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日蓮大聖人・池田大作

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方面代表の協議会 世界の文学を語る(1)――ドストエフスキー『悪霊』

2001.2.15 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

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1  「新しい時代」は民衆から生まれる
 「偉大なるもの」はすべての人の胸中に
 広宣流布のリーダーの皆さま、いつも本当に、ご苦労さまです。
 あす(二月一六日)は、日蓮大聖人の御聖誕の日である。仏意仏勅の世界広宣流布へ、希望輝く未来を見つめながら、ともに語りあいたい。
 大聖人は仰せである。
 「大将軍をくしぬれば歩兵つわもの臆病なり
 「大将軍よはければ・したがうものも・かひなし
 皆さまは、誉れ高き広宣流布の大将軍である。「今、戦わずして、いつ戦うのか!」との決心で、新しい拡大と勝利への息吹をみなぎらせながら、雄渾の名指揮をお願いしたい。
 その現実の行動こそが、蓮祖大聖人に対する最高の報恩謝徳なのである。
 御書には、「声仏事を為す」とお示しである。また、法華経を弘める日蓮と門下を迫害する「彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり」と厳然と教えてくださっている。
2  指導者は、仏敵に対して猛然と獅子吼していくことである。
 ナテス・ドイツに敢然と抵抗し、二十四歳で死んでいった青年、ハンス・ショルは述べている。
 「僕は手紙より直接に話し合う方がずっと大事だと思っている。直接に語られたことばには納得させる力がある」(インゲ・イェンス『白バラの声』山下公子訳、新曜社)
 また、ハンスらとともに戦った姉のインゲ・ショルは言う。
 「人間を救うことのできるのは、日毎の、瞬間毎の決意だけである」(G・ヴァイゼンボルン『声なき蜂起』佐藤晃一訳編、岩波書店)
 友のため、広布のため、そして自分自身の幸福と勝利のために、正義を語って語りぬく、楽しき日々であっていただきたい。
 戸田先生は、よく青年部に、世界の偉大な文学作品を読ませた。そして、こう教えられた。
 「仏法の生命観は、十界互具、百界千如、一念三千と説くが、さまざまな文学も、十界という生命の働きの範疇で描かれている」
 御書を拝すれば、世界の一流の文学を、より自在に読みこなせるようになる。反対に、世界の一流の文学を読みこめば、御書も、より深く拝せるようになる。まさに「一切の法は皆是れ仏法なり」じである。
3  『悪霊』――「思想」をも欲望の「道具」に
 世界の文学において最高峰の傑作とされる『悪霊』――ロシアの文豪ドストエフスキーが一八七〇年代の初めに発表した長編小説である。
 ドストエフスキーの作品については、ゴルバチョフ元ソ連大統領や、作家のアイトマートフ氏との対談でも、さまざまな角度から論じてきた。代表作の『悪霊』は、レーニンやスターリンなど二十世紀の革命とテロリズムの「予言書」とされる。そこには、くめども尽きぬ精神の教訓を読みとることができる。
 きょうは、この作品を一つ鑑としながら、広宣流布を阻み、和合僧を破壊せんとする魔の本性を鋭く見破っていきたい。
4  「悪霊」とは何か。
 一つの観点として、ドストエフスキーは、無神論的な革命思想のなかに「悪霊」を見たと考えられる。
 彼は、「信仰の否定」が、最終的には、人間性の破壊につながることを見ぬいていた。そして、誤った思想、すなわち「悪霊」につかれた人間は、何かに引き込まれるように、無残に自滅していくことを描いたのである。
 執筆のきっかけは、一八六九年に実際に起きた「ネチャーエフ事件」であった。ネチャーエフは、無神論的な革命思想を唱える、狂信的な青年だった。彼は、暴動と暗殺による革命をめざして、秘密結社をつくった。しかし、恐怖とテロリズムの支配するこの結社には、密告と中傷と専制がはびこっていた。仲間の学生が、そのやり方に疑問をいだいて離れていくと、数人でリンチした末に惨殺してしまった。
 ドストエフスキーは、この悲惨な事件の本質を徹底的に探究した。
 ネチャーエフ一派は、「歴史は破壊によって前進する」という革命理論をもっていた。革命のためには、あらゆる破壊、暴力、陰謀、さらに人間の堕落までが正当化された。ドストエフスキーは、彼らの精神を支配する「権力の魔性」という野獣をつきとめたのである。
