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日蓮大聖人・池田大作

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海外代表との協議会 リーダーは「全員を幸福」の祈りと責任

1999.11.4 スピーチ(1999.10〜)(池田大作全集第91巻)

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1  創造、それは苦闘の賜
 きょうは、海外から代表が集まっておられる。記念のスピーチを贈りたい。
 昨日、高名なアブエバ博士(国立フィリピン大学元総長)、マンロー博士(英・グラスゴー大学・大学評議会前議長)を創価大学の新本部棟にお迎えした。
 本部棟に、それはそれは立派なワーグナー(一八一三年〜八三年)の肖像画が飾られていた。創友会の皆さまが贈ってくださったものである。ダ・ヴィンチ像とともに創価大学の重宝にしてはどうかと提案させていただいた。
2  ご存じのように、ワーグナーは、十九世紀最大のドイツのオペラ作曲家である。「ニーベルングの指環」「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」「さまよえるオランダ人」など、数多くのオペラの名作を残している。
 ワーグナーの求めたもの――それは、ベートーヴェンの音楽とシェークスピアの詩の結合であったといわれる。いわば「総合芸術」を探究したのである。
 彼自身、音楽家であると同時に、詩人、劇作家、演出家、指揮者であり、″芸術の巨人″であった。無類の読書家で、仏教に関する知識もあった。ただし、彼は自尊心が強く、偏狭な性格だったともいう。行動も奔放で、多くの人と衝突した。
 また、ユダヤ人を不当に攻撃する論文を残している。後に、彼の音楽がナチスに利用されたことは有名な歴史である。
 ヒトラーはワーグナーを熱烈に信奉し、ワーグナーの自伝をもとに自身の伝記『我が闘争』を書いたとされる。
 少年時代は、ほとんど音楽教育を受けなかった。しかし、ベートーヴェンに傾倒していた彼は、音楽家を志し、やがて成功を収めていった。
 「音楽界のナポレオンたらん!」と。
 三十代半ばには、社会の行きづまりを打開しようと積極的に革命に参加した。
 革命に敗れた後は、長年にわたって祖国を追放された。
 亡命の最中、彼は語っている。
 「私の精神は、いまだ存在しない世界を創造するという、血の出るような困難な仕事に立ち向かわなければならない」(バりー・ミリントン『ヴァーグナー大辞典』三宅幸夫・山崎太郎監修、平凡社)
 代表曲や論文、叙事詩は、こうした生活のなかから生み出されていった。
 「苦労と欠乏と、あらゆる種類の受苦に彩られたこの期間にそういった作品を創りえた」(ベステルハーゲン『ワーグナー』三光長治・高辻知義訳、白水社)ことを誇りにしていた。
 何であれ、偉大なる創造は、苦しんで、苦しんで、苦しむなかから、生み出される。芸術も、人生も、広宣流布も。
3  カリブ海の海難事故――油断こそ大敵
 さて、三年前(一九九六年)の六月、私は、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)の「フロリダ自然文化センター」での諸行事を終え、マイアミから中米・バハマの首都ナッソーへ飛んだ。
 キューバ共和国の初訪問に先立ち、「五十二カ国目」の足跡を印すことができた。
 このカリブ海の「サンゴ礁の宝石の島」でも、わが同志が活躍されていた。私は、「ここにもSGIありにけり」としたため、友に贈った。
 エメラルド色の海を見つめつつ、私は、一九六五年(昭和四十年)、ここナッソーの沖、約百キロの海上で起こった海難事故の悲劇を思い返した。
 それは、「ヤーマス・キャッスル号」という観光船の大火災である。九十人の尊い人命が失われた大惨事であった。私は、仏法者として、犠牲者の方々に改めて追善の題目を送らせていただいた。
 事故の原因や経過については、「米国沿岸警備隊」による綿密な調査報告書が残されている。それらに基づいて、少々、語らせていただきたい。
