Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

関東最高協議会 創価学会は「人間主義の王者」

2000.8.14 スピーチ(1999.10〜)(池田大作全集第91巻)

前後
1  勝利の道は一対一の対話に
 暑いなか、ご苦労さまです。お盆に当たり、関東をはじめ全国、全世界の亡くなられた功労者の方々の追善をさせていただいた。
 ならびに皆さま方の先祖代々の諸精霊の回向を、私は懇ろに行わせていただいた。
 二十一世紀へ、関東の広宣流布の出発、まことに、おめでとう!
 群馬の役員の皆さまも、大変に、ありがとうございます。
 最初に、
  晴ればれと
    日本の中心
      関東会
  
  生命は
    永遠なればと
      関東会
 と贈りたい。
2  偉大なるルネサンスは、偉大なる原点に立ち返ることから始まる。
 戸田先生は叫ばれた。
 「信心は、日蓮大聖人の時代に還れ!」
 「教学は、日寛上人の時代に還れ!」と。
 大聖人は、「日蓮は、この法門を語ってきたので、他の人とは違って、多くの人に会ってきた」(御書1418㌻、通解)と仰せである。
 大聖人御自身が、広宣流布のために、大勢の人に会われ、一対一の対話を繰り広げていかれた。
 人と会わなければ、もはや人間指導者とはいえない。
3  ここ群馬御出身の日寛上人も仰せである。
 「行の始めはこれ信心なり、信心の終りはこれ行なり」(「立正安国論愚記」文段集九㌻)――行動(修行)は、信心から始まる。信心の帰着するところは、行動である――。
 また、「信はこれ行の始め、行はこれ信の終り、故に須臾も離るべからず」(「題目抄文段」文段集六三九㌻)――信心から行動が始まり、行動は信心が帰着するところである。ゆえに、信心と行動は少しも離れてはならない――。
 何事も、いっぺんには変わらない。一つ一つ、固めていくことだ。一人また一人、人材を見つけ、育て、訓練していくことだ。
 地道な戦が、本当の「勝利の道」である。
 大勢の人の前で指導するよりも、みずから足を運び、徹して、一人の友と対話を積み重ねていくことだ。牧口先生が、そうであった。戸田先生も、そうであった。
4  新しき「広布拡大」は関東から
 戦後の混乱期の真っただ中で、戸田先生が「広宣流布の拡大」へ打って出て、対話の火ぶたを切られたのは、いずこの地であったか? それこそが、わが関東である。
 一九四六年(昭和二十一年)九月、戦後最初の地方折伏、地方指導を、戸田先生は、ここ関東から開始された。「座談会」という、画期的な民衆の対話運動も、この地から大いなる波動を起こされたのである。
 今、多くの宗教が衰退の一途をたどるなかにあって、創価学会こそ日本の宗教界の「王者」である。日蓮大聖人も、また牧口先生、戸田先生も、どれほど、お喜びのことであろう。仏法史に輝く、世界百六十三カ国・地域の広宣流布への「拡大」の原点の地は、ここ関東であるとの誇りを忘れないでいただきたい。
 広宣流布のため、会員のため、友のため、そして関東のために、戸田先生は、超満員の列車に揺られ、十キロの道のりも勇んで歩まれた。当時、先生は四十六歳。きょう、集まってこられた新県長にも、同じ年代の方々がおられる。
 戸田先生のごとく、先頭を切ることだ。「一兵卒」の決心で進んでもらいたい。
 苦労なくして、人間は立派に完成しない。死にものぐるいでなければ、無限の道は開けない。
 偉大なる創価学会の草創の精神に、今再び立ち返り、リーダーが最前線に立って、人間の中へ、民衆の中へ、歩きに歩いて、広宣流布の新たな勝利への波動を、ここ関東から起こしてまいりたい。関東の「敢闘」を心よりお祈りしたい。最大に期待したい(笑い、大拍手)。
5  群馬の多宝研修道場が誕生して七周年。素晴らしい広布の拠点が着々と整備されてきた。地元・草津圏の発展も、じつに目ざましい。
 「守る会」の皆さま方をはじめ、お世話になっているすべての方々に、あらためて深く感謝申し上げたい。
 今年(二〇〇〇年)は、草津町の町制施行から百周年。戸田先生の誕生された一九〇〇年に、草津に町制が敷かれたのである。
 (百周年を記念し、八月二日、草津町は、池田名誉会長の同町発展への功績、文化交流への尽力を称え、「特別感謝状」を贈った)
 草津の「町民憲章」は、「歩み入る者にやすらぎを 去りゆく人にしあわせを」と掲げておられる。まことに含蓄のある言葉である。