 なぜ、こうした破壊的な人間が出現したのか。それは、″神の死″によるニヒリズムの蔓延、それにともなう「精神力の衰退」の結果ではないか。
 信仰を否定すれば、「精神の死」「文明の死」に行き着くほかないのではないか。
 ――そう透徹した史観で洞察していた。
 だからこそ、人間性を破壊する「悪霊」を追放するために、燃えるような情熱をもって黙示録的な戦いを展開したのであろう。
 『悪霊』を執筆していたころ、その心境を彼は、こう記している。
 「思うに、ときには調子をさげて、鞭を手に持って、防禦的でなく、自分のほうから、ずっと乱暴に攻撃をしかけて行かなければなりません」(コンスタンチン・モチューリスキー『評伝ドストエフスキ―』松下裕・松下恭子訳、筑摩書房)
5  ここで、この小説のストーリーを紹介しておきたい。
 舞台は、農奴解放によって古い価値観が揺らぎ、混乱を深めていった帝政時代のロシアである。主人公のスタヴローギン公爵が故郷に戻ってくる。魅力的な教養ある彼は、その実、ニーチェの超人思想を先駆したとされる悪魔的所行の限りを尽くしてきた青年だった。彼を精神的な指導者と仰ぐ革命家ピョートルも、後を追ってやってくる。
 ピョートルは、この地域の権力者に巧みに取り入る一方で、新たに秘密結社をつくる。その目的は、社会の秩序と道徳を徹底して破壊することだった。
 ピョートルは、陰謀をめぐらして、殺人や火災、騒動を引き起こし、地域全体を混乱におとしいれる。さらに、結社を離れていた、かつての仲間を混乱に乗じて殺害させる。スタヴローギンの邪魔になったスタヴローギンの妻と、妻の兄の命まで奪ってしまう。
 やがてスタヴローギンは故郷を去り、ピョートルも、秘密結社の仲間に罪を押しつけて逃亡する。結社の仲間たちは逮捕され、野望は完全に滅び去る。スタヴローギンは、逃れた先で自殺し、彼にかかわった者たちは、最終的に皆、破滅していった。
 主人公スタヴローギンとは、どのような人間だったのか?
 また、ピョートルとは、どのような人間だったのか?
 ドストエフスキーの筆鋒は、「悪に転落する人間」の本質を、鋭くえぐり出していく。
6  人間性を否定し、虚偽に生きれば「生きながらの死人」に
 スタヴローギンは、みずからの絶対的な自由を求めて信仰を否定した人間だった。彼は、その代わりに、魂に「底知れぬ虚無」を抱えねばならなかった。
 信仰を捨てた人間の最後は、本当にみじめである。一時的には、自由を得たように思えても、結局は、みずからの醜い欲望に翻弄されて、人生の敗北者になっていく。
 スタヴローギンは、野獣のように淫蕩にふけった。多くの女性を平気で捨てては、破滅させていった。
 彼にとっては、宗教や思想も、それに「身を捧げる」神聖なものではなく、自分の欲望を満足させるための「道具」にすぎなかった。ある人には徹底した無神論を説き、また、ある人には熱狂的な信仰を説くこともできた。人々の信頼を裏切ることに良心の呵責を感じることもなかった。
 ドストエフスキーは、彼を「虚偽であり虚偽の父」としている。悪徳をほしいままにしながら、その報いは、彼の生命の内奥で進んでいった。自分を嘲笑する悪霊の幻覚に襲われながら、自身の全生涯が「無限につづく欺瞞の列」であることを思い知らねばならなかった。人生に光をもたらす「希望」など何もなかった。いわば″生きながらの死人″として、みずから死を選ばなければならなかった。
7  スタヴローギンの分身ともいうべきピョートルは、野心家であり、陰謀家であった。
 ″この人間は、どこに弱みをもっているのか。どこに付け入ればいいのか。どこを攻撃すればいいのか″。そうした人間の心理に通じていた。
 彼は、権力者に近づいて、お世辞、脅し、作り話などを使い分け、うまく丸めこんでいった。そして、自分の目的のために、いいように利用していった。また、いたずらに過激な思想を広めては、民衆の不安を駆り立て、不満をあおり立てた。
 ドストエフスキーは、彼の本質を「革命のぺてん師で陰謀家、卑劣漢で紛いものの知性」と述べている。
 ピョートルは、こうした陰謀を一つ一つ積み重ね、社会全体を対立と混乱におとしいれていった。新しい社会を建設するために、古い社会を破壊することが、彼らの革命の目的のはずだった。
 しかし実際は、たんなる破壊のための破壊にすり替わっていた。
 ″悪霊″につかれた人間は、何かに魅入られたように、自分の気にいらない人間には、すべて「悪」のレッテルを張り、自分は革命の「正義」の名のもとに、どんな残忍な行為も正当化していったのである。
8  要するに、悪霊につかれた人間――心に何の″聖なるもの″ももたなくなった人間――は、″無限の自由″を得たつもりで、じつは正反対であった。
 虚偽と嫉妬と憎悪と権力欲に支配される″奴隷″になっていったのである。
