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日蓮大聖人・池田大作

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東京婦人部の最高協議会 世界の文学を語る(2)――ダンテ『神曲』

2001.2.19 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

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2  すべてを自分自身の栄光の歴史に
 東京婦人部の代表の皆さま、寒いなか、たいへんに、ご苦労さまです。
 この二月、広宣流布の勝利を開く、各地の見事な前進を、私は心の底から称え、感謝申し上げたい。
 広布のために勇んで行動すれば、自分が鍛えられる。永遠の福運を積める。いかなる苦境にあっても、絶対的幸福の軌道へ、宿命転換していける。
 仏法は勝負である。勝ってこそ、仏になれる。戦いは、何よりも「勢い」で決まる。遠慮せず、何ものをも恐れず、正義を語って語って語りぬくことである。広宣流布の歴史は、すべてが自分自身の栄光の歴史と輝いていくことを深く確信していただきたい。
3  日蓮大聖人の御聖誕の月であり、戸田先生の誕生の月であるこの二月、私は、世界中から、数々の顕彰をいただいている。佳節を祝賀する深い意義を感じてならない。それらは全部、不二の同志である皆さま、そして皆さまの子孫末代へと流れ、伝わりゆく栄光である。
 イタリアの美しき古都ラヴェンナ市からも、市の最高栄誉である「平和のモザイク画」を贈っていただいた。(二月二日)
 ラヴェンナ市は、ビザンチン美術が栄え、そユネスコの世界遺産も多い、憧れの芸術の都である。
 そして何よりも、七百年前、追放の身であった大詩人ダンテを迎え、詩人が不滅の名作『神曲』を完成させた地として、歴史に名をとどめている。
 人口十三万人のラヴェンナ市にも、わがSGIの友は、一本部・三支部・九地区の平和の連帯を広げている。ラヴェンナ県、ラヴェンナ市と共催した「現代世界の人権」展には、じつに一万人を超す方々が来場され、幾重にも共感を広げたと、うかがった。
 この地の広布の一粒種は、現在、方面婦人部長。社会にあっても、ラヴェンナ市の広報局で大いに活躍されている。
 さらに、各支部の婦人部長も、医師として病院を開業し、地域の自治会の副会長を務めるなど、皆、社会で大きく実証を示しながら、広布の第一線を生き生きと走っておられる。
 世界のどの国でも、「創価の女性の世紀」の″新生の春″は花盛りである。本当に、うれしいことである。
4  思えば、『神曲』も、女性を、希望と正義の象徴として謳い上げた。
 『神曲』は、ヨーロッパの芸術や思想の大いなる源である。世界文学の宝として、幾多の先人が、尊い研究を営々と積み重ねてきた。
 私は以前、ダンテが学んだボローニャ大学で講演したさい、『神曲』にふれた。イギリスの青年部と語りあったこともある。きょうは、時間の都合もあり、部分的にしか論じられないが、何点か、語り残させていただきたい。
5  謀略・冤罪・追放のダンテの生涯
 ダンテは、日蓮大聖人と同じ十三世紀に、花の都フィレンツェに生まれた。(一二六五年、日本では文永二年)
 私も、かつて、復元された彼の生家を訪れたことを懐かしく思い出す。(一九八一年)
 「新しき世紀は来たりぬ、/正義は、人間の原初の時は、帰り来りぬ」(『神曲』「煉獄篇第二十二歌」平川祐弘訳、『世界文学全集』2所収、河出書房新社。以下、『神曲』の引用は同じ)
 ちょうど七百年前の一三〇一年、三十代半ばで働きざかりのダンテは、新世紀を迎えた。この年、彼は、フィレンツェの「百人委員会」に招かれている。
 当時、フィレンツェでは、有名な「フィオリーノ金貨」が鋳造され、ヨーロッパの経済の中心地として、目覚ましい興隆を誇っていた。
 (一九九二年、フィレンツェ市は、名誉会長に賞讃と栄誉の証として「フィオリーノ金貨」を授与。日本人初の受章であった)
 経済的に繁栄する一方で、フイレンツェは、激しい権力争いに巻き込まれていた。当時のローマ教皇は、野心をいだいて、この自治都市に介入し、豊かな富を、思いのままに支配しようと狙っていた。
 そうした策動に対して、いかにしてフィレンツェ市民の自由と平和と繁栄を守り、悲惨な分裂や混乱を防ぎ、和合と共存を推進するか。ダンテは、誠実に市民の側に立ち、大いに語り、動き、働いた。
6  ところが彼は、その勇敢なる正義の行動のゆえに、恐るべき冤罪におとしいれられたのである。
 一三〇一年、ダンテは、重要な外交使節として口‐マに旅立った、その留守の間に、卑劣な画策によって「欠席裁判」をされ、でっち上げの罪で有罪を宣告される。
 多額の罰金と国外追放を命じられ、さらには、見つけしだい、″火あぶり″にするという無法な裁きまで加わったのである。
 あれほどの功労ある彼を! あれほどの大才ある彼を! あれほどの誠実な人を!
