″として描いている。
8  他者に奉仕する″人間愛″の喜び
 暗転するアンナの人生と、あぎやかな対照をなすのが、キチイである。この純真な乙女は、意中の人ウロンスキイをアンナに奪われ、失意のあまり、病気になってしまう。
 虚偽に満ちた社交界を離れ、療養のために訪れた温泉地で、彼女は一人のよき友人に出会う。それは、病んだ人々のために、生き生きと、慈愛の看護に奔走する女性であった。
 学会の白樺会、白樺グループのような存在といえるかもしれない。
 キチイは、その女性との交友を通し、大きく目を開いていく。キチイは知った。
 「ただ自分を忘れて、他人を愛しさえすれば、ひとは平安に、幸福に、そして美しくもなれるものだ」(中村融訳、岩波文庫)と。
 皆から祝福されて、キチイは誠実な農村の指導者、レーヴィンと結婚する。レーヴィンは、トルストイ自身がモデルと言われる。
 結婚したては、よくケンカしたが、やがて、たがいを大事にするようになった。キチイは、家に閉じこもらずに、夫の兄の看病をしたり、はつらつと、他者に献身した。家庭を「人間としての成長」の舞台にして、新しい人生を開いていった。
9  夫のレーヴィンも、兄の死をきっかけに、真剣に生死を見つめ、「自分は何者か」「何のために生きるのか」を模索し、求道していく。いくら哲学書を読みあさっても、満足できる答えは得られない。権威と化している教会にも、幻滅せざるをえなかった。
 懊悩のあまり、時に自殺を考えるまでに思い詰めた彼を救ったのは、じつに一人の農夫との対話であった。
 農夫は言った。
 「ある人間は、ただ自分の欲だけで暮らしていて、ミチュハーなんざその口で、ただうぬが腹をこやすことばかりしてるですが、フォカーヌイチときたら、正直まっとうな年よりですからな。あのひとは、魂のために生きてるです。神さまをおぼえていますだよ」(中村白葉訳、前掲『トルストイ全集』8)と。
 この言葉は電撃のごとくレーヴィンの心を貫いた。「魂のために生きる」。それこそ生の意義なのだ! そのことを自分は、われ知らず、感じていたのだ。信仰がなければ、「野獣のような生」に堕ちてしまうにちがいない――彼は、驚くと同時に、喜びに震えた。
 レーヴインの思索は、民族的熱狂に流され、トルコとの戦争のための自己犠牲をあおる当時の世論にも疑問を突きつける。
 「しかし、自分を犠牲にするだけではなくて、トルコ人を殺すんじゃありませんか」「国民が犠牲になり、またなるつもりなのは、自分の魂のためなので、なにも殺人のためじゃありませんからね」(中村融訳、前掲書)と。
 彼は、「殺すなかれ」との人類の第一の戒めを高く掲げながら、偏狭な独善を打ち破り、宗教や民族の壁を越えた独自の″無抵抗主義″という非暴力の地平を展望するのである。
10  「善行という種をまけ」「地獄とは利己心」
 トルストイは仏教思想にも深い関心をいだいていた。仏教説話をみずから翻訳し、「カルマ」(業)という書物も残した。その中には、次のような記述がある。
 「地獄とはいったい何でしょう? 地獄とは、とりも直さず利己心のことです」
 「よい人との交際は幸福をもたらす」
 「あなたがいい行ないの種をおまきになれば、その立派な収穫は、けっしてあなたを見すごすことはありますまい」(中村白葉訳、前掲『トルストイ全集』9)と。
 幸せは、どこにあるのか。
 「美しさに恵まれているから幸福」とはいえない。「財宝に囲まれているから幸福」ともいえない。「愛する人と一緒になれれば幸福」とも限らない。
 人が幸福そうに見てくれるから幸福なのでもない。人が不幸だと見るからといって、本人が不幸とも限らない。
 物質的にも精神的にも、最高に幸福だと思っていても、それが一生、続くとは限らない。
 では真実の「幸福」は、どこにあるのか――。ここに人生の深遠さがあり、大問題がある。
11  悲劇の宿命に流されゆく「家庭」を、いかにして「幸福」へ、「和楽」へと革命していくか。
 この人類の根本課題に取り組み、無数の「希望」と「蘇生」と「歓喜」のドラマを創造してきたのが創価学会である。
 揺るぎない社会の平和を築くためには、揺るぎない家庭の幸福が土台となる。揺るぎない家庭の幸福を築くには、揺るぎない人生の哲学の実践が、絶対に必要なのである。
 「生命の世紀」の最前線に立って、偉大な模範を示しておられるのが、皆さまである。人類の「希望の太陽」なのである。なかんずく、婦人部、女子部の皆さまは、「女性の世紀」のリーダーとして、生き生きと光っておられる。
 女性は断じて幸福になっていただきたい。一人残らず、最高の幸せを勝ち取っていただきたい。
 これが私の願いである。皆さまのご健康を、幸福に満ちあふれた人生を、私は一生涯、祈り続けていく。
 きょうは、ユゴー文学記念館の館長も出席されている。十年前の開館式には、トルストイの直系の令孫であるセルゲイ氏(医学博士、「トルストイ財団」副総長、「トルストイ友の会」会長)が出席してくださった。
