Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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関西代表協議会 新しい仏教の潮流それは「人間革命」

2000.12.12 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

前後
2  皆さま方の真心のお題目に包まれて、シンガポール、マレーシア、香港の訪問を、一切、無事故・大成功で終え、元気に、わが関西にもどってくることができた。重ねて、心より感謝申し上げたい。(拍手)
 いずこの地でも、SGIの同志は、地域から、社会から、国家から、絶大な信頼を勝ち得て、見事な大発展を続けている。そのアジアの同志が皆、「模範」と仰ぎ、「目標」としているのが、わが常勝関西である。
 マレーシアのマハティール首相とお会いしたさい(二〇〇〇年十一月三十日)、首相が感嘆されていた、マレーシア創価学会の絢爛たる五千人の人文字も、ここ関西が原点である。(一九六六年の「雨の文化祭」で、画期的な″絵が動く人文字″が登場した)
 どの国でも、二十一世紀へ、「関西に続け!」「関西のごとくに!」との心意気である。また、どの国でも、関西出身の同志が元気に活躍しておられる。「創価の新世紀」を堂々とリードしゆく関西の使命は、あまりにも深く、誇り高い。
 この創立七十周年を厳然と荘厳してくださったのも、関西の大勝利である。二十世紀の広宣流布の歴史に、関西は、不滅の「常勝」の金文字で、有終の美を飾ってくださった。
 昨日、私は、創価学園生との記念撮影会の終了後、関西の全同志の崇高なるご健闘を称え、関西文化会館の芳名録に、こうつづらせていただいた。
  「常勝関西 、永遠たれ!
  大関西ありて広布あり!
  常勝の歴史は万代までも!
    二〇〇〇年十二月十一日
    創立七十周年を仏天と共に祝福しつつ 合掌
    大関西万歳! 学園生万歳!」
 二十一世紀も関西から全国、全世界に広宣流布の波動を起こしていただきたい!
3  戸田先生のもとで学んだ、ロシアの文豪ゴーゴリ。その言葉にこうある。
 「汝の天が暗くかき曇れば曇るほど、翌日の祝福は晴れやかであろう」(ウラジーミル・ナボコフ『ニコライ・ゴーゴリ』青山太郎訳、紀伊國屋書店)
 人生も、広宣流布の前進も、嵐を勝ち越えたあとには、晴れやかな常勝の青空が広がる。
 ゴーゴリは言う。「まさに苦労は買ってせよ、です!」と。
 この言葉を関西青年部に贈りたい。
4  「師匠が″自身の内なる価値″に光を」
 アメリカの高名な仏教学者にハーバード大学のチャーリー・ハリシー博士がおられる。このほどボストン二十一世紀センターの代表を通して、私たちの「人間革命」の思想と運動に、深い共感の声を寄せてくださった。
 ハリシー博士は、私の著作である『私の釈尊観』を、ハーバード大学の講義などで教科書として使用してこられた方である。
 博士は現在、ウィスコンシン大学マディソン校に招かれ、「現代仏教における課題」をテーマに講座を担当しておられる。そのなかで、日本の文化に精通しておられる博士は、「人間革命」の思想について、日本の冬の風物詩である「干し柿」を通して、次のように学生に講義されているという。
 ――「渋柿」は、太陽に当てて干すまでは、一見、無価値な存在である。しかし、太陽の光に当てることによって、甘みが出てくる。そして、その甘みは、外から与えられるものでなく、柿の中で熟していくものである。
 「渋柿」のままでは、何の価値もなく、貢献もしないものが、「干し柿」になることで、他者に利益を与えるものに変わる。人間も同じである。平凡で、無価値に見える自身に、″太陽の光″を当てることで、成熟していく。
 では、その″太陽″とは何か。それが御本尊である。しかし、それだけでは十分ではない。「渋柿」を木から採って、太陽に干す作業が必要である。「渋柿」自身には、それはできない。そこで、その作業を行ってくれる存在こそが「師匠」なのである。
 人間は、渋柿のように、「自身に内在する価値」に気づかないでいる。また、自分に価値があると思って行動しても、かえって悪い結果をもたらしてしまうこともある。
 仏法では、これを、貪(むさばり)・瞋(いかり)・癡(おろか)の「三毒」の教えを通して説いている。とくに、「癡」とは、自分自身と人生に無知蒙昧であることをいう――と。
 まことに絶妙な比喩である。
