Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

全国最高リーダー会議 「秘めたる力」をすべて出しきってこそ

1999.10.8 スピーチ(1999.10〜)(池田大作全集第91巻)

前後
1  リーダーはダ・ヴィンチのごとく
 創価大学の「本部棟」の大ホールに、まもなく、レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二年〜一五一九年)の立派な立像が設置されることになっている。
 像の高さは、約二・五メートル。台座を含めると約四・八メートルになる。豊かな鬚をたくわえた晩年のダ・ヴィンチをかたどったブロンズ像である。
 左ききであったダ・ヴィンチが、左手にペンを持ち、右手のノートに、ほとばしる思念を書き付けようとしている。彼が残したノートは、現存するものだけで、およそ五千ページにもなるといわれる。
 まさに、ダ・ヴィンチを象徴する像であり、「探究」と「創造」と「英知」に輝く、新しき創価大学のシンボルとなろう。この像を寄贈してくださる、アメリカの著名な実業家ブラスナー博士ご夫妻に改めて御礼申し上げたい。
 なお、創価大学の講堂の緞帳には、有名な「アテナイの学堂」(ラファエロ作)の図柄が描かれているが、そこに登場するプラトンは、この顎鬚をたくわえたダ・ヴィンチをモデルにしたといわれる。
2  ダ・ヴィンチは、この古代ギリシャの哲人プラトンや、ゲーテが描いた「ファウスト博士」などになぞらえられ、「全体人間」「普遍人」を体現する人物として敬愛されてきた。
 ダ・ヴィンチの不滅の業績は、絵画や彫刻だけにとどまらない。音楽や建築をはじめ、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学等々と、その探究は限りなく広がり続けた。「太陽は動かない」と、地動説も知っていた。
 また、自転車を考案したほか、飛行機や潜水艇の技術にも挑戦し、さらに望遠鏡なども展望していたとされる。時間を無駄にしたくない人のために、目覚まし時計も発想した。数学の大家として、万般の学問に価値創造の探究を広げていったダ・ヴィンチの姿は、私には、戸田先生と二重映しになって迫ってくる。
 また、わが同志の皆さま方は、「平和」「文化」「教育」の運動に、そして尊い折伏・新聞啓蒙に、また地道な個人指導や激励にと、最高に価値ある人生を、はつらつと生き切っておられる。「妙法のダ・ヴィンチ」の集まりが、創価学会であると申し上げたい。
3  王者のごとき気魂と勇気を
 およそ五百年前の「ルネサンスの最盛期」を生きたレオナルド・ダ・ヴィンチ。その人となりについては、さまざまな説があるが、「容姿は端麗」「体は強靭」「行動は優雅」、また「弁説はさわやか」であったようだ。
 声も、じつに素晴らしかったという。多くの人を惹きつける、明るい寛容な人柄であったといわれる。
 ほぼ同時代を生きた著名な画家ヴァザーリは、こう語っていたという。
 「彼はその美しさと精神の輝きによって、どんな陰気な人の心をも晴れやかにした。またその言葉によってどんな頑固な人の心をも和らげた」「どんなにきたなく粗末な部屋でも、彼がそこに居るだけで麗しく栄誉あるものに見えた」(森田義之他『名画への旅7 モナ・リザは見た』所収、講談社)
 また、ダ・ヴィンチは「いつも王者のごとき、雅量豊かな気魂と勇気」をもっていたと、たたえる人もいる。(JACK WASSERMAN ″LEONARDO DA VINCI″三神弘彦訳、美術出版社)
 人間として、人間らしく、人生を最大に謳歌していく――弾むような、この「ルネサンスの息吹」を、はつらつと全身から発していたのが、ダ・ヴィンチだったのである。
4  私は、五年前の六月、イタリア・ボローニャ大学の講演で、「ダ・ヴィンチと国連」を論じた。(講演タイトルは、「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未来についての考察」。本全集第2巻収録)
 講演のあと、私はミラノ城(スフォルツァ城)を訪れたが、そこでダ・ヴィンチが部屋一面に描いた天井画と壁画を見た。そこには、枝を茂らせ伸びゆく樹木が、すさまじい迫力で描かれていた。そして、驚くべきことに、脈々たる力をたたえた「根っこ」の部分まで、じつに鮮明に描写されていたのである。
 ″根っこ″は、本来は見えない。また、ふつうは、だれも見ようとしないかもしれない。見えない″土台″というものを大切にするダ・ヴィンチの心眼に、私は感動した。
5  ダ・ヴィンチが残した絵画は、有名な「モナ・リザ」や「最後の晩餐」など傑作ばかりであるが、その数は少ない。しかし、その背景には、九百種近くにものぼる地道なデッサンの積み重ねがあったという。