 これは、ドイツから伝えられた。ドイツと草津は交流が深い。ロマンチック街道の拠点、ローテンブルク市の城門(シュピタール門)に刻まれたラテン語の銘文である。日本画の巨匠・東山魁夷画伯が訳されたものである。
 東山画伯とは、私も親しく交友を結ばせていただいた。私の本の装丁も東山画伯の名画で飾らせていただいている。(小説『人間革命』『新・人間革命』、『私の人間学』『青春抄』、『社会と宗教』(聖教文庫)など)
 かつて聖教新聞の日曜てい談にも登場してくださった。(一九七一年七月十八日付)
 世界を旅して、幾多の美しい風景を描き残してこられた東山画伯。その慧眼にも、ここ草津は、「自然と人間の触れ合い」といい、「気候のよさ」といい、「日本の中央の位置」といい、「これほど恵まれた所はない」と映っていたのである。
 二十一世紀の「健康」と「文化」と「教育」の理想郷として、私は、愛する草津のますますのご繁栄を心からお祈り申し上げたい。
6  休暇にゲーテは「励ましの旅」へ
 さて、草津と縁の深いドイツにちなんで、ゲーテの旅のエピソードを、少々、ご紹介したい。
 それは一七七七年の冬のことである。二十八歳の若さで、すでに国家の中枢の仕事を担い、多忙を極めていた大詩人ゲーテは、久方ぶりに、休暇で自分の時間をとることができた。
 君主たちは、廷臣と狩りに出かけた。今でいえば、高級なレジャーと言えよう。
 しかしゲーテは、静養や娯楽などには目もくれず、悩める一人の若者に会って励ますために、決然と旅に出たのである。
 じつは、その青年は、手紙で何度もゲーテに悩みを訴えてきていた。人間への深刻な不信や憎悪に悩み、人生を絶望している青年。時間ができたら、彼と直接、会って話し、立ち直らせたい――ゲーテは、そう心に期していたのである。
 行き先は、ドイツ中部のハールツ山脈の近くの町。ワイマールから遠い道のりであった。道すがら、ひょうまで降ってきた。
 しかし、「一人の人間のために!」。若きゲーテの歩みは誇り高かった。
 ゲーテは真心を込めて青年と語り合った。しかし、残念ながら、青年の頑なな、閉ざされた心には、ゲーテの励ましやアドバイスも、受け入れられなかったようである。
 ゲーテはその後、青年のための祈りを、詩にこめて残している。
7   「愛の父よ、おんみの竪琴に
   彼の耳に聞える音が
   ひとつなりとあるならば、それをかき鳴らし
   彼の心を慰めたまえ。
   その曇れる目を晴らし、
   沙漠にありて
   渇ける者の傍らに
   千の泉湧き出ずることに気づかせたまえ」
    (アルベルト・ビルショフスキ『ゲーテ――その生涯と作品』高橋義孝・佐藤正樹訳、岩波書店)
8  はるばる足を運んだゲーテの激励行は、徒労に終わったかのように見えた。
 しかし、この励ましの旅は、二百年の時を経た今もなお、『冬のハールツの旅』として謳いつがれ、世界の良識の人々を励まし続けている。
 アフリカで医療に尽くした有名なシュヴァイツァー博士も、この『冬のハールツの旅』から、自らを励ます力を得ていた一人である。
9  動いた分だけ、歴史は残る。今、広宣流布に奔走することが、どれほど尊いか。どれほど後世への模範となるか。
 皆さまは「幸福の種」をまいておられる。「勝利の種」を植えておられる。将来、それが美しい花を咲かせた時、無数の後輩たちから感謝され、仰がれ、賛嘆されていくことは間違いない。これが妙法の偉大な力用である。
 どうか、それぞれの県で、永遠の先駆者として、創価学会の歴史に残る見事なる戦いをお願いしたい。
10  妙法の人こそ尊貴
 きょう、八月十四日は、私が、戸田先生とお会いしてから五十三周年の日である。若き日より、私に繰り返し、戸田先生が語り教えてくださった御書のいくつかを、ここで拝しておきたい。
 「(釈尊が法華経を説いた)八年間の御説法の最初は、南無妙法蓮華経方便品の『諸仏の智慧は』であり、終わりは普賢品の『当起遠迎当如敬仏(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし)』の八字である。ただ、この八字をもって、法華経一部八巻の肝要としたのである」(御書781㌻、通解。以下同じ)
 もし、この妙法を受持する人を見たならば、まさに立って、遠くまで出迎えるべきことは、まさに、仏を敬うようにするべきである――と。
 この御文通りに、私は広布に戦う皆さまを、仏のように敬い、大切にしてきた。