 ハリシー博士は、このように分かりやすく、「普遍の法(御本尊)」と「師匠」を根本軸とした「人間革命」の運動について、学生に講義しておられるのである。
5  個人主義を基本とするアメリカ社会では、「師匠」の存在が正しく理解されにくい面があるかもしれない。師匠と宗教の意義について、博士は、こう説明しておられる。
 「英語では、人生を『生きる』ことを、人生を『リード』すると言います。『リード』とは、文字どおり、だれかが、だれかを『導く』という意味です。
 それでは、人生は、どこヘリードされていくべきなのか。そして、リードするのは、だれなのか。そうした問いかけこそ、人生の最重要の課題です。その問いに答えるものこそ、宗教であり、師匠なのです」
 このように、学術的な探究のうえからも、師弟の意義が明確に論じられているのである。
 関西における「人間革命」の運動の広がりも、仏法の本義である「師弟の道」を貫き通してきたからである。
6  創価の運動は「古い仏教の歴史との訣別」
 さらに博士は、″「人間革命」とは、仏法の「一念三千」の原理を現代的に展開した思想である″としたうえで、こう洞察しておられる。「個人とは、あくまでも他人とのかかわりのなかで、定義されるべきものです。であるならば、個人は『他人』のみならず、政治を含めた『社会』へと広くかかわっていくべき存在であります」と。
 「仏法即社会」「社会即仏法」の展開の必然性も、ここにある。
 とともに、博士は、「人間革命』の『革命』とは、古い仏教の歴史との訣別である。新しい仏教の潮流を興していこう、との決意の表明である」とも位置づけておられる。
 この十年、腐敗の宗門と訣別し、創価ルネサンスの「新しい仏教の潮流」は、いやまして滔々と世界に広がった。
7  現在、博士の講座では、三つの課題が取り上げられている。
 (1) 現代の仏教の思想家たちが、「自由」や「民主主義」といった現代を象徴する概念を、どのような言葉で表現しているか。
 (2) 東アジアに興隆した仏教の運動が、どのような形で世界に広がろうとしているか。
 (3) 現代仏教が、その思想をどのように社会の中で発展させ、影響をあたえているか。
 この三点から博士は、SGIを高く評価しておられるのである。
 (博士は″池田会長の思想と行動は、これらすべての課題について模範を示すものである″としている)
 世界の一流の英知が今、あらゆる次元から、私どもSGIを見つめ、新たな世紀への希望を託している。今回訪問したシンガポールでも、マレーシアでも、香港でも、そうであった。
 「陽出ずる世紀」に向かって、「人間革命の光」を、関西から世界へ、さらに輝かせていっていただきたい。
8  デマが発端――迫害の構図はつねに同じ
 中国の文豪・魯迅は言う。「人を殺して血もみせない武器がある。それはデマを製造することだ」(「南腟北調集」竹内実訳、『魯迅全集』6所収、学習研究社)
 これが人類の暗黒史の実態である。日蓮大聖人の流罪も、すべて讒言のゆえであられた。
 大聖人は明快に仰せである。
 「(日本国の一切の女人を)救おうとしている日蓮を、かえって大怨敵と思われるゆえに、女人たちが、こぞって国主に讒言して、伊豆の国に流罪にしたうえ、また、佐渡の国にも流罪にしたのである」(御書1312㌻)
 デマが発端―迫害の構図はつねに同じである。
9  さらに御聖訓を拝したい。
 「色心の二法よりをこりてそしられたる者は日本国の中には日蓮一人なり
 「(日蓮が受けてきた難は)釈尊が受けた大難におよぶか、あるいは超えているか、それは知りませんが、竜樹菩薩、天親菩薩、天台大師、伝教大師が受けた難は、日蓮とは比べものになりません。
 もし日蓮が末法に現れなければ、(仏滅後の難は釈尊の難をはるかに超えると述べた)釈尊は大うそつきの人となり、(この釈尊の言葉を真実だと証明した)多宝如来や十方の諸仏も、大うその証明をしたことになってしまいます」(御書1189㌻)
 また、こうも仰せである。
 「如説修行の法華経の行者には、三類の強敵が、必ず競い起こってくるのだと知りなさい。だから、釈尊滅後から二千余年の間に如説修行の行者といえば、釈尊・天台大師・伝教大師の三人はさておいて、末法に入ってからは、日蓮とその門下の弟子檀那以外にはいないのです」(御書504㌻)
 現代において、この大聖人の仰せのとおり、大難を受けているのはだれか。「三類の強敵」と戦っているのはだれか。
 創価学会である。学会がなければ経文も御書も虚妄になってしまう。