 心ある人は憤ったが、もちろん謀略者たちにとって、「真実」など、どうでもよかった。「正義」など目先だけの、自分を飾る装飾品にすぎなかった。
 こうしてダンテは、極悪人として罵倒され、追放された。迫害は、何の罪もない子どもたちにまで及んだ。人生の幕を閉じるまでの二十年、流浪の旅を余儀なくされたのである。しかし、その最悪の苦難と試練の底から、不撓不屈のダンテは、新たな精神闘争の火蓋を切った。
 善良な人間、正義の人間を、なき者にし、社会を争乱に引きずりこもうとする、この世のありとあらゆる大悪に向かって、言論を武器として、執念の仇討ちを開始した。
 それこそが、この『神曲』の執筆であった。
7  ダンテは手紙につづっている。「作品の目的は、人びとを今陥っている悲惨な状況から遠ざけ、幸福な状態へと導くことにあるのです」(マリーナ・マリエッティ『ダンテ』藤谷道夫訳、白水社)と。
 題名は、もともとは、「コメディア」――すなわち「喜劇」「喜曲」である。
 最後がハッピーエンドなら喜劇。最後が苦悩で終われば悲劇。かつて、そういう約束があった。『神曲』は、地獄の絶望の淵を経て、最後に天上の歓喜にいたる。だから「喜びの劇」なのである。
 トインビー博士は、しみじみと語っておられた。
 「ダンテは、偉大な芸術を生みだすことによって、みずからの私的な不幸を、世界の多くの人々の僥倖へと転換したのです」と。
 ダンテは、この物語を、多くの人々が理解できるように、当時の学問語(ラテン語)ではなく、民衆の「生きた言葉」で表現した。
 さらに、後世の読者を信じて、書いて書いて書き残した。
 ″未来の民に語りつぐだけの力を授けたまえ!″
 これが彼の切なる願いであった。
 ダンテは、目先の毀誉褒貶を見おろして、生死を越えた永遠性の次元から、一切の本質た鋭く見ぬこうとした。
 いみじくも、ダンテという名前は、「永続する者」という意味の言葉に由来する。
 とともに、祖国から弾圧され、故郷を追われながらも、彼は、心広々と「私の故郷は全世界である」という境涯を開いていった。
 「太陽や星の光を仰ぐことは私にはどこにいてもできる」と、彼は語っている。
 打ち続く難を耐えぬいてなお、正義のために戦いぬいていく。その人は、その生命は、宇宙の真髄の法則へと迫っていくものだ。
 ダンテの心は、はるかな宇宙から地上を見おろすような高みに立って、「正義は断じて勝つ!」と信念を高らかに叫んだのである。
8  ダンテ自身の″人間革命の旅″
 『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天堂篇」の三部・全百歌からなる、壮大な詩である。
 ――人生の半ばで暗い森に入り込み、正しき道に迷ったダンテ。絶望する彼の前に、師匠と仰ぐ、古代ローマの大詩人ウェルギリウスが現れる。
 師に導かれて、ダンテは、地獄を下り、煉獄(罪を浄める世界)を通り、過去・現在の人間すべてが裁かれている実相を見つめながら、旅をする。
 そして天堂編で、ダンテにとっての″、永遠の女性″ベアトリーチェに導かれて、至高天へと上昇していく――。
 『神曲』は、たんなる復讐の物語ではない。人生の袋小路で行き詰まったダンテ自身が、救いを求めていく″人間革命の旅″である。
 そして全編は「悪は必ず裁かれる」「善人は絶対に報われる」との厳粛なる因果律に貫かれている。
 たとえば、地獄には、体を切り裂かれた罪人たちがいた。
 その一人が言うには、″自分は麗しく結ばれていた人々を仲違いさせ、その結合を切り裂いたから、その報いで、こうなった。すべては、因果応報だ″と。
 また、「偽善者」――すなわち表面は善を装いながら、内心に悪をいだいていた人間。彼らは地獄で、表は金ピカだが、裏は鉛製で、恐ろしく重たいマントを着せられて、涙を流しながら、歩き続けなければならない。
 さらに、何も行動を起こさず、「ただ自分のためだけ」に生きた人間、臆病風に吹かれて、みずからの責任を捨てた人間の姿も惨めである。「本当の人生を生きたことのない」彼らは、地獄にも、天国にも入ることを拒否され、地獄の入り口で、忌まわしい虫に刺され、泣きながら走りまわっているのである。