 ″無制限の自由″は″無制限の専制″に到る――これが『悪霊』全編を貫くテーマである。
 悪の本質は共通している。信心をなくし、同志を裏切り、和合僧の組織に反逆していった輩もまた、その本質は、自身の醜い心に敗北した奴隷であった。
 ドストエフスキーは、『悪霊』の中で、こう記している。みずからの信条を託したのであろう。「もし全世界を征服せんとせば、まず汝みずからを征服せよ」(米川正夫訳、岩波文庫)――と。
 さらに、この小説の結末部分では、信仰を否定する「悪霊」に対して、偉大なるものに対する「信仰」を高らかに訴えている。
 「人間から無限に偉大なものを奪ったなら、彼らは生きてゆくことができないで、絶望の中に死んでしまうに相違ない。無限にして永久なるものは、人間にとって、彼らが現に棲息しているこの微小な一個の遊星と同様に、必要かくべからざるものなのです」(同前)
 そして、悪霊につかれた無神論の人間たちについて、作中人物に、こう語らせているのである。
 「彼らは自分たちの中にもやはりこの永遠な思想が蔵されていることを知らないのだ」(同前)
 ドストエフスキーが信じていたもの――それは「民衆」である。
 モスクワ大学の学生に対する手紙では、こう呼びかけている。
 「民衆のなかにこそ、われわれの救いのすべてがあります」「民衆のなかへはいって、彼らとともにとどまるためには、なによりもまず民衆を軽蔑することを捨て去らねばなりません」(前掲『評伝ドストエフスキー』)
 新しい時代は、民衆から生まれる。民衆から離れた時、精神のとめどもない堕落が始まるのである。
9  永遠の希望の大道を
 ここで御書を拝したい。
 日蓮大聖人は、この世界を舞台に、仏と魔の軍勢が壮絶な戦いを繰り広げていると喝破されている。御聖訓には仰せである。
 「第六天の魔王が、十の(煩悩の)軍隊をひきいて戦争を起こし、法華経の行者と『迷苦の海』の中で、同居穢土(娑婆世界のように、六道の凡夫と四聖〈二乗・菩薩・仏〉が同居する国土)を、『取られまい』『奪おう』と争う。日蓮は、その身に当たって、(仏の)大軍を起こして二十余年になる。(その間)一度も、しりぞく心はない」(御書1224㌻、通解)
 仏の軍勢が勝利しなければ、人類は永遠に不幸の流転となろう。ゆえに断じて勝つことだ。
 広布を阻む悪人と戦わないリーダーは、自身が悪の存在となってしまう。正義のため、同志のため、広布のために殉じていく人生にこそ、最高に充実した、永遠の希望の大道が開かれる。
 困難があればあるほど、「師子王の心」を取りいだして、「不惜身命」で戦いぬく人が仏となる。
 大聖人の御生命が涌現していく。その人を諸天善神は厳然と守護するのである。
10  皆に「喜び」を贈るのが、名リーダーである。
 皆が希望に燃えて、「信心して本当によかった」と心の底から叫べるためのリーダーなのである。
 心からの言葉ひとつ、振る舞いひとつで、人は奮い立つものだ。
 たとえば、ナチスと戦うイギリスのチャーチル首相の呼びかけのように。
 「この勝利はわれわれだけでなくすべての人のために、われわれの時代ばかりでなく来るべきよりよい長い年月のためかちとられる勝利なのである」(『チャーチル名演説集』チャーチル研究会編訳、原書房)と。
 フランスのドゴール大統領は言った。
 「人民と人民とを結ぶ紐帯をますます多くしていくことは人類の大義に奉仕することになるし、結局は英知と進歩と平和に貢献することになる」(嬉野満洲雄編『ドゴールの言葉』日本国際問題研究所)
 新しい友情を、楽しく、さわやかに広げていっていただきたい。
 仏法は「無作三身」と説く。つくろわず、ありのままの自分で、誠実な対話を重ねていけばよいのである。
 大事なのは、自分が強くなることだ。後輩を励まし、人材を育てることだ。そして学会を強くしていくことだ。ここに最高の価値創造があるからである。
 一切の原動力は「強き祈り」である。最高の広布の思い出をつくっていただきたい。
 来る日も来る日も、たゆみなく戦っておられる全国の尊き同志に、くれぐれもよろしく伝えていただきたい。
 いちばん偉いのは、最前線で戦う同志である。広宣流布の宝の方々である。
 幹部だからといって、絶対に偉ぶったりしてはいけない。そんな資格はない。増上慢である。
 むしろ幹部は、何があっても「責任は自分にある。皆さんは伸び伸びと戦ってもらいたい」と大きく包容していくべきである。
 私も、全同志のご健康とご活躍を祈りに祈り、広宣流布の勝利と栄光の大道が限りなく開かれていくよう、お題目を送ってまいります。
 寒い日が続くので、風邪をひかれませんように。どうかお元気で!
 (東京。信濃文化センター)

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