4  三十四年前(一九六五年)の十一月十二日午後五時――。
 観光船「ヤーマス・キャッスル号」(五〇〇二トン)は、五百五十二人の人々を乗せて、マイアミからナッソーへと出航した。約十二時間の夜間航路である。
 船の建造は古く、一九二七年(昭和二年)。一階から三階まで甲板も、客室も、すべて古い木造。防火対策も十分でなかった。航海スケジュールにも遅れが見られるなど、老朽化の兆候も見え始めていた。
 万事において、やはり、何らかの「予兆」があるものである。その「兆し」を見のがさずに、的確かつ迅速な手を打っていくのが指導者である。
 私が、各地の会館の安全管理に対して、神経質といわれるくらい、対処してきたのも、この意味からである。
 また、船は、もともとアメリカ船籍だったが、安全基準の規制が厳しいアメリカから他の国に船籍が移ったため、厳格な安全管理を免れていたと言われている。
 人間でも、だれからも厳しく言われない立場になると危うい。
 その上、船の指揮を執(と)ったのは、八カ月の経験しかない、新米の船長であった。乗組員も、ほとんどが航海経験の浅い船員だった。
5  日付が変わって、十一月十三日の午前零時五分ごろ。一階の物置から、突然、火の手が上がった。原因は、いまだに不明。
 トイレを改造した、この部屋には、スプリンクラー(自動散水装置)が設置されていなかった。警報ベルも鳴らなかった。
 油断は大敵である。
 一九九六年十月に、アメリカ創価大学(ロサンゼルス・キャンパス)の近隣で、山火事が起こり、キャンパスの間近に、火の手が迫った。
 しかし、大学の敷地は、日ごろから、枯れ葉を拾い、草を刈るなど、職員の方々が、山火事に備えて、よく手入れをしていた。おかげで、類焼を間一髪のところで防ぐことができた。
6  日ごろの安全点検を怠り惨事に
 出火から二十五分後の午前零時三十分――。担当の乗組員が、船内を点検に回った。本来であれば、一部屋ずつ細かくチェックして、物置の火事にも気づいたはずだった。しかし、その点検を怠ってしまった。この間、船長は、自室で仮眠をとっていた。
 こうして「火災の発見」が何重にも遅れ、早期の警報システムも、緊急警報の連絡体制も機能しなかった。
 船の司令所の航海士に、火事の報告が最初にもたらされたのは、午前一時十分――。発生から、一時間以上がたっていた。
 消火ポンプの水も十分に出ず、炎の勢いは、もはや手のつけようがない状態になっていた。乗客らは、急激な煙と熱と炎に阻まれ、逃げ道を失った。
 日ごろの点検が不十分であったため、部屋の窓が、いざという時に開かず、脱出できなかった犠牲者もいた。
 船全体が炎に包まれ、唯一、後部の甲板部分だけが残された。そこにあった救命ボートに、乗客は殺到していった。
 その時、信じられない出来事が起こった。船長や航海士たちが救命ボートに乗って、われさきに脱出してしまったのである。この船長は、後に世論の激しい非難を浴び、船長の職務を永遠に剥奪されたという。
 事故に気づいて、近くにいたフィンランド船が救援に駆けつけた。
 さらに、約二十キロ後方を航海していた客船「バハマ・スター号」が現場に急行。ブラウン船長の陣頭指揮で、燃えさかる船のわずか百メートルにまで近づけ、救出にあたった。
7  青年の行動で多くの命が救われた
 責任ある船長たちが逃げ去り、炎上する「ヤーマス・キャッスル号」。そこに踏みとどまって、最後まで決死の作業を続けた英雄がいた。
 その一人が、テリー・ワイズという二十三歳の青年であった。
 彼は、当時、経験の浅い簿記会計担当の乗務員。火事に気づいて甲板に上がると、もはやあたりは炎で包まれ、火の手は客室にも広がっていた。青年は、この船のことについても、まだよく知らず、何をしていいかも、わからなかった。明快な指示を出してくれる上司もいない。
 しかし、青年は「自分も何かしなくては!」と断固たる行動を決意した。
 まず、救命ボートを降ろす作業に合流した。
 すると、甲板の下の方から、「助けて!」という声が聞こえた。船の窓から抜け出ようとしている乗客だった。彼は手を伸ばし、乗客の服をつかんで、窓から人々を甲板に引き上げた。