 また、嫉妬に狂って、大切な仲間を獄展した人間の末路は、わびしい。嫉妬ゆえに、自分の周囲から、よき人々が次々に消え去り、邪悪な毒を含んだ人間ばかりが集まり、一家眷属もろとも滅亡していく。
 さらに、有徳の人物に対して、事実無根の罪をでっち上げて、おとしいれようとした嘘つきの女は、地獄の谷底に落ちて、自分の身が熱で燃えたぎり、言い知れぬ悪臭を放ち続けている。未来永劫、身動きもとれない。
 「悪魔は嘘つき、嘘の父親」(「地獄篇第二十二歌」)と、ダンテは喝破している。
 また、善なる人を讒言して苦しめた人間は、その報いとして、明るい笑いを失うとも書かれている。その一方で、讒言され、悲運に見舞われた魂は、天上の星々の世界にあっては、燦然と光を放っていくのである。
9  ダンテがとくに、地獄、煉獄で描いた群像は、貪欲な聖職者や高慢な悪徳の政治家など、地位の高い人間たちであった。
 ダンテは、生前は権勢を誇った人間たちを、名指しで容赦なく暴き、弾劾した。それは、なぜか。
 「上に立つ人の行ないの悪さこそが/世界が陰険邪悪となったことの原因」(「煉獄篇第十六歌」)だからである。
 人間の高慢こそ、地獄への墜落の第一の原因なのである。
 人間は死によって、外面的な地位や仮面をすべて剥ぎ取られ、魂の本質が赤裸々に暴露される――ダンテは、こう洞察していた。
 「浮世の名聞はいわば風の一吹き、/ある時はこちらへ、ある時はあちらへと吹く」(「煉獄篇第十一歌」)ものにすぎないのである。
10  厳然たる因果こそ普遍の法則
 日蓮大聖人は、破和合僧などの五逆罪や、正法誹謗の者が堕ちる「無間地獄」の苦しみは、くわしく話せば、聞いただけで血を吐いて死んでしまうほどのすさまじさであると記しておられる。(御書447㌻)
 さらに、こうも仰せである。有名な御文である。
 「(死後の地獄という)このような苦悩の世界に行ったならば、王の位も、将軍の位も、何の役にもたたない。獄卒(地獄の鬼)の責めにあう姿は、猿回しに回される猿と変わらない。こうなった時は、どうして名聞名利や我慢偏執(我を頼んで心が傲り、偏ったものに執着すること)をもっていられようか」(御書1439㌻、通解)
 仏法の生命観に照らせば、三世にわたる因果律は厳然である。
 キリスト教を根底にした『神曲』の世界でも、権力者の悪行は、罪科帳に、すべて克明に記入され、一つ一つ断罪されていく。
 そして、地獄のもっともどん底に堕ちたのは、「裏切り者」である。
 彼らは、全身を氷漬けにされて、顔だけ、氷から突きだして、永劫に震え続けている。
 地上で、まだ生きているにもかかわらず、すでに魂は地獄にあって罰せられている者もいる。
 「裏切り」によって、その人間は魂を悪魔に売り渡してしまったからである。地上の肉体もまた、死ぬまで悪魔に支配されるのである。
 ともあれ、正義に背く裏切り者、反逆者が、一切の災いの根源としてもっとも厳しい呵責を受ける。これは、洋の東西を問わない、普遍的な法則といってよいだろう。
11  気高き女性がすべてを変える
 ところで、ダンテが見つめた地獄にあっては、悪人は、悪魔に責められるだけではない。
 悪人同士が、絶えず憎しみあい、いがみあい、苦しめあい、他人を少しでも自分の下に突き落とそうと争いあっている、醜悪にして残忍な世界である。
 そこは、人間的な共感や信頼や慈愛が、凍りついて死に絶えた世界である。ここに、地獄の地獄たるゆえんがある。
 一方、ダンテの描く「煉獄の山」は、罪を浄める場であるとともに、人間が、人間として、人間らしく、平和で幸福な共同体を築けるよう向上していく訓練の場であり、教育の場とも考えられる。
 そして、理想の「天堂界」は、尊貴な魂たちが、悪には敢然と挑みながら、善友とはたがいに励ましあい、他者のために善を行う世界である。魂は、人の役に立つことを行うと、さらにいちだんと光輝を増すのである。
 この天堂界ヘダンテを導いたのが、気高き理想の女性ベアトリーチェなのである。
12  ベアトリーチェは、ダンテの初恋の相手で、若くして亡くなった女性であった。
 ダンテは、限りない感謝をこめて、この女性に語りかける。