 しかし、その大難のなかで臆病な人間たちは裏切り去った。学会のおかげで、師匠のおかげで、最大に偉くしてもらい、立派な社会的地位にまで押し上げてもらいながら、学会と師匠を裏切った人間もいる。そうした忘恩の徒は、永久に許してはならない。忘れてはならない。
 彼らが仏法上、畜生以下の人間であることは、皆さまが、よくご存じのとおりである。そうした人間の叛逆の構図は、よく似ている。増上慢であり、我見の人間である。利害にさとくし名聞名利に狂っていく。暗い陰をもっている。
 貧しく苦しい人生を正しい信仰によって救われ、すばらしい勝利の栄冠の人生を勝ち取ることができたはずであるのに、その恩を忘れて、ある者は、もっと偉くなれないのかと恨む。ある者は肩書にしがみつく。そして、純真な学会員を下に見て、威張りちらす。金銭に汚く、口がうまく、多くの内外の人々を悩まし続けてきた連中である。
 また、利害のために低俗なマスコミなどと結託し、つくり話の原稿を売ったり、学会をおとしいれようとする陰謀に狂奔してきた。ほとんど勤行もしない。善友には親近(親しみ近づく)せず、悪友に親近していく。
10  正義は貫いてこそ正義
 釈尊当時も、大聖人当時も、そして現在も、方程式は変わらない。ゆえに、いかなる迫害を受けようとも負けてはならない。正義は貫き通してこそ正義である。善か悪かは、必ず、あとになって証明されるものだ。
 要するに、不知恩ゆえの反逆であり、堕地獄は間違いない。哀れな人間である。これが、御聖訓に示された真理なのである。
 心して、退転してはならない。破和合僧であってはならない。反逆などは、要するに、自分自身を捨て、多くの一族をみずからが地獄におとしいれるようなものであり、哀れこのうえないのである。
 御書には仰せである。
 「(日蓮から)仏法上の恩だけでなく、世間的な恩を受けた者でさえも、人々の目を恐れ、その口をふさいでとやかく言われまいとしてであろうか、心の内では、そう思っていなくとも、外見では日蓮を謗るそぶりをしている」(御書1051㌻)
11  大聖人は三世永遠を見通されながら、悠然と仰せである。
 「日蓮は、この業障(餓鬼道に堕ちる悪業)を消し果てて、未来は霊山浄土へ行くことができると思っているから、種々の大難が雨のように降り、雲のようにわいても、法華経のゆえであるので苦をも苦とは思いません」(御書1112㌻)
 「大難が来たならば、強盛の信心で、いよいよ喜んでいくべきです。火に薪を加えるのに、燃えさからないことがあろうか。大海には、多くの河が流れ込む。しかし、大海は河の水を返すことがあろうか。法華大海の行者には、さまざまな大難の河の水が流れ込むが、押し返したり、とがめ立てすることはありません。さまざまな河の水が入ってこなければ大海はない。大難がなければ法華経の行者ではないのです」(御書1448㌻)
 ここに、私と苦楽をともにしてくださった関西の友の魂があると信ずる。
12  ルソーの言葉に、こうある。
 「人間の心にとっては、はっきりとわかっている友情の声以上に重みのあるものはなにもない」(『エミール』今野一雄訳、岩波文庫)
 仏法の「慈悲」は本来、「友情」の精神である。慈悲には「友に利益と安楽をもたらし(与楽)、友から不利益と苦悩を除く(抜苦)」の意義がある。
 そして「声仏事を為す」である。「声の力」で、二十一世紀へ、友情と希望を広げていきたい。
13  今ふたたびの「大法興隆」「所願成就」の大行進を
 あす十二月十三日で、関西本部常住御本尊の御安置から四十五周年の佳節を迎える。
 「大法興隆所願成就」と認めの御本尊である。御聖訓には「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」と仰せである。
 今ふたたび、ここ関西から、二十一世紀の「大法興隆」を、そして広宣流布の「所願成就」の常勝の大行進を開始しましょう!(拍手)
 粘り強い信心で、正しい人生を生きぬいていただきたい。時代の動向を先取りしながら、人々が求める真実の生命観を、最高の生活の原理を、社会に貢献する生き方を語り、示し、いよいよ大仏法を弘めてまいりたい。
 昨晩は、二十世紀の関西のすべての勝利を象徴するように、美しい満月が天空に輝き渡っていた。
 わが関西の全同志の人生が、満月のごとき、満ち足りた健康と福徳と栄光の人生であられるよう、そして、二十一世紀の開幕もまた、大関西が常勝の空高く、晴ればれと、完全勝利の満月を輝かせゆかれることを祈りに祈って、私のスピーチとさせていただく。
 (関西文化会館)

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