 また、人間の身体を描くためには、″見えない内部″も知らねばならないと、解剖学などをみずから学んでいったことも有名な話である。
 ダ・ヴィンチは、何ものも頼らず、自分の力で「揺るがぬ自分自身」を築いていった人間である。
 大学はもちろん、今でいう中等教育も受けていない。十代半ばで、フィレンツェの工房に入門した。
 しかし、彼は、いわゆる学歴がないことを、少しも恥ずかしいとは思わなかった。そのことでバカにされたときも、彼は″私は「経験」をわが師匠としている。私は、自分の労苦で道を創造する″と、毅然と切り返した。
6  「民衆の大海」の中で自身を鍛えよ
 ダ・ヴィンチいわく。「『倖せ』の入る場所に、嫉妬が待伏せしてこれをおそう」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上、杉浦明平訳、岩波文庫)
 そう自覚していたゆえに、彼は、嫉妬の攻撃には一歩も引かず、戦った。
 また、彼は「傲慢」や「虚栄心」「見栄」を常に戒めていた。
 ダ・ヴィンチは、次のような寓話を残している。
 ――あるとき、大海に住むべき水が、思い上がって海を離れ、水蒸気となり、空高く昇っていった。しかし、昇る高さは、堕ちる高さである。やがて、雨となって、真っさかさまに地面に墜落する。そして、暗い土のなかに、長い間、閉じこめられ、(海には戻れず)自分の慢心を後悔し続けた――というのである。
 さまざまに解釈できる話と思う。
 私どもで言えば、「大海」とは創価学会の組織である。学会の和合僧の組織には「人間革命のエネルギー」が渦巻いている。この渦の中に入っていけば、力がわき出てくる。健康になり、幸福になっていく。
 組織では、思うようにいかないことがあったり、相手を思っての話も聞かない人がいて、悩むことがあるにちがいない。しかし、「大きな悩み」があるからこそ、「大きな建設」があり、向上がある。すべて順調であっては、人間は堕落してしまう。
 ともあれ、「大海」である創価学会を離れて、真の幸福は絶対に勝ちとれない。何があろうと、学会活動に徹し抜くことである。
7  ダ・ヴィンチは、民衆から遊離し腐敗していった宗教の権威に対して、鋭く糾弾している。彼は、多くの聖職者が、「詐欺と取引し、奇跡をたくらみ、無知な大衆を愚弄している」と喝破した。(加茂儀一『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝――自然探究と創造の生涯』小学館)
 そして、″修行や勤労、貧しき生活、貧しき人々を放棄して、立派な宮殿に住み、ぜいたくを尽くす傲慢な聖職者が、おびただしく現れるであろう″と警鐘を打ち鳴らしている。これは、西洋の宗教改革に先駆けての言葉であった。
 ダ・ヴィンチの有名な言葉に、こうある。
 「悪を罰しないものは悪をなせと命じているのだ」(前掲『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上)と。
 悪を傍観する人間は、″もっと、やれ″と悪に命令しているのと同じである。この正しき道理を、私どもも忘れてはならない。
8  二十一世紀の新たなルネサンス人に
 約二十年前、私は、フランスの美学者ルネ・ユイグ氏と対談集を編んだ(『闇は暁を求めて』と題して講談社から刊行。本全集第5巻に収録)。氏は、ナチスから「モナ・リザ」をはじめ美の宝を守った闘士でもある。対談では、ダ・ヴィンチのことも話題になった。
 ユイグ氏は、「『モナ・リザ』の微笑と仏陀の微笑のあいだに、ある種の関係がみとめられる」と言われ、ダ・ヴィンチが東洋についても知識をもっていたことを「注目すべきこと」として強調しておられた。
 また、ユイグ氏と私は、「西暦二〇〇〇年の人間像」について展望した。
 ヨーロッパ最高峰のエスプリ(精神)であったユイグ氏いわく。
 「西暦二〇〇〇年の人間は、立ち向かうべき問題の困難さに刺激され、そのあふれる意識に高められて、宗教改革やルネサンスの人間たりうるでしょう」と。
 要するに、押し寄せる困難に雄々しく挑み、戦い続けていくことによって、新しき「ルネサンス人」「宗教改革者」として、二十一世紀の舞台に立ち上がっていく。それが、西暦二〇〇〇年を生きる人間の使命であるということである。
 ユイグ氏は二年前に逝去された。最後まで私との友情を大切にしてくださり、奥さまから貴重な遺品も頂戴した。
9  ルネサンス――。
 それは、人間の無限の可能性を信じ、「わが秘めたる力」のすべてを開こうと、怯まずに挑戦していった「人間の春」の象徴である。
 わが生命が、どれほど偉大な「慈悲」と「創造力」に満ち満ちているか。
 その「生命の無限の力」を存分に輝かせていく「二十一世紀のダ・ヴィンチ」たれ! と念願して、記念のスピーチとしたい。(創価文化会館)

1
1