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日蓮大聖人・池田大作

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中国・陝西省芸術研究所・雕塑院「ブロン… 「正義の民衆」のスクラムを広げよう

2000.10.22 スピーチ(1999.10〜)(池田大作全集第91巻)

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1  必死の一人が歴史を変える
 初雪に胸を張る北海道の皆さま! 燃える「火の国」九州の皆さま! 遠いところ、本当にようこそ、お越しくださいました。わが本陣・第二総東京の皆さま方も、まことに、ご苦労さまでございます。
 きょうは、シルクロードの要衝である中国・陝西シャンシー(せんせい)省から、気高き人間芸術の王者の先生方をお迎えすることができました。
 鳩摩羅什が「法華経」を翻訳した有名な舞台でもある貴・西安シーアン市は、日本の文化の源流ともいうべき大恩の天地であります。光栄にも昨年十月、私は、西安市から「名誉市民」の称号をお受けし、この三千年の「歴史と文化の都」の誉れある一員とさせていただきました。
 西安は、わが九州の福岡と、ほぼ同じ緯度でもあります。
2  時は一九三六年の十二月――。日本軍の非道な侵略が荒れ狂うさなか、三十代の若き周恩来青年は、西安に駆けつけました。当時、「西安事件」という激動の渦中にあった、この地で、周青年は、味方のなかにも、敵のなかにも勇敢に突入し、凛々たる声を響かせながら、正義の陣列を拡大していったのであります。
 前途に言いしれぬ不安を抱いていた人々も、その颯爽たる雄姿を目の当たりにして、希望と勇気を奮い起こし、こう口々に語ったというのであります。
 「何があっても大丈夫! 我らの周恩来が、西安にいるからだ!」「これで中国は救われる! 我らの周恩来が西安にいるかぎり!」と。
 この周総理の西安での闘争が契機となって、大中国の反転攻勢が始まったのであります。「中国の運命は、ここから変わった!」と言われている通りであります。
 (西安事件とは、中国国民党の蒋介石主席が西安で監禁された事件。周総理は、このとき、調停役として活躍し、国民党と中国共産党の抗日統一戦線の結成へ、大きな役割を果たした)
 「必死の一人」が歴史を変えるのであります。
 どうか、本日、勇み集った皆さま方もまた、周青年のごとく、「我が地域は、あの人がいるから大丈夫だ!」と仰がれる広宣流布の原動力の存在となって光ってください。
 だれかに期待するのではない。自分自身が、その存在になっていくのです。何か問題があるならば、自分自身が変えていくのです。
 そして東で、西で、北で、南で、「学会の運命は、ここから変わった!」と謳われる「勝利、勝利の進撃」を断固として開始していただきたいのであります。(拍手)
3  民衆と結び、民衆に学べ
 指導者のあり方について、周総理は「三つのことを多くせよ」と教えておられました。
 第一に「上からの号令ではなく、個人指導を多くせよ!」。
 第二に「民衆と結合し、民衆の智慧から多くを学べ!」。
 第三に「″上から下″ではなく、″下から上″へ、多くの波動を起こせ!」。
 初代の牧口会長の指導も、まったく同じでありました。
 大事なのは「個人指導」です。いちばん大変な人のもとに駆けつける。じっくりと「一対一」で語り合っていく。そこから、真の共感が広がっていく。
 民衆から学ぶのです。民衆のなかにこそ智慧があるのです。偉いのは「上」ではない。「下」で支える人が偉いのです。その人を最大に尊敬していくのです。
 周総理もそうでした。牧口先生もそうでした。ここに不思議な精神の一致がある。
 私たちも、この精神で毎日毎日、打って出ていきましょう! 「何か」で勝利していきましょう! 「何か」を残さずして、何のための人生か。
 社会は闘争です。人生も闘争です。甘えは許されない。同情も必要ない。勝てば「歓喜と幸福」です。負ければ「悲嘆と不幸」です。
 これが現実の人生であることを、皆さんは、断じて忘れないでいただきたいのであります。ゆえに、勝ちましょう! 歴史をつくりましょう!(拍手)
4  心から尊敬申し上げる李培直りばいちょく団長、ならびに趙建勲ちょうけんくん院長、李世斌りせいひん所長はじめ、偉大なる芸術の先生方。さらに中国からの交換教員の先生方。マレーシア、シンガポールのSGI(創価学会インターナショナル)の皆さま方。そして、すべてのご臨席の皆さま方。先ほど、私は、意義深き周総理との「縁の至宝」を賜り、ただただ感無量であります。
 (会合の席上、中国陝西省芸術研究所、および雕塑院〈=雕は彫と同字〉から学会sぽうりつ七十周年を記念して、池田SGI会長への特製レリーフの贈呈式が行われた。李団長ら一行が出席。周総理とSGI会長の歴史的会見の模様を刻んだブロンズ製のアート・レリーフが贈られた)