 (セルゲイ氏は、「世界中の人々を結び、人間と自然を結んでおられるSGI会長の行動は、すべて祖父トルストイの思想・理念と一致しております。それは、二十一世紀の人類にとって、いよいよ重要な意味を持つと信じます」と語った。九一年六月、名誉会長には、世界で三人目の「トルストイ友の会」の名誉会員証が贈られている)
 トルストイを生んだロシアの大地でも、今、SGIの同志が活躍しておられる。
12  御書には、伝教大師の言葉「家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」が引かれている。朝な夕な、勤行・唱題の声が朗々と響きわたる家庭からは、不幸や災難が退散しないわけがない。
 信心していても、さまざまな悩みや苦労はあるものだ。しかし、大聖人は、病気に悩む門下に「たとえ、あなたの家の中に病人があったとしても、それは、(一家を不幸にしようとする)鬼神のしわざではない。十羅刹女が、あなたの信心の強さを試しておられるのでしょう」(御書1544㌻、通解)と励ましておられる。
 何があっても、断じて負けてはならない。
 「災来るとも変じて幸と為らん」――これが、変毒為薬(毒を変じて薬と為す)の妙法の偉大な力用である。
 大聖人は仰せである。
 「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を」と。
 ありとあらゆる人々の胸奥から、仏界という、わが生命の「最極の宮殿」を開いていく。この無上の哲理こそが、″人類史の新たな春″を告げゆく「精神の陽光」なのである。
13  仏法の人間主義こそ時代の要請
 世界的に注目されてきた、人間の全遺伝情報(ヒトゲノム)の解読結果が、先日、発表された。
 それによると、人間の遺伝子の数は、これまで、約十万個と推定されていたが、それよりも、はるかに少なく、二万六千から四万個ぐらいであるという。
 また、興味深いことに、人種が異なる人間同士であっても、その遺伝情報は、九九・九パーセントが共通していることが判明したという。すなわち、人間は、肌の色や性別などが違っても、遺伝子から見れば、ほとんど変わりはないというのである。
 この最先端の科学の発見は、あらためて私たちを、「同じ人間」であるという共通の大地の上に立たせてくれるといえる。とともに、それはまた、持って生まれた遺伝子を、どう働かせ、どう発現させていくかによって、いくらでも個性や能力を発揮していくことができるという、人間の大いなる可能性を示しているといえよう。
 あらゆる人に、尊極の生命を見いだし、限りない「智慧」と「慈悲」と「福徳」を、ともどもに輝かせていく、仏法の人間主義が、いやまして求められる時代に入った。
14  トルストイは言う。
 「生活によって教え、それらの光が人々の前に輝くようにするような教えのみが必要なのだ」(『宗教論』上、中村白葉・中村融訳、前掲『トルストイ全集』14)
 「真の、真面目な生活とは、ただ、自覚された最高の法によって進むものだけである」(『日記・書簡』中村融訳、同全集18)
 最高の生命の法にのっとり、一人一人が、堅実に、まじめに生きぬき、戦いぬいてきたからこそ、今日の創価学会の世界的発展がある。
 海には、魚の道がある。空には、鳥の道がある。目には見えないが、人間が、人間らしく、人間として生きていくべき「心の道」がある。その道を、まっすぐに歩み、幸福へと到達するための信心である。
 広宣流布という絶対的幸福の軌道を永遠に外れることなく、家庭から地域へ、社会へ、世界へ、「正義の道」「勝利の道」「最高の人間の道」を、堂々と、悠々と、進んでまいりたい。
15  記念に、フランスとアルゼンチンの知性を紹介したい。
 フランスでは、博物学者ファーブル。彼は、中国の孔子の言葉を引いて、こう語った。
 「あなたの不幸がいかに大きくても、最大の不幸とは、絶望に屈することでしょう」「最大の苦悩も最大の喜びになり、最大の不幸も最高の至福になりうるのです。勇気をとりもどしなさい」(イヴ・ドゥランジュ『フアーブル伝』ベカエール直美訳、平凡社)
 大事なのは、「励ましの声」である。励ましてこそ、人は伸びる。「勇気の声」が、あきらめの壁を打ち破っていく。
 アルゼンチンは、ノーベル平和賞を受けた「人権の闘士」エスキベル博士。現在、私は、博士と対談集の準備を進めている。
 「理想が存在しないと嘆くのではなく、みずから理想を生みだすのです。自由を得ようと思ったら、その自由を抑圧する勢力と闘わねばなりません。後退とあきらめは悪であります。悪への抵抗なくして平和はありません」
 春は英語で「スプリング」。スプリングは「跳躍」「泉」という意味もある。どうか、湧きいずる泉のようにみずみずしく、力をためたバネが跳躍する勢いで、″新世紀の喜びの春″を迎えていただきたい。
 皆さま方のますますのご健康とご活躍を心から祈りたい。第二総東京の各区の偉大な同志に、どうか、くれぐれもよろしくお伝えください。
 (東京牧口記念会館)

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