 「ああ夫人よ、私の希望はあなたの中から湧くのです、/あなたは私を救うために、御足労をいとわず、/わざわざ地獄の中までおいでくださいました」(「天国篇第三十一歌」)
 「あなたは、あなたのお力の難ぶかぎり/あらゆる道をど、あらゆる手段をつくして、/私を奴隷から自由の身へ引き出してくださいました」(堂前)と。
 彼女は、ある時は、息も絶え絶えのわが子に声をかける母親のように、力強くダンテを元気づける。ある時は、子を叱る母親のように厳しく、ダンテを正道へ導く。さらに、凛々しい王女の風格をもって、毅然とダンテを勇気づけるのである。
 ダンテの″生命の旅″ともいうべき『神曲』において、ベアトリーチェという「女性」が重要な役割を果たしていることは、深い意味をもっている。
13  地獄も浄土もわが胸中に
 日蓮大聖人は、一人の女性の門下(南条時光の母)に、究極の生命の法理を教えておられる。
 「そもそも浄土というのも地獄というのも、どこか外にあるわけではありません。ただ、私たちの胸の中にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫といいます。これを悟るのは法華経です。ですから、法華経を受持申し上げる人は、地獄即寂光と悟ることができるのです」(御書1504㌻、通解)と。地獄も、浄土も、すべて、わが胸中にある。妙法を信じ、唱え、弘めゆくとき、胸中に霊山浄土が力強く広がっていくのである。
 さらに大聖人は、別の女性門下(日女御前)に、こうも仰せである。
 「(法華経の)宝塔品の時には、多宝如来、釈迦如来、十方の諸仏、一切の菩薩が集まっておられます。この宝塔品が今、どこにあられるかと考えてみますと、それは日女御前の胸の間の八葉の心蓮華のなかにこそあられると日蓮は見るのです」(御書1249㌻、通解)
 三世十方の仏菩薩が、ことごとく結集した壮大なる虚空会の儀式は、広宣流布に生きゆく人の胸の中にあるとの仰せである。
 皆さまの生命の中に、全宇宙の希望と智慧と力が、すべて備わっている。それを引き出すのは、「強盛なる祈り」である。
 また大聖人は、北国の離島の一女性(千日尼)を、こう励ましておられる。
 「たとえば一匹の師子に、百匹の子がいる。その百匹の子どもたちが、多くの鳥や獣に襲われようとするとき、一匹の師子王が吼えれば、百匹の子は力を得て、多くの鳥や獣は皆、頭が七分に割れる。(中略)法華経という師子王を持つ女性は、一切の地獄・餓鬼・畜生などの百獣を恐れることはない」(御書1316㌻、通解)
 最極の正義の哲理をもった人生には、何も恐れるものはない。
14  さらに大聖人は、ある女性門下(さじき女房)に対して、法華経の行者への供養は、たとえそれが小さなものであれ、小さな火が広大な野原にたちまち燃え広がっていくように、無量無辺の福徳となる。それは父母、祖父母、夫をはじめ、あらゆる人々に伝わっていくと教えておられる。(御書1231㌻)
 婦人部・女子部の皆さまの、日々の祈りと行動もまた同じである。その功徳は無量無辺であり、親へ、夫へ、子どもへ、孫へ、親戚へ、隣人へ、友人へと伝わり、広がっていくことを確信していただきたい。広宣流布のために、皆さまが、生き生きと動き、語った分、仏縁は拡大し、社会に希望が脈動していく。
 口は″鉄砲″である。声は″弾丸″である。正義の言論こそ、皆の心を変え、平和と幸福を築く、最強の「武器」なのである。
 日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せである。
 今、ダンテの祖国イタリアでも、仏法の希望の哲理が輝き、歓喜の歌声がこだましている。
 どうか、二十一世紀の広宣流布の本陣・東京婦人部の皆さまは、世界の模範となる「幸福と平和の行進」をお願いしたい。
 皆さまが、きょうも、また明日も、「大歓喜の喜曲」を、そして「大勝利の喜びの劇」を、楽しく、にぎやかに、悔いなく創造されゆくことを心から祈り、記念のスピーチとさせていただく。
 (東京。信濃文化センター)

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