 この夏、西安は、連日、四〇度を超す記録的な酷暑が続いたと、うかがっております。その炎熱のさなか、黄金の汗を流されながら、創造の労をとってくださった先生方に、私は厚く厚く御礼を申し上げます。まことに、まことに、ありがとうございました。(拍手)
 貴国の文豪・魯迅先生の言葉にこうあります。
 「天馬、空を行くような大精神がなければ大いなる芸術は生まれない」(『魯迅全集』12、伊藤正文ほか訳、学習研究社)
 ここにおられる先生方には、この大精神が脈動し、大いなる芸術が輝いております。
 周総理は常々、芸術には「調和」と「明快さ」、そして「躍動」が大事であると言われておりました。その意味から、周総理も必ずや歓び讃えてくださる、まことに見事なレリーフであると、私たちは、心から感謝し、賞讃申し上げたいのであります。(拍手)
5  周総理は、戦後の日本の「国家主義への逆行」の動きを、深く憂慮しておられました。
 周総理いわく。「日本人は偉大な民族だ。その聡明さ、その活力、それは大したものだ。力が蓄積すれば外へと拡散する。それはやむをえないことだが、それをコントロールする魂がなければならない。今のところ日本人はまだその精神的な道理を発見していないようだ。むずかしいことだが、それはぜひとも必要なことでしょう」(=周総理が中国研究家の藤堂明保氏と会見したさいの発言。周恩来記念出版刊行委員会『日本人の中の周恩来』里文出版から)
 だからこそ周総理は、「精神的な道理」を示す創価学会に注目されたのでした。
6  忘れえぬ周総理との出会い
 今、私の胸のなかでは、レリーフに刻まれた周恩来総理が動き出し、生き生きと私に語りかけてくださっているように思えてなりません。
 それは、一九七四年の十二月五日の夜のことでありました。北京市内での答礼宴が終わるころ、急きょ、会見のご連絡をいただきました。
 私は、周総理の体調を心配して、いったんは辞退いたしました。総理のご健康こそが、何よりも大事だからであります。しかし、これは、総理ご自身からのお話であり、お断りすることはできないとのことでありました。
 宿舎の北京飯店から、車で約十五分ほど走って向かったのは、「北海公園」のそばにある三〇五病院でありました。
 大変に寒い、底冷えのする師走の夜でした。その日、通訳をしてくださった林麗韞りんれいうん先生が、妻を優しく気遣って、そっとご自分のコートをかけてくださいました。その光景は、今も忘れることができません。
 質素な建物に着いて玄関に入ると、そこに、夢に見た憧れの周総理が立って、待っていてくださったのであります。周総理は、即座に歩み寄られて、「よく、いらっしゃいました」と、私の手を強く強く握ってくださいました。
 「池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました。お会いできて本当に、うれしいです」
 まっすぐに、じっと私の目を見つめられ、人民服のお姿の周総理は、そう言われました。それは、まことに鋭い、爛々と輝いた、それでいて何とも言えない温かな眼差しでありました。
 そして、私が両手で握り返した総理の手は、たくましい、戦い抜いてこられた「丈夫の手」でありました。幾千万の人民と握手を交わし、肩をたたき、筆を執り、励まし続けてこられた菩薩のごとき手でありました。
 しかし、その総理の手からは、病のため、まさに燃え尽きんとする白さが感じられました。それは、私の恩師・戸田先生の最晩年と同じ手の白さであったのであります。
 「丞相病あつかりき」とは、諸葛孔明を歌った「星落秋風五丈原」の一節であります。私は、深く深く胸を衝かれる思いでありました。このとき、総理は七十六歳。私は四十六歳でありました。
7  周総理の心を継いで
 総理を囲んで記念撮影に納まったあと、会見の部屋には、私と妻の二人が入りました。その場には、なごやかななかにも、どこか緊迫した空気が張りつめておりました。
 じつは、この病院での会見も、周総理に敵対する「四人組」の監視のもとにあったのであります。「四人組」の側の人間が目を光らせておりました。
 総理がお疲れにならないように、何度も私の方からお暇しようとしました。しかし、案内してくださった中日友好協会の廖承志りょうしょうし会長が、そのたびに「もう少し」「もう少し」と合図される。結局、会見は、夜九時五十分から十時二十分まで、三十分におよびました。
 最後に、私は万感を込めて申し上げました。
 「中国の人民のためにも、世界の平和のためにも、どうか、お元気でいてください」
 周総理は、烈々たる気迫で、こう語られました。
 「二十世紀の最後の二十五年は、世界にとって最も大事な時期です。すべての国が平等な立場で、助け合わなければなりません」
8  周総理は、「国民外交」「民間外交」という理念を、いち早く提唱された指導者でもあります。