11  また、とくに男性の幹部は、婦人部・女子部を最大に守り、感謝し、尊敬し、大事にしていただきたい。
 「持たれる法が第一ならば、それにしたがって持つ人も第一なのである。そうであるならば、その人を毀るのは、その法を毀ることになる」(同465㌻)
 妙法の人は、どんな社会的高位の人間よりも、はるかに偉大な、世界第一の″信心の尊貴な英雄″なのである。
 「どんなことがあっても、法華経を持つ者を、互いに毀ってはならないのである。その理由は、法華経を持つ者は必ず皆、仏なのである。仏を毀れば、罰を受けるのは当然だからである」(御書1382㌻)
 同志は守り合っていかねばならない。尊敬し合い、助け合っていかねばならない。
 大聖人は、伝教大師の言葉「讃する者は福を安明に積み謗ずる者は罪を無間に開く」(讃めたたえる者は福を須弥山のごとく積み、誹謗する者は罪を無間地獄に開く)を引いておられる(御書1039㌻)。
 戦っている同志を真心から賛嘆していくことである。
 また、御聖訓には、「(相手が)浅い罪であるならば、こちらから許して功徳を得させるべきである。重い過失であるならば、信心を励まして、その重罪を消滅させるべきである」(御書1308㌻)と仰せである。
 さらに、大聖人は、弟子の四条金吾に、こう注意しておられる。
 「常に仲むつまじくしなさい。あなたは短気な性格であるから、(私がこう言っても)きっと用いられないであろう。もし、そうであるならば、日蓮の祈りの力も及ばぬことである」(御書1172㌻)
 富木常忍には、「このような濁世には、(同志は)互いに常に語り合って、絶えず、後世を願っていきなさい」(御書965㌻)と。
 濁流のごとき社会にあって、同志とともに、広宣流布へ生き抜ける。こんな素晴らしい人生はない。何があっても、最後は必ず幸福になるのが妙法なのである。
12  日寛上人「謗法の悪侶を誡めよ!」
 関東御出身の日寛上人の「文段」を拝したい。
 まず、「撰時抄愚記」。日寛上人は、大聖人が経文を通して次のことを明らかにされているとしておられる。
 それは、末法のはじめ、地涌の菩薩の弘教には、まさに怨敵が多く、怨敵によって闘諍(争い)が起こる。
 「その怨敵の人とは、これ『悪鬼入其身』の大僧」(文段集二三四㌻)であると。
 戸田先生は、すでに早くから、日蓮大聖人、日興上人、また日寛上人の御精神を失った、嫉妬の宗門の恐るべき魔性を見抜いておられた。
 さらに日寛上人は説かれる。
 「花の朝に嵐を厭い、月の夕には雲を厭う。若し謗法の悪侶を誡めずんば、何ぞ正法の善事を成さんや」(「立正安国論愚記」文段集二六㌻)
 その通りの我らの闘争である。ゆえに、功徳は大きい。
 「観心本尊抄文段」の最後に、日寛上人は、こう仰せである。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」
 「唯仏力・法力を仰ぎ、応に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔ゆることなかれ」(文段集五四八㌻)
 深く胸に刻みたい。これが信心の極意である。
13  「勝利を望むなら積極的に攻めよ」
 かつて中国は、軍国主義の日本の非道な侵略に苦しめられた。しかし、絶対に勝たねばならないという執念と粘りと精神力で、最後に勝利したのである。
 周恩来総理は言われている。
 「勝利を望むのなら、引きのばすのではなく、戦うことである。勝利を望むのなら、消極的に抗戦するのではなく、積極的に抗戦することである」(『周恩来選集〈一九二六年〜一九四九年〉』日本語版《周恩来選集》翻訳室、東方書店)
 これが勝利の将軍学である。そして、大切なのは「人の和」である。
14  明二〇〇一年は、戸田先生の関東への第一歩から五十五周年――。
 「関八州を制する者は日本を制す」――かつて徳川家康は江戸時代を開いた。まさしく「埼玉」「千葉」「茨城」「群馬」「栃木」は、東京・神奈川・山梨とともに″日本の要の中の要″の重要な天地である。
 大いなる「二十一世紀の広宣流布の勝利」へ、関東は、皆が仲良く、団結して、威風堂々と前進していただきたい。
 皆さま全員が、健康で、長生きして、多くの友に希望を贈りながら、最高に素晴らしい人生を生き抜いていただきたい。
 お帰りになられましたら、各県、各地の大切な同志の皆さまに、どうか、くれぐれもよろしくお伝えください。
 (群馬多宝研修道場)

1
1