 さらに、救命具を持たない乗客が海の中でつかまれるようにと、ベンチやイス、マットレスなど、浮きそうなものを、どんどん海に向かって投げ始めた。
 迫り来る火の手。テリー青年は、一緒に救援作業をしていた空軍士官に自分の救命具を与えると、海に飛び込めと促した。
 また、足を骨折し、すでに意識を半分失った婦人を発見すると、励まし、起きあがらせ、救命胴衣をつけさせて、救命ボートに送り出した。
 その時である。一人の上級船員が彼のところにやってきて聞いた。
 「君も船を下りるか?」
 彼は答えた。
 「いや、まだだ!」
 船上には、まだ逃げ遅れた人たちがいる。彼は甲板を回り、人々を次々と避難させた。
 すると、「バハマ・スター号」から、叫び声が聞こえた。
 「もう誰もいないぞ! 海に飛び込め!」
 彼は、その声を聞くと、再度、炎と煙の中を回り、生存者がいないかと確認。その後で、ようやくボートに乗った。すでに朝の四時ごろだった。
 彼は、約三十人もの尊き生命を救い出していた。船は六時五分に沈没した。
 「バハマ・スター号」から一部始終を見つめていた、ある人物は、「本当のヒーローは、テリー・ワイズ青年だよ」と証言している。
 しかし青年は、自分の功績をまったく誇ることがなかった。彼が公に顕彰されたのは、三十年後だった。
 私には、この青年の姿が、わが創価の若き勇者と二重写しに見えてならない。
 四年前(一九九五年)の阪神・淡路大震災の時にも、また今回の台湾大地震の時にも、創価の友がわが身をなげうって、救助活動に奔走された。
 日本中、世界中、それぞれの天地で、だれにほめられなくとも、人のため、社会のため、懸命に戦い続けている同志の活躍を、私は、何よりも誇りに思っている。
8  リーダーの証は「責任感」
 有名な御聖訓に、「一つ船に乗りぬれば船頭のはかり事わるければ一同に船中の諸人損じ」――一隻の船に乗りあわせ手島江波、船頭の舵取りが悪ければ一同に船中の人々は命を損なう――と仰せである。
 船頭すなわちリーダーで決まる。
 また、「摩訶止観」の「城の主たけければ守る者も強し城の主おずれば守る者おそ」――城の主はつよいときは守る者も強い。城の主はおずれば守る者おそれる――との文も、お引きになっている。
 「長の立場」につく人にとって、最も大事なことは何か?
 それは、まず「絶対に事故を起こさないこと」である。
 そして、「最後まで責任をもつ」ことである。リーダーの証は、「責任感」である。
 いついかなる場合にも、「自分が一切の責任をとっていく」「絶対に皆を幸福にしていく」という、峻厳なる一念を、断じて忘れてはならない。
 人に仕事を託す場合もある。しかし、責任は、あくまで「長」にある。その「徹底した責任感」が全体を守るのである。
 また全体が順調に進み、慣れてくると、いつしか責任感が薄くなり、油断してしまう場合がある。何があろうと、自らの誉れある責任を、最後の最後まで厳然と貫かねばならない。それでこそ、わが使命の人生は勝利する。広布の陣列も永遠に発展させられる。
 どうか、この一点を、心の奥に刻みつけ、「無事安穏」そして「栄光勝利」の指揮を断じて、お願いしたい。(拍手)
 最後に、レオナルド・ダ・ヴィンチの箴言を贈りたい。
 「小さな部屋や小さな住居は精神を呼び覚まし、大きな部屋や大きな住居は精神を道に迷わせる」(アレッサンドロ・ヴェッツォシ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』後藤淳一訳、創元社)
 「『嫉妬』は、死ぬことなく、また人を支配するのに、疲れることをしらぬ」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上、杉浦明平訳、岩波文庫)
 「師をしのぐことができない弟子は哀れである」(前掲『レオナルド・ダ・ヴィンチ』)
 ダ・ヴィンチのごとき「偉大な創造者」たれ! と念願し、記念のスピーチとしたい。
 (東京牧口記念会館)

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