 創価学会が大衆に広く基盤を置くがゆえに、また創価学会が国家を超える団体であるがゆえに、そして、先頭に立つ私が若いがゆえに、周総理は、世界の民衆の壮大なる連帯を、私たちに厳然と期待し、託してくださったのであります。
 ゆえに私は、周総理の心を心として、平和・文化・教育の民衆交流を一段と力強く開始いたしました。SGIの発足も、総理との出会いの翌月(一九七五年一月)でありました。そして、この私たちの行動を、だれよりも深く理解し、見守ってくださったのは、総理夫人の鄧穎超とうえいちょう先生でありました。
 周総理ご夫妻が行く末を案じておられたこの二十五年間、私たちは、貴国の誠実なる友人の方々と手を携えて、日中友好の「金の橋」を厳として守り抜いてまいりました。そして、歴史の潮流を断じて逆行させずに、冷戦の終結へ、アジアの共生へ、世界の平和へと、民衆の心を結び、声を高め、力を結集してきたのであります。
 思えば周総理は、日本に留学された思い出をしみじみと振り返りながら、「五十年前、桜の咲くころに、私は日本を発ちました」と、私に述懐されました。
 きょうは、貴国から創価大学にお迎えした、周総理の直系たる留学生の皆さまも出席してくださっております。本当にありがとうございます。(拍手)
 今、私たちは、聡明に二十世紀を締めくくり、二十一世紀への新たな希望の出発を、総理ご夫妻に晴れ晴れと、ご報告したいと思うのであります。(拍手)
9  日本は隣国から尊敬される「正義の道」を
 ある時、鄧穎超とうえいちょう先生は、「周総理はなぜ、病気もいとわず、休むことなく働き続けることができたのか」と聞かれて、こう答えておられました。
 「もしも、仕事をせず、人民に奉仕することをやめれば、恩来同志は、もっと苦しんだことでしょう。戦いで、忙しければ忙しいほど、疲れれば疲れるほど、彼は、ますます朗らかになりました」
 これが「二十世紀の諸葛孔明」たる周総理の「鞠躬尽瘁きっきゅうじんすい」――心を尽くして真剣に努力し、死ぬまで戦いをやめない――の精神でありました。
 諸葛孔明の言葉に「将は驕るべからず、驕れば則ち礼を失う。礼を失えば則ち人離れ、人離れれば則ち衆叛く」とあります。
 すなわち「指導者は、傲慢になってはならない。傲慢になれば礼儀を失い、礼儀を失えば人心が離れ、人心が離れれば多くの人々から背かれる」という意味であります。
 周総理ご夫妻は、「永遠に民衆から離れない」「永遠に民衆に尽くす」という信念に生き抜かれました。ゆえに、その栄光も「永遠」です。
 そして、ご夫妻は、″われわれの勢力が強大になり、いかなる脅威も恐れなければ、敵は退散し、平和の運動は、たえまなく発展できる″と示し残されたのであります。
 自分自身が、民衆が強くなる以外にない。私どもは、この確信で、二十一世紀を決する「正義の力の大結集」へ、勇気と智慧と執念をもって、断じて戦い、勝ちましょう!
 とくに「先駆の九州」「三代城の北海道」、そして「原点の第二総東京」の皆さま方が、何ものにも負けない「法華経の兵法」で、全国、全世界を引っ張っていただきたい。(拍手)
 ドイツのゲーテは、中国の文学、文化に大いに注目していました。そのゲーテいわく、「ひとりのけだかい人は、いくたりもけだかい人々をひきよせます」(「トルクワート・タッソー」実吉捷郎訳、『ゲーテ全集』4所収、人文書院)と。
 悪い人間のもとには、自然に悪い人間が集まってくる。反対に、毅然とした信心の人のもとには、やはり毅然とした正義の人が集ってくるものであります。
 どうか、あの懐かしい友とも、この新しい友とも、劇のごとく、名優のごとく、真心の握手を交わし、哲学の対話を広げながら、新世紀へ、自分自身の「広宣流布の大シルクロード」を、朗らかに、明確に開いていっていただきたい。これが私の願いであります。(拍手)
10  中国は、日本にとって大恩の国であります。その大恩ある中国を、日本は攻め、略奪し、命を奪った。ゆえに日本は、中国に永遠に謝罪し、償い、尽くしていかなくてはならない。
 そうなってこそ日本は、中国をはじめアジアの隣国から尊敬され、愛され、本当の人間としての「正義の道」を歩んでいける。それが、私の変わらざる信念であります。(拍手)
11  終わりに、かつて(一九八七年四月五日)私が、尊敬する鄧穎超とうえいちょう先生に捧げた詩「縁の桜」の一節を朗読し、私の御礼のスピーチとさせていただきます。
  時は去り 時は巡り
  現し世に移ろいあれど
  縁の桜は輝き増して
  友好の万代なるを語り継げり
  年年歳歳花開くとき
  人々は称えん
  人民の総理と
  人民の母の誉れの生を
  我も称えん
  心の庭に友誼の桜は永遠なりと
 二〇〇二年に創立五十周年を迎えられる貴・芸術研究所、ならびに貴・雕院の万古千秋のご繁栄、そして、大中国の先生方をはじめ、すべてのご列席の皆さま方の永永無窮の栄光と完勝を、心よりお祈り申し上げます。
 謝謝!(ありがとうございました)
 (創価大学記念講堂)

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