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日蓮大聖人・池田大作

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韓日友好代表者会議 団結こそ最大の力

2000.5.19 スピーチ(1999.10〜)(池田大作全集第91巻)

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1  全員が大切な使命をもった「主人」
 遠いところ、ご多忙のところ、ようこそ、お越しくださいました。
 きょうは、韓国SGIの皆さまの永遠の幸福と前進を祈って、少々、スピーチさせていただきたい。(拍手)
 「韓民族独立の父」である安昌浩アンチャンホ先生の言葉に、こうある。
 「君も仕事をし私も仕事をしよう。君も主人になり私も主人になろう」(李光洙『至誠、天を動かす』興士団出版部編、具末謨訳、現代書林)
 人間には「上」も「下」もない。皆が平等である。全員が、大切な使命をもった「主人」なのである。
2  安先生は、こう断言しておられる。
 「団結した各自が団(組織)を愛し、団友を愛し、団の指導者を愛し、団の建物と器具を愛すること、それを恰も自分のもののように愛することによって、団結が初めて最大限の力を発揮し永遠の生命を享受する」(同前)と。
 さらに先生は、こうも言われた。
 「ある人が同志の『情誼』を利用して私を欺すこともあり得るであろう」
 しかし、「彼は私を欺しても、私は彼との同志の義を守ろう」
 「世の中に心安らかに信ずる同志があるということより大きい幸福が一体どこにありますか?」(同前)と。
 信ずる同志がいることが「最大の幸福」である。団結こそが「最大の力」である。
 御聖訓に「異体同心なれば万事を成し」――(日蓮の一門は)異体同心なので、人数は少ないけれども大事を成就して、(必ず法華経は弘まるであろうと思われる)――と仰せの通りである。
 ゆえに皆さまは、「団結第一」で、仲良く、どこまでも仲良く、進んでいただきたい。
3  韓半島から仏法は伝来
 韓半島から日本に仏教が伝来したのは「五三八年」、または「五五二年」とされる。
 当時の韓半島は、百済、新羅、高句麗の「三国時代」であった。日本は「大和時代」であった。
 日蓮大聖人は、『日本書紀』の「欽明十三年(五五二年)十月、百済の聖明王が金銅の仏像・経論などを日本に贈った」という記録に基づき、「五五二年説」を採られている。
 韓半島から仏教が伝来した際、これに敵対した日本の勢力は、皆、ことごとく滅びていった。
 大聖人は、それについて、こう仰せである。
 「釈迦仏は賞罰が正しい仏である」(御書1168㌻、通解)と。
 そして、「(百済から仏教が伝来した際、仏教に敵対した日本の勢力は)釈迦如来の敵となられたので、今生には命を失い、後生には悪道に堕ちた」(同㌻、通解)と仰せになっている。
 一方、仏教を受け入れることに功労があった蘇我一族もまた、最後は皆、滅亡してしまった。それは、なぜか?
 ここに重大な歴史の教訓がある。この点について、大聖人は、仰せである。
 「わが一門の人々のなかでも、信心も薄く、日蓮の言うことに背かれるならば、蘇我一門のようになるであろう」(同㌻、通解)と。
 (蘇我一門の滅亡の理由について、大聖人は、次のように記しておられる。
 「蘇我氏は、物部氏の父子を滅ぼした。そのため、大きな勢力をもつのは、ただ蘇我一門だけになった。位も上がり、国も支配し、一門も栄えたため、おごりたかぶった心を起こした」と〈同㌻、通解〉)
 大切なのは、何ものにも紛動されず、大聖人の仰せの通りに、「広宣流布の信心」を貫くことである。どこまでも、「日蓮と同意」で進むことである。
4  江戸時代、当時の韓半島から日本に、文化の使節が訪れた。有名な「朝鮮通信使」である。
 十五世紀(室町時代)にも来日したが、豊臣秀吉の「朝鮮侵略」のため断絶していた。それに対し、徳川家康は外交政策の手始めとして、韓半島との関係修復に着手した。
 家康は「日本朝鮮和平の事、古来の道なり」「通交はたがいに両国の為なり」(『通航一覧』)として、日本のほうから韓半島との和平交渉に全力をあげた。そして江戸時代、一六〇七年から一八一一年までの間に合計十二回、使節が来日したのであった。
 鎖国下の日本にあって、幕府は、オランダなどを「通商の国」とした。「商いの交流を中心とした国」であった。しかし、韓半島については「通信の国」、つまり「心を通わせる国」として破格の待遇で迎えた。その結果、韓半島との友好的な善隣外交が実現したのであった。
 この家康の「慧眼」こそ、徳川幕府が長く繁栄した原因の一つとされている。
5  朝鮮通信使など多彩な文化交流
 朝鮮通信使は、九州の対馬から大阪(大坂)までは「海路」を、大阪から江戸までは「陸路」を進んだ。その途上、通信使は、対馬や大阪をはじめ各地で、日本の民衆から、大変な歓迎を受ける。
 岡山では、通信使の旅の疲れを癒すため、子どもたちが言葉を覚えて会話の相手をしたり、踊りを披露したりした。
 通信使のなかには、位の高い文人や学者、書画家などが数多くいた。訪れた各地で、日本の学者や文人などと、漢文や漢詩を書いて交歓したり、絵画を描きあうなど、多彩な文化交流が行われた。
 こうした交流によって、日本は、韓半島から儒学、絵画、工芸、楽器などの進んだ文化・技術を学んだ。韓半島の書籍も、数多く持ち込まれた。
 私もお会いした李御寧イオリョン先生(元韓国文化相)は、「朝鮮通信使」をはじめとする韓半島との文化の往来が、江戸時代の日本を「武力主義」から「文化主義」へと変えていったと考察されている。
 具体例として、関ケ原の戦いの時、日本には十万丁の鉄砲があったことを挙げておられる。十万丁と言えば、当時の「ヨーロッパのすべての鉄砲」を集めた数より多い。
 その日本が、江戸時代になって鉄砲を捨てた。それは幕府が「文化主義」「教養主義」に生きる道を見いだしたからである。刀や鉄砲を使わなくても、「文の力」で治めることができる!――と。
 その背景として、韓半島との文化交流があった、と指摘しておられるのである。(在日本韓国文化院編『日韓文化論』学生社などを参照)
 日蓮大聖人は、「日本国は彼の二国の弟子なり」と明確に仰せである。
 彼の二国とは、貴国と中国である。
 韓国は、日本にとって「文化大恩」の「兄の国」である。「師匠の国」なのである。その大恩を踏みにじり、貴国を侵略したのが日本であった。
 ゆえに、私は、永遠に貴国に罪滅ぼしをしていく決心である。最大の礼をもって、永遠に貴国と友情を結び、貴国の発展に尽くしていく決心である。そこにこそ、正しき日本の繁栄の道もあると確信している。(拍手)
 SGIは、世界と友好を結んできた。世界と仲良くしてきた。世界に貢献してきた。ゆえに、今日のSGIの大興隆があることを知っていただきたい。(拍手)
6  同志を敬え、同志を守れ
 有名な「松野殿御返事」には仰せである。
 「(松野殿からのお手紙に)『聖人が唱えられる題目の功徳と、我ら(凡夫)が唱える題目の功徳とは、どれほどの違いがあるでしょうか』とありました。この題目の功徳は、だれ人であれ、まったく勝劣はありません」「ただし、この法華経の心に背いて題目を唱えれば、功徳に差別があるのです」(御書1381㌻、通解)
 そして法華経の心に背く「悪の因」として、「十四誹謗」を挙げ、これに気をつけるよう厳しく戒めておられる。(十四誹謗とは、憍慢きょうまん懈怠けたい計我けいが浅識せんしき著欲ちゃくよく不解ふげ・不信・顰蹙ひんしゅく・疑惑・誹謗・軽善・憎善・嫉善・恨善)
 同じ題目を唱えても、法華経の心に背くか否かで、結果は大きく違ってしまう。
 「法華経の心に背く」――。すなわち、「法が中心」ではなく「自分が中心」になって、「権力の魔性」にとらわれ、堕ちていったのが日顕宗である。
7  仏法で説かれる「五逆罪」のなかで、最も重い罪は何か。
 それは「破和合僧」である。すなわち、父母を殺したり、阿羅漢(小乗の悟りを得た聖者)を殺すことよりも、仏の身から血を出すことよりも、さらに重い罪が「和合僧を破ること」なのである。(「大乗義章」等にある)
 仏勅の広宣流布の団体である創価学会の組織を破り、団結を破ることが、どれほど重い罪となることか。
 極善に反対すれば極悪となる。末路は、あまりにも悲惨である。「団結せよ」と厳しく言うのは、そのためである。
 仏典に、こんな説話がある。(『ブッダ 悪魔との対話』中村元訳、岩波文庫。以下は参照)
 ある時、一人の弟子(コーカーリカ)が釈尊のもとに来て、舎利弗と目連の悪口を言い立てた。
 「尊いお方さま! 舎利弗と目連は、悪い欲望を起こしています。悪い欲望に支配されています」
 釈尊は答えた。
 「まあ、そう言うな。そのように言うな。舎利弗と目連に対して、浄らかな信仰心を起こせ。舎利弗と目連は温良である」
 しかし彼は、師匠である釈尊の言葉を素直に聞こうとしなかった。釈尊に口ごたえして、同じ悪口を言い立てた。釈尊は、同じ言葉で答えた。
 さらに、もう一度、彼は悪口を繰り返した。それでも、釈尊の答えは変わらなかった。
 釈尊は最後まで忍耐強く善導した。それを聞き入れずに立ち去った弟子は、後に病苦のために亡くなり、紅蓮地獄に堕ちた。
 釈尊の思いは、どこにあったか。「どこまでも大きな心で、同志を信頼していきなさい」「同志は互いに守り合い、団結していきなさい」そういう厳しい戒めであったといえよう。
 同志は皆、兄弟である。皆、家族である。団結第一で進みたい。
 全員が、ともに戦い、ともに勝利し、わが人生を最高に楽しみながら、生きて生きて生き抜いていただきたい。きょうはありがとう! ご苦労さま!
 (東京・新宿区内)

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